三十七話 「マーヤ」
家に戻ると玄関に彼女の靴は無かった。冷房をつけたままの部屋の中にも誰もいなかった。いったい彼女は何者だったのか。
その日の午後は、柔道部で練習状況の確認と指導を行い、その後二日後に迫ったキャンプで当日僕が手持ちする機材の調達に歩き回った。念のためメトロと電話で最後の確認をした後、日が落ちてから家に戻って食事を取る。少し寝不足だったので、その日は早めに布団に入った。
聞きなれない電話の呼び出し音で目が覚めた。この家にある固定電話の音だろう。ほとんど使っていないので、呼び出し音を聞いたのは初めてだ。体を起こして立ち上がろうとしたときに音が途切れた。間違い電話だったのかもしれない。また横になった僕に、聞き覚えのある子どもの声が聞こえた。何か言い争っているようだ。
まさか! 一気に目が覚め、飛び起きて電話のある玄関前に行くと、昨日の女の子が電話で話をしている。下着姿のままだ。
「イヤ! ユナをたすけてもらうの。あたし、かえらない」
そう言って彼女は電話を切った。近付いた僕に気付いて振り向くと、その目が涙で潤んでいた。
「きみ。名前はなんていうの」
「マーヤ。いわなかった?」
もちろん、聞いていない。
「今までどこにいたの」
「おしいれの中。ねちゃったけど、もうあさ?」
終わった……。こんな小さな子を無断で外泊させてしまった。間違いなく大騒ぎになっているだろう。すでに警察へ連絡が行ってる可能性が高い。……いや、まてよ。マーヤの言葉が本当なら、両親は母さんとかなり親しかったはずだ。すぐに連れて帰って謝罪すれば、なんとか騒ぎを大きくしないで済むかもしれない。
「マーヤ。服はどこ? すぐに着てお家に帰るんだ」
「イヤ。ユナをたすけてもらうの」
「由奈ちゃんなら、もう大丈夫だから」
「うそ! あたしユナにいったの。あたしがユナを……」
半泣きになったマーヤは言葉を詰まらせた。僕は皆川の家に電話をかけ、すぐに受話器をマーヤに渡した。
「由奈ちゃんに聞いてごらん」
受話器から声がして、マーヤはその人に話しかけた。
「マーヤです。ユナはいますか」
しばらく沈黙した後、マーヤは話し出した。
「あたし。……うん。……ホント! ……うん、……」
マーヤの目から涙が溢れ出した。受話器を置いたマーヤは、泣きながら僕に抱きついた。僕に何かを伝えようとしているが、感情が高ぶって上手く話せないようだ。それでも僕にお礼を言いたがっていることは分かる。切羽詰まった状況だが、こんな風に感謝されて暖かい気持ちになるのは悪くない。彼女の頭を撫でると、涙を浮かべたまま僕を見上げて幸せそうな笑みを見せた。
「すごい。カズマすごい」
「さあ、もういいよね。お家に帰ろう。服と靴はどこにある?」
マーヤは下駄箱から靴を取り出した。服は押し入れにあるというので、僕が取りに行った。押し入れの戸を開けた時、突然玄関からチャイムの音が聞こえた。
「お姉ちゃん」
あせった僕はマーヤの服を急いで探して手につかみ、あわてて玄関に戻った。マーヤは下着姿のまま玄関のカギを開けていた。
「待って! これ」
僕の言葉は間に合わずマーヤはドアを開けた。開いたドアの向こうには、常雷陽向がいた。
下着姿のマーヤに抱きつかれて驚いた顔をしている。そしてマーヤを見ていた目が次に僕の姿を見た。泣きながら自分に飛びついてきた下着姿の妹と、その服をつかんで後を追ってきた僕。それを見た陽向はどう思っただろう。
あまりに衝撃的な光景だったためか、陽向は呆然と僕を見ているだけだ。僕の頭もパニックを起こしかけていたが、なんとか言い訳の言葉を絞り出そうとした。
「ひ……常雷さん。貴方の妹さんでしたか。気が付きませんでしたよ」
変な言葉使いだが、この状況でいつもの様には話せない。
「名前はマーヤというそうですね。彼女はここに……。その、ここに来たとき何と言ったと思いますか。驚いたことに、死んだ僕の母さんの生まれ変わりだと言ったんです」
彼女の顔が少しひきつった。僕は急いで話しを続けた。
「いやいや。さすがに鵜呑みにはしませんでしたよ。ただ、母さんの命日だったので。命日は一昨日でしたが、誕生日がその母さんの死んだ日と同じだと聞いたので。あの……、かけているペンダントに日付がありました。母さんの生まれ変わりというのはご両親から言われたそうです。……そう言えば、常雷さんのご両親には母さんのことを気遣っていただいてましたね。そういう訳で、妹さんは母さんと縁があるということで。ですから、妹さんを傷つけるような真似は絶対にしていません。ほら、常雷さんも言ってたでしょう。僕はマザコンですから」
まともな説明になっていない。陽向はいつの間にか俯いて、自分の足元を見つめている。なんとか僕がマーヤを傷つけたりしないと陽向に思わせないと。
「そうですか。そういうことでしたか。いやあ、何だか思ったよりショックでしたね。ちょっと信じてみたかったのかもしれません。馬鹿みたいですね」
その時、陽向がマーヤの体を自分から引き離し、驚いた顔のマーヤに向かって手を振り上げた。僕が慌ててその手をつかむと、陽向は僕が何もできないほどのキレで僕の体を投げた。玄関の段差に脛をぶつけて、僕はしばらく悶絶した。
「カズマ!」
マーヤが僕の体にすがりついた。
「……マーヤは悪くないんです。妹さんは友達のために必死だったんです。由奈ちゃんが助かって涙を流して喜んでいました。常雷さんにもそんな友達がいるでしょう」
陽向はしばらく沈黙していたが、僕の顔から目を逸らしたまま僕に手を差し出した。まだマーヤの服を握っていたことに気付いて、それを陽向に手渡した。陽向はマーヤにその服を着せ、肩を抱くようにして玄関のドアを開けた。
「もう、絶対こんなことはさせない」
陽向の声は、少し震えていた。
「は、はい。もちろ……」
僕の言葉を待たずに、陽向は玄関のドアを閉めた。この話は、きっとイチカやマナミにも伝わるだろう。控えめに言っても最悪の状況だ。キャンプで少しでも挽回できればいいが、こんなことになっても三人は予定通りキャンプに参加してくれるだろうか。
しばらくすると足首に痛みを感じた。大した痛みではないが、午後からまた指導のために道場へ行って陽向に会う。足を痛めたことは知られたくないので、足首にはしっかりとテーピングをした。
考えてみれば、マーヤのことで心配させたことをちゃんと陽向に謝っていない。指導の前に会って話そうと道場で陽向を探したが、僕と目の合った陽向は表情を固くして、すぐに他の部員の所へ行ってしまった。指導が始まってからの陽向は、僕の指導に忠実に従っていたが、最後まで僕と目を合わそうとはしなかった。
練習がそろそろ終わる頃になってイチカとマナミが道場に現れた。練習を終えた陽向と何か話をしている。明日から始まるキャンプの前に少しでも誤解を解いておきたい。そう思って僕が陽向に近付こうとすると、マナミが陽向の前に割り込むように立って僕を見た。
「網矢さん。ヒナちゃんに言いたいことがあるの?」
マナミの態度に僕を嫌悪してる様子は無い。陽向からまだ聞いてないんだろうか。
「昨日から一緒だったマーヤちゃんのことよね。可愛くていい子だったでしょ」
「!」
「よく考えてね。まだ幼稚園なのよ。それでもまだ何か言いたいことがあるの?」
「……」
僕は何も言えないまま三人の姿を見送った。しかし、もっとひどい扱いを予想していたためか、自分でも意外なほど落ち込んではいなかった。




