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十七話 「ドゥクス」

 この半年ほど、僕はとても忙しい。


 歩原と将棋を指すだけでなく、歩原との対戦に特化させた将棋ソフトを改良しなくてはならない。

 優祈が発表する曲の動画を、優祈と相談して作らなくてはいけない。

 さらに、もうすぐ退院する常雷のために情報を収集している、リハビリプログラムもまとめなければならない。


 忙しいと言っても、どれも好きでやっていることだ。ネット将棋でのレーティングがどんどん上がっている一華との対局や、曲が動画サイトでランキングを上げているまなみに協力しての作品作りは、彼女たちの才能のおかげで自分がしていることの成果が出やすいから、楽しくてしょうがない。


 一華には使っていないノートPCを貸してやり、自宅でもネットでの対局ができるようにした。僕とお互い自宅でネット対局することもある。まなみはお姉さんのPCを貸してもらい、家でも作品作りを進めている。僕以外の人から、素材を提供してもらうこともある。


 常雷のためのリハビリプログラムは、彼女の運動能力を回復させるためのものだ。海外のネットからも情報を集めているが、脳外科手術後のリハビリに限定するとあまりバリエーションがないので、広く一般に渡って収集することにした。

 どのようなプログラムで効果が出るのかは個人差があるようなので、常雷には妥当と思われるものを順に試してみて、最も高い効果のあったものを選ぶつもりだ。この年頃は最も調整力が伸びる世代なので、上手くやれば平均以上の運動能力が得られるはずだ。

 常雷に試すプログラムは、まず自分の体で試して効果を数値で確認する。僕の調べた内容に誤りがあったとしても、これである程度は修正できる。




 常雷が退院してから4日。退院後も定期的な検査は必要だが、手術前にあった運動機能の問題はほとんど回復していて、通院してのリハビリは不要とのことだった。日常の運動についても特に制限はない。

 歩原や優祈と共に初めて僕の家を訪れた常雷は、少し緊張している様子だった。


「千宝さん。よろしくお願いします」

「さんづけは止めてよ。まあ気楽にして。歩原や優祈もいるんだから」

「はい。あ、うん」


 体を動かしていれば、その内この堅苦しさも取れるだろう。そう思って最初の運動能力テストを行った。このテストでのデータを基本値として、改善具合を判断する。僕も事前に同じテストをやってみたが、その数値は退院直後の常雷と比べてもがっかりするものだった。リハビリが必要なのは僕の方か?


「最初は色々なトレーニングを試してみよう。このトレーニングでは、単に体を動かすんじゃなくて、自分の体がどんなふうに動いているかを常に意識して欲しい。集中力が切れたらそこでトレーニングは終了だ」

「はい」

「脳の働きというのはまだよく分かっていないことも多いけど、動物実験で幼い個体から小脳を全部取ってしまってもほとんど行動に障害が起こらないんだ。人間の脳はもっと複雑だけど、部分的には小脳に問題があってもそれを大脳が補うこともできるんだと思う。わかる?」

「なんとなく」

「意識して行動するときは大脳と小脳が協力し合って働いて、繰り返すと小脳が学習して大脳の協力なしに早く動かせるようになる。何度も練習して体がスムーズに動くようになるのは、ほとんど小脳だけで処理されている場合だね。そこに意識した行動が加わると、例えば手の位置をちょっと変えるとかだね、早い処理の中に遅い処理が混じるから、動きがぎごちなくなる」

「……」

「だから、頭で考えるのは動き全体のイメージで、後は小脳や大脳でも小脳に近い部分に任せた方が体の動きは良くなる。でもこれから行うのはあくまでトレーニングだから、大脳にもしっかり頑張ってもらうことになる。ぎごちない動きになっても気にすることはないよ。分かった?」

「ぎごちない動きでも気にしなくていい、というのは分かった」

「……そうか、じゃあ始めよう」


 トレーニングを始めてみると、常雷の集中力は半端のないものだった。比較の対象が僕なので、僕の集中力がなさすぎるだけかもしれないが。トレーニングはやり過ぎるのも良くないので、僕が注意して度を超さないように管理する必要があるな。



「今日はここまで」

「ありがとうございました」

「まだ返事が固いなあ」

「ごめん」

「謝らなくていいよ。考えてみれば、体育系の部活って生徒同士でもこういう返事だよね。トレーニング中はこんな感じでもいいか。先にシャワーを使って、終わったら教えて」

「いえ。先に使ってください。一華やまなみが話をしたがってると思うから」

「じゃあ、遠慮なく」


 シャワーから出て常雷と代わる。


「おまたせ。歩原は……ネットで対戦中か。優祈。曲の方はどう?」

「この辺がちょっと退屈かな」

「動画の動きが足りないからかな。優祈はどう思う」

「これをもっと大きくして、縦に動かしたら」

「こんな感じか?」

「ん~。やっぱり曲の方もちょっと。千宝さんならどうする?」

「僕だったら、ん・んん・ん、じゃなくて、んん・ん・ん、かな」

「じゃあ、その後のところは、んん・んーん・ん、にした方がいいね」

「動画の方も、前後をもう少しいじってみるよ」


 しばらくすると、歩原が僕に声をかけてきた。


「あの局面から、もう投了? だったら僕と指してみる?」

「まなみとの分は?」

「すぐには終わらないから、後で完成させるよ」

「あたしも、もう少し考えてみたいから」

「じゃあ、やろうか。この前、歩原に勝ったパターンを改良してみたんだ」

「お願いします」


 僕は最近、出会った頃より、歩原に対して女の子だということを意識するようになってきた。彼女の胸が大きくなってきたからだろうか。


「ヒナとのトレーニングは、どんな感じ?」

「常雷の集中力はすごいな。単純な動きの繰り返しなのに、一度始めたら僕が声をかけても気付かないくらいだ」

「そうなんだ。通知表にはいつも『落ち着きがない』って書かれてるヒナがねえ」


 常雷がシャワーを終えて部屋に入ってきた。


「千宝さん。最近オレの家に来ないよね」

「ああ、そうかな」

「父ちゃんや母ちゃんが寂しがってるよ。家に来るのが嫌?」

「嫌というわけじゃないんだ。でもあんなにいつまでもお礼を言われると、ちょっと気まずいかな」

「ヒナちゃん。千宝さんは感謝されるのが苦手なのよ」

「苦手じゃないよ。すごく嬉しいよ。そのために頑張ってるといってもいいぐらいだよ。でもそういう感謝の気持ちは、僕が何かした時にやり過ぎない程度に示してもらえば、後は心の中にしまっておいて欲しい」

「わかった。父ちゃんと母ちゃんには言っておくよ」


 みんなが揃ったところで、気になっていたことを聞いてみた。


「どうしてみんな、僕のことを千宝『さん』って呼ぶんだ? 僕はみんなの名前を呼び捨てにしてるのに。僕だけみんなから距離を置かれてるみたいで寂しいよ」

「あの……。そんなつもりじゃないんです」

「千宝って呼ぶのは、先生を呼び捨てにするより言いにくいかも」

「常雷なんて、最初に会った時は呼び捨てだったのに、今は何で『さん』付けなんだよ」

「呼び捨てはちょっと……。千宝さんはオレたちより大人だから」

「大人? そうかな。どんなところが大人だと思う?」

「え~と……。そうだ! 平気で嘘をつくところ」


 おいおい。それはないよ、常雷。


「ああっ、そう言われたら。初めて会った頃は、何言ってるんだろうこの人って思った」

「よく分かる。すごく自然に言うから、あたしも最初はびっくりした」

「オレなんて馬鹿だから、千宝さんがその気になれば百回だまされても気が付かないよ」

「わたしたちだって、同じようなものよ」


 ええ! みんな本気で言ってるの?


 僕はみんなの前で色々と嘘をついたけど、それは誰かを傷つけたり、自分に都合の悪いことをごまかすためじゃない。世の中には、嘘を言った方が物事がスムーズに進むこともある。彼女たちにはそれが分かって貰えていると思っていた。

 嘘をつくのは良いことか悪いことか、そう聞かれたら小学生の僕たちは間違いなく悪いことだというだろう。いつもそう教えられているからだ。僕のつく嘘に大人でさえだまされるのは、子どもというのはその場しのぎで嘘はついても、先のことを色々考えてまで嘘はつかないと思っているからだ。


「名前を呼び捨てにするのに抵抗があるなら、あだ名で呼ぶのはどうかな」

「千宝さん。気に入ってるあだ名ってある?」

「特にないよ」


 苗字が『網矢』だった時は、それをもじってアミーゴって呼ばれたことがある。スペイン語で『友だち』という意味だ。でも今は苗字がちがうからね。


「嘘をつくのが上手いから、嘘で有名だった人の名前からとるとか」

「やめてくれ! あだ名だけじゃなく、僕が嘘つきだと思わせるようなことを他人の前で言うのは勘弁してくれ。僕が嘘つきだって噂が立ったら、今までみたいな人助けの嘘も通用しなくなるんだ。みんなも僕の嘘で助けられたことはあるよね。僕が嘘をつけなくなって困ることが、これからもあるんじゃないか」


 僕は本気で焦っていた。


「今後僕は、ここにいる三人に絶対嘘はつかない。それを約束する。その代りみんなも、僕が嘘つきだって話は絶対にしないって約束してくれ。この約束を破ったら、僕たちはもう友だちじゃない」


 僕の真剣さが分かったようで、みんなまじめな顔で答えてくれた。


「わかった。約束します」

「あたしも約束する」

「オレも約束するよ。絶対に破らない」

「ありがとう。嘘はつかないって言ったけど、何でも聞かれたら全て話すというのは無理だから、そういう時は嘘はつかずに話せないって言う」


 一時はどうなることかと思ったけど、これで安心だ。


「それから僕のあだ名だけど、みんなで決めてくれないか」

「いいのか?」

「ここには僕の一番の友だちが揃っているんだから、そうして欲しい」

「じゃあ、みんなで相談するね」

「僕がいると決めにくいかもしれないから、向こうで本を読んでるよ。決まったら教えて」


 どんな名前になるのか気になって、最初は本を読み進められなかったが、いつまでたっても三人は来ない。ようやくみんなが僕のところに来たときは、本の内容に集中していた。時計を見ると二時間以上経っていた。


「決まりました。千宝さんのあだ名は『ドゥクス』です」


 ドゥクス? どうしてそうなったんだ。人前で呼びかけられたら、ちょっと恥ずかしいかも。


「言い難くないか?」

「……だめかな」

「そうじゃないけど。どういう意味を聞いて良いか?」

「千宝さんは行動的で英語が得意だからドゥ」

「ああ、Doだね」

「ヒナの家の近所にドゥって犬がいて同じだといやだから、イニシャルのKSを付けてドゥクス」


 色々考えてくれたんだな。みんながそれでいいというなら、ありがたく拝命しよう。


「みんなのことも、あだ名で呼んだ方がいいかな?」

「わたしたち、あだ名で呼び合ってないから……。じゃあ、わたしたちがお互いにしてるみたいに、苗字じゃなく名前で呼ぶようにして欲しい」

「分かった。……一華、……まなみ、……陽向」


 僕が慣れない様子で名前を呼ぶと、一人ひとりがうなずいて笑ってくれた。

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