第5話
――それから一週間。
夕方の校舎は、いつも通りの色をしていた。
部活動の掛け声が廊下越しに聞こえ、どこかの教室では机を引きずる音がする。
窓から差し込む光は橙色で、昼と夜の境目を曖昧にしていた。
私は昇降口で靴を履き替え、校門へ向かう。
特別なことは何もない。
入学したばかりだけど、友達はでき始めたし、例のライバルのチームメイトくんは順調にライバルと仲良くなっているみたいだ。
ただ、頭の中では別のことを考えていた。
――レベル15。
歩きながら、自然とその数字を反芻してしまう。
この一週間、学校から帰って、家族が寝静まったあとにログインして、狩って、戻ってくる。
場所は変わらない。始まりの草原の奥、丘の向こう、森の手前。
出現する魔物は少しだけ強くなったが、本質は同じだ。スライムは数が増え、ゴブリンは徒党を組むようになった。
それでも、対応は変わらない。
【聖魔法】で削り、【暗黒魔法】で止める。
あるいは、その逆。
効率を優先して、感情を挟まず、作業として処理する。レベルは上がりにくいはずなのに、気づけば二桁に乗っていた。
――普通ならまだ初心者エリアを出られない。
一般プレイヤーなら、まだ始まりの街周辺をうろついている頃。
スキル構成に悩み、装備の見た目に一喜一憂している時期だ。
私は違う。
知っているから、この先に何があるか。
どこで詰まり、どこで取り返しがつかなくなるか。
校門を出て、いつもの通学路を歩く。
アスファルトの感触、自転車が通り過ぎる風、コンビニの前にたむろする学生。
全部、現実だ。
それなのに、背中の感覚が消えない。
――羽。
もちろん、今はない。この世界には存在しない。
それでも、脳が覚えている。
ローブの内側で、少しずつ主張を強めていく、あの存在感を。
レベル10を超えたあたりから、変化ははっきりしていた。
未成熟、という表記は変わらない。
だが、羽は確実に育っている。
意識しなくても、わかる程度に。
……順調に、あの世界と現実はじわじわとゆっくり定着し始めているみたいだ。
歩きながら、自然と眉間に力が入る。
――あぁ、本当に原作が始まるんだな。
そんな実感を、今更感じていた。
家の前に着き、玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
返事はない。
家族はもう夕食を終えて、それぞれの時間に入っている。
靴を揃え、部屋へ向かう。
鞄を置いて椅子に腰を下ろす。机の上には、開きっぱなしの教科書。入学したばかりに出された春の宿題。
そして、夜になれば――仮想世界。
私は天井を見上げ、小さく息を吐いた。
正規版が始まるまで、あと少し。やるべきことは山ほどある。
淡々と。
効率よく。
誰にも気づかれないように。
――そう考えながら、私は机に向かい直した。
――――――――――――――――――――
宿題は、思ったよりもあっさり終わった。
計算問題は機械的に処理し、感想文は無難な構成で文字数を満たす。感情は必要最低限。先生が赤を入れにくいタイプの文章を量産していく。
最後に名前を書いて、ノートを閉じた。
時計を見る。まだ家族が起きている時間だが、私の部屋は干渉されない。
問題ない。
椅子を回し、端末を起動する。
正規版が始まるまで、あと一週間。
そして、あの事件が始まるのに更にもう数日。
…原作はもう少しだ。
端末のログイン画面が暗転し、次の瞬間、視界が切り替わった。
石畳の感触。
始まりの街の夜。
ログイン直後、違和感があった。
――軽い。
いや、正確には、背中が空いている。
意識を向けた瞬間、視界の端にシステム表示が強制的に割り込んできた。
《種族状態が更新されました》
《未成熟:解除》
《種族:天使(成熟)》
一拍遅れて、背中に確かな重みが戻る。
羽だ。
今までとは違う。
存在を主張しなかった仮の器官ではない。
質量と、熱と、神経が通った――完成品。
私は動かず、淡々と次の表示を待つ。
《固有スキルを獲得しました》
……やっぱり来た。
ステータスを開く。
《 Lv.15
種族:天使
所属:なし
HP:450
MP:450
STR:168
VIT:7
INT:48
MND:7
AGI:168
DEX:96
[スキル]
【暗黒魔法】【契約】【聖魔法】【聖歌】【魔力操作】
[固有スキル]
【多重詠唱】【聖光】【魔力変換効率:天使】
所持金:8600G 》
レベルは、表示上は高い。だが――それは意味を持たない。
βテスターが正規版に持ち込めるものは、三つだけ。
レベル1に初期化した自身のキャラクター。
獲得済みの固有スキル。
所持金。
装備は消えるし、通常スキルも消える。種族レベルも表記上は初期化される。
……だけど、固有スキルと金だけは例外だ。
私は静かにステータス画面を閉じた。
――やることは決まっている。
固有スキルは確保したし、天使化も完了した。
次は、金だ。
街の広場に向かう。夜でも結構、人はいた。
β終盤。
無駄に高レベルなプレイヤーと初心者の皮を被った変人が混在する奇妙な時間帯。
私は掲示板を一瞥し、即座に判断する。
討伐は論外だ、これ以上経験値は要らない。
狙うのは――素材。
薬草。
魔力触媒。
低級聖属性素材。
原作知識がなければ、誰も気づかない、NPCに高額買取される物。
私は露店エリアに移動し、プレイヤーの相場を確認する。
……安い、ため息すら出ない。
黙って買う。淡々と、上限まで。
次に、街の外。
狩りは最小限。
魔物は倒すためではなく、素材を落とさせるために存在する。
【多重詠唱】を試す。
聖と暗黒。相反するはずの魔力が抵抗なく重なる。
威力は要らない。
確実に、素早く、ロスなく。
スライムは蒸発し、ゴブリンは倒れ、ドロップだけが残る。
それを拾い、また次へ。
作業だ。
感情は挟まない。
高揚もしない。
焦りもしない。
…正直つまらないな。だけど、この先必ず元は取れる。
ログアウトまでの時間を逆算し、最短距離で金に変える。
数時間後。
インベントリは、見た目地味な素材で埋まっていた。
街へ戻り、一部を売却。一部は保管。
――分散させる。
正規版直前の仕様変更に備えて、リスクは減らす。
所持金表示を確認する。
まだ足りないけど、十分だ。
私はログアウト操作を行う。
視界が暗転する直前、ふと思った。
…最後に笑っているのが私であれば、何でもいい。
物語が始まった時、私は何者でもない顔で舞台に立つ。




