8.魔女の庭(2)
パチパチパチっと乾いた音を立てて、ロザリオがあたりに飛び散る。
「エスキベル!?」
驚いて駆け寄ろうとしたヴァランタンもまた、急にくらりと来たと思った瞬間、身体のコントロールを失い、膝から崩れ落ちるように、ガゼボの床の上にうつ伏せに倒れた。
「ぐ、……あッ……」
頭が、割れるように痛い。
肺が圧迫されて、息ができない。
まるで、巨人に背に乗られ、膝で押し潰されながら、巨大な手で頭を掴まれているようだ。
「に、……にげ、」
エスキベルが呻くが、ヴァランタンは動けない。
なにが起きたんだ。
毒か?
なにも飲んでいない。
風のある戸外で、有毒ガスは考えられない。
二人で、同じものに触れたわけでもない。
毒ではないはずだ。
そうだ、毒ではない。
毒ではない。
ならなんだ。
なんでこんなことになっている。
頭が掴み潰されてしまいそうな激痛の中、ヴァランタンは必死に考えた。
まぶたを開いているのに、世界が昏くなっていく。
もう、眼の前も見えない。
ヴァランタンは、あがいた。
這いずるようにして、手を伸ばし、あたりを探す。
なにかが触れた。
エスキベルの足だ。
ヴァランタンは、エスキベルの足を揺さぶった。
わずかに動きが返ってくる。
助けなければ。
エスキベルを助けなければ。
だが、意識が遠のく。
遠のいていく。
鼻奥の血管が破れて、血が流れはじめた。
涙か、血か、眼から溢れた温かいものが、頬に伝う。
まずい。
昏い闇が迫ってくる。
引き込まれる引き込まれる引き込まれる。
あの「魔女の水牢」に。
鉄格子を越えて伸ばされた、青黒く爛れた女達の手が、ヴァランタンの踝を脛を膝を腿を這い上がる。
生臭い匂いに包まれる。
不意に鉄格子が消え、大きな水音を立てて、ヴァランタンの身体は水牢に落ちる。
空気を求めて、あがく。
だが、なにかにつかまろうと伸ばした手は虚空を切り、もがく足にはどろりとしたなにかがまとわりつく。
腐乱した女達がヴァランタンの身体に代わる代わる乗り上がり、沈めようとしてくる。
頭の上まで水面に沈められる。
もう一度、水面から出るが、また沈められる。
何度も何度も。
がぼっと空気を吐き出してしまい、ヴァランタンは水牢の底に引きずりこまれた。
頭上、はるかかなたに煌めく水面が見える。
昏く淀んだ水底に引き込まれた身体が、しんしんと冷えていく。
きっとこのまま、俺は生きながら腐っていくのだ。
女たちの嗤い声が、ガンガンと頭に響く。
女たちは、ヴァランタンの四肢を引っ張って戯れる。
抱きつき、噛みつき、絡まりつく。
動けない。
息が出来ない。
だめだ。
もうだめだ。
「ヴァル?」
不意に、耳元で女の声が聞こえた。
母国で待ってくれている、レティシアの声だ。
さあっと、光とともに水牢の幻影が消えた。
レティシア。
レティ。
レティが待っている。
レティシアが、自分を待ってくれている。
レティの元に、戻らなければ。
走馬灯のように、ヴァランタンの脳裏にレティシアの姿が蘇った。
木登りでヴァランタンを負かした時の、弾けるような笑顔。
髪をハーフアップにし、唇を引き結んで、ピアノを弾いている姿。
デビュタント・ボールで、後ろを向いて見せてくれた、初めて高々と結い上げた髪。
複雑に編み込まれた髪は、籠の網目のように見えた。
籠の網目のように編まれた、髪。
不意に、世界がくらりと暗転する。
以前、エスキベルと共に見た、死人の髪を編み込んだ呪物が目の前に浮かぶ。
呪い。
呪いなのだ。
呪いなのだこの不可解な状況は。
ジュリアがしくじった時に備えて、あの女は呪いも用意していたのだ。
そうだそういうことだ。
以前の、エスキベルの言葉が甦る。
「願うだけでは、人は死にませんよ。
魔女も、相手の髪か愛用品のようなものを盗んで邪術をかけるか、逆に邪術で汚染した物を相手の肌身につけさせなければならなかったそうですから」
これが呪いならば、邪術で汚染された物が近くにある。
あれだ。
きっとあれだ。
「魔女の水牢」で見つけた、女神像だ。
そうだ。あの侍女は下がる時に、わざわざエスキベルの後ろを通った。
エスキベルの背嚢に収められた女神像に、なにか働きかけたのだ。
倒れたときの位置を、必死に思い出す。
ガゼボの奥にいたエスキベルに向かって、自分は倒れた。
彼の荷物は──自分の左側にあるはず。
視力を失ったヴァランタンは、身体の感覚だけで、にじるように左へと動いた。
動ける。
背骨がへし折られそうな圧がかかっているが、本当に重いものが載っているわけではない。
錯覚させられているだけだ。
大丈夫だ。
いける。
左手と左足で床を撫で、エスキベルの背嚢を探す。
身体をほんの数センチずらしては探り、ずらしては探るうちに、重みのある柔らかいものが、指の先に当たった。
きっと、エスキベルの背嚢だ。
手探りに背嚢を引き寄せ、片手で背嚢の口を緩める。
一つひとつの動作に、異様に時間がかかるのがもどかしい。
背嚢の口に手を突っ込み、触れたものをなんでも掴みだした。
手の感覚だけが頼りだ。
なにか、軽いものがいくつも入っている袋──乾パンの残り。
折りたたまれた布のかたまり──包帯か止血帯。
なにかのケース──筆記具入れか。
平たい、硬いもの──野帳。
なにかつるっとしたものを包んだ、布──これだ。
大きさといい、形といい、あの女神像だ。
布をずらして、女神像を直接掴む。
ヴァランタンは、女神像を握ったまま、腕を上げられるだけ上げた。
持ち上げられたのは、わずか十数センチだったが、全力で床に叩きつける。
ゴンッと音はしたが、女神像は割れない。
「くそッ」
思わず悪態をついた。
まだ声が出る。
出るならば──
ヴァランタンは、渾身の力で女神像を振り上げた。
「ディーノ・アーマス・ニン!」
女神は私達を愛している、と叫ぶ。
お前たちの好きにはさせない、という思いを籠めて、穢された女神像を石の床に叩きつけた瞬間。
女神像は真っ二つに砕け、どろりとした黒い水が飛び散るのが、見えた。
闇の色の水は、命あるもののように蠢きながら集まる。
しかし、太陽の光の下、あっという間に干からびて薄くなり、べっとりと広がって動かなくなった。
その様子を見届けて、ヴァランタンは力尽きたように意識を失った。