三十一話 「意識」
殴れと言って目を閉じたまま顔を突き出している陽向だが、僕にそんなことが出来るわけがない。困惑しながら彼女の顔を見ていた僕は、その口元にココアパウダーがついていることに気付いた。
「顔にチョコの粉がついてる。口の下」
陽向は乗り出した体を支えるためテーブルに両手をついているから、その姿勢のままだと自分の顔を拭えない。陽向はその姿勢を変えず、目を開けることさえなく僕に言った。
「拭いて」
思わず苦笑しながら指で彼女の口元をこすった僕は、そこに僕の指の跡がくっきりと残ったのを見てあせった。僕の指にもココアパウダーがたっぷり付いていることを忘れていた。最初に箱からチョコを取り出した時、アルミカップごと取らずにチョコだけつまんだからだ。
「ごめん。よけい悪くなった」
僕はポケットからハンカチを出し、指の粉を拭いてからさらに親指に巻きつける。人差し指と中指で彼女のアゴの下を支え、親指を動かして注意深く口元を拭ったが、乾いた布だとなかなかキレイには取れない。粉が薄くなると肌の色と見分けにくくなり、僕はさらに顔を近づけてよく確認した。
こんな間近で陽向の顔を見るのは初めてかも知れない。あの頃の面影はまだあるけど、ずいぶん女の子らしい顔つきになった。あの頃は頬の線がもっと直線的で、眉はもっと太く、まつ毛もこんなに長くなかった。唇だってこんなにつやつやしてなかったな。
その時、僕の後で教室の戸が静かに開く音がした。
「誰か来たぞ」
僕が小さな声でそう言うと、陽向はゆっくり目を開いて視線だけ動かして周囲を見た。
「どこに?」
僕が嘘を言ったと思ったのか、少し眉をひそめてそう言うと陽向は再び目を閉じた。僕が振り向いて見ても教室には僕たち以外誰もいなかった。
でも完全に閉めたはずの戸が少し開いている。どうやら教室に来た誰かは、入るのを止めて立ち去ったようだ。男女が二人きりでいたから変に気を回したのかな。僕たちはどんな風に見えたんだろう。
そう考えた時、マナミの言葉を思い出した。昔の少女漫画には、知り合いの子の目に入ったゴミを見ようとして、本命の子にキスシーンと間違えられる話があったそうだ。
『キスっていうのは、お互いの鼻が当たらないように顔を傾ける必要があるの。目のゴミを見るのに、そんなことしないでしょ。それにキスするなら、男の手が相手に触れてないのはすごく不自然』
頭の中に、入口から僕たちの姿がどう見えたかを思い浮かべる。顔を赤らめた陽向は目を閉じて僕に顔を突き出している。僕はそのアゴを手で支えながら自分の顔を近づけている。互いの顔がまだ触れていないことはよく見えたはずだ。……あれ?
「うわっ!?」
僕は陽向から手を離していきなり立ち上がった。その反動で倒れた椅子が大きな音を立てる。陽向もさすがに目を開けて、不思議そうに僕を見た。アルコールとは関係なく、僕は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
誤解された。まずい!
そう思って僕は教室から去った誰かを追おうとしたが、追いつけたとしてもこの状況をどう説明すればいいんだ? アルコールで頭が鈍っているためか適当な嘘が思いつかず、僕は足を止めた。
「何で殴らないんだよ」
それどころじゃない……。いや、これはこれで大事な話だった。
「殴りたくないからだ。お前は誰かに腹を立てた時、相手を殴れば気が済むのか」
「この前、変なうわさを流したやつはぶん殴ってやりたかった」
その件は本当に悪かったと反省している。しかし僕より男らしいな、陽向。夏休みが明けたら、僕と陽向がキスをしていたといううわさが立っていて、僕はみんなの前で陽向に殴り飛ばされるんだろうか。
ここで僕が陽向を殴ったらどうなるんだろう。僕が陽向を殴って、陽向が僕を(その何倍も)殴った後は、陽向はまた昔のように僕に接してくれるんだろうか。僕にとっては魅力的な話だ。
でも僕が僕である限り、陽向を本気で殴るという選択肢はない。力加減して殴っても陽向を怒らせるだけだろう。
そんなことを考えていた時に、廊下の方から近づいてくる足音が聞こてきた。入口の戸が勢いよく開いてマナミが姿を見せる。マナミは部屋に入ろうと戸をくぐったが、後ろに伸ばした右手が引っ張られたかのように立ち止まった。
「ほら。来なさいって」
マナミが後ろを向いて力を込めて引っ張ると、その力に負けてイチカが教室に入ってきた。イチカはうつむいたまま僕たちの方を見ない。マナミに手を引かれてついて来るイチカ。こんな二人を見るのは初めてだ。
「何してるの、ヒナちゃん。う……。お酒臭い」
「頼んでるのに、アタシを殴ってくれないんだ」
「何言ってるの? 酔ってる?」
僕はイチカの様子が気になって、それとなく彼女の顔をのぞき込もうとしたが、イチカはそれを嫌がるかのように顔をそむけた。一瞬見えた顔は、何だか泣いているように見えた。
「その手。ケガしたの?」
マナミがハンカチを巻いた僕の親指に気付いた。
「いいや。常雷さんの顔に付いてたチョコの粉をこれで拭いてあげたんだ」
そうだ。今の内に彼女たちに説明しておこう。そうすれば、夏休み明けに変なうわさが立っても大丈夫だ。
「さっき誰かがこの教室に来たんだけど、入らずに戻ったみたいなんだ。常雷さんは酔った真っ赤な顔で目を閉じていて、僕は汚れが取れたか確認するために顔を近づけていたから、その人は何か勘違いしたかもね」
「ほらねっ」
「え?」
「あっ、何でもないの。ほら、いっちゃん、しっかりして」
いつの間にかイチカが床に座り込んでいた。さっきから様子が変だと思ってたけど、もしかしてイチカも同じチョコを食べて酔っているのか? うつむいた髪の間から見える頬や耳は、あまり赤くなっているように見えない。
「こんなのはダメだ。こんな……モヤモヤした気持ちのままじゃ。なんでもっと素直にできないんだ」
陽向がまた声を上げた。アルコールのせいか、僕もその言葉に納得できるものを感じた。
「素直……。そうだな、陽向」
イチカとマナミが驚いたように僕を見た。イチカは僕が視線を合わせる前にまたうつむいてしまったが。名前で呼んだのはまずかったか。完全には酔ってないつもりだったが、酔っ払いは自分のことを酔っていると思わないものだ。
「どうして僕は、自分の状況を素直に受け入れられないんだろう」
僕は別人のふりをしてイチカとマナミを欺いている。マナミや陽向に少しでも僕との関係を良くしようと思う気持ちがあるのを知った今、その気持ちを台なしにするような行為は止めるべきじゃないのか。思いつくとすぐ行動に移してしまうのは、僕の悪いクセなのかもしれない。
「何にでも手を出して掻き回すようなことはせず、現状をそのまま受け入れる。僕にはそんな謙虚さが足りないな」
誰も僕の言葉に答えなかった、しばらく沈黙が続いた。
「あの……。そう……かな?」
陽向の答えは僕が思っていたより歯切れが悪かった。また沈黙が続く。
「ふ……、ふふ、ふふふふ」
沈黙を破ったのはイチカの笑い声だった。笑っているのに何だか怖い。転校前に僕が彼女たちを追い返した時に聞こえた笑い声と違って、得体のしれない怖さじゃなく単純にその怒りを感じさせる怖さだ。イチカはすっと立ち上がると、陽向の腕をとって自分の腕に組ませた。
「ヒナ。ちょっと来なさい」
「な、なんだよ……」
酔っているはずの陽向が、イチカの口調におびえたような声で返事をした。腕を引くイチカに逆らえない様子で教室を出ていく。その後をマナミが追って、僕に軽くあいさつをしてから教室を出て行った。
「4年も待てるかぁ!」
チョコレートの箱と共に教室に取り残された僕に、遠くから陽向の叫ぶ声が届いた。




