第12話
街へ引き返す道は、来たときよりも妙に長く感じられた。
距離そのものは変わっていない。
ミニマップの縮尺も、歩行速度も正常値だ。
それなのに――足運び一つ一つに、現実と同じ疲労が溜まっていく。
「……なあ」
兄が歩きながら、靴底で小石を蹴った。
「さっきのアナウンス、もう一回聞こえたりしないよな?」
「しない。たぶん一回きり」
「だよな……」
不安を振り払うような声。それでも、視線は何度も空に向かっている。
空は、相変わらず美しかった。
解像度が上がったというより、現実の空に近づいている。雲の縁が滲まず、光の反射が自然すぎる。
……自然すぎる、という違和感。
街の門が見えてくる頃には、周囲のプレイヤー数が明らかに増えていた。
さっきまでは二、三人だった帰還組が、十人、二十人と連なっている。
皆、表情は似通っていた。
興奮。
困惑。
そして、微妙な高揚。
「おい、聞いたか? 同期だってよ」
「嗅覚オンとか聞いてないんだけど」
「でもさ、正直ヤバくね? リアルすぎて」
――ヤバい、けど楽しい。その温度感が、一番危険だ。
門をくぐると、街は別物になっていた。
昨日より露店が増え、NPCの移動量が増加している。
鍛冶屋の前には列。
酒場からは笑い声。
広場では、初心者向けのパーティ勧誘が半ば怒号になっている。
……二日目の街じゃない。
原作三日目の、夕方。
それに、限りなく近い。
「人、多すぎだろ……」
「増加率が異常」
私はUIを開き、ログの更新速度を見る。
掲示板はほぼ流し読み不能。システムログには、細かい調整通知が数秒おきに追加されている。
《環境同期に伴う微調整を実施しました》
《NPC行動パターンを最適化しました》
《物理演算精度を向上しました》
……最適化?
向上?
その言葉が、喉に引っかかる。
「兄さん、聞いて」
「ん?」
「この手の調整、本来はメンテナンス挟む」
「……ああ」
「リアルタイムでやってる時点で、普通じゃない」
兄は一瞬、笑おうとしてやめた。
「普通じゃないのは、もう分かったって」
それもそうだ。
私たちは広場の端、人の流れが少し緩い場所に移動した。噴水の水音が、やけに現実的に耳に響く。
水飛沫が、頬にかかる。
冷たい。
……冷たい。
反射的に頬に触れる。
感触が、残った。
「……残留、強すぎ」
思わず呟く。
「何?」
「何でもない」
私は深呼吸して、情報整理に入る。
原作との差異。
環境同期:五日以上前倒し。
全体アナウンス化。
NPC挙動の高度化。
ログアウトUIの一時消失。
感覚残留の強度上昇。
どれも、単体なら調整ミスで済む。でも、全部同時は説明がつかない。
「なあ」
兄が、少し声を落とす。
「これさ……戻れなくなる、とかはないよな?」
私は、即答できなかった。
原作では「戻れなくなる」段階は、まだ先。
七日目の夜、限定条件下のみ。
でも――もう原作は信用できない。
「……今は、戻れるはず」
「はずか」
「うん。はず」
兄は苦笑した。
「まあ、お前がそう言うなら信じるしかないな」
信じる、か。
その言葉が、やけに重く感じられた。
広場の中央で、突然ざわめきが起きた。
「おい、あれ見ろ!」
視線が集まる。
一人のプレイヤーが、地面に膝をついていた。
ログアウト姿勢――の途中で、固まっている。
「ログアウトできねぇ!」
「ボタン押しても反応しない!」
周囲が一気に騒然となる。
その光景を見て、背中に冷たい汗が伝った。
画面の向こう側で、誰かが“戻れない”という事実を、私は初めて現実のものとして想像してしまった。
反射的にUIを操作する。
ログアウト項目が、薄く点滅している。
完全に消えてはいない。……だけど、選択不可。
「……段階的制限」
原作四日目の挙動だ。
「兄さん」
「分かってる。騒ぐな、だろ?」
「うん。今は、情報だけ拾う」
騒ぎは、NPCの衛兵が介入することで一応収まった。
定型文のはずの制止が、今日はやけに柔らかい。
「落ち着いてください。現在、確認中です」
……確認中。
誰が?
どこで?
背中に、冷たいものが走る。
私は視線を逸らし、兄の袖を軽く引いた。
「今日は、ここまで」
「もう?」
「これ以上いると、判断が鈍る」
兄は頷いた。
「分かった。お前がそう言うなら」
ログアウト地点へ向かう。
足取りは重いが、意思ははっきりしている。
光に包まれる直前、視界の端に表示が走った。
《環境同期率:4%》
……増えてる。
しかも、滞在中に。
ログアウト処理が始まる。
浮遊感。
切断。
――そして、目を開ける。
自室の天井。
見慣れたはずの白。
なのに…鼻の奥に、草と土の匂いが残っていた。
私は、それが“ただの錯覚”だと信じようとした。
でも、もし錯覚じゃなかったら……その先の想像を、脳が拒絶した。
私は手汗の滲んだ手をゆっくりと握りしめた。
現実の指で、現実の感触がする。
……でも。
完全には、戻っていない。
二日目の終わり。
世界は、もう後戻りできない速度で――現実に、入り込んできていた。




