四十七話 「キャンプ #1」
僕とメトロが乗ったミニバンが交差点を曲がると、行く先にある建物の間から海が見えてきた。無人島に行く船が泊めてある桟橋まではあと5分ほどだ。船が出る予定の10時までまだ一時間ある。
「迎えに来るのは、5日後の夕方6時でいいんだよね」
運転しているメトロのお父さんが尋ねてきた。
「はい。お願いします」
「もし時間に変更があったら、分かったときに連絡するよ」
僕がメトロの家に来たのは昨日の夜遅く。キャンプで僕たちが使う色々な機材は、先に宅配便で送りメトロの家で預かってもらっていた。僕一人なら4~5回に分けて運ぶ量の荷物を、3列目の席を倒した車の荷室に積んである。この荷物を船に移したら、イチカとマナミを駅まで迎えに行く。
行く手に桟橋とそこに泊まった数隻の船が見えてきた。僕たちが乗るのは、小型船舶免許を持っているスタッフの船長こと岩田さんが操船する10人乗りのプレジャーボートだ。キャンプ中は常に島の桟橋に泊めておくことになる。子どもたちはもっと大きな別の船でを送迎する。
船の近くに3人の人影を見つけた。2人は大きなスーツケースを持ち、もう1人はスポーツバックを肩にかけている。顔の分かる距離まで近づく前に、僕はその背格好からあの3人だと分かった。駅から歩いて10分もかからないので、イチカとマナミがすでに桟橋まで来ている理由は分からなくもないが、明後日来るはずの陽向がここにいるのはどうしてだろう。
車を止めると3人が近づいてくる。僕とメトロは車から降りた。足首に少し痛みはあるが陽向がいるからそんな素振りは見せない。イチカとマナミの服装は、いずれも薄手のパーカーと足首までのレギンスにショートパンツ。マナミはつばの広い帽子、イチカはパーカーのフードを被っている。陽向はTシャツとショートパンツで、頭にはメッシュのキャップを被っていた。
「おはよう。今日は2人じゃなかった? 常雷さんも来てるけど」
メトロが3人に声をかける。
「おはようございます」
「常雷でいいよ。キャンプではお互い呼び捨てでいいだろ」
マナミが笑顔でメトロに返事をして、陽向は少しぶっきらぼうに答え、イチカは小さく会釈した。誰も僕には視線を向けてこない。マーヤの件があったばかりなので仕方がない。むしろ来てくれたことを確認して少しほっとしていた。この3人が何も言わずに子どもたちのためのキャンプをキャンセルするとは思わなかったが、全く不安が無かったわけじゃなかった。
「やっぱりヒナちゃんにも最初から参加して欲しくて、昨日3人で監督さんにお願いしたんです」
今日と明日、行われる予定の合同練習には、他校の女子柔道部員も参加している。陽向にとって実績ある選手と乱取りができる貴重な機会だったはずだ。イチカやマナミもそのことは分かっているはずで、前日になって陽向の参加を求めた理由となるとマーヤの件しか思いつかない。
いくらかでも取り戻していた信頼を失ってしまったことは残念だが、下手に言い訳をしても逆効果になるだけだ。ここは6日間の機会を貰えたと考えて、行動によって汚名を返上するしかない。
僕とメトロが車から荷物を降ろして船に運ぼうとした時、陽向が僕に声を掛けてきた。
「網矢。一華がキャンプのことで質問したいって」
「え? ……あ、そうね。忘れてた。……このキャンプでわたしたちが何をすればいいのか、もう少し具体的に教えて欲しい」
「島に着いてからもっと詳しく説明するけど、歩原たちにはあまり負担をかけないつもりだよ。先に渡した日程表を出してもらえるかな」
イチカの口調がぎごちない。深く被り直したフードと俯きがちの姿勢で僕と目が合うのを避けているようだったが、僕が説明を始めるとイチカは話に聞き入って、フードの下からその真剣な顔が見えるようになった。彼女の表情を見ていると、そこに将棋を指していた小学生のイチカの顔が重なって、僕は何とも言えず懐かしい気持ちになった。僕が簡単に説明し終えた時には、荷物は全てメトロと陽向が運んでしまっていた。
船は予定より少し早く出発した。船内ではマナミが何度もメトロに話しかけて、メトロも愛想よくそれに応えていた。メトロの話術を警戒していた僕は2人の話にそれとなく耳を傾けていたが、あれほど批判していた相手にもかかわらずメトロの言葉にはいつもの鋭さが無かった。
無意識のためか、肉親や僕のような知り合いが相手だとメトロの話術は切れ味が鈍くなる。例えその相手とケンカをしていてもだ。3人のことは僕とメトロの間で何度も話題になったから、メトロにとって彼女たちは他人とは言えなくなっているのかもしれない。だとしたら少しは僕も安心できる。
イチカと陽向は、僕たちから少し離れた場所で時々何かを話している。船内はエンジン音と船体が波を切る音で騒がしいため、小声になると会話の内容は聞き取れない。
島は港から見える距離にあって、船が港を出てから無人島に着くまで一時間もかからない。島の形は歪んだ長円形で、最も距離がある西の端から東の端までは1km以上ある。無人島と言っても数十年前までは小さな漁村があり、その生活の跡はまだ色々と残されている。また島の半分以上は広葉樹の森に覆われている。
船が桟橋に着くと、真っ先にメトロが上陸して船の係留を手伝った。次に積んでいた機材と手荷物を桟橋に下ろす。ここから大型のテントがあるキャンプ場までは道なりに500m、高低差が20mほどある。それぞれの手荷物は各自が運ぶとして、機材は自分の手荷物も含めてメトロと僕で3往復もすれば運べるだろう。
イチカとマナミはスーツケースをキャリーカートに乗せていて、それぞれ一人で運べそうだ。いざとなればスポーツバックだけの陽向が手伝うだろう。そう思っていると、陽向がスポーツバックと逆の肩に梱包した機材の一つを担いだ。何も言わずにキャンプ場へ続く登り道を歩き出す。
「ありがとう」
僕がそう言った途端に陽向の足が止まった。何かまずかったのかと少し不安になったが、僕を振り向くことなく陽向はまた道を登りだした。やがて早足から駆け足になった陽向は木々の陰に姿を消した。
僕たちもその後を追うようにキャンプ場へ向かった。僕とメトロはそれぞれ機材も担いでいる。僕は他の3人より少しだけ遅れて出発した。足の痛みがある僕は少し遅れ気味になりそうだったので、みんなに気を使わせてペースを合わされたくなかったからだ。少し無理すればみんなと同じ早さで歩けるが、キャンプの初日に足の状態を悪くしたくない。
メトロはこんな時に気を使ったりしないが、他の2人は距離の広がっていく僕が気になるようで時々こちらを振り返っている。しばらくして陽向が坂道を駆け下りてきた。僕はまだキャンプ場まで半分も歩いていない。そのまま桟橋まで荷物を取りに行くのかと思っていたが、陽向はまた何も言わずに僕から荷物を取り上げた。
どちらというとせっかちな陽向としては、他の3人と比べて遅れている僕が気に障ったのだろう。多少は無理をしてもみんなと一緒のペースで歩いた方が良かったか。そんなことを考えながら次の荷物を取りに引き返そうとした僕は、陽向がまだ荷物を受け取った場所から動いていないことに気付いた。
「え、何かな?」
そう言ってから、僕は言葉が足りなかったことに気付いた。
「ありがとう。助かるよ」
それを聞いて満足した表情になった陽向は、すぐに坂を駆け登り始める。
「ああ、急がなくていいよ。それは精密機器であまり揺らさない方がいいんだ」
僕の言葉を聞いた陽向は、今度は危険物でも持っているかのように慎重に歩き始める。
「いや。激しく揺らすのがダメなだけで、そこまでしなくても……」
すると今度は荷物を両手で抱えた。体を上下に揺らさないように摺り足で、しかも徐々に動きを早めながら道を登っていく。追い抜かれた3人が、不思議な走り方をする陽向の姿を立ち止って見送っていた。
「ずいぶん早かったな」
僕が船の所まで戻ると操船後の点検をしていた船長にそう言われた。次の荷物を担いで坂道を登り始めると、まだ数十メートルしか歩いてないのに駆け下りてきた陽向が姿を見せた。さすがに息を切らしている。陽向はまた僕の両肩からまた荷物を取ろうとする。
「ありがとう。さすがに早いね。でもちょっと待ってくれ」
僕は陽向に荷物を渡しながら頼んだ。この勢いで未舗装の道を登り降りしていたら、陽向が足を痛めかねない。
「最後の荷物はそんなに重くないけど、大きくて一人じゃ持ちにくいんだ。取ってくるから一緒に運んでくれないかな」
荷物を持たずにまた船まで戻ってきた僕を見て、さすがに船長は驚いた顔をした。最後の荷物は、樹脂をガラス粉で覆った石碑の模造品で、サイズは縦横が160cm×70cm、本物に貼り付けて使うので厚みは2cmほどだ。僕はそれを頭の上に担ぎ上げ、バランスを取りながら陽向の待っている場所まで戻った。
陽向に預けていた機材の1つを受け取って左肩に担ぎ、右腕には石碑を抱えた。後ろから見られ続けるのはいやだろうと思い、僕は陽向の前に立って歩き出した。
会話の無いまましばらく歩いていると、いつの間にか石碑が妙に軽くなっている。振り向くと陽向が僕に近付いて石碑の真ん中近くを持っていた。僕は過去の経験から彼女たちの言動を好意的なものに誤解しないように気を付けている。でもここまでされたら陽向が僕の足のケガを気遣っているとしか思えない。
「僕が足を痛めてるって気付いてたんだ」
陽向の足が止まった。
「それってアタシのせいだろ」
そうさせた原因は僕だけど。
「気を使ってもらえたのはありがたいよ。キャンプでは子どもたちに面倒をかけたくないから」
彼女たちからの信頼を取り戻すためには時間をかけて僕の誠意を感じ取ってもらうしかない。僕はそう思ってきたけれど、今は本当にそれでいいのかと疑問に感じている。少なくとも陽向に関してはそうじゃないのかもしれない。
陽向はマーヤのことがあったばかりなのに、こうやって僕のことを気遣ってくれている。5歳の女の子が一晩中戻らなかったら家族がどれほど心配するかぐらいは誰にでも分かる。言語道断な話だけど、そのことで陽向が僕をさらに嫌うようになったとは感じない。彼女の僕に対する気持ちは簡単には変わらないんだろう。そうだとすると些細なことを積み重ねても陽向からの信頼を取り戻すのは難しいんじゃないか。
「常雷。マーヤのことだけど」
僕は前を向いて歩きながら陽向に話しかけた。
「本当ならしばらくは口も利きたくないと思うんだけど、僕にはお互いの関係がそれほど悪くなったとは感じていない。でもそれは相手を信頼しているからじゃないよね」
「……」
「無意識なのかもしれないけど、何かされても傷つかないように気持ちに壁を作ってるんじゃないかな。信じてた相手に裏切られて、すごくショックを受けたことがあるから」
石碑を後ろに引かれて僕は立ち止まった。陽向の足が止まったからだ。
「常雷は前に、僕に自分を殴れって言ったよね。そしたらスッキリするって」
「え? ……いつかな?」
「一緒にチョコを食べた時だけど、覚えてない?」
「覚えてないけど、アタシならそんなことを言ったかも知れない。でも体を傷つけても嬉しくないってことはもう分かった」
「そうか。スッキリというのは、気が済むまで互いに殴り合って仲直りするってやつかな? 普通は男同士だけど」
「何それ?」
違ってたのか。殴ったりしないでよかった。
「それなら、ドラマとかでひどい目に合わされた主人公がその相手に復讐して、それまでの恨みがスッキリするってやつ?」
「どっちかというなら、それかな」
「そうしようと思ったら、されたことと同じがそれ以上のことをしないと気が済まないよね」
「そう思う」
「でも現実になるとそう簡単な話じゃない。いつまでも傷ついたときの気持ちのままじゃないから。相手がそんなに悪いやつじゃないと知ってたり、自分にしたことを後悔していると感じたりしたらなおさらだ。自分が受けたのと同じくらいひどく傷つける気にはなれないけど、手加減をしてたらわだかまりは消えない」
「スッキリするのは無理だってこと?」
「そうは言わないけど難しいのは確かだよ。その時の気持ちでどれぐらい傷つくかは変わるから、何かするならそのタイミングも重要になる。だから僕はどうすれば一番いいかをこれから考えて、それを最もいいと思うタイミングで実行する」
「ホントに?」
「約束するよ。だから常雷、それまでもう少し僕と自然に話をしてくれないか。約束を果たすまでわだかまりが消えることは無いのは分かってる。かっとして相手を傷つけたい気持ちになるかも知れないけど、そうじゃない時もずっと気にしながら話をするのは常雷だったらいやだろ」
「いいのかな、それで」
「もちろん常雷が何かいい方法を思いついた時はそれを試してくれたらいい。失敗だと思ったら何度でも試していい」
「うん……。ありがとう」
常雷が僕の言葉を受け入れてくれた。これは大きな進展と思っていいだろう。




