三十三話 「筋トレ」
キャンプのことは非常に気になる。気になるが今は、明日道場で部員たちにアドバイスするためのデータ解析を行うのが優先だ。
「今日計測したデータは、今後君たちの練習を生かされることになる。練習内容を大きく変える必要がある者もいるだろう。ただし強要するつもりはない」
計測が終わった後、正座した部員たちの前にスタッフと僕が並び、大学側の責任者が部員たちに説明した。
「明日、積極的に参加してもらう5名ほどの部員を決める。自ら申し出てくれる部員がいたら、その者を優先する。明日までによく考えておいてくれ」
陽向が申し出てくれることを期待したい。そうでなければ強制的に参加してもらうことになる。今回のデータで明らかになったが、彼女に今の練習を続けさせるわけにはいかない。
翌日、高校の道場を訪れたスタッフは、昨日と違って僕を含めても三名だけだ。僕以外の二人は柔道着に着替えている。単に練習内容を説明するだけでなく、場合によっては組み合いながら教える必要もあるからだ。
「まず、希望者を確認する。誰かいるか」
「はい」
スタッフの声に、まず陽向が歩み出た。それに対して部員からどよめきが上がる。何人かの部員が、前に出た陽向と僕を交互に見た。陽向が教室で僕を非難したことやその後の噂から、僕と彼女の間に何らかの確執があることは多くの生徒が知っている。僕がスタッフの一人として参加している練習プログラムに、陽向が真っ先に参加したことが意外だったのだろう。
陽向が進み出たのを見て、一年の女子部員二人もおずおずと前に出た。彼女たちは陽向に憧れて柔道を始めた白帯の部員で、一人は僕たちのクラスメートだ。他に黒帯と白帯の男子も参加を申し出たので、この5人をプログラムの参加者とすることになった。
PCの画面にデータを表示しながら、解析結果の説明と改善点の指摘を行うのが僕の役目だ。ここで初めて、僕は部員たちに話しかけた。
「改めて、このシステムについて簡単に説明します。」
「続いて個人のデータを解析した結果について説明します。まず有働さん、国光さん、榊さん、斎藤さん、最後に常雷さんの順で説明を行います」
陽向の表情が微妙に曇る。
「常雷さんへの説明が一番長くなりますから」
陽向の表情が元に戻った。
一人目の有働は黒帯の男子だ。練習の合間に陽向の方を見ていることが多かった。このプログラムに参加したのも陽向が参加したからだろう。時々、説明しているモニタの画面を見ずに僕の横顔をにらむように見ていた。ちゃんと理解できているのか心配になってくる。実力はそれなりにあるが目立つ欠点もあって、指導のし甲斐がある選手だ。
二人目は白帯の男子。三人目と四人目は白帯の女子だ。僕の説明に対して、分からないことには素直に質問をしてくる。自分の流儀というのがまだはっきりしていないので、体型に合わせた基本的なプログラムの適用を行う。
「では常雷さん。最初にお聞きしますが、部活以外でもかなり練習をされていますね。主に筋トレだと思いますが」
「はい」
「それはもう止めてください。無駄です。害があると言ってもいいでしょう」
厳しい言葉だが、彼女のためには、はっきり言っておく必要がある。
「理由を説明しましょう。ご存知でしょうが、筋トレというのは筋肉に大きな負荷を与えて筋繊維を損傷させ、その筋繊維が再生するときにより太くなることで、筋力を増大させるというものです。再生には時間が必要ですから、負荷による損傷は再生量を上回らない範囲に抑える必要があり、再生が間に合わない状態をオーバーワークといいます」
陽向の筋トレについてのデータを、モニタにグラフで表示する。
「一般的には、高校の部活でオーバーワークを心配する必要はありません。そこまで練習するには強い苦痛に耐える必要がありますし、もしそうなっても筋力が低下して競技に悪影響が出るため容易に判断できます。しかし、常雷さんの場合は受験による練習不足のために筋力が低下した後、低下する前の筋トレメニューで練習を再開してしまいました。筋トレはその時点の筋力に見合った負荷で行う必要があり、今の常雷さんはオーバーワークが常態化してしまっています。そのため、指導している先生も気付かなかったのでしょう」
視界の端で、有働が僕をにらみつけていた。間違ったことは言っていないはずだが。陽向の方に向き直ると、なんと表現したらいいのか、彼女はうつろな感じの目で僕を見ていた。
「無駄? 害がある?」
思った以上に僕の最初の言葉が気になってるようだ。
「常雷さんには人並み外れた集中力があります。今回はそれが悪い方に出てしまいましたね」
「集中力があるのもダメ……」
「いえ! そういうことじゃなくて」
陽向は俯いてしまった。膝の上で握り締めた手が震えている。もっと別の言い方にした方が良さそうだ。
「常雷さんは昔、貰った鉢植えの花に水を与えすぎて、枯らせてしまったことがありますね。でもその代わりにあげた鉢植えは、水や肥料の量を守って綺麗に咲かせました。必要なのはそれです」
「あ、うん。……覚えてたんだ」
「自分の体を自分だけのものだと思うと、ついつい無理をしてしまいます。でも常雷さんには、その体を与えてくれて感謝したい人たちがいるでしょう」
「はい」
「常雷さんは自分の体を、花を育てたときのように大切に扱う必要があります」
「花? アタシが?」
「そうすることが、その人たちも喜ばせることにもなります」
「……ケンカして、その人がとても怒っていたとしても?」
あんな子煩悩な親だったのに、陽向との関係が上手くいってないのか。もしかすると、陽向は親の意向に反してこの風津高を選んだのかもしれない。中学の時の陽向は柔道選手としてその将来をとても期待されていたはずだ。両親の期待も相当なものだっただろう。しかし陽向は、あまり女子柔道の盛んじゃないこの風津を選んだ。
「それは常雷さんがこの高校を選んだことと、関係がありますか」
「……ある」
これは、はっきり言っておいた方がいいな。親というのはそういうものじゃない。
「いくら怒っていたとしても、常雷さんが体を壊すことで喜ぶことは絶対にありません。大活躍してもすぐ引退することになるより、活躍できなくても長く健康でいることを望んでいますよ。もちろん、一番は健康で長く活躍してくれることです」
「……本当に?」
「断言できます」
陽向の表情が目に見えて明るくなった。少なくとも陽向の方は、両親との不仲を深刻に悩んでいるようだ。何か手を打つ必要があるな。
その後の説明は順調に進んだ。陽向の反応から一度に色々言うのは良くないと判断して、体作りに関する話に絞ることにした。プログラムはまだまだ続くのだから、焦る必要はない。
陽向に筋トレの方法について細かく説明していると、有働がそこへ来て僕に話しかけた。
「さっき聞いた説明なんですが、口で説明されただけではよく分かりません。実際に体を使って教えてもらえませんか」
「有働。そういうのは大学の人に頼んだらいいだろ」
陽向の言葉を無視するように、有働は僕への話を続けた。
「だめですか?」
「言っておくけど、僕は昇級試験を受けたこともない」
「やっぱり、だめなんですね」
「だから、投げ技を受けるぐらいしかできないけど、それでもいいか」
陽向が驚いた顔で僕を見た。有働にとっても意外な申し出だったようだ。
道着を借りて道場に立った。向かい合って礼をした後の僕の構えを見て、有働の表情が少し厳しくなった。僕は有働に何度も組手を取らせ、その癖を利用してすぐに切って見せた。次に有働が技を仕掛けるまで待って、技の途中で潰して見せた。
昇級試験を受けたことはないが、柔道の経験が無いわけではない。大学の監督に僕のシステムを試してもらうためには、さすがに空手部からの推薦だけではダメで、僕は三ヶ月ほど走り込んで持久力をつけた後、監督がもういいというまで連日、何時間も受け身の練習を繰り返して見せた。
さらに僕のシステムが役立つことを確認してもらうのに、素人の僕が上達していく様子を見てもらうことは有効だった。ひたすら投げ技を受け続けた結果、3ヶ月ほどで大学のレギュラー選手以外には簡単に投げられないレベルにまでなった。
ただし自分からは仕掛けられず、寝技にも全く対抗ができないので、選手としては全く役に立たない。監督たちからもっと全般の技術を身につけるよう勧められたが、陽向の指導では立ち技の受けをもっと上達させた方がいいので、システム開発のためと説明して断った。
有働は技が掛からないことにいらついて、動きがさらに雑になり、僕はそれを指摘し続けた。十数回目の投げ技を潰して、二人が共に床に倒れた時、有働は僕に後ろから絞め技を仕掛けてきた。油断していた僕はまともに技を受け、十秒と経たずに落ちてしまった。つまり意識を失った。
活を入れられて目を覚ますと、有働は部の先輩から怒られていた。酷い目には合ったが、絞め技というのはしっかり掛かってしまうと、その後はどうにもできないということを実感できた。
走ってくる足音が聞こえてそちらを振り向くと、イチカとマナミが焦った顔でこちらに走ってくる。まだ回復していない頭で、心配してくれたのかと思って大丈夫と手を上げかけたが、二人は僕の横を通り過ぎた。いつの間にか陽向が僕のすぐ後ろに怖い顔で立っていて、イチカとまなみはその両手をつかんだ。
イチカが陽向の耳に何かつぶやくと、陽向は驚いた顔でイチカを見た。そのまま道場の外に引っ張られて行く。
「すみません。ヒナちゃんの妹が病院に運ばれたんです」
まなみはそう言って二人の後を追った。僕に何かできることがあるかもしれない。僕は頭を冷やしてくると言って、三人の消えた方向へ歩いて行った。
「ダメよ。殺したら」
いきなり物騒な声がした。イチカの声だ。
「そこまでは……しないよ」
「もし大ケガでもさせたら、退部か、少なくとも試合に出場できなくなるわよ。そうなってもいいの?」
「……」
ケガくらいならさせてもいいと思ってたのか? 一応、イチカとマナミに助けられたことになるのか。その時、誰かが近づいてくる足音が聞こえて、僕はその場を離れて洗面所に向かった。
洗面所から戻ると、陽向はすでに道場へ戻っていた。
「有働。練習に付き合ってくれ」
陽向の言葉を聞いて、有働がその前に立った。何だか嬉しそうだ。
「本気でやれよ」
その言葉の後、陽向があっさりと有働を投げた。立ち上がった有働をさらに受け身を取らさずに投げ落とす。まるでフラストレーションを晴らすかのように陽向は有働を投げ続け、最後は僕がやられたように有働を後ろからの絞め技で落とした。
もしかして僕の身代わりか。僕は有働に同情しかけたが、気が付いてからの彼の嬉しさを隠すような顔を見て、その気持ちがすっかり失せた。




