第21話
――午前中は、驚くほど静かに過ぎていった。
食器を洗い終え、テーブルを拭き、冷蔵庫の中身を確認する。
米は十分。水も、非常用のペットボトルが箱で残っている。調味料も、最低限は揃っている。
母は淡々とメモを取り、父はスマートフォンとノートパソコンを行き来しながら情報を整理していた。
兄はというと、頼まれた通り重い荷物を運び、ついでに物置の整理まで始めている。
……不思議な光景だ。
世界は確実に壊れた側に進んでいるのに、この家の中だけ、危機管理訓練の延長みたいな空気で回っている。
私はその中心で、少し距離を取って全体を眺めていた。
――この温度差が、あとどれくらい保てるだろう。
原作では、ここから一気に加速する。
SNSで流れる惨状。
地方都市に開いた最初のゲート。
初の魔物被害の映像。
それをきっかけに、人々の意識は一気に現実へ引き戻される。
でも、今はまだ。
テレビのニュースも、言葉を選びながら慎重に事実だけを積み上げている。
ネットも、情報が多すぎて逆に輪郭がぼやけている状態だ。
――猶予は、確かにある。
だからこそ、今は動かない。
私はリビングの隅で深呼吸し、意識を内側へ沈める。
魔力の流れ。
体内を巡るそれは、思った以上に静かで、整っていた。高揚もない。暴走もない。
……やっぱり、だいぶ育ててたな、私。
原作知識があったから、というのもある。
でも、それ以上に。
私はこの物語が、世界が好きだった。
スキル構成も、役割も、ただの最適解じゃない。
「生き残るため」よりも、「続けて楽しむため」に組んだビルド。
私はステータスを表示させた。
《 ルルーシア Lv.4
種族:天使
所属:なし
HP:450
MP:450
STR:49
VIT:49
INT:168
MND:96
AGI:119
DEX:60
[スキル]
【暗黒魔法Lv.5】【契約Lv.1】【聖魔法Lv.10】【聖歌Lv.1】【魔力操作Lv.1】
[固有スキル]
【多重詠唱】【聖光】【魔力変換効率:天使】【真実の眼】
所持金:256500G 》
攻撃。支援。回復。浄化。結界。
それら全てを行うことができる、【光魔法】の上位魔法が【聖魔法】だった。
【光魔法】は回復も支援もできて、序盤では需要が高すぎて人気だったスキルだ。それの上位ともなれば、チート級の性能を持っているのが目に見えてわかる。
特に、蘇生を可能にする《リザレクション》とどんな怪我でも回復させる《フルリカバリー》は早めに覚えておきたい。現在覚えているスキルは攻撃技の《ホーリーレイ》や状態異常を回復させる《リストレーション》などだ。
今のところ、上位スキルを持っているのは私だけだろう。固有スキルも、こんなに数を持っている初心者なんて見たことがない。所持金も十分にある。
自分で選んだ道だ。後悔はない。
私は、誰にも見られていないのを確認してから、ほんの少しだけ指先に意識を集中させる。
光は出さない。
詠唱もしない。
ただ、魔力を感じる。
掌の奥が、微かに温かくなる。それだけで、十分だ。
――制御は完璧。
初日に力を見せるのは、愚策だ。
特に、この家では。
守りたいものがある場所ほど、慎重にならないといけない。
本当は外に出て検証したいけれど、それだと母さんや兄が心配してしまう。
もう少し時間が経って、安定してきた状況じゃないと、それは無理かもしれないな。
「……どうした?」
父の声で、意識が現実に戻る。
「ん、ちょっと考え事」
「そうか」
それだけで、深追いしてこない。信頼されている、というより――任せられている。
午後になって、外の様子が少しずつ変わり始めた。
遠くで、サイレンの音。
近所の家から聞こえる話し声。
窓越しに見える、人影の動き。
誰も叫んでいない。でも、確実に落ち着きがない。
世界が変わったことを、頭では理解している。でも、体がまだ追いついていない。
そのズレが、いちばん危ないんだ。
兄が、窓際で外を見ながら言った。
「……出歩いてる人、意外と少ないな」
「みんな様子見してるんだよ」
「賢いな」
「うん」
賢い人は、生き残る。そうじゃない人は――。
私は、続きを考えるのをやめた。
夕方が近づくにつれて、空の色が変わる。
二つの月が、はっきりと存在を主張し始める。
美しい。でも、それ以上に――異質だ。
この空は、もう戻らない。
その事実を、私は誰よりも早く受け入れている。
怖くないわけじゃない。
重くないわけでもない。
それでも。――私は、前を向ける。
知っているから。
準備してきたから。
そして、守りたい日常が、欲しいものがここにあるから。
夜になり、家族全員が同じ空間に集まる。
テレビは消した。今日は、もう十分だ。
母が言う。
「今日は、早めに休みましょう」
「賛成」
父も、兄も頷く。
私は、最後にもう一度だけ窓の外を見る。
静かな住宅街。
異なる空。
そして、確実に近づいてくる次の段階。
――来るなら、来い。
私は、心の中で静かに呟く。この世界を制覇する覚悟はできている。
私は部屋へ戻り、ベッドに腰掛ける。
……そうだ。高校入学前に、事前準備で接触していた奴がいた筈だ。
少し兄に似てアレだけど…今なら私の役に立つ気がする。
私はスマホを取り出し、電話をかけた。




