四話 「歩原一華 #1」
学校が終わると、僕は最近通い始めたこの町の将棋道場に向かった。クラスで話のできる相手を見つけられなかった僕は、前に住んでいた町にもあった将棋道場によく通っていた。前の町でもこの町でも、道場に通っている大人たちは、将棋である程度の実力を見せればあまり子ども扱いせずに話をしてくれた。
平日夕方からの安い利用料を払って中に入ると。利用者のほとんどはおじいさんだったが、中に一人、僕と同じぐらいの年の女の子がいた。ここで何度か見かけたことのある子で、先日同じクラスになったことで初めて同じ学校の同じ学年だと知った。
対局相手の大人が、対局後の感想戦でその子の言葉に敬語で答えていたところを見ると、将棋の実力はかなりのようだ。
髪は肩の辺りで切りそろえられていて、顔立ちは整ってる方だと思うけど、いつも暗い表情で、笑っている顔は見たことがない。
はっきりいって僕は将棋がそれほど強くない。定跡とかをあまり学ばずに、他人が指さないような手ばかり指している。僕が将棋道場に来るのは、僕のような子どもが大人びたことを言ってもバカにしない人が多い、そういう雰囲気が好きなのだ。
だから将棋を指す相手も、ずっと対局に集中している人ではなく、駒を置く合間に将棋とは関係の無いことを話しかけてくるような人を選んでいる。それで、いつも真剣に将棋を指しているその女の子と対局したことは無かった。
でも今日は、彼女がクラスメートだということと、名前が歩原一華だということを知っているわけだから、一言ぐらい声をかけるのが礼儀じゃないかな。そう思って彼女の席に近付いた。
「歩原さん」
声に振り返った彼女は、僕の顔を見ると怯えたような表情を見せた。あれ? 何か怖がらせるようなことをしたかな。僕はクラスでは背の低い方だし、容姿も大人しそうに見えてあまり人の印象に残らない方だ。一目見ただけで怖がられるような覚えはない。
固まったように動かない彼女に、僕も次の言葉が出てこない。彼女と対局していたおじいさんが、どうしたんだという顔で僕を見ている。
「同じクラスになった千宝だよ。二つ前の席の」
改めて自己紹介をしても、彼女の表情は変わらなかった。待っていても返事がないので、すっきりしない気持ちのままその場を離れた。
「君、あの女の子と同じクラスなんだろ」
しばらくして、歩原と対局していたおじいさんが僕に話しかけてきた。
「これ、あの子が忘れていった物なんだ。明日学校で渡しておいてくれないか」
そういっておじいさんは手に持った小さな布の袋を僕に見せた。きれいな刺繍がされていて、何も文字は書かれていないけどお守りのようだった。道場の中を見回しても、彼女の姿は見当たらない。いつもなら彼女はもっと遅い時間までいるんだけど、話しかけたときの様子を考えると、あまり僕と一緒の場所にいたくなかったのかもしれない。断る理由もなかったので、僕はその小袋を受け取った。
次の日の朝、始業5分前に教室に入ると歩原は席にいた。忘れ物を渡す時に昨日みたいな反応をされるのはいやだった。どう話しかけようかなと考えながら彼女の様子を見ていると、おかしなことに気付いた。もうすぐ授業が始まるのに、彼女の席の周りにはまだ誰も座っていない。
「歩原さん。おはよう」
僕はわざと大きな声で歩原にあいさつした。彼女は、またあの怯えたような顔で僕を見た。ざわついていた教室が少し静かになり、クラスの半分ほどの子が僕に注目していた。僕はあまり周りと話をする方じゃないから気付かなかったけど、これはつまりそういうことかな。
「これ、歩原さんの忘れ物だよね。道場で預かったんだ」
カバンから小袋を出して見せると、彼女は一瞬驚いて、その後に嬉しそうな笑顔を見せた。彼女にとって大事な物だったようだ。それを手渡した時、彼女はつぶやくような声で僕に言った。
「わたしに話しかけない方がいい」
やはり彼女はイジメを受けているようだ。彼女の言葉が、話しかけた僕も一緒に無視されるから、という意味なら僕にはあまり実害がない。
給食が終わって歩原が教室を出ると、クラスのまだ名前を憶えていないヒョロっとした男子が一人、彼女の席までやってきた。人目を気にすることなく彼女のカバンを開けて、中から何かを取り出す。ちらっと見えた感じでは、さっき彼女に渡した忘れ物のようだった。
しばらくして教室に戻ってきた歩原は、自分の机のそばにいるヒョロを見て一度立ち止まったけど、彼と視線を合わせないようにやや足元を見ながら自分の席に戻ってきた。すれ違う彼女にヒョロが言った。
「返してほしかったら、放課後に体育館の裏へ来いよ」
歩原は慌ててファスナーが開いたままの自分のカバンを調べ、何が盗られたのかを知ってとても悲しそうな顔をした。
女の子へのイジメは、周囲からの無視や陰口とかが多いらしいから、僕もそんなものかなと予想していたけど、彼女の場合はもっと面倒なことになっているようだ。
僕はどうしたものかとしばらく考えて、職員室へ行って体育の授業で使う軟球とグローブを借りることにした。
放課後になったので、ジャージに着替えてからグローブを抱え、体育館の二階に上がった。窓から様子を見ていると、歩原がヒョロの後に従うように校舎側から体育館の裏へ近付いてきた。歩原の足取りは遅れがちで、ヒョロが何度か振り返って歩原に声をかけている。
体育館の裏は、体育館の壁と学校の塀に囲まれた25×10メートルほどの場所で、塀の近くに5~6メートルほどの木が三本植えてある。
一階の校庭側から体育館を出た僕が、壁に身を隠すようにして体育館裏を覗くと、二人の男子がヒョロと歩原を待っていた。一人は4年生で一番背の高い鎌崎だ。ヒョロは歩原さんから離れて鎌崎の左に立った。鎌崎の右には寝ぐせがついたような髪型の男子がいて、三人で歩原に向かい合っている状態だ。歩原は三人と目を合わさず、足元を見つめている。
僕は学校ではほとんど着けないメガネをかけて左手にグローブをはめ、右手には5センチほどの石を握った。
「お守りを返して」
歩原が小さな声でそういうが、三人は何も答えない。長い間をとってから、鎌崎が低い声で言った。
「将棋、やめろって言ったよな」
歩原は、何も言わずにうつむいたままだ。鎌崎が歩原の方へ歩き出しながら言葉を続ける。
「まだ将棋道場に通ってるんだって」
歩原にあと一歩まで近付いても、鎌崎は足を緩めない。彼女にぶつかるつもりか?
その時、鎌崎が何のためらいもなく歩原の腹を蹴った!
歩原の足が一瞬浮くほどの勢いで!
歩原の体は後ろへ跳ばされて地面に転がった。両手でお腹を抱えた姿勢のまま動かない。頭に血が上り、手に持った石を思わずクソヤローの背中に投げつけそうになったが、我慢して塀の近くに立つ木の枝へ投げ込んだ。枝と石のぶつかる音がして、鎌崎たちが音の聞こえた方に顔を向けた。
僕は数秒待ってから体育館の陰から走り出した。そして塀の近くまで行って立ち止まり、何かを探すように地面を見回した。鎌崎たちには、僕の姿が校庭で練習をしていた野球部員の一人に見えるはずだ。僕は地面を一通り見た後、次に木の上を仰ぎ見てから大きな声を上げた。
「あった! 木に引っかかってる!」
僕の視線の先には、枝の間に挟まった白いボールがあった。ボールを借りた後、枝に引っかかるまで何度も投げ込んだものだ。
「梯子がないと届かない。先生に持ってきてもらって」
たとえ本当の野球部員にこの声が聞こえても、彼らの練習中のボールがこちらに飛んできたわけではないから、自分たちにかけられた言葉とは思わないだろう。
横目で見ると、鎌崎たちは先生が来ると聞いても慌てて逃げる様子はない。うずくまったままの歩原の腕をつかんで無理やり立たせると、彼女の耳元で何かを言ってから悠然と歩いてその場を離れて行った。
僕は三人の姿が消えるのを待って、まだ痛みに顔をしかめ、手でお腹を押さえている彼女に近寄っていった。
「大丈夫?」
歩原は僕の声に答えず立ち去ろうとした。
「先生なら来ないよ。あれは嘘だから」
驚いた顔で振り返った彼女は、メガネを外した僕の顔を見てようやく誰なのか分かったようだ。
「えっ? あなた……朝の……」
「千宝だよ。無茶苦茶だな、あいつら」
「ウソって何が? どういうこと?」
歩原は状況が分からずに困惑していた。
「昼休みに歩原さんが……何て名前だっけ、あいつに呼び出されていたから、ちょっと準備してここで待ってたんだ。僕にも責任があるからね」
「責任?」
「歩原さんがそのお守りを持っていることや、それを大事にしているってことは、僕がみんなの前で渡さなかったらあいつは知らなかっただろ。それに、あいつが歩原さんのカバンからお守りを盗んだ時に止められなかった」
「……千宝さんは全然悪くないよ」
僕への警戒が薄れてきたようで、歩原の表情か少し明るくなった。
「あのお守り、大切な物なんだよね」
彼女の表情がまた少し暗くなる。
「おばあちゃんに貰ったの。将棋が上手になるようにって」
「じゃあ、取り返さないとね」
僕を見た彼女の顔に、期待するような表情が浮かんだ。
「一つ聞きたいんだけど、鎌崎が最後に歩原さんに何か言ってたよね。『お守りを返して欲しかったら先生に告げ口するな』とか言われたのかな?」
歩原は少し驚いたような顔をしてから小さくうなずいた。それなら、あいつらがお守りをすぐに捨てるってことはないだろう。彼女にあいつらの名前を尋ねて、ヒョロっとしたのが矢村、残る一人が舟木だと分かった。お守りを持っているのが矢村なのか、それとも鎌崎に渡したのか、明日確認する必要があるな。
彼女に、お守りを取り返すまでお互いに知らないふりをした方がいい、そう言ってその日は別れた。