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第9話

 目を開けると、見慣れた天井があった。


 白いクロス。

 天井の隅に残る、ほんの小さな影。

 蛍光灯の安定した光。


 ――現実だ。

 そう判断するまでに、ほんの一瞬、思考の確認が必要だった。

 それ自体が、すでに異常だと理解している。


 私はゆっくりと身体を起こし、バイザーを外した。

 外したはずなのに、額の内側がじんわりと熱い。視界の端が、ほんのわずかに滲む。


 完全没入型特有の残滓。β版でも経験はあるが、今回は「質」が違う。

 深い。感覚が、抜けきらない。


 指を握る。

 開く。

 シーツの感触は柔らかく、少しだけ温い。


 ……それなのに。

 脳の奥が、まだ石畳を探している。


「……0.6秒」


 独り言が、静かな部屋に落ちた。


 ログアウト直前。兄が次のクエストに浮かれている横で、私だけが感じ取った遅延。

 音が、ほんの一瞬だけ遅れた。

 視界の更新が、わずかに引っかかった。


 β版では、最大でも0.3秒。正規版初日は、0.2秒で安定するはずだった。


 なのに、0.6秒。

 ……原作三日目の数値だ。


 私は、机の上の時計を見る。

 秒針が進む。

 規則正しい。


 現実は、まだ壊れていない。

 ――まだ。


 コンコン、とノックの音。


「おーい、生きてるか?」


 兄の声。やけに大きく、はっきりしている。


「生きてるけど」

「返事が淡泊すぎる」


 ドアが開く。

 兄が顔を出した瞬間、私は一瞬だけ違和感を覚えた。

 ……影が、二重に見えた。


 瞬きする。

 消える。


 疲労のせい。そう処理する。


「なあ、さっきのクエストさ」

「うん」

「あれ、完全に当たりだよな?」


 兄は興奮気味だが、どこか慎重でもある。

 β当選者ではない分、この没入感に戸惑っているのがわかる。


「俺、途中からちょっと現実感なくなってさ」

「普通」

「普通なのかよ……」


 兄は頭を掻く。


「剣振った時の反動とか、草踏んだ感触とか」

「再現度、めっちゃ上がってる」

「だよな……?」


 私は頷く。

 原作では、この違和感に気づいたプレイヤーは少数だった。

 大半は「すごい」「リアル」で済ませて、深く考えなかった。


 ――考えなかった結果が、あの事件だ。


「明日も、一緒にやるよな?」


 少しだけ、声が抑えられている。

 さっきまでのテンションとは違う。


「条件付きで」

「条件?」

「私の言うことを、全部聞く」

「……はい」


 即答だった。

 兄は冗談めかして笑おうとして、途中でやめる。

 直感的に、これは冗談じゃないと理解したのだろう。


「正直さ」

「なに」

「お前、今日ずっと冷静すぎて怖い」


 私は少し考える。


「慣れてるだけ」

「何にだよ?」

「壊れかけのものに」


 兄は、それ以上踏み込まなかった。


 夕食は、いつも通りだった。

 味噌汁の湯気と炊き立ての米。箸が器に触れる音。


 母の声、父の相槌。兄の無駄に大きなリアクション。


 日常だ。

 何一つ変わっていない。

 ……はずなのに。


 味噌汁を口に運んだ瞬間、ほんの一瞬だけ、別の匂いが混じった。


 湿った土。

 草。

 血の、薄い鉄臭。


 私は、何事もなかったように咀嚼する。

 誰も気づかない。……気づいてはいけない。


 ……指先が、ほんのわずかに震えた。


 部屋に戻り、端末を閉じたまま、私はメモを取る。


 【初日観測ログ】

 ・遅延:最大0.6秒

 ・感覚残留:高

 ・現実側への侵食兆候:嗅覚・視覚に微弱


 ペン先が止まる。


 侵食兆候。原作では、二週間後の記述の筈だ。

 ……早すぎる。


 ベッドに横になり、目を閉じる。


 暗闇の中で、視界の端に淡い光が揺れた気がした。

 ステータスウィンドウの色に、よく似た光。


 もちろん、開いてはいない。表示されるはずがない。


 それでも、脳が錯覚する。

 ――境界が、薄くなっている。


 眠りに落ちる直前、耳元で、かすかな音を聞いた。

 カチ、と。

 クエスト受諾音に、よく似た音。


 私は目を開けなかった。


 まだ、見てはいけない。

 まだ、知らないふりをするべき段階だ。


 だが、確信だけはあった。


 この世界は、もう「ゲームだけ」の場所じゃない。

 そして現実もまた、安全圏ではなくなりつつある。


 正規版初日。

 物語は、原作よりもずっと深い場所で、静かに侵食を始めていた。

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