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プロローグ

 親愛なる友たちへ捧ぐ


 君は知ってる?  “前世の記憶を持つ男”の話を。今回はそんなヒトの話。


 寒さが骨に沁みる。凍えるような夜の街を、人々の波を縫うようにして俺は歩いていた。いや、ほとんど駆け足だった。

 妻――クラーラの体調が優れない日が続いていた。結核。それは今や時代遅れの病のはずだったが、皮肉なことに、彼女を蝕むそれは加速していった。

 今日も仕事を早めに切り上げた。早く顔が見たかった。もう一度、あの天使のような笑顔を見られるのなら、それだけで十分だった。

 東西に引き裂かれたこの街。その傷跡は今や教科書の中にしか存在しない。

 その帰り道、なぜか胸に重い予感がよぎった。虫の知らせ。そうとしか言いようがなかった。

 玄関のドアを開けた瞬間、いつもの柔らかな気配が薄れていることに気づいた。

「クラーラ、ただいま。体調はどうだい?」

 返事がない。嫌な静けさが、家中に満ちていた。

 寝室へ駆け込むと、彼女はベッドの中で力なく身体を起こそうとしていた。

「お帰りなさい、ルーク。晩御飯の支度をしなくちゃ……今日は、あなたの好きなヴァイスヴルストにしようと思ってたの」

「そんなことはいい、クラーラ。無理をしちゃ駄目だ。寝ててくれ」

「今日は、ふたりにとって大切な記念日でしょ? どうしても、一緒にお祝いしたかったの」

 そう言って彼女は激しく咳き込んだ。

 白いシーツに、真紅の染みが広がっていく。その姿を見たとき、俺の奥底で何かが目を覚ました。

 美しい、と思った。

 そう――この苦しむ彼女の姿こそが、俺の中にある“本当の愛”を刺激する。

 血を吐きながらも微笑もうとする彼女の姿が、どんな宝石よりも尊く、壊れかけた天使のように神々しく見えた。

「僕は君が元気でいてくれるだけで、それでいい。来年は、三人でお祝いしよう」

 そう言いながら、彼女の腹部をそっと撫でた。

「この子のためにも……私、頑張らなくちゃ」

 クラーラは微笑んだ。次の瞬間、また咳がこぼれ、血が混じった痰が口元を濡らす。

 だが――俺はもう抗えなかった。

 彼女が壊れていく様を見ていたい。血に染まって、苦しそうに呼吸をして、それでも俺の名を呼ぶ姿を、ずっと見ていたい。

 その欲望は、俺にとっての“純愛”に他ならなかった。歪でも、異常でも、それが俺の“本質”だった。

「ルーク……お話、聞いてほしいの。もし、私が遠くに行ってしまっても――また、あなたに見つけてもらいたいの」

 彼女の声は、いつもより静かだった。

「私みたいな子は、星の数ほどいると思う。でもね……私たちなら、きっとまた巡り会えるわ。どんな形でも、必ずあなたのそばにいる。だから……いつか、三人でヴァイスヴルストを食べましょう」

 彼女の手から、力がふっと抜けた。白いシーツの上に落ちたその指先を見つめながら、俺は、どこか悲しくも満ち足りた気持ちになっている自分に気づいていた。

 彼女の瞳の奥を覗き込んだ。その奥で、まるで何かの印のような奇妙な模様が、蠢くように揺れていた。俺はその模様に意味を見出そうとした。だが、瞳の中に自分の姿を探しても、何も映ってはいなかった。

 まるで、俺という存在が――最初からこの世界にいなかったかのように。


※ヴァイスヴルスト。皮を剥いて食べる白いソーセージ。

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