3.地下水路
地下迷宮とは、この都の地下に張り巡らされたトンネル群の総称である。
古代エラン人の墓窟に始まり、蛮族の襲来をしばしば受けた中世に掘られた塹壕、その後、人口増加に伴って掘られた地下水道や暗渠も含まれる。
基本的に、古いものほど浅く、新しいものほど深い層に掘られているが、各時代の構造が互いに交差し、連結している場所も多い。
総延長は数百キロメートルに及ぶとされるが、その全容を把握している者はいない。
大神殿は地下迷宮の調査を定期的に行っていて、エスキベル自身も、古代の墓窟の調査のため、たまに地下迷宮に入っているという。
名のない闇の女神を奉じる者は、地下迷宮を集会などに使っていたと言われている。
怪しいことが行われていないか、チェックするという意味合いもあるのかもしれない。
行きたいか行きたくないかで言えば、あまり行きたくない。
だが、ヴァランタンは、好奇心に負けた。
まずは、「用度係」という目立たない場所にある部署に連れて行かれて、地下迷宮探索の申請書にサインをする。
これは、その場で許可された。
他国の武官である自分が、こんな雑な手続きで入っていいのかと思ったが、聖皇家の宮殿など重要施設とつながっている部分には、警備がついていて立ち入れないと聞いて、逆にほっとした。
そのまま、脇の倉庫に案内される。
棚には、様々な道具がぎっしりと並んでいた。
用度係の老神官のアドバイスを受けながら、二人は、地下水道に潜るための装備を整えた。
野戦行軍演習を思い出す、底に鉄板を入れたごついブーツ。
革製のヘルメット。
消毒液や包帯、携行食料と水筒を詰めた背嚢と、救援用ホイッスルなどが入ったウエストポーチ。
聖都の地図に、主要な地下水道と塹壕の配置を書き込んだものと方位磁針。
防水紙で出来た野帳と鉛筆。
オイル式のカンテラと防水マッチ。
地に突けば、ヴァランタンの肩くらいの長さの錫杖。
鈴のついた金属製の錫杖は、槍代わりにしたり、土を崩したりするのにも使えそうだ。
最後に、蝋で防水された、ふくらはぎまで覆う灰色のローブをまとった。
「こちらは使いますか?
酷い匂いがすることもあるので、探索初心者にお勧めです」
老神官は、壁を指した。
鼻の部分にハーブと香料を詰めた、大きな鳥の嘴のようなペストマスクがいくつもかかっている。
「あなたは?」
戸惑ったヴァランタンは、エスキベルに訊ねた。
「私は、これで。
匂いが手がかりになることもありますから」
エスキベルは、黒い正方形の布を三角に折り、両端に紐をつけたものを手にとる。
口と鼻を覆い、首の後ろで結ぶシンプルなマスクだ。
ペストマスクは悪臭を避けられそうなのはよいが、異形感が凄まじい。
少し迷って、ヴァランタンは、エスキベルと同じものにした。
準備が出来たところで、エスキベルは倉庫の奥の扉を開いた。
短い廊下の突き当りで、老神官にカンテラに火をつけてもらい、狭い螺旋階段を降りてゆく。
螺旋階段は、相当深い。
降りきったら、もうそこは地下迷宮なのだろう。
「ええと……私達だけで行くのですか?」
「はい。私は一人で何度も入っていますし」
「そういうものなんですか」
てっきり、何人かで行くものだと思っていたヴァランタンは驚いたが、今更嫌だと言うわけにもいかない。
地上を行けば、「モンド」まで歩いて30分ほどの距離だ。
塹壕伝いでも行けるが、地下水道の方が歩きやすいので、なるべく地下水道で「モンド」の近くまで接近するという。
螺旋階段を降りきると、狭いなにもない空間の真ん中に、黒ずんだ金属製の扉が二人を待っていた。
扉の真ん中には、円いハンドルが取り付けられている。
エスキベルは慣れた様子でハンドルを回すと、扉を肩で押すようにして開いた。
扉の奥にはもう一つ、そっくりな扉がある。
2つ目の扉を抜けると、湿った空気が一気に噴き出してきた。
おそるおそる、ヴァランタンは足を踏み入れた。
地下水路は、レンガ造りだった。
幅は4m程度。
両脇が通路になっていて、真ん中に黒黒とした水が静かに流れている。
ここのところ、雨が降っていないせいか、水位は低めだ。
地下だけあって、空気は湿っぽいものの、気温は秋くらい。
重装備でも、思いの外動きやすくて助かる。
しかし、アーチ状になった天井は低く、大柄なヴァランタンはかなり圧迫感を受けた。
エスキベルは、慣れた足取りですたすたと歩いていく。
足元は一応乾いているはずなのだが、苔なのかカビなのか、ぬるっとした感触がある。
転んだりしないよう、そして頭をぶつけたりしないよう、親指にカンテラをぶら下げた右手で錫杖を握り、左手で壁に触れながら、ヴァランタンはエスキベルの後をぎこちなく追った。
十数メートルおきに、上から通路まで、土管が取り付けられている。
近くの土管から水が落ちてくる音が響いてきたと思うと、水路の水面に白い泡がぽこぽこっと浮かんで、静かに流れていった。
洗濯に使った水を、排水溝に流したようだ。
排水は直接地下通路に落ちてくるのではなく、土管を通じて、通路の下から真ん中の水路に通しているのだろう。
急に、上から汚水が降ってくるような破目にはならなさそうだ。
何度か水路は分岐し、合流した。
しばらく行くと、水路のどこかに段差があるのか、滝のような音が遠くから響きはじめた。
しかし、反響に反響が重なって、どの方角から聞こえているのかよくわからない。
さきほど見せてもらった地図では、地下水路の幹線は、この都の大通りの真下を基本的に通っていた。
だいたい自分がいる位置はわかっているはずなのに、ヴァランタンは早くも迷子になったような心細さを感じた。
まださほど歩いていないのに、もう大神殿まで戻れないような気がしてくる。
エスキベルの背を、ヴァランタンは必死で追った。
時おり、頭上のどこかにある通気口から、太陽の光が差し込んでくる。
薄明かりが水面に落ちて、波紋とともにゆらゆらと揺れる。
が、小動物の死体か、なにか得体のしれないものが水面に浮いているのも見えて、ヴァランタンは慌てて眼をそらした。
「大丈夫ですか?」
水音が近くなったあたりで、エスキベルが足を止めた。
錫杖についた鈴の音で、ヴァランタンが遅れがちなことに気づいたのだろう。
「大丈夫です……たぶん」
と言った瞬間、足元をなにかが駆け抜け、ヴァランタンは悲鳴を上げかけた。
「い、今のはネズミでしょうか」
「おそらく。たまにイタチの類が住み着いていることもありますが。
もう少しすると、凱旋広場の真下になります。
天井が高くなるので、少しは楽になるかと」
「は、はい」
凱旋広場は、皇宮前の大きな広場。
新年の祝いなど大きな祭典だと、群衆が押し寄せて7万人を超えることもある。
聖都の要にあたる場所だ。
この広場から、目抜き通りが五方に広がっている。
「モンド」があるエトワール通りも、その一つだ。
やがて、ヴァランタン達は、たくさんの石柱で支えられた広い地下空間に出た。
「おお……」
見上げれば、天井は5メートルほど上。
通路は広くなり、手すりもついている。
覗き込んでみると、水面は足元から3メートルほど下。
下流側は段瀑になっているようで、ごうごうと音を立てて、水が流れ落ちていく。
空間の広さは、地上の凱旋広場よりはかなり小さいが、それでも向こう側まで50mは越えている。
天井を支える柱の間から、光が幾筋も差し込む。
手前の水面が、まるで月光を映す海のようにきらめいていた。
ヴァランタンは、大神殿の礼拝堂を連想した。
荘厳といっていい眺めだ。
通風孔がいくつもあるせいか、匂いも湿気もそこまで気にならない。
「見応えのあるところですね。
凱旋広場の地下が、このようになっていたとは知りませんでした」
「そうですね。
大雨が降れば、かなり高いところまで水が来ますし、万一、迷子にでもなられたら大変なことになるので、一般公開は難しいのですが」
ほら、とエスキベルは壁の高いところを指した。
ヴァランタン達が立っている通路から3メートルほど上に、明らかに色が濃くなっている線がある。
「ええええ……あんなところまで水が来るんですか!?」
「来ますよ。昔から、この聖都は治水に苦しんできました。
三代かけた大事業の末、西ドーナ川の拡張と、この地下水道が完成して、ようやくそう簡単には水没しなくなったのですから。
水を制する者が、この地を制するのです」
「なるほど……」
「行きましょう」
エスキベルはヴァランタンを促した。
橋を一つ渡り、エトワール通りの真下にあたる水路に入る。
壁には、「エトワール通り・北側」と刻んだプレートが、ちょうど地上の住居表示のようにはめ込まれていた。
大神殿のあたりよりも、水路は広く、ヴァランタンはだいぶ気楽に動けるようになった。
足場も、さっきほどぬめぬめしていない。
「これが塹壕に入る通路です」
エスキベルは、壁に設けられた窪みを指した。
人が一人入れるくらい窪んだ部分は縦穴になっていて、壁にハシゴ代わりの金具が取り付けられている。
金具を使ってよじのぼれば、地下水路より上にある塹壕に移動できる仕組みになっているようだ。
この真上は、聖都の中心街。
銀行や大商会の店などが立ち並ぶあたりだ。
その多くは、かつては貴族の館だった。
館を結ぶ塹壕が、縦横無尽に張り巡らされているのだろう。
塹壕を避けるためか、急に地下水路の天井が低くなって、かがまないと通れないところもあった。
「しかし、『モンド』が気になるのはわかりますが、なんで地下迷宮を調べたいんですか?」
今更だが、気になったヴァランタンは問うた。
「モンド」を中心に、なにかよからぬ企みがあるとしても、別に地下迷宮を使うとは限らない。
「あそこの地下迷宮は、どうも奇妙なんですよ。
館の規模に比べて、小さすぎる。
どこかに隠し部屋があるのではないかと、ずっと言われているんです」
「地上側から調査するわけには、いかないんですか?」
「それが難しくて。
侯爵家が絶えた後、侯爵家の財産の多くは聖皇家に返還されました。
ちょうど、聖皇家の財政が苦しい時期で、本邸も別邸もすぐに競売にかけられ、別邸は今のオーナーが落札して『モンド』になった。
当時、大神殿から、館の内部を一度調査させてほしいと申し入れたようなのですが、あちらは消極的で。
下手に文化財が出てきて、本格的な発掘が必要だとなれば、事業が立ち行かなくなってしまいますからね……」
古代からさまざまな民族が拠点とし、栄えてきた聖都は、地面を掘れば、なんらかの遺跡がほぼほぼ出てしまうと言われている。
いったん遺跡が出れば、下手をすると、数年、十数年単位で塩漬けだ。
「あー……母国でも、そういう話は聞きます」
「でしょうね。
そもそも、ドッラーノ侯爵家には色々ときな臭い噂がありまして。
魔女達から取り上げた秘術を用い、政敵を呪って利を貪ったとか。
最後の侯爵の妻・イヴァナは、魔女だったのではないか、とか」
「え?? 魔女狩りで有名な侯爵が、よりによって魔女を娶ってしまったんですか?」
驚くヴァランタンに、エスキベルは苦笑した。
「まさか。彼女は、聖皇家の血も引く名家の出ですよ。
肖像画が何点か遺っていますが、黒髪の、美しくたおやかな女性だったようで。
ただ、当時の貴族の日記を見る限り、イヴァナ魔女説はかなり広く知られていたようです」
なかなか、不穏な展開だ。
「……どういう風に、侯爵家は絶えたのですか?」
「後継者候補が、次々と亡くなった、としか。
イヴァナは女子を三人産み、黒死病で娘達と一緒に亡くなってしまいました。
侯爵は、すぐに愛人を後妻に据え、三男二女を儲けたものの、子どもたちは皆、7歳を超える前に、亡くなってしまう。
後妻は、六人目の出産時に子と一緒に亡くなり、やむをえず、成人していた甥を養子に迎えたら、今度はその甥が沈没事故に巻き込まれてしまって」
「は? いくらなんでも、亡くなりすぎじゃないですか?」
ヴァランタンは、唖然とした。
昔は乳幼児死亡率が今より高かったとはいえ、あわせて9人も子どもがいて、一人も生き残らなかったとは。
ですよね、とエスキベルはため息をついた。
「その事故の後も、事故やら病死やら決闘やらで死者が続き、結局、侯爵のきょうだいも、いとこも、彼らの子ども達も、どんどん亡くなってしまいました。
一人ぼっちになった侯爵は、103歳まで生きたのですが……」
「当人は、そんな長生きしたんですか!」
そっちにヴァランタンは驚いた。
「そうです。だから余計に色々言われたんでしょうね。
一族の命を犠牲にして、永遠の命を得ようとしている、とか。
イヴァナが魔女だとわかって密かに殺したはいいが、死に際に呪われたのだとか。
いずれにせよ、侯爵家は闇に堕ちたという悪評が立ち、七雄は六雄となったのですよ」
母国でも、不幸が続いたせいで、過去のスキャンダルを蒸し返され、あることないこと言われている家はあるが──
「……どちらかというと、いちいちそういう噂を立てる側が怖いんですが」
水に落ちた犬をよってたかって叩くようなやり口だ、とヴァランタンは思う。
「そうですね……
お。このあたりで、そろそろ塹壕に移りましょう」
エスキベルは足を止め、縦穴の一つを指した。
傍のプレートを見ると、確かに「モンド」のすぐ近くの通りの名が刻まれている。
東ドーナ川につながる出口が近づいたのか、明るくなってきた地下水道とは違い、縦穴の上は真の闇だ。
ある意味、ここからが本番。
恐る恐る、ヴァランタンはカンテラを差し上げた。
縦穴は、2m半ほど上がったところで、塹壕とつながっているようだ。
大柄なヴァランタンでも登れそうではあるが──
「……どうぞ、お先に」
ヴァランタンは、思わず先を譲ってしまった。