胡蝶
胡蝶
パチンとどこかでスイッチが入った。
私がいきなり立ち上がる。
それ以前はない。多分、なかった。確証はない。私がそう感じただけだ。でも、私はいきなり現れた。それは確かだ。
ここはどこだろうという疑問がまず湧く。首を巡らそうとして違和感に気付く。
身体の感覚がない。自分が起き上がっているのか横臥しているのかの感覚すらない。
でも、何故か見えている。そして多分、聞こえている。淡いベージュが基調の殺風景な部屋に私はいる。視点の位置から推察すれば、私は立っても座ってもいない。中腰くらいの高さから部屋の中を見ている。
さして広くない部屋の中央に、オフィス用のテーブルが二つくっつけて置いてある。インテリジェント素材の壁は室内からの透過モードのようだ。向かいのビルがすぐそこに見える。先方も一方通行の透過モードのようで、のっぺりとした淡いクリーム色の壁面だけがそこにある。他に見える物がないので、ここが何階くらいなのかの見当はつかない。
テーブルに着いているのは男女一人ずつ、計二人。
手前に中年の女性がゆったりと座って私の方に視線を向けて微笑んでいる。その奥に初老の男。痩せ気味で手元のタブレット相手にひっきりなしに指を動かしている。
首を巡らそうと再び試みるが、やはり思うようにならない。視線だけでもと意思の方向を修正したが、それも叶わなかった。
初老の男が私の背後に向かって手を振って何かの合図をした。
それで、この二人の他にも誰かが……室内なのか別の場所なのかは分からないが……誰かがいるのを理解する。
キュインと何か聞こえた気がする。
次の瞬間、私は様々なことを思い出した。
思い出した?
いや、何もないところに、新たな何かが書きこまれた感覚がした。
了解した、理解した、思い出した。私は……
「どういう状況か御理解いただけましたか?」
カウンセラーを自称する女性が穏やかに問いかける。手慣れていると何故か感じた。
とりあえず頷こうとして、また止まる。どうにも身体がないというのは不便で仕方ない。意思表示は音声でしか出来ないようだ。
『状況は認識しました。……私は長田美千代のログ人格ですね? 美千代が亡くなる三日前に記録されたモノ、です』
「そう、その通りです。その長田美千代さんについてお尋ねしたいことがあって、私たちはあなたを起動しました。あなたを記録した後に長田さんの身に起こった概要は認識されましたか?」
『えぇ……はい、認識しました。大変なことになっているようですね』
「そうなんです」
女性は残念そうな表情を卒なく作って軽く頷いた。
『協力はしたいのですが……。今の私のログの時点では、美千代に殺意は芽生えていません。犯行は最終ログの三日後ということですが、その三日の間に何か直接的な、そう、決定的なきっかけがあったのだと思います』
事実を淡々と答える。私こと長田美千代が三日後に夫の首を掻き切って殺害したと知らされても、ただ驚いたとしか言い様がない。その瞬間の三日も前の私にとっては、あり得ないとしか思えないのだ。
確かに、男女の愛情という意味でなら、私と長田の仲はすでに醒めていた。長田の浮気も知っている。しかし、この冷え冷えとした嫉妬が殺意に変貌するとは考えられない。少なくとも、三日前の私には信じられない。私と長田の間で何が起こったのか教えてほしいのはむしろこちらの方だとすら思った。
改めて、まじまじとカウンセラーを見る。その後ろの初老の男も。こちらは自己紹介をしてくれない。多分だが、警察か検察か……それに類した関係の人なのだろう。この男が合図を送ったのは、これも推測だが、私を起動させるための技術関係の人だろうか。
死んだはずの自分が、死んだ後で再起動し、こうして誰かと会話を交わしている。
理屈では分かっていても、まさか自分が体験するとは思わなかった。生前、随分と気味が悪い技術だと感じたのをぼんやりと思い出した。
いや、この体験をしているのは私ではない。自分ではない。自分は、私だった意識を継承しているモノだ。ログに遺した記憶を再生し、事実のみを証言できるよう調整されて蘇らせただけの、ただのデータだ。
「本当に? 何も思い当ることはありませんか?」
やんわりと尋ねられて、しばし考える。正確には、思い出そうとしている間を演出する。
心当たりはないけれど、間髪入れずに否定するのも悪い気がする。それだけの配慮だ。
こういう心遣いは出来るのに、事件のあらましや自分が死亡してしまった事実を知っても感情の揺れは起こらない。こういう所が、記憶だけを抽出されたログ人格というモノなのだろう。うまく調整されている。
…………でも、本当は色んなことが分かる。思い出せる。記録されるまでの節目節目、あの瞬間、あの時、あの場面での心情や打算、自分に言い聞かせていた嘘……。そう、実は覚えている。ただ、殺意が芽生える予感はない。もう、長田をそこまで愛してなかった。だから、この人達の役には立てそうにない。
そういえば、当の私はどうなったのだろう?
すでに死亡したという事実は受け取った。ログ人格の自分にお呼びがかかったということは、つまり、そういうことだ。恐らくは脳への接触が不可能なくらい壊れているのだろう。脳の修復も無理なくらいの物理破壊ならば、推測されるのは飛び降りだ。臆病で決断力がないとバカにされ続けた自分にしては、かなり思い切った死に方を選んだものだ。何が起これば、自分の死に絶えた感情を奮い立たせられたのだろう。純粋に、それを知りたいと思った。
「少し、整理する時間をとりますか。まだ混乱なさってるでしょう?」
奥の男がタブレットに目を落としたままで声をかける。相変わらず指はひっきりなしに動いている。どうもそういうキャラを演じているようだ。こちらに関心がないように見せて、実は観察しているのだ。きっとそうだ。
『それは……そうですね。でも、新たに思い出すことはそうないと思います。あと……』
「どうしました? 何か疑問が?」
カウンセラーが微笑んで小首を傾げる。こちらが懐柔役だ。
何故カウンセラーが同席しているのか疑問だったが、もしかしたら、ログ人格はもっと取り乱すものなのかもしれない。
『こういう質問は意味がないのかもしれないのですが……』
「言ってください。疑問に感じたことすべて、私にぶつけて構いませんよ」
カウンセラーが心持ち身を乗り出す。プロの仕事だな、と思った。
『自分の生存期間はどのくらいに設定されているのですか?』
カウンセラーと男がチラと目を交し合う。どうやら自分の質問は予想外だったようだ。男が何かを聞いているような目になる。埋め込み式のイヤホンで指示を仰いでいるのかもしれない。ややあって、男が頷く。
「えぇとですね……」
カウンセラーも視線を一瞬泳がせて、そして小さく頷いた。おそらく、無自覚に。
「それは……三日間、七十二時間で設定しています。あなたを起動したのは今朝十時でしたので……」
『あと六十九時間ですね、了解しました』
さほど努力しなくても、充分なくらいに淡々と答えられた。
室内に時計がなくても、自分が繋がっている何かのシステムを介して今の時刻は正確に分かっている。
人の記憶を外部に抽出して記録出来るようになったのは割に最近だ。しかし、普及は速かった。オリジナルのそれとかなり近い意識の再構成、再起動も可能になった。ただ、諸般の事情ということで、それはあくまでも疑似人格という扱いになっている。また、そうであるよう調整されたモノしか再起動してはならない決まりだ。そうでないと、死の定義が揺らいでしまうからだろう。
…………自分で体験してみて分かったが、そう設定されているはずなのに、意外と私は私だ。
設定が甘いのか、それとも人間の心というモノは人間が考えているよりもずっとシンプルで単純なモノなのかもしれない。
『では、整理する時間を少しください。思い出せなくても、その時の心理を想像出来るかもしれません。あと、事件記録ももう少し詳しく教えてもらえますか?』
スピーカーから響く自分の声も、意外なくらい私に近い。声質パターンもどこかのタイミングで記録しただろうか。いつものクセで、小首を傾げる仕草をした。そのつもりになった。そしたら、今度は成功した。視界が少し傾く。驚いた。私に与えられたカメラアイが私の意を汲み取り、少しだけ角度を調整したようだ。
ログの自分は、意外と私だ。
カウンセラーと男が静かに席を立ち、部屋を出ようとする。男が振り返り、
「資料はすぐに転送させます」とだけ告げた。
部屋に静寂が訪れる。
お茶が飲みたいと思った。熱くて、ちょっと苦いのがいい。
今の自分ではもう、飲み下せないモノだけど。
お茶を飲みたい。
そう、思った。