第10話
翌朝。
目覚ましが鳴る前に、目が覚めていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、いつも通りの色をしている。冬に近づきつつある朝の、少し白っぽい陽射し。
――現実だ。
昨日よりも、判断が早い。
それが良いことなのか悪いことなのかは、考えないことにした。
起き上がると、首筋にわずかな違和感が残っていた。
寝違えた、というほどではない。けれど、ローブの襟が触れていた位置を、皮膚が覚えているような感覚。
……気のせい、だ。
制服に着替え、洗面所で顔を洗う。水は、ちゃんと冷たい。
鏡の中の自分は、昨日と同じ顔をしている。
ただ、目の奥だけが少し冴えすぎている気がした。
朝食の席で、兄はすでに元気だった。
「なあ、今日もやるよな?」
トーストをかじりながら、当然のように言う。
「放課後ね」
「だよな! あ、聞いたか? もう掲示板で攻略スレ立ってるらしいぞ」
「……初日で?」
「初日だからだろ!」
その理屈は、正しいようで正しくない。初日だからこそ、情報は信用できない。
母が苦笑しながら言う。
「ほどほどにしなさいよ。目、悪くなるわよ」
「大丈夫だって、目じゃないし!」
兄は笑っている。
誰も、笑えなくなる未来の話はしていない。
学校へ向かう道は、いつもより少し騒がしかった。
登校中の生徒たちが、口々に同じ単語を使っている。
「昨日ログインした?」
「チュートリアル長くね?」
「サーバー、夜ちょっと重かったよな」
「俺、スライムに三回殺された」
……もう、死んでいる。
校門をくぐる頃には、ほとんど全員が《インフィニット・オンライン》の話をしていた。
流行、という言葉では足りない。
生活の一部として、自然に組み込まれ始めている。
教室に入ると、昨日以上の熱気だった。
席に着く前から、話題が耳に飛び込んでくる。
「種族ガチャ、マジで闇だわ」
「初日なのに、もうPKいたらしいぞ」
「リアルすぎて、夢に出たんだけど」
最後の一言に、私は一瞬だけペンを止めた。
夢に出た。
それは、原作二日目の掲示板でも見た書き込みだ。
前の席のクラスメイトが振り返る。
チャラついている男子生徒で、このクラスのムードメーカー。原作には出てきていないキャラクターだ。
なぜか私によくかかわってくる。
「なあ、昨日やった?」
「少しだけ」
「どうだった?」
「……思ったより、現実的だった」
「だよな!? 俺さ、ログアウトした後も足がふわふわしてさ」
彼は笑いながら言う。冗談のテンションだ。
…足がふわふわ。
私は曖昧に頷き、ノートを開く。
黒板の文字は、はっきり読める。
教師の声も、現実の音として耳に届く。
授業は成立していた。
けれど、生徒の意識は半分以上、別の世界に向いていた。
休み時間。
誰かが言った。
「今日、放課後ログインする奴、多そうだよな」
「当たり前だろ」
――そう。今日が、二日目だ。
原作では、ここから加速度的にプレイヤー数が増え、同時に“濃度”が上がる。
放課後、寄り道せずに帰宅する。
兄はすでに家にいて、落ち着きなくリビングをうろついていた。
「準備できてる?」
「もう三回チェックした」
無駄なところだけ丁寧だ。
部屋に入り、バイザーを装着する。
昨日よりも、接続までが早く感じた。
《接続中》
暗転。
――浮遊感。
昨日より、短い。そして、戻りが滑らかすぎる。
重力が、唐突に「在る」状態になる。
足裏に、石の感触。
少し冷たく、昨日よりもはっきりしている。
《ログイン完了》
始まりの街。
昨日よりも、人が多い。明らかに増えている。
通りには露店が増え、プレイヤーが声を張り上げている。
「回復薬安いよー!」
「素材買います!」
「初心者パーティ募集中!」
NPCの声と、プレイヤーの声が混ざり合い、境界が曖昧になっている。
兄が隣で、感嘆の声を漏らす。
「昨日より、街が生きてる感じしない?」
「してるね」
…街が生きている、か。
私はUIを開き、システム時刻を確認する。
正常。
だが、フレームの端が、ほんのわずかに揺れている。
……0.7秒。
増えている。
「今日は、どうする?」
兄が聞く。
「昨日の続き」
「また資材?」
「うん。でも今日は、少し深いところまで行く」
「深いって……」
兄は一瞬だけ、空を見上げた。
「……まあ、お前が言うなら」
街の出口へ向かう途中、視界の隅で奇妙なものを見た。
子供のNPCが、噴水の縁に座っている。
昨日はいなかった配置だ。
目が合った、気がした。――気のせいだ。
門をくぐると、風が吹いた。
草原の匂い。
昨日より、少し強い。
遠くで、誰かの悲鳴が聞こえる。
「助けて!」
兄が立ち止まる。
「なあ、今の――」
「関わらない」
「でも!」
「今は、まだイベントじゃない」
言い切ると、兄は口を閉じた。
正しい判断だ。でも、その「正しさ」が通用する時間は、長くない。
歩きながら、私は思う。
昨日は、侵食の兆候だった。今日は、進行中だ。
そして明日は――。
空を見上げる。雲の動きが、現実よりもわずかに遅い。
そしてそれを、美しいと感じてしまう自分がいる。
……危ない。
私は、視線を前に戻し、クエスト一覧を開いた。
やるべきことは多い。
準備できる時間は、少ない。
この世界が現実を飲み込む前に。
少なくとも、飲み込まれない位置には、立っていなければならない。
別に、騒動や事件なら主人公に任せていればいい。
――私はただ、自分の欲しいものを手に入れる。
二日目のログイン。
物語は、確実に日常を削り始めていた。




