三十六話 「悩み解消」
家を出ると近くのネットカフェに入った。PCで変声用のアプリを起動する。スマホで沢口幼稚園に電話をかけ、会話はPC経由で行う。設定は年配の女性の声だ。
「はい。沢口幼稚園です」
「そちらに通園している皆川由奈の母、皆川聡美のことでお話を伺いたいんですが。入院していることはご存知ですよね。親子の立場として、こんなことは黙っていられません」
「しばらくお待ちください」
保留のメロディを聞きながら一分以上待った。何か相談しているのだろう。
「園長の高木です。どちら様でしょうか」
「取り次ぎしていただいた方は、何もおっしゃりませんでしたか?」
「あの……、すみません」
「お聞きしたいのは大木道子さんのことです。最初のトラブルは由奈の絵だと聞きましたが。大木さんの娘さんの絵の方が上手だったと、そうおっしゃってるんですよね」
「ええ、まあ」
「どうしてその娘さんの絵を選ばなかったんですか」
「確かに上手な絵ではありましたが……、その……」
「何か問題があった?」
「いつも園で描いている絵とは違ったので」
「本人以外が手伝っているんじゃないかと」
「いえ、何か確証があるわけじゃないんですが」
「そうですか。他には何か」
最初は嫌味を言う程度だったのが段々エスカレートして、保護者会での聡美さんの負担を増やしたり、わざと間違った連絡をしたりで、大人しく真面目な聡美さんにはかなり堪えていたらしい。今回入院した直接の原因は転倒による怪我だったのだが、診察ではストレスが原因の体調悪化も見つかって、園長はそれとなく転園を勧めた。
「問題があるのは大木さんの方ですよね。どうしてこうなったんですか」
「……申し訳ありません」
「私から話をします。連絡先を教えてください」
声の設定を、年配男性に変える。
「もしもし。大木さんのお宅でしょうか。幼稚園の園長から連絡先をお聞きしました。網矢と申します」
「どのようなご用件でしょうか」
「私は立場上、教育関係のトラブルに関してお聞きすることが多いのですよ。皆川聡美さんとのご関係についてお伺いしたいのですが」
「関係? もしかして、皆川さんから何かあたしの悪口をお聞きになったんですか」
「皆川さんとはまだ話をしていません。入院されていることはご存知ですか」
「……いえ」
「診断によるとストレスによる症状が色々出ているようです。ここだけの話にしていただきたいんですが、自殺未遂ではないかという話もあります」
「……。それをどうして私に? 私に責任があるとおっしゃりたいんでしょうか」
「そんな曖昧な話ではなく、何があったのか、事実を確認させていただきたいのです」
まずは、大木さんに非があると分かっている絵のことからだ。
「お子さんの絵のことで、大木さんから園の方にお話があったようですが」
「間違ったことを言ったとは思いません。うちの絆星が一所懸命に描いた絵は、誰が見ても由奈さんの絵より上手でした。自分の絵が選ばれなかったことで、絆星はとても傷ついていました」
「おっしゃる通り、確かに絆星さんは一所懸命に描かれて、その絵は上手だったんでしょう。貴方はその絆星さんの一所懸命な姿を見て、思わず手を貸したりしませんでしたか」
「……どういうことでしょう。あたしがそんな不正をしたとおっしゃりたいんですか」
「絵というのは、真贋判定が可能なように、そのタッチで作者を特定できます。もちろん、子どものまだ不安定な筆跡で個人を特定するのは難しいでしょう。しかし大人が手を加えたかどうかなら分かります。大人と4~5歳の子どもとでは手指の長さが全く違いますから、大人が一気に引ける長さの線が、子どもには絶対に引けません。美術館に勤める学芸員なら、具体的にどの部分か指摘するのも簡単です」
本当にそうなのかは知らない。違っていても彼女には判断できないだろう。
「少しぐらいならいいだろう。そう思って親が手を出してしまうのはよくあることです。コンクールに出すのでなければ、不正というほどのことでもありません」
「そう……ですよね」
「でも、幼稚園のイベントなら、上手な絵より子どもが一人で描いた絵の方を選ぶでしょう」
しばらく沈黙が続いたが、僕は大木さんが話し出すのを待った。
「……本当にそれだけでしょうか」
「どういうことですか」
「皆川さんは、園に優遇されているんじゃありませんか」
「どうしてそう思われたのですか?」
「あたしの子どもをまだ保育園に預けていた頃、公立の保育には入れられず、苦労して遠くの私立を探して預けました。外で働いているあたしでも審査で点が足りなかったのに。皆川さんの家は銭湯でいつも家にいるのに入園できました。変じゃないですか?」
その頃からの不満が原因なのか。
「皆川さんの基準指数が高いのは当然ですよ」
「どうしてですか」
「お父さんの方は全日の会社勤務で、銭湯で仕事をしているのはお母さんだけです」
「でも、在宅ですよね」
「あの銭湯は燃料に薪を使っていて、風呂は昔からの木材とタイルですから清掃も大変です。準備だけで毎日4~5時間のきつい肉体労働があり、義母さんが倒れてからは、夕方から深夜まで番台に座っていて同時に薪の火加減も見ています」
「……」
「義母さんは3年前から、重度障害で在宅介護になっています」
お父さんの会社勤務、薪を使った風呂、義母さんの在宅介護は本当だ。
「……それだけじゃない」
「と、いいますと?」
「雑誌の記事に書いてあったけど、銭湯経営ってすごく優遇されてるんでしょ。水道代がすごく安かったり、税金から色々お金が出ていたり。脱税なんて当たり前で、銭湯の組合から高い給料も貰って人もいるんです」
「その記事なら私も読みましたが、東京区内の銭湯についての話でしたよ。記事には書いてありませんでしたが、優遇されていると言っても売り上げは年に一千万程度で、これはコンビニの十分の一もありません」
「……」
「区内だと地価も高額で、土地保有者としてマンションに建て替えてしまえば収入は数倍になります。代々引き継いできた家業に対するこだわりがあり、今も銭湯が無いと困る人がいるから続けているのです」
「……」
「話がそれました。この町では予算から入浴料を出したりしていませんし、皆川さんは組合の理事じゃないので給料は貰っていません」
大木さんからの返事がなくなった。マンション云々は僕の想像だがそれほど外れてはいないだろう。そろそろ納得してもらえたか。しかしそうだとしても、大木さんから皆川さんに和解を働きかけないと話が進まない。
「私が銭湯のことについて詳し過ぎると思いませんでしたか。実は女性向け雑誌の記者の方から、皆川さんの事情について色々と聞かされたんです」
「……」
「その雑誌の連載記事では、様々な職業の女性を選んでインタビューをしていて、皆川さんも最初はその取材に選ばれていました。ところが今回の入院で彼女が抱えている問題を記者の方が知ったため、別の記事にすることになったようです」
「あの……それは?」
「保護者間のトラブルというのは全国的に増えていますから、読者の関心を引く記事になります。その雑誌はゴシップ誌とは違いますから、記事として掲載する前に関係者へ確認してます。私の所に連絡があったのもその一環ですね」
「記事にされるんですか」
「実名は出さないでしょう。でも、お二人を知る人が読んだら誰のことかは分かるでしょう」
「そんな……」
もう一押しか。
「私としては、記事になる前に和解していただきたいんですよ。今回の話をネタにどこかが無責任な記事を書くと、私の仕事も増えますから。明日にもその記者からもう一度連絡がある予定なので、今日中に皆川さんと話をつけていただければ、その時にお二人がもう和解して転園も止めたと伝えます」
「そんな、急には」
「話し辛いのは分かりますが、こういうことは後送りにして話しやすくなるものではありません。あとは大木さん次第です。険悪な雰囲気になるのが心配なら、お子さんを連れていかれることをお勧めしますよ」
そして僕は皆川さんが入院している病院に向かった。受付で病室の場所を聞き、その近くの廊下で大木さんが来るのを待つ。来なければもう一度電話をする。
やがて30代半ばに見える女性が子どもと共に現れたが、病室の前で躊躇していてなかなか中に入らない。僕は彼女に話しかけた。今の服装は病院関係者に見えなくもない。
「皆川さんのお見舞いの方ですか。お名前は?」
「あの、大木です」
「ああ、お話は伺っています」
「え?」
「絆星ちゃんだね。由奈ちゃんと仲良くしたい?」
「うん」
「だったらママにお願いしよう。わざわざお見舞いに来たんだから、ママだってそう思ってるよ。そうですよね、大木さん」
「あ、はい」
病室に入るとベッドの上に身を起こした女性がいて、その横には男性と幼児がいた。由奈の両親と、この幼児は誰だろう。一人っ子のはずだが。
「皆川さん。大木さんがお見舞いに来られてます」
女性の顔に緊張が走る。
「これまでのことを謝罪されたいそうです。色々と勘違いがあったようなので。大木さん、どうぞ」
そう言って僕は病室を出て行った。廊下からでも話の内容は聞こえる。和解は上手くいったようだ。
「本当に申し訳ありませんでした」
帰り際に大木さんがまた謝った。
「それでは失礼します。絆星、由奈ちゃんに挨拶して」
「由奈ちゃん。またね」
そう言って二人は病室から出てきた。僕にも軽く頭を下げてから、エレベータの方へ歩いて行った。これで一件落着と言いたいところだが、今確か、由奈ちゃんっていったな。この病室にいるのが由奈だとしたら、僕の部屋にいるのは誰なんだ。




