第23話
――数日後。
結論から言えば、当面の生活は「安定」という二文字で片付けられる状態になっていた。
冷蔵庫は常に満杯。
棚には保存食が整然と並び、飲料水は箱ごと積まれている。
停電対策まで済んでいる家など、災害特集番組でもなかなか見ない。
それを前にして、兄は妙に明るかった。
「いやぁ……人生、何が起こるかわからんな!」
朝食のパンをかじりながら、妙にテンションが高い。
私の内心とは対照的だ。
……危機感が薄いな。
でも、それが兄の強さでもある。
原作知識など持たない彼にとって、この世界はまだ変わり始めたばかりでしかない。
だからこそ、今のうちだ。
危険が及ばない場所で、取り返しがつかなくなる前に、できることは、すべてやっておく。
「ねえ、兄さん」
「ん?」
「今日から、スキルのレベル上げ、付き合って」
「お、来たな」
兄はにっと笑った。
「つまり、ゲームっぽいことをするって理解でいい?」
「……ま、だいたい合ってる」
「よし。俺はノリと勢いで生きるタイプだ。世界を敵に回したとしても、るーちゃんは俺が守ってやるからな!」
頼もしいような、頼もしくないような。冗談だろうけど、流石に世界は敵に回すな。回すのは私だ。
……あと、るーちゃんはやめろ。
場所は家の中。
ログイン地点が家のベッドである以上、外に出る理由はない。
環境同期率は全プレイヤー共通。つまり、ここでやれることは、ここでやっても同じだ。
リビングの中央。
家具を少しだけ動かし、スペースを確保する。
「で、どうやるんだ?」
「まず、意識を集中させて」
「集中?」
「スキルウィンドウを開く感じで」
兄は目を閉じ、眉間にしわを寄せる。
「……あ、出た」
「どんな?」
「なんか、全部シンプルだな。HP、MP、スキル欄……」
私は内心で頷いた。
兄のスキル構成は、完全に一般プレイヤーのそれだ。
派手さはないが、成長余地は十分にある。
兄の種族は人間で、比較的平凡だけど、人間は阿礼葵が選んだ種族でもある。だからこそ、種族としての情報も多いゆえに、私は鍛え方も熟知している。
「じゃあ、今日は基礎訓練。身体強化系を中心にいくよ」
「りょーかい!」
兄は返事がいい。
スクワット。
軽いランニング。
呼吸に合わせた魔力循環。
どれも一見すると地味だ。
だが、この世界では正しい手順を踏むことで、確実にスキル経験値が積み上がる。
私は、横で同じ動きをしながら、内心で確認する。
……やっぱり。
視界の端。世界の輪郭が、微妙に違って見える。
スキル【真実の眼】。
発動を意識しなくても、対象の成長速度、負荷の適正値、無駄な動きが見えてくる。
兄のフォームが崩れた瞬間、すぐにわかる。
「腰、もう少し落として」
「お、ほんとだ。楽になった」
兄は感心したように言う。
「お前、ほんとに指示が的確だな。流石、俺の妹」
「……経験だから」
嘘ではない。原作で、何度も見た光景だ。
数時間後。
「ふぅ……」
兄が床に座り込み、汗を拭う。
「なんか、身体が軽いぞ」
「スキルレベル、上がってる」
「マジで?」
「見て」
兄がウィンドウを確認し、目を見開く。
「うわ、ほんとだ!【身体強化】がLv.3になってる!」
その反応が、少し嬉しい。
――これでいい。
派手な無双は、まだいらない。まずは、安全圏で、確実に積み上げる。
休憩中、兄がふと思いついたように言った。
「なあ」
「なに?」
「このゲーム……種族、選べたよな?」
「うん」
「天使って、あったっけ?」
その質問に、私は一瞬だけ言葉に詰まる。
窓の外で、カラスの鳴き声が止んでいた。
さっきまで鳴いていたはずなのに。
兄は何気ない顔だ。ただの雑談、深い意味はない。
だからこそ、慎重に答える。
「ん、秘密」
「え?」
「……まぁ、普通ではない」
兄は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「なにそれ。濁し方が怪しすぎるだろ」
「詮索しない」
「はいはい」
兄は、あっさり引いた。
「まあ、お前が元気そうならいいや」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
……守ろう。
この人を。
この日常を。
原作では、もっと多くのものが失われた。
でも、今は違う。
知っている未来、手に入れた力。そして、積み上げられる時間。
私は、静かに立ち上がる。
「休憩終わり。次、魔力操作」
「よっしゃ、来い!」
兄は笑顔で立ち上がった。
――うん、この世界は、ちゃんと楽しい。




