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第13話

 バイザーを外してから、数秒間、動けなかった。


 現実の天井は、相変わらず何の変哲もない白だ。

 蛍光灯のカバーに、うっすらと埃が溜まっているのも、いつも通り。


 ――なのに。


 呼吸をするたび、肺の奥に草原の空気が残っている気がした。

 湿った土の匂い。冷たい風。あの世界の「外気」。


「……深呼吸、っと」


 意識して息を整える。

 鼻を通る空気は、ちゃんと日本の住宅の匂いだ。洗剤と、少しだけ畳。

 ……戻ってはいる、完全じゃないだけで。


 ドアの向こうから、足音。


「おーい、生還者」


 兄の声だ。


「生還って言うな」

「言いたくもなるだろ。なんだよ、最後のあれ」


 ドアが開き、兄が顔を出す。

 私を見るなり、少しだけ眉をひそめた。


「……顔色、悪くないか?」

「普通」

「普通じゃない時にその返事するよな、お前」


 否定はしない。


 立ち上がると、軽いめまい。

 重力の向きが、ほんの一瞬だけズレた気がする。


 ――大丈夫。床は、ちゃんと固い。


「夕飯前に風呂入っとけ」

「うん」


 廊下に出ると、リビングからテレビの音が聞こえた。

 普段は夕方の情報番組を流し見するだけの時間帯。


 ……なのに、今日は音がやけに耳に残る。


『続いてのニュースです』


 アナウンサーの声。

 落ち着いた、いつも通りのトーン。


 私は、無意識のうちにリビングを覗いていた。


 画面には、見慣れたスタジオ。

 だが、テロップの内容に、足が止まる。


『次世代VRゲームにアクセス集中!体調不良訴える声も』


 ……来た。

 兄も気づいて、私を見る。


「おい」


 ソファに腰掛けると、画面が切り替わった。

 街頭インタビュー。若者。会社員。学生。


『ログアウトしたあとも、なんか感覚が残ってて』

『夢と現実の区別が一瞬つかなくなった』

『でも、危険とかじゃないと思います』


 ……その「でも」が、一番危ない。


『運営側は「安全性に問題はない」とコメントしています』


 画面の端に、小さく表示される公式声明。


 ――その文言は。

 ゲーム内アナウンスと、ほぼ同じだ。


「……一致してる」

「何が?」

「運営のコメント。中のアナウンスと」


 兄は黙り込む。


『専門家によりますと、没入感の高いVR体験による一時的な感覚混同は――』


 専門家。

 いつもの言葉。

 いつもの説明。


 だけど、私は知っている。この現象は、想定されていない。


 少なくとも、原作では。


「なあ……」


 兄が、テレビから目を離さずに言った。


「これ、マジで大丈夫なのか?」

「……今の段階では、まだ」

「まだ?」

「現実に影響が出てるって認識されてない」


 それが、一番の問題だ。

 ニュースは、軽い注意喚起で締めくくられる。


『長時間のプレイは控え、体調に異変を感じた場合は――』


 画面が切り替わり、天気予報が始まった。


 ……もう終わり。


 私は、指先を見つめる。

 微かに、痺れが残っている。


「今日の同期率、4%だった」

「それが、どれくらいヤバい?」

「三日分、進んでる」


 兄が、低く息を吐いた。


「二日で?」

「二日で」


 沈黙。


 遠くで、車の音がした。現実は、いつも通り動いている。

 ……まだ。


「兄さん」

「ん?」

「明日、学校でもこの話題、もっと出る」

「だろうな」

「たぶん、ログインする人も増える」


「……だろうな」


 私は、はっきり言った。


「だから、止まらない」


 兄は苦笑した。


「止まる気、最初からないだろ」

「うん」


 否定はしない。


 風呂に入り、身体を温めても、感覚の残り香は消えなかった。

 湯気の向こうに、一瞬だけ草原の色が混じった気がして、目を閉じる。


 ベッドに入り、天井を見る。


 現実。

 現実だ。

 ……そう、言い聞かせる必要がある時点で、もう遅い。


 枕元のスマートフォンが震えた。


《インフィニット・オンライン 運営より》


 開かない。

 胸の奥で、嫌な予感が静かに膨らんでいく。


 スマートフォンは、しばらく震えたまま沈黙した。


 通知ランプだけが、暗い部屋で小さく脈打っている。

 まるで心拍計みたいだ、と思ってから、その連想を切り捨てた。


 ――見ない。

 今は、見ない。


 私は画面を伏せ、枕の下に押し込む。

 物理的に視界から消せば、存在もしばらくは消える。そういうことにしておく。


 目を閉じる。


 暗闇。

 天井。

 自分の呼吸。


 ……なのに。耳の奥で、風の音がした。


 さっきまで入っていたはずの風呂の換気音とは違う。

 もっと広い。遮るものがない音。


 草を撫でる、あの音だ。


「……違う」


 小さく呟く。声はちゃんと、現実の喉を震わせた。


 目を開ける。

 部屋は変わっていない。カーテンの隙間から、街灯の光が細く伸びている。


 問題ない、これはただの残像だ。……そう、分類しておく。


 布団の中で寝返りを打つ。

 シーツの感触が、指先に引っかかる。


 ――引っかかる、という表現が浮かぶ時点で、少しおかしい。


 本来なら「触れる」で終わる。

 でも、今日は違う。

 繊維の一本一本を、指が数えてしまう。


 解像度が、高い。


「……感覚残留、睡眠時まで持ち越しか」


 独り言が、やけに冷静だった。

 自分でも、少し引く。


 時計を見る。23時42分。

 原作だと、この時間帯は――思考が、そこで止まった。


 原作、原作、と頼り続けるのは危険だ。

 もう、ズレている。

 加速している。

 先読みが、逆に足を引っ張る段階に入りかけている。


 ……一旦、整理をしないと。


 私は頭の中で、チェックリストを作る。


 ・現実への感覚残留(嗅覚・触覚・聴覚)。

 ・運営コメントとゲーム内文言の一致。

 ・環境同期率のリアルタイム上昇。

 ・ログアウト制限の前倒し発生。

 ・外部メディアでの「安全」強調。


 どれも、単独なら誤差だ。でも、揃いすぎている。

 布団の中で、ゆっくりと息を吐く。


「……詰み、ではない」


 まだ、ではある。


 そのとき。コン、と小さな音。

 自分の部屋の、窓。

 反射的に体が強張る。でも、すぐに理由が分かった。


 風だ。

 夜風が、窓枠に当たっただけ。


 ……だけのはず。


 カーテンが、わずかに揺れる。その隙間から、外の街灯が揺らめく。

 一瞬だけ。


 ――その光が、松明の色に見えた。


「……」


 私は、何も言わなかった。

 言語化した瞬間、現実になる気がしたから。


 いつの間にか手を強く握りしめていたのは。

 通知を見た瞬間、吐き気が私の中で渦巻いた気がしたのは。

 ……全部、気のせいだ。そう、頭の中で強く繰り返す。


 今は何も見たくないから……目を閉じて、数を数える。


 一、二、三。


 光は、街灯のままだ。音も、車の遠ざかる音に戻っている。

 ……大丈夫。


 スマートフォンが、再び震えた。

 今回は、無視できなかった。


 私は、ゆっくりと枕元からスマートフォンを引き出す。画面を伏せたまま、深呼吸。


 ――逃げても、明日は来る。


 覚悟を決めて、画面を点けた。


《インフィニット・オンライン 運営より》

《重要なお知らせ》


 予想通りすぎて、逆に冷静になった。

 指で、開く。

 文章は、丁寧で、柔らかく、よく練られていた。


『現在、一部のプレイヤー様より高い没入感に関するご報告をいただいております』

『これは次世代VRシステムによる正常な反応であり――』


 ……正常。


『より良い体験提供のため、環境同期機能を段階的に最適化しております』


 ――同期、って言った。

 画面をタップする指が、一瞬止まる。


『なお、安全性に関する懸念は確認されておりません』

『引き続き、安心してお楽しみください』


 最後に、小さく追記。


『※一時的にログアウト機能が利用しづらくなる場合があります』


 ……利用しづらく。

 言い回しが、妙に現実寄りだ。


「……はぁ」


 溜息が出た。それは怒りでも恐怖でもない、純粋な疲労だった。

 画面を閉じる。

 ベッドに沈み込む。


 運営は、もう「異常」を隠すフェーズに入っている。

 それは、原作より二段階早い。


 目を閉じた瞬間。

 視界の裏に、UIが浮かんだ。薄く、半透明で、現実の天井に重なるように。


《環境同期率:4%》


 表示は、すぐに消えた。


 ……夢。

 そういうことに、しておく。

 だけど、心臓の音が少し早い。


 二日目の夜は、まだ終わっていない。

 現実は、確かにここにある。でも、その輪郭は、少しずつ――削られ始めていた。


 そして私は、理解していた。

 この侵食は、誰かが止めない限り「ログアウト」では、終わらない。


 眠りに落ちる直前。草原の風が、また耳元を撫でた。


 三日目は、もう始まりかけている。

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