第1話
空から、音もなく白い粒が落ちてくる。
窓から見える景色。
道路も屋根も、少しずつ輪郭を失い、世界が柔らかな白に包まれていく。
――私はこの世界を知っている。
その事実を、私は12歳の冬に思い出した。
思い出した、という表現は正確ではない。
忘れていた記憶が戻ったというより、長い間、頭の奥底に沈められていた何かが、熱に浮かされることで浮上してきた――そんな感覚だった。
その日、私は突然高熱を出した。
理由は分からない。前日まで元気で、食事も普通に摂っていたし、喉が痛いわけでもなかった。ただ、夜になって急に寒気がして、布団に潜り込んだ直後、身体の芯から焼けるような熱が広がった。
視界が揺れる。
天井が歪み、壁の模様が意味のある形に見えては崩れていく。時計の秒針の音がやけに大きく感じられて、やがてそれすらも遠のいていった。
夢を見ていたのかもしれない。
けれど、その夢は、これまで見てきたどんな夢とも違っていた。
紙の感触があった。
指先に伝わる、少しざらついたページの感触。インクの匂い。コマ割りされた世界。吹き出しの中の言葉。
――漫画だ。
そう理解した瞬間、映像は加速した。
物語が流れ込んでくる。
真っ直ぐな目をした青年がいた。迷いながらも前に進み、仲間を得て、失敗し、それでも立ち上がる。VRMMOが社会の中心にある世界で、彼は努力と意思の力で道を切り拓いていく。
私はその物語を知っていた。
読んだことがある。何度も。
面白い作品だった。
王道で、少し捻くれていて、それでも心を打つ展開が多くて、続きが気になって仕方がなかった。
だけど、違和感があった。
物語の背景が、あまりにも「現実」に近すぎたのだ。
日本がVR技術の最先端を走り、政府主導の巨大ゲームが社会の基盤になる。ゲーム内での実績が評価され、プロゲーマーが憧れの職業として扱われる。
それは、私が今まさに生きているこの世界と完全に一致していた。
熱に浮かされた頭でも、それは理解できた。
これは偶然ではない、と。
恐怖は、意外なほど湧かなかった。
代わりに胸の奥からじわじわと広がってきたのは、奇妙な高揚感だった。
――知っている。
――先を、展開を、未来を。
青年がどんな選択をし、どこで苦しみ、どんな仲間と出会うのか。
どのイベントが重要で、どこで失敗すると取り返しがつかなくなるのか。
どの場面で手を出せば、世界は大きく変わるのか。
理解と同時に、思考が動き始めた。
もし、ここで一つ歯車をずらしたら?
もし、誰かと出会う順番を変えたら?
もし、本来なら彼が得るはずだったものを、別の誰かが先に掴んだら?
未来は一本の線ではない。
枝分かれし、絡み合い、収束する。
私はその分岐を、まるで地図のように俯瞰して眺めていた。
そのとき、はっきりと理解した。
私はこの世界でただ流される存在ではない、と。
欲しいと思った。
強さ。自由。立場。面白さ。
それらを手に入れるために動くことを、誰に咎められる理由もない。
善人である必要はない。かといって、無意味に壊す気もない。この世界は、あまりにも出来が良く、遊び甲斐があることを知った。
高熱が下がる頃には、覚悟はすでに固まっていた。
私は原作をなぞらない。
けれど、原作を無視もしない。
すべてを理解した上で、最も私が「得」をする選択をする。
目を覚ましたとき、世界はいつも通りだった。
見慣れた部屋。心配そうな家族の声。
けれど、私の中だけが、決定的に変わっていた。
あれから三年。
私は成長し、準備を整え、時を待った。
そしてようやく、物語が始まる時が来た。
――――――――――――――――――――
入学式が始まる。
ここは名門私立である白鷹高校、その体育館だ。
原作では主人公の青年、阿礼葵のライバルが在籍しているという設定の高校である。
そう、この高校には主人公は在籍していない。
私は必要以上に原作に関わるつもりはなかった。と言うより、原作と現実の出来事が大きくかけ離れることを恐れていた。
もう既に、私が介入したことにより原作と違うことは多々ある。
しかし、それら全ては私が計算し、原作とは大きく外れない、もしくは私が予想できる展開に持ち込めるという注釈がつく。
そのため、私は主人公が在校する黒桜高校に進学しなかったのだ。
もし何か誤りが起きて、主人公とヒロインたちの接触がなくなったら大問題だ。
逆に言えば、それさえあれば全てが大事にならずに済むということなんだけど。
何せ、この世界には既に原作の強制力というものがあることは確認済みだ。
そしてそれが主人公とヒロインたちにしか適応されないものだということは、検証の結果わかっていた。
体育館の天井から吊り下げられた白い幕が、空調の風でわずかに揺れている。
整然と並んだ椅子の列。新品の制服に身を包んだ新入生たちのざわめき。
そのすべてが、原作通りでもあり、原作とは無関係でもある光景だった。
壇上では、校長がありがちな祝辞を述べている。
「未来」「希望」「挑戦」――どれも聞き慣れた単語だ。
私は静かに周囲を観察していた。
まず確認するのは名前だ。
この場に、原作で重要な役割を担う人物はいない。
白鷹高校は、主人公のライバル枠が所属する学校。つまり、物語の主軸ではなく、外縁に位置する場所だ。
視線を巡らせると、何人か「覚えのある顔」が見つかる。
原作では数行の説明で済まされていた人物。
後に大会で名前が一度だけ出てくる選手。
あるいは、主人公に敗北するためだけに用意された存在。
――彼らは、強制力の外にいる。
これが、私にとって最大の利点だった。
原作の強制力は、万能ではない。
イベントを完全に固定するわけでも、因果を全て支配するわけでもない。
ただし、主人公とヒロインたちの「境遇」や「越えるべき壁」だけは、何度検証しても覆らなかった。
逆に言えば、それ以外は驚くほど柔らかい。
ライバルの成長速度。
サブキャラの進路。
大会の勝敗の細部。
少しの介入で、簡単に歪む。
校長の話が終わり、拍手が起こる。
続いて、生徒会長の挨拶。原作にも名前がない人物だ。彼女は少し緊張した様子でマイクを握り、噛みながらも必死に言葉を紡いでいる。
私は拍手をしながら、別のことを考えていた。
――そろそろ、だ。
原作の時間軸では、主人公・阿礼葵が《インフィニット・オンライン》を本格的に始めるのは、入学から数週間後。
その前段階として、いくつかの「準備イベント」が存在する。
その中の一つが――「クローズドβテスト」。
白鷹高校には、原作では軽く触れられるだけの設定がある。
校内に、VR関連の研究施設が存在すること。
そして、その施設経由で、βテストの追加枠が数名分、学校側に割り当てられていること。
原作では、その枠を使った生徒はモブ扱いだった。
名前すら出ない。
だが、私はそこに目をつけていた。
拍手が鳴り止み、入学式が終わる。
新入生たちはクラスごとに誘導され、体育館を後にしていく。
私はその流れに逆らわず、静かに歩いた。
無理に目立つ必要はない。
原作知識を持つ転生者がやりがちな失敗は、「早く結果を出そうとすること」だ。
廊下の掲示板に貼られているクラス分けの紙。
――あった
1年B組。
原作では、後に主人公のライバルとなる人物が在籍するクラス。
正確には、彼が「覚醒するきっかけ」を掴む場所。
私はその名前を確認し、心の中で小さく頷いた。
問題ない、予定通りだ。
私のクラスは…残念ながら、別のようだ。
教室に入ると、すでに何人かが席に着いていた。私は窓際の後ろから二番目で視界が広い。
席に腰を下ろした瞬間、背筋に微かな違和感が走った。
――視線。正確には、視線の質だ。
ただの好奇心でも、偶然でもない。こちらを値踏みするような、計算を含んだ目。
私は気づかないふりをして、カバンを机に掛ける。だが、内心では即座にデータを照合していた。
1年A組。
この教室にも、原作で少しだけ重要な人物が一人いる。
後に主人公のライバルのチームメイトとなり、途中で挫折し、そして静かにフェードアウトする青年。
彼は原作では周囲を分析し、評価する「観察者」として描かれていた。
ゆっくりと、視線の主を見る。
目が合った。
ゆっくり微笑むと、相手は一瞬だけ驚いたように目を見開き、顔を赤くして視線を逸らした。
――間違いない。
私は心の中で、わずかに笑う。
原作は、もうすぐ動き出す。主人公の物語は、原作通りに進むだろう。
その少し外側で、誰にも縛られない私の物語もまた、静かに始まっていた。




