第20話
キッチンから、包丁がまな板に当たる音がする。
一定のリズム。いつもの朝と同じ、少し速めのテンポ。
その音を聞いただけで、胸の奥に張りついていた緊張が、ほんのわずかにほどけた。
――ああ、この人は変わってない。
世界がどうなろうと、魔法だのゲートだのが現実になろうと。
母はまず食事を作る、そんな人だ。
それがどれだけ異常で、どれだけ救いかを、私はよく知っている。
ソファに深く腰掛けながら、視界の端で情報を拾う。テレビはついたまま。
緊急速報のテロップが何度も切り替わり、アナウンサーの声が少しずつ落ち着いていく。
――混乱の初期を、もう越えつつある。
人間は順応が早い。特に「見える変化」には。
身体が変わった人。
空が変わったこと。
月が増えたこと。
全部、否定しようがない現実だ。
兄が、腕を組んで天井を見上げる。
「……なあ」
「なに?」
「正直さ。もっとパニックになると思ってた」
「うん」
私もそう思っていた。
他では、もっと荒れていた。
叫ぶ人。泣く人。錯乱する人。
でも、それは主人公である阿礼葵の一人暮らし視点の状況だ。
私には、家族がいる。生活がある。日常が、完全には切断されていない。
それだけで、人は驚くほど踏みとどまれる。
内心では静かに、冷たく計算しているのは置いておく。
「腹、減ってきたな」
兄のその一言に、思わず小さく笑ってしまう。
「……この状況で?」
「だからだろ」
肩をすくめる。
「腹減ってるってことは、生きてるってことだ」
正しくて、実に兄らしい結論だった。
私は、両手を膝の上に置き、ゆっくりと背中の感覚に意識を向ける。
羽が、そこにある。
重くはない。でも、存在感ははっきりしている。
筋肉の張り。
微細な空気の流れを感じ取る感覚。
今なら多分……飛ぶこともできる。でも、飛ばない。
この家の中で飛ぶ理由はないし、何より――両親をこれ以上驚かせる必要もない。
理性が、ちゃんと働いていた。
それが少し、嬉しかった。
自分が自分勝手な人間ではないことがわかって。
「ねえ」
母の声が、キッチンから飛んでくる。
「あなたたち、重いもの持てる?」
「え?」
兄が顔を上げる。
「持てるけど……」
「じゃあ、後で水とか米とか、運ぶの手伝って」
「……了解。あ、お前は座ってていいからな。俺がお前の分まで運ぶから」
私は、その会話を聞きながら、内心で深く頷いた。
――これだ。これが、正解の選択。
いきなり世界の危機を語らない。スキルだの、ゲートだのを連呼しない。
まずは、生活。
拠点を維持する。
物資を把握する。
家族の役割を決める。
原作で、多くの人が失敗した初動を、この家は自然に回避していた。
父が、テレビを消し、こちらを向いた。
「二人に聞きたい」
その声は、落ち着いている。でも、覚悟を決めた人の声だった。
「この先、もっと危険になるか?」
私は、即答しない。
嘘はつけない。でも、全部を言う必要もない。
「……なると、思う」
正直に言う。
「でも、今すぐじゃない。猶予はある」
「どれくらい?」
「数日から、長くて一週間」
父は、静かに頷いた。
「分かった。なら、その間にできることをやろう」
その言葉に、胸の奥で何かがかちりと音を立てた。
――この人は、守られる側に留まる気がない。
それが、心強くもあり、少し怖くもあった。
「危険な場所には、行かないで」
母が、はっきりと言う。
自分の息子と娘がこんな状況になったんだから、心配して当然だろう。
……私は、それを少し裏切ってしまうんだろうけど。
「二人とも。勝手なことしないで」
「……うん」
「わかった」
兄が、珍しく素直に頷く。
私も、同じように頷いた。
約束は守る。少なくとも……今は、ね。
キッチンから、味噌汁の匂いが漂ってくる。
それだけで、頭の中の戦略マップが、一段落ち着く。
――大丈夫。
私は、心の中で繰り返す。
この家は、今のところ安全圏だ。ゲートも出ていない。外の様子は、まだ間接情報だけ。
なら、今やるべきことは一つ。
情報の整理と、家族への慣らし。
いきなり剣や魔法を見せる必要はない。必要になったときに、必要な分だけ見せて、少しずつ非日常に慣らしていく。
母が、盆に朝食を載せて戻ってくる。
「はい。ご飯」
いつも通りのご飯。
いつも通りの配置。
なのに、私の視界では、料理一つ一つがやけに鮮明に見える。
湯気の揺らぎ、味噌の香りの層。焼き魚の脂が光る具合。
環境同期率100%では、誤魔化しはもう効かない。
だからこそ。
私は箸を取り、しっかりと食べる。
噛む。
飲み込む。
そして、生きる。
兄が、ぽつりと言った。
「……なんかさ」
「うん?」
「世界、終わった感じしないな」
私は、少し考えてから答える。
「終わったんじゃないよ」
「?」
「フェーズが変わっただけ」
兄は、少しだけ笑った。
「なるほど、ゲームっぽい」
「でしょ」
食卓に、短い笑いが落ちる。
それを見て、母が少しだけ安心したように目を細めた。
私は、その光景を胸に刻む。
――守ろう。
この日常を。
この空気を。
そのためなら、私はどんな知識でも使うし、どんな選択でもする。
これも、私の欲しい日常の一つだった。
朝食を終え、食器を片付けながら、私は静かに決めた。
今日の行動指針。
外出はしない。
情報収集はテレビとネットのみ。
家族の身体変化を観察。
自分の能力は検証に留める。
初日は、絶対に動かない。
焦って外に出た人から、脱落してしまう世界だから。それに、最初の初動は自身の身体の変化に調子に乗る人が多い。
この世界は、もうゲームじゃない。死んだら終わる。
少なくとも、序盤は。
……まずは、【聖魔法】のレベルを上げて、安全マージンを取らないと。
窓の外を見る。
住宅街は、相変わらず静かだ。
でも、空は――確実に、別の層を孕んでいる。
「……来るね」
小さく呟く。
兄が、振り向いた。
「何が?」
「変化…本番が」
「そっか」
それでも、兄は笑った。
「まあ、その時はその時だろ。何があっても、俺がお前を守るから安心しな」
……強いな、本当に。
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
大丈夫、まだ余裕はある。
世界が私の敵になるなら、私は迷わず世界の方を壊す。
私が世界に牙を剥く、その瞬間までは――この家で、息を整えていこう。
静かに。
慎重に。
それでも、確実に前へ進むために。




