一話 「罵倒」
僕、網矢和真が高校進学とともに小見町に戻ってきて三ヶ月になる。今日はいつもより三十分早く家を出た。登校前に千宝家に立ち寄って峰子さんに会うためだ。峰子さんは僕が小5の時に病気で死んだ母のお母さん。つまり母方の祖母に当たる人だ。初めて会った時はまだ五十前で、実際にはそれよりずっと若く見えた。
「おばあちゃんだけど、おばあちゃんじゃないね」
「だったら、峰子さんと呼んでちょうだい」
僕もその方がいいと思ったので、それ以降僕は彼女のことを峰子さんと呼んでいる。峰子さんの家は三百年以上続いた旧家の大きな屋敷で、身内である僕はいつも勝手口から入っている。高い土塀で囲まれた敷地内には不自然に空いた場所がある。四年半前までは、ここに母さんが死ぬまで僕と暮らした離れがあった。
僕が屋敷に入ったとき、峰子さんは縁側で新聞を読んでいた。僕が歩み寄る前に峰子さんは僕に気が付いた。
「峰子さん。これ、今月分です」
「はい、ご苦労様」
父さんから預かった現金の入った封筒を渡す。このお金は母さんの治療のために掛かった費用の支払いだ。峰子さんは父さんに必要ないと言ったけど、父さんはこの家との縁を残したいと言って二十年の分割払いで返すことにした。
「学校はどう? 楽しんでる?」
「部活の方は、まあ思った通りです。高校に風津を選んでよかったと思ってます」
「あの子たちとはどう? みんな同じ学校なんでしょ」
「どうって言っても……。ほとんど話をしてないから」
峰子さんの表情が少し曇った。
「やっぱり、まだ許せないの?」
「え? いやいや。単に話す機会がないだけですよ。苗字が変わって背もかなり伸びたから、向こうは僕のことが分からないんじゃないかな」
「そうかしら」
分かったからといって話しかけてくるとは限らないけど。
「和真はあの子たちのことを恨んでないと言える?」
「確かに、あの時はすごく悔しくて許せないと思っていたけど、時間が経ってみれば彼女たちがあんな風に言った気持ちも分かります。自分の中ではもう整理ができています」
「もう一度聞くけど、本当にもう恨んでないのね? 綾香の名前に誓ってそう言える?」
懐かしい言葉だ。神様なんかに誓っても意味がない。子どもだった僕がそう言ったとき、峰子さんはそれなら母の名前にかけて誓えと言ったのだ。
「母さんの名前にかけて、僕は本当に彼女たちを恨んでいません」
弁当を食べ終わって僕は私物の小説を読んでいた。昼休みの僕はコンピュータ部で部長の仕事を手伝っていることが多いが、用のない日は窓際の自分の席で本を読んでいる。朝の峰子さんとの会話を思い出し、教室の後方の席にいるだろう常雷陽向の姿を探した。
彼女は思った通り自分の席に居て、その横に立つ二人のクラスメートと談笑していた。一人は常雷と同じ柔道部の女子だ。常雷はクラスメートの誰とでも男女を問わず気さくに話をするタイプだが、僕は入学直後に彼女に話しかけて無視されたことがある。他のことに気を取られていた彼女が僕の声を聞いていなかった可能性もあるが、過去にあったことを考えると本当に無視された可能性もある。僕はそれ以降、彼女に話しかけるのをためらうようになった。
常雷と話していた二人が何かに気付いた様子でその場から離れた。教室に同じ一年でクラスの違う歩原一華と優祈まなみが入ってきたからだ。彼女たちはいつものように常雷の席に向かった。周囲の席の生徒も、自分の席から立ち上がってその場を離れていった。
彼女たちが他の生徒から嫌われているわけではない。むしろ逆で、三人はいずれも中学の時から周りに才能を認められ一目置かれた有名人だ。容姿にも際立ったものがあるから、みんな彼女たちが揃うと近寄りがたいものを感じるのだろう。
歩原は将棋の棋士で、女性では全国でも数少ない奨励会1級の腕だ。
優祈は動画サイトで多くの曲を発表していて、商業配信された曲もある。
常雷は柔道の選手で、中2の時に全国大会でベスト4に入っている。
優祈は小学校の時から他校にも知られるほどかわいいと有名だった。今も三人の中では最も男子に人気がある。小学生の頃の歩原はどちらかというと地味な存在と思われていて、常雷は男と間違えられるぐらいだったが、今では「三美人」と呼べばほとんどの生徒が彼女たちのことだと分かるほどだ。単に容姿だけでなく、表情から感じる意思、振る舞いから感じる行動力、そういったものが彼女たちから伝わってくる印象を際立ったものにしている。
三人と僕は小学校で同級生だった。かなり親しい関係だったことは彼女たちも否定しないと思う。あの頃と比べて、僕は彼女たちにずいぶんと差をつけられた。彼女たちには才能があり、それを十分な努力で伸ばしたのだ。僻む余地のない当然の結果と言えるだろう。
「網矢。コンピュータ部なのに三次元にも興味があるのか」
後ろの席の八田が僕に話しかけてきた。
「何だよ、その偏見は。あれだけの美人が3人も、毎日一緒にいるのって珍しい光景だろ。それぞれ取り巻きとかと一緒にいるのが普通じゃないか」
「毎日? たまにしか来てないぞ」
あれ? 僕には二人が来なかった日に覚えがない。まあ、昼休みになると僕はたいていコンピュータ部に行ってるから、たまに教室にいる日と彼女たちが来ていた日が重なっただけか。
土日はPC相手に一人で過ごして、次の月曜日を迎えた。登校して席に着き、いつものように私物の小説を読み始める。ふと本から目を離すと、前の席の生徒たちが振り返って僕の方を見ている。その視線を追うと僕の横に常雷が立っていた。緊張した顔で僕を見下ろしている。
「常雷さん? 何か」
常雷は何かを言おうと口を開けるが、ためらうようにまた閉じてしまう。それを何度も繰り返した後、ついに僕に向かってはっきりとこう言った。
「嘘つき。マザコン」
そう言った途端、自分の言葉に驚いたかのように常雷は自分の口を押えた。その目に、みるみる涙が溜まっていく。彼女は突然身をひるがえすと、走るように教室を出て行った。
残されてしばらく唖然としていた僕は、やがて周囲からの好意的ではない視線とひそひそ声に気付いた。授業が始まっても常雷は戻らず、泣き腫らしたように赤い目をした彼女が戻ってきのは一時間目がもう終わろうかという頃だった。周りからの僕への視線と声は、先生から注意される生徒が出るほど遠慮のないものになった。
昼休みになると、僕は皆からの視線を避けるようにすぐ教室を出てコンピュータ部の部室に向かった。
この学校では生徒の全成績を、例えば問題ごとの正否といった詳細なデータベースに収め、それをこの学校独自のアプリで解析して各生徒に提供している。それはこの学校の偏差値がこの地域の最上位となった理由の一つになっている。
そのアプリを開発し改良したのがこのコンピュータ部の歴代部長たちで、現在もそれは続いている。もちろん、データと個人を結びつけるための情報は学校と契約したIT業者と担当の教師にしかアクセスできない。その業者の経営責任者は歴代部長の一人であったりするわけだが。
つまりわが校のコンピュータ部では、実力があれば十分な予算を割り当てられたクラウドサービスと数十万はする開発環境が使え、それで最新の業務ソフトを開発できるのだ。僕がこの高校を選んだ最大の理由がこれだが、それだけのスキルを持った生徒はこの部にも多くない。僕と部長を除けば一人か二人だ。
入部には、情報漏えいに関する誓約書へのサインと、部長たちが作ったテストでの合格が必要で、単にネットを見たりゲームをしたいだけの入部希望者を排除している。
それでも、入部してしまうとそんなことばかりしている部員が少なくない。そういう部員を退部させないのは、人数に比例して増え雑費として使える部費を確保するためだ。
僕がよく利用している開発者フォーラムで、質問者に対するアドバイスを英文で書き込んでいると、部室のドアがやや乱暴に開く音がした。僕だけでなく他の部員たちも注目する中、そのドアからまず歩原が、続いて優祈が部室に入ってくる。誰も予想していなった美女二人を部室に迎えて部員たちからざわめきが上がる。
二人は部長の席に歩み寄った。コンピュータ部の部員は学業では優秀な生徒が多いが、コミュニケーション能力、特に女性に対するそれは軒並み低い。コミュ障と言ってもいいほどだ。それは部長であっても例外ではなかった。
「こんにちは。わたしたち、入部希望者です」
部長は上手く言葉を返せない様子だった。仕方がないので僕が代りに説明する。
「ここに入部するには、テストに合格する必要がありますよ」
すると歩原はこちらを見ることなく言った。
「この部では、入部許可を出す権限が部長ではなく入部したばかりの一年生にあるんでしょうか」
「……いえ。余計な口を挟みました。すみません」
二人は無事テストに合格し、翌日から毎日部室に現れるようになったが、代わりに部員の半数以上が出てこなくなった。美女二人が入部したのだから一般的には歓迎すべき状況なのだが、男性向けサイトを観賞したり女の子と仲良くなるゲームをしていた部員にとっては、居心地が良くなったとは言えない状況だ。
部員はそれぞれ入部時に自分の学習テーマを決める必要がある。テーマは複数でもいいし、後で変更しても構わない。歩原は棋譜のデータベース構築と検証、優祈はコンピュータによる音楽表現をテーマとした。
「網矢さんは、何をテーマに選んだのですか?」
歩原が僕に尋ねた。
「幾つかあるけど」
「すぐに答えられないのは、実際にはどのテーマにも取り掛かっていないからですか」
「……今は暗号解読の技法による最少処理ステップ数の限界推定かな」
「それは何の役に立つのでしょうか」
「僕が思考ゲームとして面白いと思うだけで、特に何かの役に立つわけじゃないかな」
「役に立たないことに時間と労力をかけられるなんて、責任の無い学生だからこその特権ですね」
どうしてこんなに攻撃的なんだよ。歩原。
「役に立たないテーマばかりじゃないでしょう。ね?」
優祈も僕に話しかけてきた。これはフォローのつもりなんだろうか。
「クリエイター向けの画像処理とかもやってるよ。ペンタブの手書き画像から3Dデータを生成するアプリ。利用者の行った加工処理の履歴を学習して、手書き画像からの変換に必要な工数を削減するんだ」
「その手の便利ツールって、作者のオリジナリティが上手く残らず出てくるのは似たような画像ばかりというものが多いですね。網矢さんが作られているのは、もちろんその程度のものじゃないですよね。期待してます」
「……努力します」
「努力しても、結果がでなければゴミと同じですよ」
「……」
二人とも、小学校の頃と変わっているのはともかく、最近の噂で聞くキャラともずいぶん違うんじゃないか。僕だけ特別扱いなの? 悪い方に。どう考えても二人は僕が小学校で同級生だった千宝和真だと気付いてるよね。ここまで嫌われるような覚えはないけど。
二人からの辛辣な言葉は、この後何度も繰り返された。僕が気に食わないというなら、せめて無視してくれないか。