第7話
《ようこそ!インフィニット・オンラインの世界へ!》
上下も左右も曖昧な、輪郭のない空間。立っている感覚は確かにあるのに、床らしいものは見えない。重力だけが、ここが現実に近い場所だと主張している。
…これ、前に見た時も思ったな。
《キャラクター作成を開始します!》
視界の中央に、淡く光るウィンドウが展開された。
《β版のキャラクターのデータを引き継ぎますか?》
「はい」
《了解しました!正規版に移ったことにより、名前の設定が可能になっています。名前を設定してください》
表示が切り替わる。
白い空間が、より白くなった…というか、少し神々しく光っている気がした。
悪魔の場合は黒いひび割れができていたけど、天使の場合はこうなるのか。
そして名前か。
「ルルーシアでお願いします」
これは光を意味するルシアを少し変形させたものだ。
…まぁ、これは勝手に兄さんに決められた名前だけど。結構気に入っている。
兄はあれで名前のセンスが妙にいいから少し腹が立つ。
《名前を設定しました。これにより、キャラクターメイクが完了しました。まもなく世界へと転送されます》
白い光が、一気に視界を覆う。
《転送準備中》
《3》
《2》
《1》
浮遊感。
一瞬、内臓がふわっと持ち上がるような感覚があって――。
――――――――――――――――――――
――次の瞬間、重力が戻った。
膝が沈み、足には石の凹凸の感触がした。
視界が白く弾け、空間が組み上がる。
足元に広がるのは、円形の石床。
幾何学模様が刻まれ、淡い光が脈のように流れている。
天井は高く、見上げると枝分かれした巨大な構造物――世界樹の根が、空間そのものを支えているのがわかる。
空気は、現実よりも少し澄んでいた。
冷たさも湿度もない。ただ「整えられた感触」だけが、皮膚に伝わる。
――初期転送室だ。
同時に、周囲に人影が次々と出現する。
光の粒子が集まり、アバターが形成されていく。
歓声。
驚きの声。
笑い声。
「うわ、マジで来た!」
「操作感やばくね?」
「視界、現実と全然変わらん!」
床に触れてしゃがみ込む者、空を見上げて呆然とする者。
誰もが、初めての完全没入に浮かれている。
私のUIが、視界の端に静かに展開される。
ステータス。
初期スキル。
システムメッセージ。
すべて、知っている配置だ。
だけど――。
「おーい!」
背後から、やたらと元気な声。
振り返ると、兄がいた。
人型ではあるが、体格は現実より少し誇張され、無駄に筋肉質。
選択した種族は――人族。テンプレ構成。
「ちゃんと入れたな! 落ちなかったぞ!」
「……まだ、ね」
私は短く答え、周囲を観察する。
転送室の中央には、案内用NPC。
長いローブ。フードの奥に見える、無機質な微笑。一定時間ごとに、同じ説明を繰り返している。
「ようこそ、《インフィニット・オンライン》の世界へ――」
耳障りなほど丁寧な声。
人が増えすぎて、足音が反響している。
サーバー負荷は、まだ耐えている。
――今は、まだ。
「なあ、まず何する? チュートリアル?」
「……先に、街に出る」
「え? 普通は説明聞くだろ」
兄は首をかしげるが、私は歩き出した。
転送室の外周。
出口へ続く回廊。
視界の端で、警告表示が一瞬だけ揺れた。
ごく小さく、ほとんど誰も気づかないレベルで。
――遅延だ、0.2秒。
最初の兆候だ。
回廊を抜けると、初期街につく。
石造りの建物。
露店。
噴水。
NPCとプレイヤーが入り混じり、視界がうるさいほど情報で満ちている。
金属音。
布の擦れる音。
魔法エフェクトの試射。
「すげぇ…本当に街だ……」
兄が、完全に観光客の顔になっている。
…顔は無駄に良いのに間抜けっぽくなって台無しだぞ。
私は、街の構造を頭の中でなぞる。
ここから三分。
あの路地。
その先の、目立たない掲示板。
――初期金策ルート。
原作では、最初に気づいたのは二人だけ。
どちらも、今日中に消える。
「兄さん」
「ん?」
「最初に、クエスト受ける前に、ついてきて」
「どこに?」
「……人が行かないところ」
兄は一瞬だけ迷い、すぐに笑った。
「ま、妹ちゃんの言うことなら聞くか」
「ちゃん付けるな」
路地に入ると、喧騒が一気に遠のく。足音が反響し、光量が落ちる。
壁に貼られた、古びた掲示板。
ほとんどのプレイヤーは素通りする。
文字が薄く、報酬も不明瞭だから。
私は、その一枚にだけ視線を向ける。
――《単発資材運搬依頼》。
期限:本日中。
報酬:未記載。
原作では、ここが分岐点だった。
「これ、地味すぎないか?」
「いいから」
私はクエストを受諾する。同時に、兄にも共有通知が飛ぶ。
「え、報酬わからないのに?」
「私にはわかってるから」
小さなシステム音。
クエスト開始。
その瞬間――。
視界の奥で、また一瞬だけ、遅延が走った。
ほんの、0.3秒。
誰も気づかない。
笑い声も、街の音も、途切れない。
私は、心拍数が少しだけ上がるのを感じた。
――来る。
この世界が、ただのゲームでいられた時間は、もう、残り少ない。




