三十話 「呼び出し」
今日は一学期の終業式で、明日からは夏休みだ。
学校ではITシステムのメンテナンスを行うため、作業に協力する部長など一部の部員を除いてコンピュータ部の活動は休止になる。ネットでの関係を作れてなければ、夏休み明けまでイチカやマナミに何もできなくなるところだった。
二人に対しては、ネットと心の中では名前呼びに戻っている。やはりこの方が僕にはしっくりとくる。
常雷は夏休みの間、土日を除いてほぼ毎日、所属している柔道部で練習や試合がある。近い内に守川さんの大学から柔道部顧問の先生に連絡が入るはずなので、僕の出番はそれからだ。
ここ数日、その常雷が僕をよく見つめている。以前は僕と目が合いそうになるとさりげなく逸らしていたが、今は僕が視線を送るってもこちらを見つめ続けている。何というか、恨みがましい目つきだ。昨日横を通り過ぎた時には、『何でアタシだけ』とつぶやく声が聞こえた。
考えてみれば、常雷とは前に『嘘つき、マザコン』と言われてからほとんど会話をしていない。イチカやマナミと違って、僕に対して感情を発散させる機会がなかった。
今朝、机の中に一枚の紙が入っていた。
『今日5時、多目的室にて待つ。常雷』
果たし状ですか? 嫌な予感しかしないが、行くしかないだろう。
ちょうど一分前に多目的室の戸を開けた。この教室には二人ずつ向かい合って四人で座るテーブルが並んでいる。その窓際のテーブルに常雷が座っていた。僕が戸を開けても、目の前をテーブルに置いた薄い箱を見つめたままで、入口からはその緊張した横顔が、正確に言えばやや前からの顔が見えた。
僕はその向かいの席まで歩いて行ったが、やはり常雷は箱から視線を離さない。席を引いて僕が座ると、ようやく僕の方を見た。
「何の用でしょうか? 常雷さん」
「これ。知り合いに貰ったチョコレートだけど、一緒に食べないか?」
チョコレートと聞いて、まだ常雷とは知り合っていなかったあの時のことを思い出した。
「どうして僕に?」
「甘いもの、好きだっただろ」
「歩原さんや優祈さんと食べないんですか」
「あいつら、太るからってこういうのはあんまり食べないんだ」
「それにしても、わざわざ呼び出してまで、どうして僕に?」
常雷は困った顔をした。僕の質問に答えられないようだ。そのくらいは考えておけよと、僕は心の中で突っ込んだ。どうやら、他の二人とは相談せずに僕を呼び出したようだ。
「お礼だよ、お礼」
「何の?」
「ええ……と、……ああ、大学だよ。志望をM大に変えてくれただろ。あの時はホント嬉しかったんだ」
あれから柔道部について詳しく調べると、女子柔道界はマスコミを長く騒がせた事件の影響で、強豪校以外はかなり人材の移動があったようだ。W大も何人かの指導者を受け入れたことで、柔道部に力を入れ始めていた。
事情は分かっても、常雷の志望校を目指さないことで僕が感謝されるというのは複雑な気持ちだ。それと、そういうことは僕に隠しておいた方がいいんじゃないのか。常雷らしいとは思うが。
「まあ、食べてみろよ」
常雷が包み紙を破いて箱のふたを開けた。中にはかなり大粒のチョコレートが20個入っていた。
これってたぶんアレだよなあ。でも小4のときならともかく、今の僕がチョコに入ったアルコールで酔うとは思えない。大人が酒酔い状態になるのに、普通のウイスキーボンボンで50個は食べる必要があるはずだ。
酔ったふりをして常雷の質問に答えるという手もあるか。そう思いながらチョコを一つ取って口に入れる。つまんだ指に、チョコにまぶされたココアパウダーが付いた。しばらく口の中で舐めてから、思い切って歯で噛み砕いた。
「!」
何だ、コレ? 殻のようになったチョコが砕けると、その中からゼリーのような物が出てきた。ゼリーを厚いチョコでコーティングしていると言った方がいいかもしれない。このゼリーには強いアルコールを感じる。
ゼラチンで固めてあるのは自家製の梅酒のようだ。舐める程度だけど千宝家で飲んだことがある。梅酒はアルコール度数35%ぐらいの蒸留酒に梅と砂糖を入れたもので、完成時でも25%ぐらいの度数があったはずだ。ゼリーを一個20グラムとすれば、アルコールは一個で4~5グラム。
つまりこのチョコを4~5個食べれば、中ビン一本分のビールを飲んだのと同じアルコール量になる。これはまずい。
困惑した顔になった僕を見て、常雷もチョコを一つ口に入れた。彼女も微妙な表情になる。
「……まずくはないよな?」
まだ食べさせる気なのか。どうやって回避しようかと考えて辺りを見回すと、カード式のカレンダーがあることに気付いた。月と日の数字が書かれたカードを手で差し込むタイプだ。
「ゲームをしようか」
そう言って、カレンダーから日付のカードを外してきて、それをテーブルの上にバラバラに並べた。
「計算した数字と同じ数字のカードを先に取った方の勝ち。負けた方はチョコを一つ食べるんだ」
「計算? どう考えてもアタシが不利じゃないか」
「スマホに関数電卓のアプリが入ってるから、それを使うんだよ。まず僕が数字を言って、常雷さんがそれに好きな数字を足す。その数字を32で割れば、余りは0から31までの数になる。試しにやってみようか。5867」
「ええと、5、8、6、7」
「それに常雷さんが思いついた数字を足して。口には出さないで」
「……」
「それからMODと書かれたボタンをタップして、次に32を入れる。いい?」
「3、2、と」
「イコールをタップすると余りが表示されるから、その数字のカードを取るんだ。イコールをタップする瞬間に僕にも画面を見せて」
常雷がスマホの画面を僕に見せてイコールをタップした。11という値が表示されて、常雷は素早くそのカードを取った。
「0が出たら、前回正解だったカードをまた取る。僕もカードを取る時は左手しか使わないよ。どうかな?」
「……いいよ。やろう」
最初は僕の手の上に常雷の手が乗った。僕の勝ちだ。常雷がチョコを口に入れ、それを飲み込み終わるまで待って次のゲームを行う。二回目は僕の方が遅かった。チョコを口に含んでゆっくりと食べる。
三回目と四回目は続けて僕が勝った。次は僕が負けたけど、その後は三回続けて常雷の負けだった。悔しそうな顔で常雷がチョコを食べる。これで僕が三個、常雷が七個食べたことになる。常雷の顔が明らかに赤くなっている。
このゲームは言うまでもなくインチキだ。僕は特に暗算が得意というわけでなくて、そのことは常雷も知っている。32で割るというのがポイントで、数字をプログラミングで良く扱う16進数に変換できれば答えは簡単に分かる。そして僕は、数万までの数なら頭の中で瞬時に変換できる。
もっと大きな数になると難しいが、常雷は僕が先に言った数よりずっと桁の大きな数は足さないだろう。だからイコールをタップする直前の計算式を見た瞬間、僕は答えのカードを探し始めることができる。
先に探し始めても、計算式が見えてからタップするまでの時間が短いと、常雷に先を越される場合はある。しかしアルコールが回ってしまえば常雷の反応も遅くなる。僕がまだ大丈夫だろうと思って四個目を食べた後に、常雷はさらに三個を食べることになった。計十個だ。常雷の顔ははっきり分かるほど赤くなっている。
「常雷さん。このくらいにして……」
「常雷さん? 何だよその言い方は。陽向って呼べ!」
完全に酔っ払いだ。
「もう酔って反応が鈍くなってる。これ以上やっても僕には勝てないよ」
そう言われて、酔った頭で色々と考えているようだ。
「じゃあ……殴れ」
「何?」
「気が済むまで、アタシを殴れ」
そう言うと陽向は、テーブルの上に身を乗り出し、顔を僕に近付けて目を閉じた。何でそうなるんだ?
「気持ちをスッキリさせないとダメなんだろ。さあ、殴れ!」
陽向は殴られると気持ちがスッキリするのか? いや、気が済むまで殴れと言ってるんだから、殴ることで僕の気持ちがスッキリするという意味だ。彼女は僕が計画書を実行するほど彼女たちを憎んでいると思っている。彼女たちにとっては逆恨みだ。僕は守川さんの言葉を思い出した。
『お前がいなくなって、まなみはすごく落ち込んでた。事情を知ってる俺やえりかはどうしたらいいのか悩んだよ。でも数日して一華と陽向が来た後は、すっかり元通りになったよ。俺はてっきり、お前が何かしたからだと思ってたよ』
それを聞いたのは転校して半年ほど経ったときで、なんとか立ち直ったばかりの僕は、彼女たちの立ち直りの速さにショックを受けた。僕は納得できる理由を探して、それを数え上げてみた。
・僕のスケベ心で恥ずかしい思いをさせた
・すでに何度も騙したのに、もう嘘はつかないと約束を押し付けた
・母さんの病気のことで誤解して怒った
・謝りに来た彼女たちを追い返した
・彼女たちに一言も告げずに転校した
自分で列挙しながら、その内容は僕をさらに落ち込ませた。いやいや。僕と彼女たちの関係はそれだけじゃない。僕は彼女たちを助けたことで感謝されたこともあるし、何より一緒に楽しく過ごした時間とその記憶がある。彼女たちにも少しは未練があっていいんじゃないか。でも、転校する前にはすっかり疎遠になってたからなあ……。




