6.枯井戸の外
枯井戸の周辺は、木々が生い茂っていた。
その向こうに、大きな建物の壁らしきものが見える。
気温はかなり高いが、木陰なので過ごしやすい。
「誰も……いませんね」
しかし、あたりに人影はない。
毒花を「魔女の水牢」に捧げた者は、もう立ち去ってしまったのか。
ともあれ、無事、昼の世界に戻ってきた。
「……ちょ、ちょっと休みませんか?」
「そうですね……そうしましょう」
追う気満々だったが、ここでどっと疲れが出た。
手がかりもなしに、闇雲に追う気力はない。
二人はへたりこんで、水筒の水をごくごく飲み、行動食の甘い乾パンを齧った。
太陽のもとでは、いくらなんでも暑すぎる外套を脱ぐ。
手袋やヘルメットも脱いだついでに、手巾を少し濡らして、顔や手を拭った。
落ち着いたところで、エスキベルはあたりを見回しながら立ち上がった。
「……ここはどこなんでしょう」
聖都の中心部で、まとまって樹が植えられているのは、公園か貴族の館くらい。
しかし、「モンド」の近くは、社交場や劇場、大手の商会ばかり。
大きな庭はないはずだ。
とりあえず、今日はもう地下には戻りたくない。
二人は、邪魔な外套を丸め、ヘルメットやカンテラと一緒に背嚢にくくりつけた。
ついでに、枯井戸の蓋を戻す。
「あ。祠があります」
先に歩き始めたエスキベルが、声を上げた。
祠の正面に回り込むと、奥に天秤を片手で掲げた正義の女神ユスティアの像が飾られているのが見えた。
この国の主神は豊穣の女神フローラだが、ユスティアなど他の神を祀る神殿や祠もそれなりにある。
「……どこかの屋敷に入ってしまったんでしょうか」
エスキベルが言うように、屋敷の庭の隅などによく祀られている、小さな祠だ。
誰かが掃除しているようだが、かなり古びている。
ヴァランタンは、あたりを見回した。
北側にも南側にも大きな建物があるが、柵で隔てられている。
東側は、路地のようだ。
「いや、これは違うと思います。
古い屋敷を分割して売却し、祀られていた祠は取り壊さずに共有地としたパターンじゃないでしょうか」
「なるほど……
ああ、ここにドッラーノ侯爵家の家紋があります。
このあたり、もとは侯爵家のものだったんでしょう」
エスキベルは、祠の献花台を示した。
双頭の獅子の浮き彫りが見て取れる。
なにか文章も刻まれていたようだが、そちらは摩耗して、読むことができない。
「それっぽいですね」
ヴァランタンは頷いた。
なんとなく、二人は祠を一周するように、裏手へ向かってみた。
祠の裏手は、川の土手だった。
「あれ!? 東ドーナ川!?」
土手を登ると、眼下には東ドーナ川が滔々と流れている。
キラキラと輝く川の向こう岸、遊歩道を行き交う紳士淑女達と、聖都一の社交場「モンド」も見える。
遊歩道の下には、さっき二人が通った地下水道の出口も見えた。
ヴァランタンは脱力し、笑ってしまった。
塹壕に古代の遺構、おどろおどろしい「魔女の水牢」と、地下迷宮を大冒険したつもりだったが、陽の光の下で見れば、狭い区画の中を右往左往していただけだったようだ。
エスキベルも、乾いた笑いを漏らしている。
「……さっきのトンネルは、東ドーナ川をくぐるものだったんですね。
どうしてあんなものがあったんでしょう」
「大包囲戦の時に、聖都を囲んだ蛮族に反撃するために、川底にトンネルを何本も掘ったという話があります。
その一つだったのかもしれませんね。
それにしても、魔女はどうやってこのトンネルと『魔女の水牢』を知ったのか……」
エスキベルは眉を寄せ、思索に沈みかけて、ふと眼を上げた。
「ま。今日は、ひとまず大神殿へ戻りましょう」
なにはともあれ報告だ。
「了解です。今日のことは、胸にしまっておきます。
それにしても、思いのほか、大変な探索になりましたね」
「まったく。あなたに来ていただいて、本当に助かりました。
私一人だったら、ただ塹壕をうろうろして帰ることになったでしょう」
エスキベルが頭を下げてきて、ヴァランタンは慌てた。
川上の方向にしばらく行けば、大きな橋に出る。
そのたもとのあたりなら、辻馬車も拾えるので、二人はぶらぶらと人気のない土手の上を歩いていくことにした。
傾きはじめた日差しは強いが、川面を渡る風は涼しい。
さっきの祠の隣は、細い庭に囲まれた大きな建物だった。
表札によると、留学生向けの寮のようだ。
やはり、元はドッラーノ侯爵家の別邸なのか、漆喰細工の上に金箔を張った双頭の獅子の紋章が輝いている。
「モンド」も大きな館だし、他にも本邸があったはず。
往時は、相当栄えていたのだろう。
「……結局、六雄の血を引く三人の怪死はどういうことなんでしょう」
うううむ、とエスキベルは唸った。
「社交場も劇場も、出入りにチェックが入るじゃないですか」
「はい」
普段、意識したことはなかったが、言われてみればそうだ。
「顔を見られることを嫌った暗殺者が、地下迷宮の隠し通路を利用して移動し、犠牲者に呪いをかけたのではないかと、思ったのですが……
どうも、筋が違うような気がしてきました」
「どういうことですか?」
「卿のおかげで、『モンド』の地下迷宮を発見することができましたが。
我々が崩すまで、外部の塹壕とはつながっていなかった。
枯井戸から『魔女の水牢』を経由して、どこかにある隠し扉から『モンド』に入れるのかもしれませんが、『ラ・ヴィータ・ドルチェ』や劇場には入り込めなかったはず、ですよね」
「あー……そういうことになりますね」
「モンド」の地下迷宮は、確かに存在した。
だが、今のところ、魔女が地下迷宮を利用して、三人を殺したとは言いづらい。
「しかし、『魔女の水牢』には、毒花が捧げられていた。
どう見ても、魔女に心を寄せる者が動いているとしか思えないし、『モンド』近辺の怪死と無関係とは思えない……
魔女ならば、肺を侵す毒も知っているはず」
エスキベルは、しきりに考え込んでいる。
「え。魔女は呪いだけでなく、毒も使うんですか?」
「魔女は、もともとは薬師や産婆が、占いやまじないも行うようになり、それが闇の女神への信仰と結びついて呪術に発展していったものだと考えられています。
魔女は、毒殺にも長けているんですよ。
本人は直接人を手にかけず、客に毒を売りつけるのが厭らしいところですが」
「なるほど……
どちらにしても、『モンド』の地下をもっと調べるしかないですね。
塹壕とは別に、周辺の建物とつながっている隠し通路があるかもしれませんし」
「そうですね。あの壁画のある空間も、一体なんなのか……」
つぶやきながら歩いていたエスキベルの足が、ふと止まった。
じいっと、柵越しになにかを見ている。
祠の隣の寮は既に通り過ぎ、柵の向こうにあるのは小さな二階建ての建物だ。
庭は狭いが、大きな樹がいくつか植えられ、色とりどりの花が無理やり詰め込んだように咲き乱れていた。
柵近くまで伸びた枝からは、ラッパのような形の白い花が垂れ下がり、風に揺れている。
その傍らには、ピンク色の花をぎっしりと付けた低木。
地表には、草花が生い茂り、房状に咲いた青紫の花、少し形が違う赤紫の花、そして朝顔に似た白い花が咲き誇っている。
「……ブルグマンシアに、キョウチクトウ。
鳥兜に、ベラドンナ。
そして、ダチュラ……
すべて、毒花です」
エスキベルの喉が、こくりと鳴った。
「あれ? も、もしかして……」
花に疎いヴァランタンだが、ラッパのような白い花に見覚えがあった。
さっき、「魔女の水牢」に捧げられていた花だ。
カンテラの灯で見ただけだから、自信はないが、他の花もあったような気がする。
枝を見上げて、ヴァランタンは息を引いた。
明らかに、花をいくつか切り取った跡がある。
ここが「魔女の水牢」に出入りしている者の棲家なのだろうか。
「どうかなさいましたか?」
不意に、柵の向こうから声を掛けられて、ヴァランタンは飛び上がりそうになった。
いつのまにか、縮れた黒髪をうなじで巻いた、地味なドレスを着た女が立っている。
侍女かなにかのような物腰だ。
年の頃は、二十代なかばあたりに見える。
「あー……いや、よく丹精されたお庭だなと、つい見入ってしまいました」
エスキベルが、のんびりした口調を作って答える。
女は、眼を細めて微笑んだ。
「ありがとうございます。
どうぞ、中へお入りください。
主人が喜びますので」
女は恭しく頭を下げ、小さな門を開いた。
キィ、と軋む音が妙に響く。
行くのか?とヴァランタンは、エスキベルを盗み見た。
「……では、しばしお邪魔させていただきます」
エスキベルは軽く頭を下げる。
女は、奥へ足早に向かい、誰かに客が来たと伝えているようだ。
ジュリア様、と呼びかけていたので、やはり侍女なのだろう。
その隙に、エスキベルは「なにか出されても、絶対に口をつけないでください」と早口にヴァランタンに囁いてきた。
ブルグマンシア:エンジェルストランペットまたはキダチチョウセンアサガオの学名