9.大神殿
眼を開けると、そこは白い光で満たされた空間だった。
甘い、花の香りが漂っている。
遠くから、神々しい楽の音も聞こえる。
これが、死者が行くことになっている、女神フローラの花園の入口なのだろうか。
身を起こしながら横を見たところで、傍にいたエスキベルと眼が合った。
「ヴァランタン卿! よかった!」
いきなりエスキベルが、がばっと抱きついてくる。
「い、いだだだだだッ 離れて、離れて!」
胸に強烈な痛みが走り、ヴァランタンは反射的にエスキベルを押しやった。
「ああああああ、す、すみません」
おろおろしながらエスキベルは引っ込み、すぐに医者が来た。
肋骨にヒビが二箇所入っているものの、ほかは大きな問題はないそうだ。
なぜヒビが入っていたのかよくわからないが、なんとか起きられたし、動くこともできた。
ただ、腹はぺこぺこだ。
看護人が、急にたくさん食べてはいけないと言いながら、水やら粥やら与えてくれた。
どうやら、ここは大神殿の診療所のようだ。
とにもかくにも人心地がついたところで、エスキベルはあの後のことを教えてくれた。
倒れた後、エスキベルは、女神フローラに一心に祈り、なんとか意識を保っていた。
だが、身体はまったく動かせない。
ヴァランタンが女神像を壊した途端、身体は動くようになった。
しかし、ヴァランタンは意識を失ったまま、目覚めない。
コテージの扉を連打すると、普通に家政婦が出てきたので、助けを呼んでもらったという。
「え。私がコテージを覗いた時は、無人としか思えない様子だったのに」
「もしかしたら、あの時、あの庭は一種の結界のようになっていたのかもしれませんね」
ヴァランタンは、眼をぱちくりさせた。
結界という言葉の意味はわかるが、てっきり俗流小説の中だけの話かと思っていた。
「……ええと、術をかけたとしたら、あの侍女……ですよね?
あの女、どうなったんですか?
「それが、残念ながら行方がわからず……
今、神殿騎士が追っています」
エスキベルは、申し訳なさそうに視線を落とした。
侍女の名は、ラウラ。
彼女の部屋には、いくつか私物はあったが、一般的な身の回りの品だけで、手紙の類もなかったそうだ。
ジュリアの家政婦によれば、去年の冬、前任の侍女が結婚で辞めることになり、古くからの友人だというあの侍女を推挙したのだという。
しかし、女の身元を確認したら、架空のもの。
前任の侍女に、事情を照会中とのことだ。
なにはともあれ、応援を呼び、ヴァランタンを大神殿の診療所に運んだものの、目立った外傷もないのに、いっこうに目覚めない。
今日で四日目だと聞いて、ヴァランタンは、飛び上がった。
「よよよよ四日も!? まずい、大使館に連絡しないと……!」
「大丈夫、こちらから連絡しています。
毎日、副大使と武官長がお見舞いにいらしていましたよ」
「た、助かった……」
少なくとも、無断欠勤になってないと知って、ヴァランタンはほっとした。
「で。大使館への説明を共有しますと……
私達は東ドーナ川の川岸を散策していて、庭で倒れている女性を発見しました」
「はい??
女性とは、ジュリア嬢のことですか?」
エスキベルは頷いた。
「女性を助けようと近づいた私達は……古代の墓窟から噴き出した有毒ガスを吸ってしまいました。
私は倒れ、卿はふらふらになりながら、女性と私を担ぎ出して、そこで倒れてしまった。
私はすぐに息を吹き返したものの、残念ながら女性は助からなかった。
そして、無理をした分、卿に重い症状が出てしまった……
ということになっています」
微妙に視線をそらしながら、エスキベルは早口に言った。
「ど、どうしてそういう説明に!?
いや、魔女に殺されかけたとか、他人に言えることじゃないのはわかってますが」
「おっしゃるとおり、魔女の話は出来ません。
ですが、あなたが倒れたのは、他人の命を救うための、名誉の負傷だということを、母国の方に伝えたいのが一つ。
もう一つ、大神殿は、あなたに借りがあることも示したい。
ということで、こんな話にさせていただきました」
「借り、ですか?」
「借りです。
あれだけ穢れに染まった女神像を、魔女が放棄するとは考えられない。
仲間に急を知らせてからあの庭に戻り、私達に息があれば止めを刺し、女神像を回収するつもりだったはず。
幸い、その前に大神殿の救援が来ていたので、諦めたのでしょうが……」
エスキベルは、ヴァランタンの眼をまっすぐに見た。
「あなたの奮闘がなければ、私はあの庭で殺されていた。
そもそも、あなたが来てくださらなければ、『魔女の水牢』は発見できなかった。
魔女は思いのまま跳梁跋扈し、さらに犠牲者を出していたはず。
それを、あなたが止めてくださったんです。
これを借りと言わずして、なにを借りと言うのですか?」
神官は、深々とヴァランタンに頭を下げた。
「いや、その……いやいやいや、こちらも必死だっただけなので」
ヴァランタンは、あわあわと手を振るしかなかった。
夕方、知らせを受けた大使と武官長が見舞いにやって来た。
二人は、ヴァランタンの回復を喜んでくれた。
人員が限られている中、急に仕事に穴を開けたのだから、嫌味の一つも言われるのではないかと身構えていたが、逆に母国の名を挙げたと褒められてしまった。
エスキベルの作り話が、効いたようだ。
武官長は、ヴァランタンの身の回りの物や、見舞いの品と一緒に、今朝、速達で届いたというレティシアの手紙も持ってきてくれた。
二人を見送った後、ヴァランタンは手紙をそっと開く。
手紙は、ごく短い、走り書きだった。
大好きなヴァル
さっき、お茶の時間に、あなたがくれた真珠母貝のネックレスをつけようとしたら、急に糸が切れてバラバラになってしまいました。
たまたまだとは思うけれど、なんだかひどく胸騒ぎがして、胸がどきどきして止まらなくて。
とにかく、あなたのことが心配でなりません。
忙しいでしょうに、変なことを書いてごめんなさい。
でも、この手紙を読んだら、なるべく早く、一言、無事だと知らせてください。
あなたのレティシア
ヴァランタンは、手紙の日付を見た。
ちょうど、ジュリアが亡くなった日だ。
お茶の時間といえば、午後遅めの時間。
自分が、魔女の庭で倒れた頃と重なる。
「レティ……」
ヴァランタンは、レティシアの手紙を、そっと胸に押し当てた。
魔女の水牢の幻影に引きずり込まれかけた時に、耳元に聞こえたレティシアの声。
あれは、ただの幻聴ではなかった。
きっと、彼女の真っ直ぐな愛が、自分を現世に呼び戻してくれたのだ。
ジュリアの庭で、倒れたときのことは、はっきり覚えている。
凄まじい苦痛も、「魔女の水牢」に引きずり込まれかけたことも。
しかし、どうにもヴァランタンは、あれが魔女の呪いだと言われても、腑に落ちないところがあった。
この国の人々にとっては、魔女も呪いも確かに現実に存在するもの。
だが、ヴァランタンにとっては違う。
今でもあの時のことは、重い暑気あたりかなにかのせいではないかと思ってしまう自分がいる。
なのに、あの声だけは、レティシアが自分に呼びかけたものだと自然に確信することができた。
我ながら、不思議なくらいに。
もしかしたら、こうしたささやかな奇跡の体験がどこかで暗転して、魔女を生み、呪いを生んだのかもしれないが──
ヴァランタンは、基本、筆不精だ。
しかしこの手紙には、なにを措いても返信しなければならない。
自分は無事であること、レティシアのおかげであること、詳しいことは休暇で帰国する時に話すと書き送った。
ヴァランタンは、順調に回復した。
翌日から、食事は普通のものを摂れるようになったし、肋骨に響かないよう気をつければトレーニングもできる。
大神殿は建物も庭も美しい上、緑や泉水が多いため、市中よりも涼しい。
もはや、ちょっとした休暇気分だ。
エスキベルの上司だという老神官と神殿騎士に事情を詳しく聴取されたくらいで、あとは自由に過ごすことができた。
一方、エスキベルは、かなり忙しそうだった。
「魔女の水牢」と、周辺の地下迷宮の調査。
ジュリアの家系や、あのコテージに眠っていたドッラーノ侯爵家の資料の調査。
エスキベルは、毎日のように「モンド」の地下に潜っていた。
日に日に、眼光は鋭くなり、憑かれたような色が濃くなってくる。
それでもエスキベルは、ヴァランタンの病室を毎日訪れ、わかったことを共有してくれた。
その前に、今回の一件について見聞きしたことを口外しないとする宣誓書にサインを求められたが。
「魔女の水牢」からは、結局、遺骨が17体分出た。
それだけでなく、ドッラーノ侯爵夫人イヴァナの結婚指輪も発見された。
17体のどれかが、イヴァナだということだ。
イヴァナは黒死病で亡くなったとされていたが、黒死病の死者は、棺を釘付けにしたまま、通称「棺桶島」に埋められる。
イヴァナに魔女の疑いをかけて「魔女の水牢」で殺し、棺に砂袋でも詰めて、イヴァナの遺体だと偽って送り出したのだろう。
水牢の縁には、強大な魔力を願う呪言が刻み込まれていたそうだ。
呪言には「六雄の血を以て、代価を贖う」という文言があった。
三人の若い紳士が「モンド」近辺で殺されたのは、このためだったのだ。
直接手を下したのはジュリアだが、ターゲットの動向を把握するために、彼らの身辺には諜者が放たれていたはず。
急ぎ、調査が行われると同時に、六雄の一族に内々に警告が発せられ、多くは聖都から退避したと聞いて、ヴァランタンはほっとした。
ヴァランタンが割ったあの女神像は、悪しき力を凝らせる依代。
魔女は、依代がエスキベルの背嚢にあることを察知し、依代に触れた者──エスキベルが、庭を出ようとしたら発動するように、死の呪いを投げて逃走した。
しかし、依代がまだ完成していなかったために、二人はかろうじて即死を免れる。
さらに、ヴァランタンが壊したことで、呪いは破られた──と、「第三文書課」では考えているそうだ。
話は、わからないこともない。
やはり、なんとも腑に落ちないが。
「なるほど……
あと、もう一つ。昼間だったから、私達は助かったんだと思います。
あの像を割った時、黒いどろっとしたものが出てきて、蛭のように蠢いていた。
でも、太陽の光で、すぐ干からびたので」
呪いだのなんだのという話がどうも飲み込めないヴァランタンだが、あの蛭もどきは妙に生々しく印象に残っている。
エスキベルは、ぽんと両手を打った。
「そうでしたそうでした。本当に幸運でしたね!」
うんうんと頷いて、ヴァランタンはふと疑問に思った。
「……しかし、夜に入っていて、もう少し生き延びることができたら、あの蛭はどうしたんでしょう」
「そうですね……
なにか、手近なものの中に入ろうとした……んじゃないでしょうか」
エスキベルは、視線を泳がせる。
思わず、ヴァランタンは、うげ、と言ってしまった。
「手近なものって、一番近くにいたのは私じゃないですか!」
あの時の、ろくに動けない自分なら、口でも耳でも鼻でも、入られ放題だ。
おぞましい蛭もどきが、自分の中にぬるりと入ってくるところを想像して、ヴァランタンは震え上がった。
「いや、そうならなくて、本当に良かったです」
今更ながら、エスキベルも青くなって何度も頷いた。
一方、例の壁画は、考古学的には大発見の可能性が高いそうだ。
現時点では、あの空間は古代の祭祀場だったと推測されているという。
もともとは地上に拝殿もあったのだろうが、そちらは戦乱の末失われ、後代、ドッラーノ侯爵家が地下に塹壕を掘ろうとして祭祀場を発見、地下空間を拡張したのではないかとエスキベル達は考えているようだ。
本来なら、聖俗問わず考古学者でチームを組み、「壁画」を調査するべきところだ。
しかし、大神殿は、古代の祭祀場と「魔女の水牢」の発見を公表しないと決定した。
現在、あの土地を所有している「モンド」のオーナーにも、まだ伝達していないと聞いて、ヴァランタンは驚いた。
魔女が話題になり、人々の興味を惹きつけることを、大神殿は非常に嫌う。
ちょっとした興味が、闇に堕ちるきっかけになることもままあるからだ。
よりによって、有名な社交場「モンド」の地下にあるのもまずい。
公表すれば、魔女に心を寄せる者が、一種の聖地とみなして、怪しげなことを始めるのは十分予想できる。
しかし、多数の人が出入りする社交場を、大神殿が監視するのは難しい。
祭祀場と「魔女の水牢」は、つながっている。
祭祀場の調査をするとしたら、「魔女の水牢」と一体で行うしかない。
知る人が増えれば、いつかは話が漏れる。
というわけで、祭祀場と「魔女の水牢」は、大神殿が極秘で調査することになった。
例の裂け目は既に塞いだし、いずれ枯井戸も完全に塞ぐという。
調査が終われば、古代の祭祀場と「魔女の水牢」は、いったん闇に葬る。
せっかくの大発見が、と思わないでもない。
だが、今回の件で、魔女の恐ろしさも、魔女を狩る側の恐ろしさも、骨身に染みた。
いつか、魔女も、魔女狩りも、完全に過去のことになる日まで、禍々しい闇の遺産は閉じておいた方が良いのかもしれない。