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二十話 「裏切り」

 今日は夏休み中の登校日だ。母さんはあれから一度も目を覚まさない。


「今は容態が安定しているから学校に行きなさい。何かあれば電話するから」


 父さんはそう言って、僕に往復のタクシー代を渡した。タクシーから降りた僕は、三週間ぶりに校門をくぐった。


「おはよう、千宝」


 校門の近くに大沢がいて、僕に声をかけた。


「……おはよう」


 挨拶を返すと、大沢は満面の笑みを浮かべた。申し訳ないけど、母さんのことで心がいっぱいの僕にはその笑顔に笑顔を返す気力がない。彼女は僕の後を追うように教室に入った。

 僕が席に着くと、自分の席にカバンを置いた大沢がやって来て、アニメの話をし始めた。興味も知識も無いので、彼女の話に相づちを打つこともできない。

 守川さんの話を思い出してまなみの席を見ると、まなみは一華や陽向と一緒で話をしていた。落ち込んでいると聞いたけど、少なくとも今はそう見えない。


「ねえ! 聞いてる?」


 そう呼ばれた僕は、視線を大沢に戻した。




 学校にいる間、僕はずっと恐ろしかった。今にも携帯が鳴って、母さんが危ないと告げられるんじゃないか。そう思うと胸が締め付けられるようで、吐き気まで感じる。


 今日だけじゃない。いつまでも続くこの苦しさに、僕の心は耐えられなくなってきている。誰か僕を助けてくれ。そう願って頭に浮かぶのはあいつらの顔だった。三人はもう守川さんから母さんのことを聞いただろう。だとしたら、僕がみっともなくあいつらに泣きついても、きっと受け入れてくれるんじゃないか。

 登校日の放課後は、みんな夏休み明けにある研究発表会の準備をしている。三人は揃って会場の飾り付けを担当していたはずだから、他の担当者と一緒に体育館にいるはずだ。


 すぐに移動したが体育館のコートには誰もいない。もしかして舞台の幕の中か。そう思って中に入ったけど、やはり誰もいない。

 その時、幕の向こうから女子たちの声が聞こえた。幕の端から覗いてみると、三人と他に数人の女子が、段ボールや丸めた模造紙を持って体育館に入ってきた。段ボールの中から色々と取り出して作業を始めた。

 この状況で舞台から出て、人のいない所に三人を連れ出すのはさすがに無理がある。しばらく様子を見ることにした。三人は手際よく作業を進めているが、雑談ばかりしている女子もいる。特に大沢、まじめにやれよ。


 まずいことに雑談は、気になる男子が誰かという話になった。これでもう、女子たちが解散するまで僕はここから出られない。人気がある数人の男子の名前が出た後、大沢が僕の名前を出した。


「千宝ってどう思う?」

「千宝? チビだし、大人しくて教室だと空気だね。空気の読めないヤツよりマシだけど」

「ああ見えて、結構行動力があるんだよ。あたし前に助けてもらったことがあるんだ」

「何があった?」

「先月の終わり頃に駅前で中学生にからまれてさ。そしたら、通りがかった千宝がそいつらをあっさり追い払ったんだ。びっくりした」

「ええ~っ。うそ!」

「またからまれたらイヤだから、千宝の用が済んで病院の方へ帰るまで一緒にいてもらったんだ。千宝のお母さんは病気で入院してて、千宝はお母さんに必要なものを買いに来てたんだって」


 大沢はまなみに話を振った。


「優祈も、だいぶ前から仲がいいんだよね。お母さんのこと、知ってた?」

「……うん」


 俺と親友の関係を、恋バナなんかに巻き込むな。


「千宝って、クラスの男子みたいにバカでスケベじゃないよね」

「そうかしら」


 おい一華。僕が褒められてるんだから否定するなよ。友だちだろ。


「わたしと話をしている時に、顔じゃなくて胸を見ていることがある」

「あたしも短いスカートのときは、目が下を向いてたりとかある」


 やっぱり気付かれてたのか。でもこんな風に他人に言えるなら、そんなに傷ついて無いってことだよね?


「まあ、男なんだからそのくらいあるよ」


 大沢にフォローされた……。


「シャワーを浴びてて、裸を見られた」

「ええっ、何処で」

「それって犯罪じゃないの」

「いや、わざとじゃない。アタシがいたのに気付いてなかった」


 故意じゃないと分かっているなら、こんな所で言わないで欲しい。罪を憎んで人を憎まずって言葉を知らないのか。


「でもさ。千宝は女の子と付き合ったら、相手のことを大切にすると思う。だましたりもしない。セイジツっていうのかな」


 嬉しいことを言ってくれるじゃないか、大沢。敵だとか思って悪かったな。ここは僕の親友が三人もいるんだから、少しぐらい僕を持ち上げてくれてもいいんじゃないか。


「何も知らないくせに」


 一華が不機嫌そうに言った。


「何を知らないっていうのよ。歩原」

「……千宝だって嘘をつくよ。相手がその嘘に気付かないほど上手にね」


 え?

 僕は一華の言ったことが理解できなかった。


 僕は一華たちに絶対嘘をつかないと約束して、一華たちは他人に僕が嘘をついたことを言わないと約束した。親友との約束は、僕にとって絶対に守らなければならないものだ。でも今、一華はその約束を破った。こんなどうでもいい雑談の中で。


「びっくりするぐらい、自然に嘘をつくよね」

「でも。それは人を傷つけるためじゃないんでしょ」

「アタシが千宝に嘘をつかれた時は、かなりショックだったよ」


 まなみと陽向まで僕との約束を破った。三人が約束を破るわけがない。そう信じていた僕は、自分の価値観がひっくり返ったように感じた。あまりに予想外だったので、現実のこととは思えなくなってきたほどだ。


「それに千宝には、女の子よりお母さんの方がずっと大事なんだから」

「えっ、やだ。マザコンなんだ」

「お母さんのためにそこまでするのって、そう思うことはあるかな」

「母親より自分を優先して欲しいと思うなら、千宝と付き合うのはあきらめた方がいい」


 ……マザコン? 僕が?

 僕が今、こんなに苦しんでいるのは、お母さんの死におびえて泣きそうになっているのは、僕がマザコンだからなのか。

 そんな言葉で済ませられるものなのか。

 三人とも僕をそんな風に思っていたのか。


 これ以上もう何も聞きたくない。僕は幕をくぐって舞台から跳び下りた。それが誰なのかに気付いた彼女たちは、全員黙ったまま僕を見つめた。


「隠れていたみたいでごめん。ここで探し物をしてたんだ。でも、そんなモノは元々なかったんだ。今、気が付いたよ」


 彼女たちの視線を浴びながら、僕は体育館の出口に向かって歩き始めた。誰にも視線を合わせず進行方向だけをにらみつける。

 出口まであと数歩のとき、何言わずに逃げるのかと、まだ残っていた自尊心のカケラのようなものが僕の足を止めた。


「僕は、スケベで嘘つきでマザコンだけど、絶対に……」


 そこまで言って、声が震え出すのを感じた。もう限界だ。また歩き出して上履きのまま体育館を出た。通路との段差につまずいて柱につかまると、足元のコンクリートにポタポタと水滴が落ちた。僕は泣いていたのだ。『まばたきをしないと、泣いても視界がにじまないんだな』という、どうでもいいことが頭に浮かんだ後に、僕は自分が泣きながら体育館を逃げ出したのだと気付いた。

 恥ずかしさと悔しさで、全身に一気に熱くなる。僕はそのまま校門から外へ走り出した。息が切れ、歩くほどの速さになっても僕は止まらなかった。どこでもいいから遠くへ行きたかった。携帯も他の荷物も置き忘れていたが、学校に戻る気にはならなかった。

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