十九話 「入院」
母さんの容態が悪くなった。ここに引っ越してきた直後に手術をしてから、母さんの調子は良くなっている。僕はそう思っていた。確かに難しい病気だけど、治った人がいないわけじゃないのだ。母さんはしばらく入院することになった。
母さんがいなくなって、家事は僕がすることになった。峰子さんが任せなさいと言ったけど、何かしていた方が気が紛れていい。最近はもう、一華とまなみが来ることはなくなって、時間は余っている。母屋で寝泊まりするのも断った。
ただ、しーんと静まった家で一人だけで寝ていると、ここにもう母さんが戻ってくることはないんじゃないかと不安になる。空気が重くなったようで胸が苦しくなる。
「千宝さん。ちょっといいかな」
一華が僕を呼んだ。5年になって、僕と三人は全員同じクラスになった。確率としては約64分の1なので、僕たちの関係が昔と同じだったら、みんなで大喜びしていただろう。教室ではみんな僕を『ドゥクス』ではなく『千宝さん』と呼ぶ。それは変わったわけじゃないけど、なんとなく寂しい気がする。
「次の日曜日って、千宝さんの誕生日よね。みんなでお祝いしてもいいかな」
おおっ。なんて嬉しい言葉だ。もしかして今までの人生で最良の誕生日になるかも。次でまだ十一回目だけど。
「もちろんだよ。ありがとう。すごく楽しみだ」
何だか少しうるっときて、恥ずかしくなった僕は下を向いてごまかした。
深夜に峰子さんが僕の家に駆け込んできた。その姿を見た途端、僕は心臓を刺されたように感じた。
「病院に行くわよ。早く準備して」
病院に着くと、母さんの緊急手術が始まっていた。三時間ほどで手術は終わった。僕は母さんのベットのそばで母さんが目覚めるのを待った。
「ごめん。母さんの調子が良くなくて。本当に楽しみにしてたんだけど」
「そう……。いいよ、気にしないで。お母さんと一緒にいてあげて」
「ありがとう。本当にごめん」
僕は電話で、一華たち一人ずつに、誕生祝いに出れないことを謝った。すごく申し訳なかったけど、母さんが目覚めたことの安堵感の方が強かった。
昼過ぎまで母さんのそばにいた後、母さんにプリンターのインクを買ってきて欲しいと頼まれた。たぶん峰子さんと話したいことがあって、僕にしばらく席を外して欲しいんだろう。
もちろん、そんなことは思っても口には出さない。笑って病室を出た。
インクは携行用の小型プリンターのもので、大型の量販店でないと売っていない。駅前を歩いていると、同級生の大沢が中学生に絡まれていた。大沢は優祈ほどではないが可愛い子で、クラスの男子にも優祈の次ぐらいに人気がある。
「大沢さん。買い物はもう済んだの? お父さんが探してたよ」
大沢は、え? という顔をして僕を見た。
「何だ、お前? どこのガッコだ?」
「おい、コイツ。守川さんの」
僕に絡んで来ようとした中学生を、別のやつが止めた。よく見ると守川さんが卒業した中学の制服だ。前にまなみたちと一緒に守川さんの中学へ文化祭を見に行ったとき、守川さんが僕をみんなに『コイツは俺の友だちで恩人だ』と紹介したことがあったけ。
「守川さんの後輩の方ですか。千宝といいます。僕のことは守川さんに聞けば分かります」
中学生たちは、何も言わずにその場を去った。
「あたしのお父さんに会ったの?」
「いや。大沢のお父さんが近くにいると思ったら、あいつらはいなくなるんじゃないかと思って」
「……ああ、そうなんだ」
「また会わない内に、帰った方がいいよ」
「千宝は何しにここへ」
「買い物だよ。そこの家電店」
「それから?」
「病院に戻るけど。駅南の」
「家はその病院の近くなの。怖いから一緒について行っていい?」
もし僕にこんな彼女ができたら、一華とまなみは僕のことを彼女持ちの安全パイだと思うようになって、また元の関係に戻れないかな。僕は大沢と歩きながら、大沢にとって失礼なそんなことを考えていた。
ついでに大沢の買い物にも付き合うことになったが、小物一つ買うのにこんなに歩き回るものかと驚いた。
「知ってる? 優祈って、大人しそうに見えて結構乱暴なのよ」
なんだ。まなみのことを悪く言うヤツなのか。だったら大沢は敵だ。僕の気持ちには気づかず、大沢はそれから学校でよく話しかけてくるようになった。
母さんの容態が安定した。もう毎日通わなくて大丈夫だろう。久しぶりに陽向を家に呼んだ。陽向は、前より少しよそよそしくなったように僕は感じた。ちょっと間が空いたせいか、それとも誕生日のドタキャンのせいか。
トレーニングが終わった時、僕の携帯が鳴った。病院の峰子さんからで、洗い物を取りに来てほしいとのことだった。
「先にシャワーを浴びて。僕が遅くなったら待たずに帰っていいよ」
病院では思ったより時間がかかった。玄関から入ると陽向のスニーカーはなかった。洗濯物を持って、洗濯機のある脱衣所の戸を開ける。
裸の陽向がいた。
玄関に陽向の靴はなかった。
シャワーを浴びろと言ってから一時間以上経っている。
陽向が彫像のように動かない。
僕の記憶にある薄着だった頃の陽向はもっと男っぽかった。
こんな妄想をするほど、僕は欲求不満なのか?
「そんなに見……」
陽向の口が動き、その声が聞こえるのと同時に、僕は洗濯物を投げ捨てて両手で戸を閉めた。その後、服を着て出てきた陽向に、土下座して必死に謝った。
「ごめん。本当にごめん。言い訳になるけど、玄関に靴がなかったし、あれから一時間以上たっているから、まだいるとは思わなかったんだ」
「頭を上げてよ。気にしなくていいから。あれからまたトレーニングを続けて、オレは縁側から上がったんだ」
間違えて戸を開けたとしても、普通ならすぐに閉めるだろう。僕が陽向の裸を見ようとした。そう彼女に疑われても仕方がない。僕は陽向とそれまでのようには話せなくなった。
母さんの容態がまた悪くなった。昏睡状態になって、そのまま目覚めない。それ以降、僕は学校にいる時以外は病院にいる。父さんも仕事を休んで、病院に付属している宿泊施設に泊まっていた。そのことで母さんの状態がいかに良くないかが分かった。
僕は何も考えられず。ただ学校と病院の間を往復していた。やがて夏休みに入り、僕は病院とその周辺をうろうろするだけの生活になった。
「和真!」
強い口調の呼び声に振り返ると守川さんがいた。ここは病院の近くにある公園のベンチだ。
「何やってんだよ、お前。まなみを悲しませないんじゃなかったのか」
「まなみが……、何かあったんですか」
「何かじゃねえよ。ここんとこずっと落ち込んでるだろうが」
「そうなんですか」
守川さんは、いぶかしげな顔になって僕を見た。
「どうしたんだ、和真。何かあったのか?」
僕を気遣うような口調に、張り詰めていた僕の心がゆるんでくる。
「すみません。何というか、今……、僕……、気持ちに余裕が無くて、色々できなくて」
守川さんは何も言わずに僕の隣に座った。
「母さんが、病院でずっと目を覚まさなくて……。昔から病気だったんですけど、それがだんだん悪く……」
話している内に涙がにじんできて、僕はこぼすまいと何度もまばたきした。
「まなみたちには言ってないのか?」
「母さんが寝たきりだって言ったら、あいつらは大丈夫なのって聞くでしょう。そしたら何て言えばいいんですか?」
「そりゃあ……」
口ごもった守川さんに、僕はわざと明るい口調で言った。
「きっと、もうすぐ目を覚まします。また元気になって、家で溜まった仕事を始めますよ、母さんは」
「……和真」
「でも……まなみたちにはそう言えない。約束したんです。あいつらに絶対嘘はつかないって」
「……」
僕はゆっくりと立ち上がった。
「まなみたちには、守川さんから伝えてください。お願いします」




