第15話
放課後。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一段階だけ軽くなる。
椅子が鳴り、鞄が持ち上がり、あちこちで「じゃあな」「また夜な」という声が飛ぶ。
――夜。
その単語が、もう時間帯じゃなく、行為を指している。
私は、周囲と同じ速度で立ち上がり、同じ流れで教室を出た。
早すぎず、遅すぎず。
目立たない、ちょうどいい歩幅。
ガラス越しに見える夕焼けは、現実の色をしている。
少し赤くて、少し眩しくて、少しだけ寂しい。
……なのに。
影の伸び方が、ミズガルズの夕方に似ている、と思ってしまった。
「分類ミスだね」
小さく呟いて、視線を切る。
帰り道は、朝と同じ道。でも、朝より人が多い。
スマートフォンを見ながら歩く人。
イヤホンをつけたまま、口元だけ動かしている人。――たぶん、ボイスチャット。
現実と仮想の「移行」が、すでに日常動作に組み込まれ始めている。
家に着く。
鍵を開ける。
玄関の匂い。
……ちゃんと、我が家だ。
「ただいま」
「おー、おかえり」
リビングから、兄の声。
すでにバイザーが首に掛かっている。
「早いな」
「今日は様子見って言ったでしょ」
「様子を見るために入るんだろ?」
否定できない。
靴を脱ぎ、鞄を置く。制服をハンガーに掛ける、その動作が、やっぱり滑らかすぎる。
……切り替えないとだ。
「夕飯どうする?」
「軽めでいい。あとで集中切れると嫌だ」
「もう完全にゲーマーの発言じゃん」
兄は笑う。
私は笑わない。
部屋に戻り、ドアを閉める。
ベッド。
机。
バイザー。
それが「ただの機材」だった頃を、もう少し、思い出せなくなっている。
椅子に座って深呼吸。
「目的を、再確認しよう」
小さく声に出す。
・異常の進行速度を把握する
・同期率の上昇条件を探る
・ログアウト制限のトリガーを特定する――そして、生き残る
あと、私個人の生存と主導権の確保。
バイザーを手に取る。
内側のクッションに、わずかに体温が残っている。
装着。
暗転。――ログイン。
浮遊感は、もう説明不要だ。問題は、その「後」。
光が開く。視界が接続される。
ミズガルズの街のログアウトポイント。
……帰ってきた、という感覚が、あまりにも自然だった。
足元の石畳。
空気。
人の気配。
身体が、即座に馴染む。調整時間0。
《ログインを確認しました》
《環境同期率:5%》
……上がってる。
しかも、ログイン直後。
「早いな」
兄の声。
隣を見ると、すでに完全同期して立っている。
「昨日より、軽くないか?」
「軽い。軽すぎる」
重さがない、という意味じゃない。
抵抗がない。
現実から切り替わるときにあったはずの「境目」が、ほぼ消えている。
周囲を見る。
プレイヤー数が、さらに増えている。
装備が揃っている。動きが洗練されている。
……二日目の夜じゃない。
広場の中央。
噴水。
NPC。
衛兵が、こちらを見て――目を細めた。
認識された。プレイヤーとして、じゃない。「存在」として。
背中に、ぞわりとした感覚が走る。
「兄さん」
「分かってる。今、見られた」
「うん」
UIを開く。ステータスの数値に異常はない。
でも、その下。
《感覚補正:最適化中》
……補正?
「ねえ、これ」
「見えてる。昨日なかったよな」
原作には、ない表記だ。
私は、静かに一歩踏み出す。石畳の感触が、完璧だ。
完璧すぎる。
「……いい」
「何が?」
「大丈夫。想定内」
嘘じゃない。少し、修正が入っただけだ。
私は、周囲を見渡す。
人。
街。
空。
全部、揃っている。なら――使える。
「今日は、深入りしない」
「昨日も似たこと言ってなかった?」
「昨日より、状況が進んでる」
私は歩き出す。兄も、黙って隣に並ぶ。
夜のミズガルズは、静かで、騒がしい。
……現実と同じ。
違うのは。
――ここでは、世界が私の意思に応答し始めている、という感覚だけ。
なら、もういい。私は好きにやってやろうじゃないか。
いつまでも怯えていられない。時には大胆に、そしてゲームは楽しむべきものだ。
……そうでしょう?
兄とは、噴水広場の角で別れた。
「じゃ、俺はギルド寄ってから狩りだな」
「うん。私は少し街を見る」
「少し、ね」
疑わしげな視線を向けられるが、否定もしない。原作的に言えば、ここから行動を共にするメリットは薄い。
兄は兄で、正攻法を選べばいい。
私は――裏を行く。
彼が人混みに紛れていくのを見送り、私は逆方向へ歩き出した。
ミズガルズ旧市街。
石畳の色が微妙に濃く、建物の壁が少しだけ歪んでいるエリア。観光価値は低く、クエスト効率も悪い。
だから誰も来ない。
道沿いの店は、武器屋、酒場、防具屋。どれも普通の店だ。
その中で一つだけ。
看板の文字が、わずかに掠れている店がある。
《古書店アーケインリーフ》
βテスト時点では、店名すら表示されない。
正式版でようやく入ることができるようになる場所。
扉を押し、中に入る。
カランと鈴の音が鳴った。
中は、暗い。照明が足りないのではなく、影が多い。
埃の匂いと、紙の匂いが混ざった、落ち着く空気。
棚。
棚。
棚。
魔導書、日記、宗教書、意味不明な図形が描かれた紙束。
全部、アイテム名は《古い本》で統一されている。
「……健在だね」
私は、店の奥へ進む。床が、きしむ。
店主はいない。というより、最初から「存在しない」。この店は、イベント用の舞台装置だから。
棚の三段目。
左から七冊目。
原作知識は、曖昧だが――条件は覚えている。
夜に一人で、同期率5%以上でまだ誰にも話しかけていない状態の時。
今の私に、ぴったりだ。
指を伸ばす。
触れた瞬間、画面が一瞬だけ揺れた。
《――認証》
音声ではなく、感覚で届く。
本を引き抜くと、棚の奥に、もう一冊。
表紙がない。タイトルもない。
それでも分かる――これが「隠し本」だ。
原作では、正式サービス開始から三ヶ月後。
検証勢が偶然発見し、それも解析は不可能だった。この本は、これから更に半年後に、主人公が手にしてようやく使うことができるようになった本だ。
……普通は。
本を開く。文字が、読めない。
いや、読める。意味が、直接流れ込んでくる。
呪文。
詠唱文は短い。でも、声に出す必要がある。
周囲を確認する。誰もいない、外の音も遠い。
なら、いい。
『――アーカ・ルーメン。虚飾を剥がし、真を示せ』
声は、静かだった。それでも空気が震えた気がした。
本が、光る。
光はすぐに収束し、私の胸元に吸い込まれる。
《隠し条件達成》
《固有スキルを獲得しました》
……来た。
《固有スキル:【真実の眼】》
《ランク:EX》
《効果:視認対象の「本質」「偽装」「隠蔽情報」を常時表示》
説明文の下に、警告。
《※このスキルはバランス調整の対象外です》
《※取得経路は非公開です》
つまり――完全なチート、不正行為に入る。
まぁ、これをナーフするなんて運営にはできない。すでに人の手が入った固有スキルやステータスは変更できないと決まっているからだ。
視界が、変わる。
棚を見る。ただの《古い本》だったはずのものに、注釈が走る。
《未発動クエスト》
《封印知識》
《NPC人格ログ》
壁を見ると、隠し扉。床を見る、トラップがあった。
世界が、「説明を始めた」。
「……なるほど」
これだ、私が欲しかったのは。……レベルでも、装備でもない。世界の裏側に触れる手段。
UIを閉じた。視界は――戻らない。
常時発動、解除不可だヵらだ。
強すぎる。でも、問題ない。
私は、本を棚に戻し、店を出る。
外の空気が、少し冷たい。夜のミズガルズは、相変わらず綺麗だ。
通りを歩くプレイヤーたち。彼らの頭上にも、情報が見える。
《βテスター》
《初心者》
《危険思想》
……便利だな。
噴水広場の方角を見る。兄は、もう見えない。
少し、胸が軽くなる。
「大丈夫」
誰に向けた言葉でもなく、呟く。
「人間が項目に見えるのも、慣れれば悪くない。大丈夫だ」
少なくとも――私にとっては。
石畳を踏みしめ、私は歩き出す。今度は、目的も不安もない。
ただ、楽しむために。




