第18話
――私は、息を止めていた。
音が消える。
正確には、消えたというより……上書きされた。
ミズガルズの夜。
石畳。松明。噴水の水音。その全てが薄い膜を通したみたいに遠ざかり、代わりに均一な振動が世界を満たす。
《システムアナウンスを開始します》
来た。
私は歩みを止め、静かに目を閉じる。心拍数は、上がっていない。むしろ、少し落ち着いたくらいだ。
――やっぱり、ここで来るか。
《環境同期率に、急激な変動を確認》
《補正フェーズを省略します》
補正省略。
その一文だけで、背筋がひやりとした。
安全装置を外した、という意味だ。
《環境同期率:12%》
《環境同期率:27%》
空気が変わる。
今まで作られた現実だった世界が、急速に現実としての説得力を帯びていく。
風が、皮膚を刺す。
石畳の冷たさが、靴底を越えて骨に届く。
《環境同期率:49%》
視界の解像度が、一段階上がった。
遠くの建物の壁のひび割れ、看板の木目。
NPC――いや、もうそう呼ぶのが不自然な人々の、微妙な呼吸のズレ。
「……」
口には出さない。
想定内。
これまで拾ってきた違和感。
隠された本。
アクセス制限のかかった文献。
世界の設定にしては、あまりにも意味を持ちすぎていた記述。
全部が、ここに繋がっている。
《環境同期率:73%》
足元が、重い。重力そのものが増したような感覚。
――違う。
私自身が、世界に縫い付けられていく感覚。
《最終フェーズに移行します》
《環境同期率:100%》
光が、来る。
白い。音も、匂いも、方向も失われる。
私は、最後に一つだけ考える。――間に合った。
――――――――――――――――――――
そして、目を開けた。
天井。
白い。見慣れた、我が家の天井。
「……」
私は、すぐには動かない。
呼吸。
鼓動。
重力。
ひとつずつ、確認する。
布団の感触。
シーツの匂い。
朝でも夜でもない、部屋の静けさ。
――ログイン地点は、自宅。
原作通りでよかった。
少し安堵する。別の場所である可能性も想定していたから。
ゆっくりと、手を上げる。
指が、細い。
現実の私とよく似た、でも現実の私の手ではない。
爪の形、指の長さ、関節の角度全てが少しずつ違う。
「……やっぱり、ね」
声は、落ち着いていた。
身体を起こす。視界の端に、何も表示されない。
バイザーは、ない。UIも、半分以上が沈黙している。
代わりに、世界が直接、情報を渡してくる。
《環境同期率:100%》
《統合は正常に完了しました》
淡々とした宣告。
《本世界は、以後現実として扱われます》
《プレイヤーは各自のログイン地点に固定されました》
「……だろうね」
呟きながら、ベッドから降りる。
足が床に触れた瞬間、はっきりと分かる。
この身体は、完成している。
筋肉のつき方。
魔力の循環。
感覚器官の精度。
…現実ではありえない、背中についている羽の感覚。
全てが、ゲーム内で育てたキャラクターそのものだった。
鏡を見る。
そこにいるのは、私だ。
でも、現実の私じゃない。
瞳の色。
髪の質感。
――全部、あの世界の私。
……自分好みの外見にしておいてよかった。
まぁ、これを想定していたからこそ、キャラクターメイクには力を入れていたんだけど。
「……世界が、やり切ったみたいだね」
軽く、息を吐く。
《世界各地に接続ゲートが出現しています》
《ゲートは段階的に解放されます》
《現在位置では未確認です》
やっぱり。
直接侵食じゃない、段階的開放だ。
現実側に、選択権を残している。
「優しいのか、残酷なのか……」
カーテンを少しだけ開ける。
外は、いつもの住宅街。
でも、空が違う。深く、情報量が多い。
ミズガルズの空と、同じ層を持っている。……月が、二つに増えていた。
「……融合、完了」
胸の奥が、少しだけざわつく。
怖い、重い。
世界のルールが、根こそぎ書き換えられた。
それを、ちゃんと理解している。
理解しているからこそ――
「……ふふ」
口元が、ほんの少し緩んだ。
だって。
原作は、嘘をつかなかった。
あの呪文は、意味を持っていた。
私の選択は、世界に届いた。
「……やっと、スタート地点だね」
廊下の向こうから、微かな物音がする。
――兄だ。
多分、起きてる。
あの人はきっと慌ててる。でも、すぐに受け入れる。
そういう人だから、大丈夫。
「……大丈夫だから」
誰に言うでもなく、そう呟く。
この世界は、壊れたんじゃない。拡張された。
危険は、これから山ほど出てくる。
ゲートの向こうも、原作みたいな地獄の場所がきっとある。
でも。
「ちゃんと、楽しい」
心の奥で、小さく弾む感情を感じながら、私はドアノブに手をかけた。
冷静に。
慎重に。
――それでも、少しだけワクワクしながら、新しい現実へ歩き出すために。




