七話 「優祈まなみ #1」
最近、歩原がよく優祈まなみのことを見ているので、僕もつられるように優祈を見る。歩原が気にしているのは、先週からずっと何か悩んでいるよう様子だからだろう。
今日は思いつめたような表情で机の上を見つめ続けている。僕は女の子は明るい表情をしている方がずっとかわいいと思う方だけど、優祈に関してはそんな暗い表情でも十分にかわいいと感じる。僕の周りの男たちは、彼女は4年だけでなく全学年でも一番かわいいと言っている。
「優祈のことが気になってる?」
日曜だった昨日、いつものように歩原が家へ来た時に尋ねてみた。
「まなみは友達だった。わたしがいじめられるようになっても、まなみは変わらず話しかけてくれてたけど、わたしがもう話しかけないでって言ったの」
「優祈もいじめられされそうになったのか」
この学校では男子と女子の間にちょっと距離があるから、いくらかわいい女子でも周りに男子が集まってくることはない。彼女の場合はさらに「守川さん」の存在がある。
この学校の出身で中3の男子だが、今もバイオレンスな伝説が残っているほどの人物だ。優祈が小1のときに出会った変態が、小6だった守川さんに病院送りにされた事件も彼の伝説の一つだ。
優祈にとってお隣さんで幼馴染の守川さんは、卒業後もほぼ毎日、中学校からの帰りに優祈を迎えに来ている。たまに優祈のお姉さんも一緒に待っていることもある。優祈はいつも、校門にその姿を見つけるとすぐ教室を出ていく。
優祈さんに好意を持っている男子は上級生も含めて少なくないけど、この障害を乗り越えて彼女と仲良くなるのは難しい。
優祈は今日の給食をほとんど食べなかった。机の食器を片付けないまま教室を出ていく優祈を見て、僕は不安を感じた。僕の推測だと、彼女の元気がない原因はこの学校にはないはずだけど、念のため彼女の後を追って教室を出た。
廊下をふらふらという感じで歩いていた優祈が、階段の方へと曲がる。3階に上がった優祈は、さらに立ち入り禁止の屋上へと昇って行った。立ち入り禁止と言っても、災害時の避難のためにドアに鍵は掛かっていない。
いつの間にか歩原が僕の隣まで来ていたので、二人で屋上に向かう。立ち入り禁止を示すロープをまたいで、やはり鍵のかかっていなかったドアを開けて屋上に出た。
屋上の端は金属製の柵で囲まれている。見回すと、優祈は南側の柵に背中を預け、両腕を手すりの上に載せて空を見上げていた。こちらには気づいていないようだ。
しばらくすると、優祈は空を見上げたまま柵の横棒に足をかけ、体を大きく持ち上げた。手すりの高さが彼女の腰の辺りになって、かなり危険な体勢だ。
不安を感じた僕は、優祈に屋上にきた理由を聞かれた時の言い訳を考えながら、何も言わずにゆっくりと彼女に近付いて行った。
優祈の上体がゆっくりと反り返って、その足先が柵から離れた。それを見た僕は全力で彼女に向かってダッシュした。浮かんだ脚に飛びついて必死で柵の内側へ引っぱる。
彼女の体は倒れた僕の上に仰向けに落ちた。遅れて駆け寄ってきた歩原が、優祈の体を抱きしめる。やがて歩原のすすり泣くような声が聞こえた。
「いっちゃん?」
自分を抱きしめているのが歩原だと気付いた優祈は、歩原の背中に腕をまわして力を込めて抱き返した。優祈の嗚咽する声が聞こえ、その後二人はいつまでも泣き続けた。いつ声をかけたらいいんだろう。僕は二人の下敷きになったままそう考えていた。
「きゃっ? ……あ、ごめんなさい」
ようやく優祈が自分の下にいる僕に気付いて、僕の体から降りた。授業の始まりを知らせるチャイムは少し前に鳴っている。もう大丈夫だろう。僕は立ち上がると
「先生には、具合が悪くなって二人で保健室に行ったって伝えておくよ」
そう言って教室に戻った。歩原が優祈から事情を聞くのには、僕がいない方がいいだろう。二人は6時間目に教室に戻ってきた。放課後になり、歩原が優祈を連れて僕のところへ来た。
「千宝さんに相談したいことがあります」
歩原はそう言うと、確認するかのように優祈を見る。優祈は小さくうなずいた。三人だけで話をするため、また屋上へ移動する。
「あの……ですね。……その、まなみが悩んでいたのは……」
歩原の頬が少し赤くなっている。言いにくいようなので、僕は歩原の耳元で小さな声で言った。
「守川さんに恥ずかしいことをされた、とか?」
歩原はすごく驚いた顔をして、固まったように動かなくなった。少し離れた場所から、優祈が戸惑った顔でこちらを見ている。
「どうして知ってるの!」
ようやく怒ったような声で歩原が僕に言った。その言葉を聞いた優祈も、驚いた顔で僕を見た。
「知ってたわけじゃないよ。そうじゃないかと思って聞いただけ」
僕は二人が落ち着くのを待ってから、説明を始めた。
「優祈はいつも、守川さんが来るとすぐ校門へ走って行ってたのに、先週ぐらいからは迎えに気付いてもすぐに席を立たなくなった。優祈が学校でいやな目にあってるのなら、放課後はすぐに帰りたいと思うだろうから、問題が起こってるとしたら下校後の可能性が高い。お姉さんが一緒に待っていたときはすぐ席を立っていたから、守川さんと二人になるのを嫌がってるんじゃないか。そう考えたんだ」
二人が理解してくれたようなので、話を続ける。
「さっきまでは、優祈が守川さんに告白して振られたのかなと思っていたんだけど、それなら歩原があんなに恥ずかしがって言い出せないことじゃない。それなら、さっき言ったようなことかなと思ったんだ」
「……いっちゃんの言う通りね」
その言葉に、何故か歩原が自慢げな顔をする。
「僕は男だから優祈の気持ちが分からないんだと思うけど、こんな所で死のうとするぐらいなら、例えばお姉さんとかに相談できなかったのかな」
「言えない。お姉ちゃん、お兄ちゃんのことが好きなのに」
「だったら、他の人にでも」
「誰かに知られたら、お兄ちゃんがいなくなる」
「守川さんにそう言われたのか?」
優祈は首を横に振った。
「前に家の近くで女の子に変なことをしたって言われた人がいて、その家の人はみんな引っ越していなくなった。お兄ちゃんのお父さんは警察の人だから、悪いことをしたら普通の人より厳しく言われると思う。お兄ちゃんの家がそんなことになったら……」
「優祈は、今も守川さんが好きなのか?」
「好きだけど、男の子としてじゃないよ。あたしはお姉ちゃんとお兄ちゃんが恋人同士になったらいいなと思ってる」
こんなに悩んでいても、守川さんを責める気持ちはないのか。
「死んで守川さんに自分のしたことを後悔させたい、とか思ったわけじゃないんだ」
「死のうと思ってここに来たんじゃないの。教室にいたらどんどん気分が悪くなって、広い所で一人になりたかった。空を見てたらいろんな形の雲があって、前にお兄ちゃんやお姉ちゃんと、何かに似ている雲を探したこととか思い出して……」
そう言いながら、優祈は空を見た。
「お姉ちゃんは小学校の頃はもっと男っぽくて、お兄ちゃんたち男の子と一緒によく遊んでた。あたしもお姉ちゃんたちと遊びたいからついて行くと、他の子はあたしがチビでじゃまだって嫌がったけど、そういうときお兄ちゃんは自分が面倒見るって言ってくれた。お兄ちゃんは、あたしが知らない人に連れて行かれそうになったとき助けてくれて、中学校に行ってからもずっと学校に迎えに来てくれて……」
そこまで話すと、何かを思い出しているかのように沈黙した。僕たちは優祈の次の言葉を待った。
「あたしはお兄ちゃんにたくさん迷惑をかけてる。あたしはいじめられてたいっちゃんを見捨てるようなやつで、ヒナちゃんもあたしなんて相手にしたくないみたい。そんなことを考えていたら、あたしがいなくなったらみんな上手くいくのかな……って」
「そんなこと言わないで!」
「……ごめん」
涙ぐんでる歩原に優祈が抱きついて謝る。
「つまり優祈は、昔の守川さんに戻って欲しい、そう思ってるんだね」
「うん」
これで、僕がすべきことは決まった。