「色ガラスを切って遊んでいるだけの婚約者はいらない」と捨てられました。なので王都大聖堂の薔薇窓を、自分の工房名で修復します。元婚約者の工房が作った見本は、最初の寒波でひび割れました
「色ガラスを切って遊んでいるだけの婚約者はいらない」
冬至祭を二週間後に控えた夜会で、アーノルドはそう言った。
王都大聖堂の鐘が遠くで鳴っている。
大広間には何百本もの蝋燭が灯り、磨かれた床に光が揺れていた。
その中央で、五年間婚約していた人は私ではなく、隣に立つ伯爵令嬢ヴィオラを見ている。
「セレナ。私はいずれ侯爵家を継ぐ。妻には社交界で家を支えてもらわなければならない」
「はい」
「君は夜会より工房を優先する。いつ会っても指に小さな傷があるし、袖から煤の匂いまでしている」
私は右手を見る。
人差し指に、小さな絆創膏が巻かれていた。
昨日、薄いガラス片で切った。
「ヴィオラなら、そのような仕事をする必要もない」
ヴィオラ嬢は困ったように目を伏せた。
彼女を責める気はなかった。
アーノルドが何を望むかは、彼自身の問題だ。
「分かりました。婚約を解消いたします」
私が答えると、アーノルドは少し驚いた。
「……それだけか?」
「ほかに何を?」
「五年だぞ」
「はい。ですから、きちんと終わらせます」
私は胸元の小さな鍵を外した。
「こちらもお返しします」
「何の鍵だ?」
「ベルナー商会の展示室です」
アーノルドの家は、王都最大級の装飾品商会を経営している。
三年前から私の工房もそこへ商品を卸していた。
教会用の色ガラス。
邸宅の窓。
小さな飾り板。
売るのはベルナー商会。
作るのは私たちの工房。
結婚すれば同じ家になるのだからと、工房名を前面に出さないことにも疑問を持たなかった。
今思えば、不思議だ。
「今後は通常の取引先としてお願いいたします」
「何だ、商売は続けるのか」
「条件が合えば」
「なら問題ない」
アーノルドは笑った。
「結局、君の工房もベルナー商会がなければ売れないのだからな」
私は鍵を彼の手に置いた。
「そうかもしれません」
その時点では、本当にそう思っていた。
私、セレナ・リュミエールは、色ガラス職人だ。
祖父の代から続く小さな工房で働いている。
色ガラスは、ただ綺麗な板を作ればいいわけではない。
窓になる。
だから、建物の一部として何十年も残る。
夏は熱くなる。
冬は冷える。
強い風も受ける。
大きな窓なら、自分自身の重さにも耐えなければならない。
色も重要だ。
同じ青でも、朝日と夕日では違って見える。
礼拝堂の東窓なら朝。
西窓なら夕方。
人がその窓を見る時間まで考える。
私はその仕事が好きだった。
婚約解消の翌朝。
工房へ行くと、見慣れない馬車が停まっていた。
王家の紋章。
中へ入る。
父と話していた男性が立ち上がった。
「おはようございます、セレナ嬢」
「レオン様?」
王立建築院の技師、レオン・ヴァルツ。
大聖堂や王宮の修繕を担当する建築技師だ。
二年前、礼拝堂の窓を納めたときに知り合った。
彼は職人に対して妙に質問が多い。
「この鉛の幅はなぜ違う?」
「この赤だけ厚いのは?」
「補修するとしたら、どこから外す?」
最初は面倒な人だと思った。
でも質問したことは必ず覚えている。
だから、仕事はしやすかった。
「今日は何のご用でしょう」
「仕事です」
レオンは筒状に丸めた図面を机に広げた。
描かれていたのは、大聖堂の正面。
中央に巨大な円形の窓。
王都で一番有名な薔薇窓だった。
「修復するのですか?」
「全面的に」
驚いた。
薔薇窓は百年以上前に造られた。
最近は細かな亀裂が増え、冬至祭の前後だけ立入区域を設けるようになっている。
「来年春から工事に入ります」
「大仕事ですね」
「その施工工房を公開選定します」
レオンが一枚の募集要項を出した。
参加資格は、王都または近郊で十年以上営業している工房。
私たちはぎりぎり満たしている。
「うちのような小さな工房でも?」
「規模では決めません」
「でも、あの大きさですよ」
「一工房で全部作る必要もありません。採用後に協力工房を選べます」
私は募集要項を読む。
提出するのは、実物大の一部分を再現した試験窓。
強度。
透光。
補修性。
色の再現。
そして価格。
「参加しませんか」
レオンが聞いた。
「なぜ私に?」
「あなたに作ってほしいから、と言えば規則違反になります」
「では聞かなかったことにします」
「助かります」
彼は笑った。
「正確には、二年前にあなたが作った北礼拝堂の窓が、修復後一度も調整を必要としていないからです」
「普通です」
「大聖堂では、その普通が一番難しい」
その言葉が残った。
応募工房は六つだった。
その中に、ベルナー商会の名もあった。
商会自身が工房を持っているわけではない。
複数の職人を雇い、大規模な装飾工事も請け負っている。
アーノルドが直接責任者を務めるらしい。
婚約解消から五日後。
現地説明会で顔を合わせた。
「セレナ」
「こんにちは」
「本当に参加するのか」
「はい」
「無理をするな。大聖堂だぞ」
「知っています」
「君の工房では炉も小さい」
「大きな一枚を焼く予定はありません」
「では、どうやって?」
私は笑った。
「競作なので秘密です」
アーノルドは少し不満そうだった。
昔なら全部話しただろう。
彼の家にも役立つと思って。
もう、その必要はない。
私は薔薇窓を毎日見に行った。
朝。
昼。
夕方。
晴れ。
曇り。
雨。
古い窓は、近くで見ると不揃いだった。
青の濃さも違う。
赤の厚みも違う。
鉛の線も完全な円ではない。
けれど、少し離れると美しい。
百年前の職人は、ガラス一枚ではなく、窓全体で色を作っていた。
「どうです?」
足場の下からレオンが聞いた。
「新しくしすぎない方がいいと思います」
「理由は?」
「古い部分が残るからです」
全面交換ではない。
使える部分は残す。
新しいガラスだけ透明度が高すぎれば、そこだけ浮く。
「わざと少し揺らぎを残します」
「欠陥に見えませんか」
「近くでは」
私は足場を一段下りた。
「でも、この窓は二歩の距離で見るものではありません」
大聖堂前の広場を指す。
「人が見るのは、あそこからです」
レオンはしばらく薔薇窓を眺めた。
「なるほど」
彼はいつもそうだ。
分からないと質問する。
分かれば、それ以上口を出さない。
アーノルドは反対だった。
分からないまま、
もっと明るく。
もっと派手に。
もっと高そうに。
と言った。
その違いを、私は婚約が終わってから知った。
試験窓は三週間かけて作った。
中心は青。
外側に赤と金色。
でも色より時間がかかったのは、ガラスを支える線だった。
大きな一枚にすれば美しい。
けれど割れたとき、全部交換になる。
私は細かく分割した。
傷みやすい外周部分だけは、さらに交換しやすくする。
父が図面を見る。
「線が多すぎないか」
「少し多いです」
「ベルナーの見本を見たか?」
「はい」
職人仲間から噂は聞いていた。
ベルナー商会の試験窓は見事らしい。
大きな深紅のガラスを中心に使い、金色の装飾まで入れている。
「見栄えでは負けるぞ」
「そうでしょうね」
「いいのか?」
「窓なので」
父が笑った。
「お前は母親に似たな」
「褒めています?」
「半分」
試験窓の提出日。
六枚が大聖堂の回廊に並んだ。
ベルナー商会のものは、本当に美しかった。
深紅。
藍。
金。
一枚の絵画のようだ。
見学に来た貴族たちからも歓声が上がる。
一方、私の窓は地味だった。
古い薔薇窓の色に合わせたので、新品らしい輝きが少ない。
アーノルドが近づいてきた。
「今からでも辞退した方がいいんじゃないか」
「なぜ?」
「比べれば分かる」
「何を比べるのです?」
彼は答えなかった。
その代わり、赤い窓を見る。
「大聖堂に必要なのは、ああいうものだ」
「そうかもしれませんね」
私は本当にそう思っていた。
結果は審査が決める。
私は、自分が良いと思う窓を出した。
それでいい。
最初の審査は透光。
次に振動。
そして補修試験。
指定された一枚を外し、同じ形のガラスへ交換する時間を測る。
私の窓は十二分。
一位だった。
ベルナー商会は四十二分。
大きなガラスを使っているので、一枚を外すために周囲も外す必要があった。
「実際には職人を増やせます」
アーノルドが説明した。
審査官は頷いた。
それだけなら致命的ではない。
選定結果は一週間後。
その予定だった。
ところが三日目の夜。
今年最初の強い寒波が王都を襲った。
朝。
工房へ向かっていると、レオンの使いが走ってきた。
「すぐ大聖堂へ」
嫌な予感がした。
回廊には、すでに審査官と職人たちが集まっていた。
試験窓の前へ行く。
一枚目。
問題なし。
二枚目。
問題なし。
ベルナー商会の窓。
中央の深紅のガラスに、白い筋が入っていた。
亀裂。
アーノルドが青ざめている。
「誰かが触ったのでは?」
「警備記録があります」
レオンが答えた。
「夜間に入った者はいません」
技官が枠を確認する。
「ガラスそのものではなく、固定部からです」
大きな一枚を強く固定しすぎた。
夜の急激な冷え込みで金属とガラスの動きに差が出て、逃げ場を失った力が中央へ伝わったらしい。
アーノルドは私を見る。
「君は知っていたのか」
「何を?」
「寒さで割れると」
「可能性はあります」
「ならなぜ言わなかった」
一瞬、意味が分からなかった。
「競作中ですよ」
「それでも!」
私は彼の窓を見る。
「私はあなたの工房の設計者ではありません」
アーノルドが黙る。
婚約中なら、きっと言っていた。
図面を見せてもらい。
気づき。
直して。
そして完成した窓は、ベルナー商会の商品になった。
それを当たり前だと思っていた。
でも今は違う。
私の試験窓にも、寒さの影響は出ていた。
端の一枚が、ほんの少し動いている。
でも割れていない。
固定にわずかな余裕を持たせていた。
百年前の薔薇窓にも同じ工夫があったからだ。
古い職人の癖だと思っていた。
違った。
百年残った理由だった。
最終審査。
採用工房。
リュミエール工房。
名前を呼ばれた瞬間、父が横で大きく息を吐いた。
私は前へ出る。
「採用理由をお伝えします」
審査官が言った。
「見た目だけなら、一位ではありませんでした」
少し笑いが起きる。
私も笑った。
「しかし、大聖堂の窓に必要なのは今年一番美しい窓ではなく、次の世代まで残せる窓です」
契約書が渡される。
施工主任。
セレナ・リュミエール。
工房名もある。
「協力工房は自由に選定してください」
「ありがとうございます」
署名した。
手が震えた。
半年後。
薔薇窓の工事が始まった。
一度に全部外さない。
区画ごとに。
使える古いガラスは残す。
新しいガラスには、新品らしく見えすぎないよう少し揺らぎを入れる。
レオンは毎日のように現場へ来た。
「そこ、青を一段暗くしました?」
「分かります?」
「毎日見ていますから」
「窓を?」
彼が少し黙る。
「……半分は」
「残り半分は?」
「後で言います」
「またですか」
仕事中は仕事。
彼はそこだけは頑固だった。
ベルナー商会とは、その後も取引した。
通常価格で。
正式な工房名を入れて。
アーノルド自身が契約書を持ってきた。
「前は、君の仕事を分かっているつもりだった」
「そうですか」
「いや」
彼は苦笑した。
「分かろうともしていなかった」
私は返事に迷った。
「今後、発注書に必要な条件を書いてくだされば十分です」
「相変わらずだな」
「仕事なので」
それで終わった。
復縁の話はなかった。
私も望まなかった。
冬。
大聖堂の修復が完成した。
冬至祭の朝。
まだ暗いうちから、広場には人が集まっている。
私も工房のみんなと立っていた。
やがて東の空が明るくなる。
朝日が薔薇窓へ当たった。
赤。
青。
金。
石の床へ色が落ちる。
新品なのに。
百年前からそこにあったように見えた。
父が泣いている。
「泣いてます?」
「寒いだけだ」
「そうですか」
私は笑った。
式典が終わったあと。
大聖堂の裏口で、レオンが待っていた。
「施工主任」
「何でしょう、技師様」
「今日で工事は終了ですね」
「はい」
「なら、仕事以外の質問をしても?」
「どうぞ」
彼は珍しく言葉に詰まった。
「半年前、半分は窓を見ていると言いました」
「覚えています」
「残り半分は、あなたを見ていました」
あまりにも真面目な顔で言うので、私は笑ってしまった。
「半年かけて言うことですか?」
「仕事中でしたので」
「長すぎます」
「すみません」
「それで?」
「夕食へ行きませんか」
「検査ですか?」
「私用です」
「窓は見ます?」
「努力して見ません」
「難しいですね」
「あなたもですよ」
私たちは笑った。
一年後。
大聖堂の薔薇窓は、二度目の冬を迎えた。
亀裂なし。
補修一枚。
予定通り。
工房には、新しい依頼が増えた。
教会。
劇場。
図書館。
注文書には最初から、
リュミエール工房
と書かれている。
そして今日。
私は一枚の小さな窓を作っていた。
青と赤。
中心に透明なガラス。
レオンが横から覗く。
「これは何用です?」
「新居です」
彼が固まった。
「返事をまだ聞いていませんが」
「窓を作ってから決めようかと」
「順番がおかしい」
「では」
私は手を止めた。
「結婚しましょう」
「急ですね」
「一年待ったでしょう」
レオンは笑った。
「では、その窓を正式発注します」
「高いですよ」
「分割払いは?」
「不可です」
「厳しい」
私は小さな窓を光へかざした。
色が床に落ちる。
私は昔、誰かの名前の下で仕事をしていた。
結婚すれば同じ家になるから。
自分の名前がなくても構わないと思っていた。
今は違う。
作品には、作った人の名前が必要だ。
ただし。
人生まで一人で作る必要はないらしい。
新しい窓の端に、私は小さく工房名を刻む。
その横でレオンが、新居の図面を広げている。
大聖堂の薔薇窓よりずっと小さな家。
でも今の私には、こちらも同じくらい大切な仕事だった。




