五十三話 「キャンプ #7」
夜の10時。キャンプでは朝が早くてみんな十分に運動をしているため、この時間だとほとんどがもう寝静まっている。汗で体がべとついて眠れなかった僕は、それを拭こうとタオルを持ってテントを出た。洗面所に近付くと水音が聞こえてそこには先客がいた。月が隠れてよく見えないがマナミのようだ。
「優祈も暑くて眠れないのか?」
「ちょっと顔の汗を拭きたくなって」
顔を洗ったマナミは首にかけたタオルで顔を拭こうとしたが、手を滑らせてタオルは地面に落ちた。ここの地面は洗面所の水が周囲に散ってぬかるんでいる。
「このタオルを使えよ。まだ使ってないから」
そう言って僕がタオルを差し出し、マナミがそれを受け取ろうとした時、雲の隙間から届いた月光が彼女の顔を照らした。その顔はいつものマナミより綺麗だった。明らかにいつもと違う顔だと僕は思った。
僕の表情に気付いたマナミは、急いで受け取ったタオルで顔を覆って手早く拭くと、顔を背けるようにしてタオルを返した。
「それじゃあ。おやすみなさい」
そう言ってマナミは自分のテントに戻って行った。体を拭くことを忘れて僕もそのままテントに戻った。シーツの上に座ってさっきの出来事を思い返す。
いつも見ていた女の子の顔が以前より綺麗に見えるようになった。しかも間違いなく素顔だ。暗さによる補正もあの距離では考え難い。原因として考えられるのは僕の知識では一つしかない。恋だ。僕がマナミに対して恋愛感情を抱いたということだ。
だけど僕とマナミとの間で何かあったわけじゃない。イチカとはあんなことがあったから、それがきっかけで変化があっても不思議じゃない。陽向だって彼女の才能に改めて感心したばかりだ。ちょっと意味は違うが惚れ直したという言い方もできる。なのに何故マナミなんだ。
マナミに恋をするのが変だと言っているわけじゃない。むしろそういう気持ちを持って当然な女の子だ。容姿だけじゃなく、周りの人間に対する心遣いもよく感じている。ただ今この時にというのが不思議なだけだ。イチカと陽向を意識したことでマナミも気になり出したということだろうか。ひどく不愉快な考えでそうは思いたくない。
他に何があっただろう。今日のマナミはメトロと一緒にいることが多かった。今日に限らず初日からそうだったようにも思える。単に色々あった僕よりメトロの方が話しやすいからだろうと思っていたが、今日は他の男性スタッフと比べてもメトロと話していることがずっと多かった。
まさかメトロに取られたくないとか、そんな彼女を物扱いするような気持ちがあるわけじゃないよな。僕は急いでそれを否定する理由を考えた。まずマナミに対する胸の高ぶりが強くなったとは感じられない。僕は彼女たちに強い好意を持っていて、その好意は自分でも説明できないがそれぞれ少しずつ異なるものだ。その好意がマナミに対してだけ強くなったとは思えない。
それに僕はマナミに対して恋人に対するような行為をしたいとは思わない。いや、言い方が正しくないか。彼女が傷つくと分かっていてそんな行為はできないということだ。マナミを物扱いしているのなら、もっと自分勝手な感情を持つんじゃないだろうか。
翌日。まだ眠い頭を覚まそうと洗面所で水を被っていた僕の所へマナミがやってきた。恐る恐る見たマナミの顔はいつもと変わっているようには見えなかった。一体どうなっているんだ。
混乱している僕の様子を見て、マナミは言い難そうに自分の化粧のことを話してくれた。平たく言えば男避けのためだそうだ。以前はもう少し凝った化粧をしていたけど、あまり弄らず少ないポイントでバランスを崩した方が効果的らしい。そう言われても僕にはよく分からなかった。
メトロの所へ子どもたちが走ってきた。かなり慌てている様子なので僕もその場に行って話を聞く。どうやら子どもの一人が神殿の御神体を壊したらしい。子どもたちと一緒に神殿へ駆け出すと、後ろから陽向も追いついてきた。
神殿に着いて御神体を見ると、地面に倒れてバラバラに砕けていた。宮原がいたので何があったのか聞いてみた。どうやら男子2人が御神体なんて怖くないと言いだしたのが発端のようだ。お互いに張り合って、最初は御神体に手で触れるぐらいだったのが、どんどんエスカレートしていって最後は2人ともよじ登ったのだ。
元々この御神体は演出として壊す予定だったので石膏で作ってある。一般的な石膏よりは頑丈な素材だが、子ども2人の体重を支えて余裕があるほどの強度は無い。壊れた時の断面にも質感を与えるため、石膏には着色料と半透明のビーズを混ぜてある。
壊れた御神体の破片を子どもたちにも協力してもらって集めた。2面が透明になっているプラスチックの箱に一欠けらも残さず入れる。
「こういうものを壊した時にどうすればいいかはこれから調べる。みんなはしばらくここに近付かないように」
壊した張本人たちはかなり動揺して落ち込んでいる。慰めるためにスタッフが御神体は偽物だと教えたら計画が台無しになる。予定を早めて今夜にもイベントを実行する必要がありそうだ。子どもたちが神殿を去った後、陽向にイチカとマナミを呼びに行かせて、僕たちは今夜のイベントに向けての準備に入った。
まず御神体から10メートルほど離れた山側の斜面に見物席を作る。10人×4列の階段席だ。地面に黒い鉄棒を打ち込んで、その上に子どもが10人座れるアクリルの板を乗せる。蛍光剤が入っているので、夜になって下からブラックライトを当てると、宙に浮いたアクリル板が光っているように見える。
次に新しい御神体を古い御神体が立っていた位置に立てた。これは前の御神体より頑丈に作ってあって形も少し異なる。汚れもなくいかにも新品という外観だ。立て終えると岩肌のような塗装をしたダンボールを大岩ごと被せることで隠した。
そのすぐ前に台を置き、その上にさっき御神体の破片を入れた物とよく似た箱を置く。観客席から見て手前になる透明な面は、わずかに膨らんだかまぼこ型のレンズを10ミリ間隔で並べた形になっている。その奥の面には液晶モニターがはめ込んであり、加工した画像を観客席の位置からレンズ面を透して見れば、肉眼でリアルな3D表示が見れる。
島神様を鎮めるための儀式が必要かもしれない。多くの人が立ち会う必要のある儀式ならみんなにも参加してもらうことになる。そう子どもたちには伝えて夜になるのを待った。
夕食とシャワーを終えてフリータイムに入った。日没から一時間以上が経ち、月が出るまで外は真っ暗だ。僕とメトロはどちらも白いトレーナーに着替えて、外を歩いていた子に、全員でキャンプ場から神殿に向かう道に集まるよう伝えてくれと頼んだ。
道を先に進んだキャンプ場の明かりが届かない所から、子どもたちが指定の場所に集まるのを待った。
「今から神殿に行って儀式を行う。儀式では決められた手順に無い光や音を出してはいけない。持っているタグと、その他に携帯やデジカメも持っているならこの箱の中に入れるように」
そう言ってメトロは僕が持っている箱を示した。
「安全のために全員をこの紐で繋ぐことにする。まず4列に分かれて並べ」
僕が一列ずつ、一人ひとりからタグや携帯などを受け取ると、メトロがタグをつけていた金具に紐を通していく。この細い紐は大人でも千切れないほど丈夫だが、空気に触れて半時間もすると硬化が始まって表面から崩れ出し、一時間も経てば形も残らなくなる。キャンプ場から神殿までは10分もかからないので十分だ。
タグ以外の渡し忘れが無いかをこっそり金属探知機で確認する。一人タグを受け取った後も反応のある子がいて、僕が手を差し出すと急いで自分の体を探ってから小さなデジカメを取り出した。それを見た他の子も改めて自分が何か持っていないかを確認した。
紐は10名3組と9名1組を繋ぎ、メトロが先頭、僕が最後になってほぼ一直線の道を神殿へと向かった。各組の一番後ろの子にライトで足元を照らすようにさせたが、このライトには時間が経つにつれて少しずつ明るさが落ちていく仕掛けがある。子どもたちの目を徐々に暗闇に慣れさせるためだ。
木々に囲まれた神殿に着き、僕がリモート操作で全員のライトを消すとそこは本当に真っ暗だった。すぐに観客席のアクリル板が光って子どもたちを驚かせた。アクリル板の光で周囲がわずかに照らされる。少し幻想的な光景に子どもたちからため息のような声が聞こえた。
メトロが指示をして子どもたちをアクリル板に座らせたが、一見すると浮いているように見えるため、他の子が座ったのを確認してから自分も腰を下ろす子が多い。座ってしまえばその板が頑丈に固定されていると分かるので、すぐにみんなは気にしなくなった。
僕とメトロは大岩の後ろに隠れると、そこに置いてある貫頭衣を素早く被り手には仮面を持って、すぐに子どもたちの前へ戻った。観客席の左右に分かれて立ち、ゆっくりとした動作で手にした仮面を被ると、子どもたちの中には不安そうな顔をする者もいた。
突然、神殿の入口近くの地面に光の模様が浮かび上がった。みんなの視線が直径3メートルほどのその模様に集まる。実際にはとても暗い光だが、暗さに慣れた子どもの目にははっきりと見えているはずだ。模様はゆっくりと移動を始めて大岩の方へと向かった。やがて模様の中心から何かが地上に現れてきた。模様の動きに合わせて黒い薄衣を被ったマナミを歩かせて、その薄衣に地面から徐々に現れてくる何者かの姿を映しているのだ。
その何者かの姿はどんどん大きくなり、最後はマナミの姿と完全に重なる。大岩から5メートルほどの所で模様の動きが止まると、フード状になった薄衣の頭の部分がより明るくなって、薄衣を透してマナミの顔がうっすらと見える。背を反らすように見上げたマナミの頭からフードが滑り落ち、額に小さな赤い印をつけてボリュームのある髪型に輝く粉をまぶしたマナミの顔が現れた。
ここで見える光景の中で最も明るいのがマナミの顔で、実際には蛍光灯の明かりで照らされるよりずっと暗いのだが、今は鮮明で輝くように見えている。マナミはゆっくりと子どもたちの方へ顔を向けてわずかに微笑んだ。
元の計画では人相が分からないような化粧をする予定だったが、マナミの素顔を知った僕は変装を髪型と額の印だけにした。実際にこの状況で見てみると、ここまでの演出もあって彼女がマナミだと気付くのは無理だと断言できる。そもそも人間だとは思えない。
次にマナミはその手を大岩の方へ伸ばした。マナミの体からその手のひらに光が集まっていく。すると大岩の前に置かれた透明な箱の中で御神体の破片が同じ色に光り出した。もちろん実際には箱の中には何も無い。液晶モニターとその手前のレンズで立体的な像を見せているだけだ。
破片は光を増すと箱の中でわずかに浮かび上がる。そしてもっとも大きな幹の部分の破片が大岩の中に飛び込んだ。大岩の表面が水面のように波打つ。こちらはプロジェクションマッピングだ。続いて残りの破片も次々と飛び込み、複雑な波模様が大岩の表面を流れる。
10秒とかからずに全ての破片が箱の中から消える。大岩の表面も破片が飛び込む前の状態に戻った。マナミの手ももう降ろされている。さらに数十秒が経った時、大岩の地面に接した部分が光り出した。その光が幹のように伸び上がり、さらに何本もの枝が伸び、最後に枝の先が膨らんで円盤状になる。こうして元の形に似ているけど少し違う新たな御神体が生まれた。
僕とメトロは子どもたちが御神体に注目している間に、吊り上げた人形と入れ替わった。人形の面は貝殻で体は草を束ねたものだが今は暗くてよく見えない。マナミがフードを被って神殿の方へ歩き出すと、今度は僕とメトロの人形が光り出し、人間では無いことに気付いた子どもたちが驚いて声を上げた。それぞれの人形の光は足元に集まって直径50センチほどの光の模様となり、その模様が離れた途端に2体の人形は崩れ落ちた。




