第17話
突然、空が鳴った。
雷でも、爆発でもない。
音という概念だけが天から落ちてきたような、均一で逃げ場のない振動。
次の瞬間、聞き慣れた、聞きたくなかった声が、あらゆる方向から同時に響いた。
《システムアナウンスを開始します》
「……は?」
剣を構えたまま、思わず動きが止まる。
周囲のプレイヤーたちも、同じだ。誰一人、次の動作に移れない。
《環境同期率に、急激な変動を確認》
《補正フェーズを省略します》
ログウィンドウが、視界の端で一斉に弾けた。
《環境同期率:12%》
《環境同期率:27%》
《環境同期率:49%》
「ちょ、ちょっと待て!?」
数字が跳ね上がるたび、空気が変わる。
月明かりが強くなり、星の配置が歪み、遠くの山並みが**“現実の解像度”**を帯び始める。
草を踏む感触が、急に重くなった。
風の冷たさが、皮膚の奥まで染みてくる。
《環境同期率:73%》
「おい、これ……ヤバくないか?」
「同期って、こんな……!」
誰かが叫ぶ。別の誰かは、もう言葉を失っている。
俺は、咄嗟にUIを開こうとして――気づいた。
「……反応が、遅い?」
指を動かしてから、表示が出るまで、ほんの僅かなラグ。
今までなかった現実みたいな遅延。
《最終フェーズに移行します》
《環境同期率:100%》
――光が、来た。
眩しい、というより、包まれる。
上下も前後もなく、音も匂いも、すべてが白に溶ける。
「うわ――!」
足元の感覚が消える。落ちているのか、浮いているのかも分からない。
仲間の声も、剣の重さも、全部が遠ざかっていく。
最後に思ったのは、あまりにも脳天気なことだった。
……あ、これ、ログアウトの演出じゃないな。
そして――目が、覚めた。
天井が見える。
「……?」
一瞬、状況が飲み込めない。
白でも石でもない、見慣れた天井。うっすらとした木目。小さな染み。昔、妹が投げた消しゴムの跡。
「……あ?」
身体を起こすと、布団がずれる音がした。
柔らかい。軽い。――現実の布団だ。
「え、ちょ……」
慌てて顔を触る。
バイザーが、ない。ゴツい装着感も、視界のフレームも、何も残っていない。
代わりに、指先に伝わるのは、自分の肌の感触。
「……夢か?」
そう思いかけて、違和感が首をもたげる。
手を見る。
違う。
俺の手は、こんなに傷だらけじゃない。
指の節が太く、掌に硬いマメがあり、爪の形まで――
「……これ、キャラクターの手じゃん」
喉がひくりと鳴る。
布団を跳ね除け、勢いよくベッドから降りる。
床に足がついた瞬間、重量がはっきりと伝わってきた。
軽すぎず、重すぎず。
現実と同じはずなのに、なぜか「確かさ」が増している。
「……え、ちょっと待って」
部屋を見回す。
俺の部屋だ。
本棚。机。積みっぱなしの漫画。壁に貼った、少し色褪せたポスター。
全部、現実のまま。
なのに。
姿見に映った自分を見て、言葉を失う。
「……は?」
そこに立っていたのは――ゲーム内で使っていたキャラクターそのものの俺だった。
髪の色が違う。本来の俺は白に近い短めの金髪だけど、いまは肩まである銀色の長髪だ。
体格が違う。現実より少し背が高く、無駄な肉が削ぎ落とされた、戦うための身体。
着ているのも、部屋着じゃない。
革のインナーと、軽装の装備。
「……いやいやいやいや」
頭を抱える。
「情報量、多すぎだろ……!」
息を整えようとするが、心拍数は正直だ。
ドクドクと、妙に力強く脈打っている気配がする。
そのとき。
聞こえた。
耳じゃない。部屋の中でも、外でもない。
世界そのものから、直接届く声。
《環境同期率:100%》
《統合は正常に完了しました》
「……やっぱり、夢じゃねぇ」
思わず、乾いた笑いが漏れる。
《本世界は、以後現実として扱われます》
《プレイヤーは各自のログイン地点に固定されました》
ログイン地点。
つまり――
「……家、か」
ベッドを見下ろす。いつも使っている、俺のベッド。
ゲームに入る前、確かにここに横になっていた。
「……なるほど」
少しずつ、理解が追いついてくる。
俺たちは消えたんじゃない。
どこかに飛ばされたわけでもない。
……世界が、上書きされた。
《世界各地に接続ゲートが出現しています》
《ゲートは段階的に解放されます》
《現在位置では未確認です》
「……ゲート、ね」
窓に近づき、カーテンを開ける。
外は、いつもの住宅街。電柱。アスファルト。遠くを走る車の音。
――変わっていない。
でも。空が、ほんの少しだけ、深い。
色が濃く、奥行きがある。
あの世界で見た夜空と、どこか同じ質感。
「……世界が、繋がったってことか」
現実は現実の顔をしている。でも、その裏側に、ゲームの世界が重なっている。
入口は、ゲート。
今は、まだここにはない。
「……はは」
思わず、声が出た。
「いきなり外にモンスターとか出なくてよかった」
それだけで、かなり助かる。
少なくとも、朝のゴミ出しでゴブリンと鉢合わせ、みたいな事態はなさそうだ。
ふと、妹のことが頭をよぎる。
「……あいつ」
今頃、どうしてるんだ。
同じ家にいるはずだ。
ログイン地点が自宅なら、妹も――
「……後で、確認するか」
胸の奥が、少しだけざわつく。
でも、不思議と、パニックにはならなかった。
怖くないわけじゃない。現実が変わった事実は、重い。
それでも、妹がいるなら大丈夫だと思えた。
あいつがどうにかする。そんな根拠のない確信があった。
身体はちゃんと動く。
世界は壊れていない。
俺は、ここにいる。
「……よし」
深呼吸して、背筋を伸ばす。
「状況整理だ」
指を折りながら、確認する。
「ログアウト不可」
「身体はキャラ準拠」
「世界は融合済み」
「ゲート経由でゲーム世界に入る」
そして。
「……この身体、普通に強いよな」
軽く腕を振る。空気を切る感覚が、妙に気持ちいい。
ゲームの中で、何度も振った剣の感触が、身体に残っている。
「……悪くない」
現実が一変した。
間違いなく、異常事態だ。
でも。
「生きてるし、動けるし、家もある。それに、あいつもいる」
それだけで、十分だ。
少なくとも――
「詰んでは、ない」
俺は部屋を出る。
いつも通る廊下。いつもより、少しだけ足音が重い。
新しい現実の重さ。
「……さて」
階段を降りながら、思う。
「この世界を、どう楽しむかだな」
まだ、ゲートは見えない。
まだ、何も始まっていない。
――でも。確実に、始まってしまった。
「一体どうしてこうなった……」
そう思いながら、俺はリビングへ向かった。
この家で、この身体で、この世界を生きるために。




