婚約破棄をご所望なら、証拠をどうぞ
「こんなところにいたのか、アリス・フランデール!」
不躾な声がランチタイムのカフェテリアに響いた。
アリスは口にしかけた食後の紅茶をそっとテーブルに戻した。
「ごきげんよう、リエール様。なにかご用でしょうか」
ぞろぞろと取り巻きを引き連れた男子生徒が、カフェテリアを闊歩してアリスのテーブルに近づいてくる。
家門に引き継がれるアッシュゴールドの髪を靡かせた男。
ブランソル侯爵家子息、リエール・ブランソル。
アリスの婚約者である。
「ふん。相変わらず愛想のかけらもない。だが、その取り澄ました顔もこれまでだ。」
「はい?」
「しらばっくれるな! この悪女が! お前がこの心優しいチェルシーに行った数々の非道な仕打ちをわたしはすべて知っているのだ!」
「一体、なんのお話ですか?」
「まだとぼけるのか?! お前はその小賢しい淑女面の裏で実はチェルシーに陰湿な嫌がらせをしていたのだ! 健気なことに、ルシーは誰にも告げず、ずっと一人でそれに耐えていたのだ。だが、もう我慢ならない。お前その卑しき性根を今日こそわたしが白日の下に晒してやる!」
そう叫ぶと、彼は連れてきた小柄な令嬢の肩をグイッと自分に引き寄せた。
「リル様ぁ」
「ああ、ルシー…」
アリスは口の端を引き攣らせた。
「え、っとぉ…」
言葉にならない、とはこのことか。
リエールとの婚約は所詮家同士の契約である。
特にお互い個人に好意があったわけではない。
アリスはフランデール子爵家の跡取り娘で婿入りしてくれる伴侶が必要だった。家門の中から優秀な男子を迎えてもよかったが、人選に迷っている間にブランソル侯爵家から声がかかった。フランデール子爵家は領地も事業もある程度成功しており、特に侯爵家との繋がりを必要としていたわけではない。だが、上位貴族からの申し出を理由もなく断ることも憚られた。
ただ、それだけである。
「なんだ、その気のない返事は!」
「そうおっしゃいましても…」
カフェテリア中の注目がアリスたちに向いている。
皆、遠巻きにしながらも、興味津々でこちらの様子を伺っていた。
ここは有力貴族の子息子女の集う王立学園だ。
このままでは明日には王都中の噂になってしまう。
「あの、ここではなんですから、場所を変えませんか? カフェテリアは皆さまが食事や休息をする場所です。ご迷惑になってしまいますわ」
「ハッ、やはりな。後ろ暗いところがあるから人前で話せないのだろう。思った通りだ。尻尾をだしたな。この女狐め」
「だから、一体なんのお話ですか。わたくしは場所を…」
「黙れ! お前がわたしとルシーの仲の良さに嫉妬するあまり、陰でルシーを虐めていたことは分かっている。潔く、今この場で謝罪しろ!」
「アリス様! いいんです、わたしは気にしていませんから! リル様、そんなに怒らないで。わたしは平気です。あなたが優しすぎるから…。きっとアリス様は少し勘違いされただけなんです。わたしたちはただのお友達なのに…」
リルって誰よ。
まさか、リエールの愛称じゃ…。
「お友達…?」
「そうだ! ああ、ルシー、かわいそうに…」
チェルシーの腰に腕を回し、髪に顔を寄せる様子は、どう見てもお友達の距離感ではない。
しかし、だからといって、嫉妬した覚えもない。
そもそも、アリスは彼が愛人を囲うのであれば、それはそれで良いと思っていた。
貴族社会には暗黙の了解というものがある。彼が常識の範囲で慎ましく愛人と暮らすなら、それを支援してもよいすら思っていたくらいである。
だが、たとえそうなったとしても、相互理解は必要だろうと、茶会に招いたり、手紙を書いたり、観劇に誘ったりと婚約者としての交流を試みてみてきたが、リエールから快い反応が返ってくることはなかった。
つまりのところ、彼はこの婚約が気に入らないのだ。
侯爵家からの打診であったにもかからず、それは侯爵の意向であり、彼自身は納得していないということなのだろう。伯爵家ですらない格下の子爵家の婿になることに。
だからといってこれは横暴すぎる。
早い話、八つ当たりだ。
自分の父親に面と向かって異を唱えることができないから、爵位の低いアリスに難癖をつけて鬱憤を晴らしているのである。
虐めをしているはどっちなのよ…。
「虐めなんて…」
「わたしに相手にされないからといって友人に嫉妬するなんて…」
「わたしは嫉妬なんてしていません」
「自覚がないのか…。これだから女の悋気は始末が悪い」
「嫉妬というならむしろ、チェルシー様の方なのでは? わたくしはリエール様の婚約者ですし…」
「馬鹿か! 心清らかなルシーが嫉妬などするわけないだろう! お前と一緒にするな!」
理不尽な敵意にアリスは唇をかみしめた。
「―――これはなんの騒ぎかな?」
階上から柔和な声が響いた。
王国の第三王子でもあるカールシュタイン殿下の声だった。
殿下はアリスと同じく生徒会に属しており、昼は王族とその側近だけに許されたカフェテリアの階上席で過ごしている。
殿下は側近である生徒数名を従え、階上からゆっくりと降りてきた。
「キミはリエール・ブランソルだね。なにを揉めていたのかな?」
「あ、王国の第三の光にお目に…」
「ああ、挨拶はいいよ、ここは学園だからね。それで?」
「実は…、お恥ずかしながらわたしの婚約者であるアリス・フランデールが、ここにいるチェルシー・ピア男爵令嬢にたいして陰湿な虐めを行っていたのです。わたしはそれを明るみし、謝罪を求めようとしていたところです!」
「なるほど、キミの横にいるのがチェルシー・ピア男爵令嬢かな? 確か、西部のご出身だったね?」
「まあ、殿下がわたしのことをご存じだなんて…、光栄ですっ!」
今までリエールに腰を抱かれていた心清らかという令嬢は殿下が現れた途端、前に歩み出て瞳を瞬かせた。同じ学園に通っていても学年が違えば殿下とすれ違うこともなかったのだろう。ここぞとばかりにアピールオーラがだだ漏れしている。
「そうか…。学園内で虐めがあったとしては、生徒会としても看過できないね。アリス・フランデール、キミは本当にそんなことをしていたのかい?」
「まさか、そのようなことっ! 全く心当たりがありませんわ!」
「アリス嬢はこう言っているが…」
「見苦しいことに、その女は自分の罪を認めないのです! 素直に謝ればよいものを…」
「アリス様、お願いです。謝ってください。謝ってさえいただければ、そうすれば、わたし…他のことはもう言いませんからっ、だから…」
「身に覚えもないのに謝ることなどできません」
「お前…まさか、他にもあるというのか…。こんなにも嫉妬深い女だったとは…。キミとの婚約は見直さなければならないな」
婚約破棄するならそれもいい。むしろそれがいい。
こんな男と結婚なんて御免だし、この男がフランデール家の役に立つとは思えない。
女の方に瑕疵がついたとて、アリスとの結婚にはフランデール子爵家がついてくる。選ばなければ相手などはいくらでもいるはずだった。
でも。
だからと言って犯してもいない罪を認めるなんて、アリスにはできない。
「まあまあ。リエール・ブランソル。どうもアリス嬢は身に覚えがないようだ。ちなみに、アリス嬢がチェルシー嬢にしたという虐めとはどんなものだろう。さぞかし、えげつないんだろうねぇ」
睨みつけるアリスに、殿下はウィンクを投げて寄越した。
この人は…。
「殿下、虐めは一度や二度ではございません」
「なるほど、なるほど。で?」
「ですから…、ルシーの筆記用具や教科書を汚したり、教室に置いておいた荷物を勝手に焼却炉に捨てたり、噴水に突き飛ばして、ズブ濡れにさせたりもしました。挙句、階段の上から突き落として怪我までさせたんですっ! これはもはや嫌がらせや虐めの域を超えています。犯罪です! 一歩間違えば命を落としたかもしれません!」
「濡れ衣です! わたくしそんなこと、しておりませんわ!」
そんな面倒臭いことするならビア男爵家に経済的な圧力をかけた方が早い。学園に通えなくしてしまえば顔も見ずに済むというものだ。ピア男爵家の領地はフランデール家傘下の商団が流通を担っている。簡単なものだ。
でもこの人たちは自分の領地の販路のことなど知りもしないのだろう。
殿下は…。
知っているかもしれないが。
「まだ認めないのか! 証拠だってあるんだぞ!」
殿下の目が輝いた。
珍しい虫を見つけた子供の頃のように。
これは…、完全に楽しんでるわね。
カールシュタイン殿下はそういう人だ。
「へえ! 証拠があるの?」
「もちろんです!」
「是非、見せてほしいなぁ。証拠」
リエールが後ろに立っていた取り巻きの一人に何やら囁くと、どこからか汚れた教科書と切り刻まれた制服が出てきた。アリスを問い詰める準備はしっかりしてきたということらしい。
「これです。チェルシーが教室を離れた隙に教科書や文具が盗まれ、花壇に捨てられているのを見つけたそうです。そして制服は、はさみで切り刻まれていたのです。なんと酷い仕打ちでしょうか…」
「え、証拠って、これ?」
「そうです。こんな明白な証拠はないではありませんか! 人の制服を切り刻むなんて、なんと心無い行為か…。王国の淑女がすることではありません!」
「そうじゃなくて…」
「はい?」
「リエール・ブランソル。これはチェルシー嬢の教科書が汚され、制服が切り刻まれたという証拠であって、アリス・フランデールがこれを行ったという証拠じゃないだろう」
「えっ。いや、ですが、わたしの婚約者であるアリス以外にこんなことをする理由のある者などおりません」
「いや、だからそれも動機があるというだけでアリス嬢が犯行を行った証拠にはならないだろう」
「で、ですが…っ」
「それに、この制服…」
カールシュタインはチェルシーを上から下まで眺めて、顎に手を添えた。
「チェルシー嬢」
「はい、殿下。大丈夫です。ぐすっ…、わ、わたしは気にしておりません。ただ…、ただ本当に…、アリス様が罪をお認めになってくれたら、それで…」
「あ、そういうの、今はいいから。それより、チェルシー嬢、キミはこの学園に入るとき、制服を何着作った?」
「えっ? 一着…。い、いえ、あの、に、二着です」
「ふ~ん、そうか」
「な、なんでですか? 二着しかないのはおかしいですか? でも、制服は高くて…」
「殿下、チェルシーは男爵令嬢です。爵位の高い令嬢ならいざ知らず、そう何着も制服は…」
「そうだね。だけど、ボクが言いたいのは…」
カールシュタインは折りたたまれていた制服のブレザーのスカートに手を伸ばした。そして、切られた部分を庇うようにゆっくり広げて見せた。
「なんでサイズの違う制服を二着作ったか、ということなんだ」
「え…?」
みんながカールシュタインが手にしている制服と、チェルシーが今まさに身に着けている制服を交互に眺めた。
「た、確かに…」
誰とも思われぬ声があちこちから聞こえた。
カールシュタインが手にしているのは少し背が高めの令嬢の標準的な丈とウエストのスカートだった。一方、チェルシーの制服は校則ギリギリまで丈を詰めたミニスカートになっており、ウエストもチェルシーの細さを強調するように絞ったサイズのものだった。
「そ、それは…、その…。その制服は、普通のままでいいかなって…」
「まあ、そういうこともあるかもしれないね。令嬢のおしゃれ事情はボクたちにはわからない領域だからね。では、こっちはどうかな…」
今度は、制服の上着に手を伸ばし、上着の内ポケットのあたりを開いて見せた。
そこには、チェルシーの名前とは違う令嬢の名前が書かれていた。
「これは、アンナリーズ・リブス令嬢の制服だね」
カフェテリアが騒めいた。
「え…? そ、そんな馬鹿な…」
一番驚いているのはリエールだった。
「学園の制服は皆、生徒の名前が上着の内ポケットの上部に刺繍されている。制服を仕立てることができるテーラーはいくつかあるが、フルオーダーであれ、セミオーダーであれ、生徒の名前を入れることはすべてのテーラーに命じられていることなんだ。もちろん、みんな知ってることだと思うけど」
確かに多くの生徒が知っていたことだが、すっかり忘れていた。
それに。ということは…?
「アンナリーズ・リブス令嬢からは1か月前に洗濯を依頼したはずの制服が学園で紛失したとの届け出が出ている」
「そ、それは…。きっと配達屋が間違えたのです! リブス令嬢に届けるところを間違ってルシーに配達してしまったに違いありません! それをルシーの制服だと思い込んだアリスが盗んで切ったのです! そうだ、そうに違いありません!」
「ん~、そうかもしれないね。でも、チェルシー嬢は気づかなかったの? 間違って配達されたのであれば、チェルシー嬢の手元には制服が三着あるはずなんだけど?」
「え、えっと…、それは…その…」
「まあ、誤配送の可能性が高いから、この制服は一度生徒会で預からせてもらうよ。場合によっては警邏騎士団に委ねることになると思うから、いいね。皆、その時は協力するように」
「は、はい…」
もしかして…と、アリスは考えた。
チェルシーは制服を一着しか持っていなかった。だから、それを切り刻んでしまうと着る制服がなくなってしまう。それでリブス令嬢の制服を盗んでそれを自分で切り刻んだのではないだろうか。
けど…。
そこまでする?
アリスは気持ち悪さで鳥肌が立った。
「で、証拠ってこれだけなの?」
「え?」
「他に証拠はないの? この制服以外に『アリス嬢が虐めをした』っていう証拠は」
「ほ、他には…。あ、しょ、証拠ではなく、証言が…、証言ならあります。アリスがチェルシーを噴水に突き落とすのを見ていた者がいるのです!」
「へえ! 誰だい、それは」
この男…。
はしゃぎ過ぎじゃないかしら。
アリスはカールシュタインを横目でジッと睨みつけた。
「この者です。ミンス・ガードナー子爵令息です」
リエールは取り巻きの一人をカールシュタインの前に押し出した。
「王国の第三の…」
「挨拶はいいって。言ったよね? で、キミは何をみたの?」
「わ、わたしは…。フランデール子爵令嬢がチェルシーを噴水の水の中に突き落としたのを見ました」
「すごいね! 突き落としたその瞬間を見たの? 噴水ってどこの噴水?」
「専門科棟のパティオにある噴水です」
「ああ、確かに専門科棟はいつも人気が少ないよね」
「そうです。おそらくフランデール令嬢は人に見られぬよう、わざと専門科棟を指定してチェルシーを呼び出したのです」
「あれ? そういえばミンス・ガードナー子爵令息。キミにも婚約者がいたよね?」
「え? ああ、はい。おります。それがなにか」
「うんん。なんでもない。続けて」
「わたしはその日、チェルシーに錬金室の片づけを手伝って欲しいと頼まれていました。そのため専門科棟に向かって歩いていると、突然チェルシーの悲鳴が聞こえてきたのです。わたしは声のした方に駆け付けました。するとチェルシーが噴水の水の中に蹲っていたのです!」
「……」
「……」
「え、それだけ?」
「え、それだけって…。あ、可哀そうに、チェルシーは泣いていました」
「いや、そうじゃなくて。今の話、アリス、登場してないんだけど?」
殿下。『嬢』が抜けます、『嬢』が。
アリスは脳内で呟いた。
実のところ、アリスとカールシュタインは幼馴染である。今でこそ「殿下」と呼んでいるものの、幼い頃は領地で一緒に虫取りや魚釣りをした仲である。
だが、それはカールシュタインの出生にまつわる事情もあるのであまり公にはしていない。
「ですが、わたしが噴水からチェルシーを助け出すと、チェルシーはフランデール令嬢のハンカチを握っておりました。きっとチェルシーを突き落とす際にフランデール令嬢が落としたのでございましょう。でなければ専門科棟の噴水にフランデール令嬢のハンカチが落ちているわけがございません」
「そのハンカチは今どこに?」
「こちらでございます。これが証拠のハンカチです」
ミンスは自身の内ポケットからハンカチを取り出し、カールシュタインに手渡した。
カールシュタインがそれを確認する。
「なるほど。確かにこのハンカチにはアリス嬢の名前が刺繍されている」
またカフェテリアがざわめいた。
カールシュタインの視線がアリスに向く。
カールシュタインはこれがアリスのものでないと知っている。しかし、それをアリス自身の口から言わせようとしているのだ。
「発言をよろしいでしょうか、殿下」
「もちろんだ、アリス・フランデール」
「それは、わたくしのハンカチではありません」
「この期に及んでまだしらを切るのか?! こんなにはっきりとお前の名前が書いてあるじゃないか!」
アリスを指さして、責めるのはリエールである。
「わたくし、自分のハンカチに自分の名前を書くような野暮な真似は致しません。リエール様、気づいていらっしゃらなかったんですね。わたくし、自分の持ち物には名前ではなく家紋を入れることにしておりますの。名前は書かないようにしておりますわ。だって、紛らわしいじゃありませんか。『アリス・フランデール』はわたくしが事業を営む雑貨のブランド名なんですもの。ですから、そのハンカチも、わたくしの物というわけではなく、わたくしのお店で購入されたもの、というだけでございます」
リエールもチェルシーもアリスが自分と同じ名前のブランドを持っていることを知らなかったのだろう。だから、どこかで拾ったハンカチをアリスの物と勘違いして、冤罪に利用しようと考えたに違いない。
我が婚約者ながら、本当に恥ずかしい。
「だ、そうだ」
「で、でも、チェルシーは本当に噴水の中で濡れていたんです!」
「うん。それはチェルシー嬢が噴水で濡れたという事実の証言であって、アリス嬢がチェルシー嬢を噴水に突き落としたという証言ではないよね? だって、さっきのキミの話にはアリス嬢は登場しなかったじゃないか。後ろ姿も見ていないんだろう?」
「そ、それは、チェルシーを助けるのが優先でしたので…」
「もちろんだ。最優先はレディーを助けることだよ。キミは悪くない。だが、証拠にならないのも事実だ」
リエールとチェルシーそしてその取り巻きたちが悔しげにアリスを睨めつけていた。
「あとは…なんだったかな? 階段から突き落とした、だっけ?」
「そ、そうです! それなら証人もたくさんおります。昨日の午後ですから、皆さんの記憶にも新しいことでしょう」
リエールが鼻息を荒くした。
「うん、そうだね。ボクも覚えているよ。ホールが騒がしかったからね」
事件は学園の本館のエントランスホールで起きた。
エントランスホールには中央正面に赤絨毯のひかれた大きな階段があった。
アリスがちょうどその階段を登り切ったとき、後ろから悲鳴が聞こえた。振り返ると階段の下でチェルシーが倒れていた。
何事かと思ったが、周りの者たちがチェルシーを医務室へ連れて行くように見えたので、アリスは安心してその場を離れたのだった。
「そうです。噴水の時とは違い、昨日の出来事は多くの人が目撃しておりました。そうだろう、グランゲル・ギリワーク! あの日チェルシーを助けたのはキミだったな」
グランゲルはリエールに促され、一歩前に進み出た。
アリスはその顔に見覚えがあった。
彼は武門で有名なギリワーク子爵家の令息だった。
「あの日、わたしは階段から落ちて怪我をしたチェルシーを介抱しました。その時、階段の上を見上げましたが、そこにはアリス・フランデール令嬢しかおりませんでした。彼女が突き落としたとしか考えられません!」
「ふむ。いいね。さすが騎士科の生徒だ。明確で端的な報告だ。キミは突き落とされる瞬間を見たわけじゃない。キミだけじゃない。多くの生徒があの日チェルシー嬢が階段の下で倒れているのを目撃した。でも、誰も決定的な瞬間を見たものはいなかった。とは言え、階段の上にはアリス嬢しかいない。突き落とすことができたのはアリス嬢だけだった、ということだね」
「そうです!」
「ところでアリス嬢。キミはなぜ、階段にいたんだい?」
「なぜって、殿下もよくご存じゃないですか。昨日は生徒会が催される日です。本館にある生徒会室に向かっておりました」
「そうだったね。昨日は生徒会があった日だ。そうだ、昨日は庶務のご令嬢が一人お休みだったと思うんだけど」
「その通りです。彼女は先週からずっと体調を崩しておりまして。咳がひどかったので昨日は生徒会は休むよう申し伝えました」
「でも、昨日もちゃんと生徒会室にはお茶が用意されていたよね。あれは誰が用意したの?」
「わたくしです」
「ねえ、グランゲル。騎士を目指すなら報告はもう少し正確に行ったほうがいい。キミが見た時のアリス嬢の様子をもう少し具体的に報告してくれないか」
「は、はい。わたしが怪我をしたチェルシーを助け起こし、何事かと階段の上を見上げると、アリス嬢が階段の上にひとりで立っていました。少し慌てているようにも見えましたが、きっと自分の犯した罪に慄いていたのでしょう。アリス嬢はトレーを持ったままこちらを見降ろしておりました」
「トレー、ね」
カールシュタインの視線からアリスは目を逸らした。
「アリス嬢は…、たまにものぐさな時がある。まさか六人分のティーセットを一度で運んだんじゃないだろうね?」
「……」
「アリス」
こんなところで言わなくてもいいじゃない。
「ものぐさ」ってなによ、「ものぐさ」って。効率的って言いなさいよ。
カールシュタインに問われてアリスは仕方なく口を開いた。
「運びました。六人分のティーセットを一人で運びました」
「危ないからやめなさい。そもそもキミがお茶を用意する必要はないが、もし次に同じことがあるとしたらその時は必ず誰かを呼びなさい。いいね」
「はい…」
カールのくせに!
と思うものの、皆の前で態度に出すわけにもいかず、アリスはしぶしぶ頷いた。
「思うんだが」
カールシュタインは周囲を見回した。
「六人分のティーセットを載せたトレーを持っている人間が、人を突き飛ばすことは果たして可能だろうか? そもそも両手が塞がっているにも関わらず、だ」
「ですが、他に人は…」
「と、なると。可能性がもう一つあるんじゃないかな?」
カフェテリア中の視線がチェルシーに集まった。
「ち、ちが…。わたし…。わたし…」
チェルシーが後ずさる。
「自作自演、だね」
リエールが得体のしれないものを見るような目でチェルシーを見る。
「チェルシー、キミは…」
「わたし、嘘なんてついていません。本当です、本当に制服を切られて、噴水で濡れて…階段で…。リル様ぁ、信じてくださいっ」
「チェルシー…なんで…。わたしはキミを信じて…。信じて…だから…」
「そこなんだが…」
カールシュタインの声が響く。
「リエール・ブランソル。キミはなぜアリス・フランデール子爵令嬢ではなくチェルシー・ピア男爵令嬢を信じたんだ? ただの友人と自分の婚約者、もし二人のうちどちらかを選ぶしかないなら、普通、婚約者を信じるべきだろう」
「それは…」
「それに、例え自分の婚約者が間違ったことをしてしまっていたとしても、こんな公衆の面前で責め立てるものじゃない。まずはなぜ婚約者がそのようなことをしてしまったのか、しっかりと向き合うべきだろう」
「アリスは…わたしとチェルシーの仲を疑って嫉妬を…、だから悪いのはアリスで…」
「それも、おかしいだろう。その例について言えば、むしろ嫉妬した方ではなく、嫉妬させた側の方がより罪が重いと思わないか? だって、それはキミが婚約者に疑われるような行動をとったということじゃないか」
「そんなっ、そんなことは決して! ルシーは良き友人です。彼女はわたしのことを理解し、励ましてくれる真実の心で結ばれた友人なのですっ!」
「ふむ。しかし、婚約者でもない異性の体に触れるのはいかがなものか。それも皆の前で。堂々と。それはキミたちの二人の関係が疑われても文句など言えない行為だ」
「そ、それは…。そんな、体に触れるなど…」
「まさか自覚がなかったのか?! リエール・ブランソル、キミは今日ずっとチェルシー嬢の肩や腰に手を回していたぞ。それは今日この場にいた全員が目撃していると思うが」
「そ、そんなことは…」
「ついでに言えば、キミたちの言動については生徒会にも苦情がきている。あまりにマナーのない行為だと。生徒会としても学園の風紀を乱す不適切な行為と見なし、キミたちには本日付けで自宅謹慎を申し付ける。ご実家のブランソル侯爵家にも不適切な行為の内容を書面にして送るので、御両親と今後の婚約について話し合うのがよかろう。いいな、リエール・ブランソル」
リエールはふらふらと心あらずな体でカフェテリアを去っていった。
かわいそうにも思えたが、まったくもって自業自得なので、アリスはふんっと一つ鼻息を吐いた。
切り替えよう。
ブランソル家に連絡がいくということは、当然フランデール家にも今日の一部始終が届くはずだ。
アリスも自分自身の身の振り方を考えなければならなかった。
3か月後―――。
「どうしてあなたがここにいるのかしら、カールシュタイン・ルゥ・ベル!」
フランデール家の居間で、我が家のように新聞を広げて寛いでいるのはカールシュタイン殿下であった。
「昔みたいにカールと呼んでくれよ。ボクのお姫様」
「なにが、ボクのお姫様よ。この腹黒男」
「ひどいな」
「どっちが」
案の定と言うべきか、リエール・ブランソルとの婚約は破棄された。
リエール・ブランソルはブランソル侯爵家の三男だった。長男が家を継ぎ、次男は侯爵家が持つ伯爵家を継ぐことが決まっていた。が、三男のリエールには継ぐ爵位がなかった。哀れんだ侯爵がねじ込んだのが子爵家への婿入りだった。
しかし、それも今回の一件で破談になった。
王家がこの件に口を挟んだからだ。
実のところ、フランデール家は爵位こそ子爵であるものの、王家に引けを取らない血筋をもっている。資産も十分にあり、王家からも一目置かれるほどである。その存在は侯爵家とはいえ侮ることができる家門ではない。
「いやあ、ちょうどよかったよ。ボクもいつまでも王室にいるわけにもいかないから、一代公爵位もらうか、どこかに婿入りしなきゃと思ってたんだけど。いやぁ、ちょうどいいところが見つかったよ」
「それはおめでとう?」
祝辞が疑問文になってしまうのは仕方ない。
破談でアリスの経歴にもちょっとだけ傷がついたが、フランデールの看板があれば、婿の一人や二人すぐに見つかるだろうと高をくくっていた。
果たして、その後釜にすわったのが、この男。カールシュタイン・ルゥ・ベルだった。
「アリス…ボクはね、ショックだったんだよ」
「なにが?」
「留学を終えて急いで帰ってきてみれば、キミはろくでもない奴と婚約していたからね」
「しょうがないでしょ。わたくしの意思じゃないもの。貴族の結婚なんて…そんなものよ」
「自分の意志だったらボクを選んでくれた?」
悔しいことに。
脂下がった顔をしたこの男は。
言わなくても、こちらの答えなど疾うに知っているのだ。
ざまぁが書きたくて書き始めたはずなのに、なんか違った…どうしよう。




