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四十話 「彼女たち -罵倒-」

 休み時間になっても、ヒナがわたしの教室の前を通らない。ということは、今日はドゥクスが教室にいるということだ。まなみと共にドゥクスの教室に向かう。後ろの出入口から入って目線だけをドゥクスの席に向けると、振り返ってヒナの方を見ていた。ドゥクスが顔をこちらを向けようとしたので、急いで視線をヒナに移した。

 いつものようにヒナの顔に目のピントを合わせて、その周りの視界でドゥクスの姿を確認する。ピントが合ってなくてぼんやりと見えるドゥクスの頭が、今日は黒ではなく肌色に見える。つまりこちらに顔を向けているということだ。うっかり視線を合わさないように、ヒナの顔を凝視する。


 ドゥクスがクラスメートに話しかけられて前を向いた。ドゥクスの声が聴きたかったわたしは、周囲の雑音から彼の声を聞き分けようとした。


「あれだけの美人が3人も、毎日一緒にいるのって珍しい光景だろ」


 ……今、美人って言わなかった?


「どうした? 一華」

「……なんでもない。聞き違いかも」


 予鈴が鳴り、わたしはまなみと教室を出た。まなみと別れて自分の教室に入ろうとした時、まなみが後ろから声をかけてきた。


「聞き違いじゃないよ」

「?」

「美人が3人」




 先生から注意を受けるまで、机の上に何も出さず授業が始まったことにも気付かなかった。


 美人。美人かあ。可愛いとかっこいいはドゥクスに言ってもらったことがあるけど、美人は初めてだ。ドゥクスも女の子に美人なんて言うんだ。そうなんだ。あ、でも、美人と可愛いとかっこいいだと、ドゥクスにとってどれが一番なんだろう。可愛いとかっこいいは同じくらいなんだよね。何か言ってなかったかな。

 そうだ。わたしが『綾香さんみたいに美人だと、参観日に自慢したくならない?』と言ったとき、ドゥクスは『美人っていうのは言い過ぎじゃないか』って言った。照れて言ったんだとしても、美人という言葉はドゥクスにとってかなり高い評価なんだ。じゃあ、美人が一番だよね。

 ああ、どうしよう。どうしようかな。……そうだ。えりなさんにお礼をしないと。えりなさんのアドバイスのおかげなんだから。何がいいかな。えりなさんの大好きなサトアのガナッシュケーキがいいかな。う~ん。そう言えばえりなさん。守川さんを試合会場に送っていくとき、今の車は友だちが乗せられないって言ってた。もっと大きな車がいいのかな。ガナッシュケーキと車とどっちがいいんだろう。ああ、分からない。後でえりなさんに聞いてみよう。




 何を浮かれていたんだろう。まだ恨んでいるのなら、わたしたちに褒め言葉なんて使うはずがない。あのドゥクスが2か月以上も行動を起こさないはずがない。あれからもうすぐ4年と10ヶ月。ドゥクスの中でわたしたちへの感情が風化していくのに十分な時間だ。

 だからといって記憶まで消えるわけではない。ドゥクスが与えてくれた多くのものに何も返せなかったわたしたちは、ドゥクスにとってかかわる価値のない存在と思われているだろう。

 どれほどドゥクスから無視されても、ひたむきに誠意を見せ続けていれば、少しずつでもドゥクスの考えを変えることが出来るかもしれない。でもわたしのトラウマがそれを不可能にしている。


「恨まれるようなことをすればいいんだよ。今からでも」


 ヒナがとんでもないことを言い出した。本気で上手く行くと思っているんだろうか。


 でも、考えてみれば他に方法が思いつかない。ドゥクスにはわたしたちに対するマイナスの記憶があるんだから、好意よりも悪意の方がずっと引き出し易いはずだ。ドゥクスがわたしたちを目障りだと思えば、数日と待たずにわたしたちはひどい目に合うだろう。でもドゥクスにそれでは気が済まないと思わせることが出来たら、ドゥクスは計画を再開させるかもしれない。


 ヒナが帰った後で、まなみと具体的な方法について話し合った。ドゥクスに敵対して見せるためには、その名目となるだけの理由が必要だ。色々と考えて、わたしたちがドゥクスに作ってもらった、そしてそれぞれが開発を続けてきたアプリをその理由にすることにした。

 コンピュータ部でそれぞれの部員がテーマとしている内容は、校内向けのページで公開されている。ドゥクスはまだ入部して2ヶ月なのに驚くほど多くのテーマを抱えていて、その中にわたしたちのアプリに近い内容のものがあった。わたしたちは自分たちのアプリこそがオリジナルであり、そこにドゥクスの成果はほとんどないと主張することにした。


 もちろん事実は全く反対だ。わたしのアプリは最初に貰ったときよりずいぶん機能が増えたけど、それはドゥクスが書いておいてくれた膨大なアイデアの一部をプログラムにしただけだ。そもそもソフト開発が出来るようになったのも、ドゥクスの手引書があったからだ。


『彼女たちが僕のことを全く気にしていなかったら、僕が彼女たちのためと思ってしたことを馬鹿にしていたら、その時僕は彼女たちに対してこの計画を実行する』


 日記に書かれていたドゥクスの言葉だ。わたしたちがドゥクスにかつての気持ちを思い出させる。それはわたしたちにはとてもつらいことだけど、他に方法が思いつかない。ヒナは必ず自分の言ったことをするはずだ。ヒナだけを傷つけるようなことにはしない。


「自分から話しかけること。そうすればドゥクスの言葉はある程度限定されたものになるから、予め考えておいたセリフのどれかで対応できるはずよ。もしドゥクスの言葉が全く予想外のものだったら、わざと無視したかのような態度をとればいい」

「でもいっちゃん。このセリフはちょっとやりすぎじゃない? ドゥクスにこんなこと言えないよ」

「まなみ。わたしたちがもっと穏やかな言葉でドゥクスを非難し続けたら、周りの人はドゥクスがなにか悪いことをしたからだと思うわよ。ドゥクスのことを本当に分かってる人なんてほとんどいないんだから」

「ああ、だから」

「ドゥクスを悪者にしないためには、『なんだこの女。おかしいんじゃないか。網矢も災難だな』って思わせるようなセリフじゃないとだめよ」

「そうか! そうだよね」




 なんとか泣き止んだヒナを、トイレから連れ出して教室まで送る。ヒナが席に座るまでこっそりと教室の中を覗いていると、ドゥクスがヒナを困惑した顔で見ていた。ドゥクスも、わたしたちがただ近付いただけなら無視できても、周りまで巻き込んだらさすがに無視はできないようだ。これならなんとかなるかもしれない。


 昼休みになり、まなみと共にコンピュータ部の前まで来た。それこそ学校の屋上から飛び降りるぐらいの気持ちで部室のドアを開ける。力が入り過ぎたのか、ドアが思ったより大きな音を立てた。ドゥクスと視線を合わさないように、真っ直ぐ部長席へ向かう。


「こんにちは。わたしたち、入部希望者です」


 思い切り緊張しながらそう告げる。答えを待っても、部長は何も言わない。もしかして、なにか変なことを言ったのだろうか。自分の言った言葉を頭の中で検討する。


「ここに入部するには、テストに合格する必要がありますよ」


 ドゥクスに話しかけられた! 嬉しいけど、どうして? 早かった心拍数がさらに上がる。敵対的に、敵対的に、そう頭の中で唱えながら返事をしたけど、ちゃんと言えただろうか。口にしたばかりの言葉がもう思い出せない。




 不安になる気持ちを抑え込みながら、そしてドゥクスとの会話に一喜一憂しながら数日が過ぎた。少しでもドゥクスにあの時の気持ちを思い出して貰えるように、持っていた日記をドゥクスに渡してさらに待った。

 入部から一週間経ってもまだドゥクスはわたしたちを懲らしめていない。ドゥクスがわたしたちに対する復讐を始めたのか、そう思っていたわたしは、ドゥクスの計画書が未成年は対象外なのを知った。


「どうしよう。大人になってからなんて。ドゥクスの行く大学なんてアタシに受かりっこない」

「それはドゥクスに確認した後で考えましょう。大学だと学部と推薦で難易度がかなり下がるから」


 わたしはヒナのいない所でまなみと話し合った。


「ドゥクスはわたしたちが成人するまで復讐を待つつもりだと思う?」

「それは無いんじゃないのかな。署名の件でもあたしたちがどう反応するかって確かめてるようだったから。ドゥクスなら昔考えたこと以外の計画をいくらでも思いつくよ」

「復讐するつもりのある相手と毎日会ってるのに、何もせず何年も放っておく、あのドゥクスがそんな気の長いことをするわけないわね。でもそう決まったわけじゃない。ヒナに説明するのはもう少し情報を集めてからにした方がいいわね」


 わたしたちはまずドゥクスから進学予定の大学を聞きだそうとした。ドゥクスが言った大学名を聞いてヒナはとてもショックを受けた。


「だめだよ……あの偏差値で推薦が無い大学なんて。柔道をやめて死ぬ気になって勉強すれば、もしかするとどこかの学部には受かるかも知れないけど、そんな『社会的に成功』していないアタシなんて、ドゥクスにとって価値が無いんだろ」


 さらに落ち込んだヒナの様子を見て、まなみがわたしを説得した。


「もう一度聞いてみよう。志望大学を聞いた時のヒナの様子やあたしたちの言葉で、その大学だとヒナには難しいってことは分かったはずよ。ドゥクスが復讐するつもりでヒナちゃんも対象なら、予定を変えてくれるかも」


 期待と不安の中で質問し直したわたしとまなみに、ドゥクスは志望大学を変えると言ってくれた。ヒナも含めて復讐するつもりがある、その可能性が高いということだ。わたしとまなみは思わず手を取り合って喜んだ。

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