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大釜礼賛  作者: 森野長親
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前編

 学校のすぐ近くの公園で起こった事件がワイドショーを賑わしていることを、俺は月曜日に学校で友人から聞かされるまで知らなかった。

「あなた、この近所に住んでいるくせに、何で知らないんですか?」

 友人は少し強い口調で、両手の手の平を上に向けて、呆れたとジェスチャーをする。

 彼の名は朝宮修一という。

 俺の席は教室の廊下側の一番後ろにあり、その一つ前が朝宮の席だ。

 まあまあ整った顔立ちに、いかにもガリ勉がかけていそうな淵の太い四角いメガネをかけている。

 たまたま席が後ろだったから話すようになった男だったが、これが話をしてみると意外と面白く

 朝のホームルームが始まるまでの間、コイツと他愛の無い会話を楽しむのが日課になっていた。

「そもそも、この近所に公園なんて、あったっけか?」

「あるんですよ。すぐ近所にやたら大きな公園があるでしょう。あそこですよ」

 俺は額に指を当てて考えたが、欠片も思い出せないので即座に諦めた。

「そういえば、あったような、ないような。よく分からないな。ほら、俺がこっちに引っ越してきたの最近だからさぁ」

「あなたがこの町に引っ越してきたのは高校入学からでしょう? 我々はもう2年生ですよ? 1年以上経ってますけど。それは最近と言うのですかね?」

 朝宮は煽るように言った。

 別にケンカをしているわけではない。俺に対しては、朝宮はいつもこういう口調なのだ。

「それで、どんな事件なんだ?」

 俺が尋ねると、朝宮はメガネをクイッと摘んで位置を整えた。

「本当に知らないんですね。いいですよ。教えてあげますよ。無知なあなたに」

 そう言うと、朝宮は事件のあらましを語り始めた。


 俺と朝宮の通う学校の近くに、敷地内にさまざまな施設を持つ広大な公園がある。

 この公園の近所に住んでいた老人が、自宅の庭でラジオ体操をしていたところ、公園の方から煙が上がっているのに気付いた。

 ひょっとすると火事かもしれないと思った老人は、散歩のついでに様子を見に、煙の立ち上っているあたりに行ってみることにした。

 公園の周りは雑木林が取り囲んでいるが、煙はその雑木林の一角から立ち上っていた。 

(誰ぞ季節はずれの焼き芋でもしとるんだろうか?)

 老人はそう考え、そうであれば火事の危険があるので止めるように注意しなければならないと思い、林の中に足を踏み入れた。

 老人が木々を掻き分けて進んでいくと、その先で数人の男女がドラム缶を取り囲んでいるのが見えた。

 ドラム缶の下にはコンクリートブロックで炉が組まれており、炉の火でドラム缶を温めている。

 ドラム缶の中にはお湯がはってあるようで、もくもくと湯気が立ち上っていた。

 老人は豊富な人生経験から関わらないほうがいいと思ったが、連中がいったい何をしているのかと興味が湧いたので、忍び足で近づいていった。

 少し近づいて目を凝らすと、モクモクと湯気の立つドラム缶の中にも人影が見えた。

(ドラム缶風呂にでも浸かっとるのか?) 

 さらに近づいていくに連れて、彼らの異様な雰囲気に気付いた。

 ドラム缶の湯に浸かる者はまったく微動だにせず、それを囲む者たちは何やらブツブツと念仏を唱えているのである。

 生い茂る木々のおかげで、かなり近くまで隠れて近づくことができた老人は、あらためて枝葉の隙間から一団の様子をのぞき見て、息を呑んだ。

 ドラム缶の湯に首まで浸かっている人物は、力なく口をあけている。

 その口には唇が無く、鼻も欠けていて、目があるはずの場所には暗い穴だけがポッカリと開いていたのである。

「彼らは風呂に入ろうとしていたのではなく、死体を煮ていたのですよ」  

 話し終えた朝宮がメガネを怪しく光らせると、俺の全身をゾワリとした薄ら寒い感覚が走った。

「それは……さぞびっくりしたろうな。俺なら漏らしちゃうね」

 と冗談っぽく言いながら、俺は念のため股間を押さえて確認した。大丈夫だった。

 ひと安心して、その光景を見てしまった気の毒な老人の心境に思いを巡らしていたときだった。

 突如として俺と朝宮の間に人影が勢い良く割って入ったので、心臓が跳ね上がるほど驚いた。

「おいお前ら、ちょっと聞いてくれよ、大ニュースだ!」

 割り込んできた人影の正体は、クラス一番のお調子者、小向であった。

「いきなり何だよ、脅かすなよ」

「公園の事件のことなら、伊吹さんは知らないそうなので、今ちょうど教えてあげていたところですよ」

 興奮した様子の小向を、朝宮が宥めすかす。ちなみに伊吹というのが俺の苗字である。

「そんな話じゃない。もっと重大な事件だ。とにかくこいつを見てくれ!」

 小向はそう言って、胸ポケットから生徒手帳を取り出して机の上に置いた。

「生徒手帳か、久々に見たな」

 入学したときに貰った手帳で、生徒はこれを常に携帯していなければならないそうだが、必要となったことは一度もなかったので、今ではどこへやったかもわからない。

 俺は自転車通学なので扱いは雑だが、学生割引を使うときには必須となるので、公共交通機関を利用して通学をしている生徒にとっては重要性は高い。

「この生徒手帳がどうかしたのか?」

「中を見てみろよ」

 不敵な笑顔の小向に言われるまま、俺は生徒手帳を捲った。

「なになに……本校の生徒は疑いの目で見られるような異性との交流は慎まなければならない。余計なお世話だコノヤロウ。そんな相手いねぇよ!」

「どこ読んでんだよ。写真だよ、写真を見てみろ!」

「写真?」

 この手帳の表紙の裏には、持ち主の顔写真とクラス学年の記載された簡単なプロフィールがある。

 それで持ち主を特定しているのだが、そこにはかわいらしい容姿の女の子の写真が載っていた。

「ほほぅ。なるほどカワイイな」

「そうだろう。可愛いだろう」

 何やら自慢げな小向。

「まぁまぁですね」

 覗きこんできた朝宮も同意する。

 まぁまぁとは何様だコイツは。

「それで? この生徒手帳はどうしたんだ?」

「フフーン。どうしたと思う?」

 イラっとした。

 実際それほど興味も無いのだから質問に質問で返してくるなよ。

 もう面倒になったが、小向は得意げな顔で聞いて欲しそうにしていた。

 相手にしないとそれはそれで、面倒くさそうだ。適当に相手してやるか。

「そうだなー、盗んだとか?」

「最低ですね」と間髪いれずに朝宮が同意する。朝宮も小向の態度にイラついていたようだ。

「ちげーよ! 落ちてたのを拾ったんだよ!」

「どこで拾ったんだ。そもそも本当に落ちていたのか?」と俺は難癖をつけた。

「どうして落ちていたと判断したのですか。状況を説明してください。落ちてたのではなく置いてあったのではないでしょうか?」朝宮も便乗して、捲し立てるように追い討ちをかける。

「戻してこいよ。持ち主が探してるぞ」

「違うって、校門の前の道に落ちてたんだよ。なんでそんなに信用無いんだ」

「日頃の行いが悪いからだ」

「もういいから、もっと良く見てくれよ」

 小向は俺が手のなかで弄んでいた生徒手帳をひったくると、プロフィールを開いて突きつけるように俺達に見せる。

「ほら、ここ見てみろ。F組って書いてある。お近づきになりたいと思わないか?」

 朝宮は首を横に振った。

「僕はお役に立てないと思いますので、遠慮しますよ」

 女子が苦手な朝宮は辞退を申し出た。別に女嫌いというわけではない。朝宮は女子を前にすると上手く喋れないのだ。

「ちっ、使えねーメガネだ。おい、伊吹はどうなんだよ?」

 必然。お鉢はこちらに向かってきた。

「そうだな。まぁ可愛いとは思うが」

「じゃあ決まりだな、昼休みに届けにいくぞ」

 小向は嬉しそうに俺の背中を叩く。

「え、面倒なんだけど、一人で行ってくれないか?」

「馬鹿やろう。一人じゃ心細いだろ。ついて来てくれよ、ジュース奢るから!」

 小向は俺の両肩を掴んで揺さぶりながら懇願してきた。

 まぁ別に昼休みに用事があるわけでもなし、ついて行くだけでジュースを奢ってもらえるならと、俺は同意した。







 そういうわけで昼休みになると、俺と小向はF組の教室まで出向くことになった。

 F組の教室の前まで来ると、小向が俺の背中を両手で押してきた。

「おい、教室の中にあの子が居るか見てくれよ」

「なんで俺なんだよ。自分で確認しろよ」

「なんか急に緊張してきてさ。頼むよ」

「ホント情けない奴だなお前」

 俺だって社交的ってわけじゃないんだが、と思いつつ教室の中を覗き見る。

 男子のほとんどは別の場所で食べているのか、一人も姿が見えなかった。

 女子は3箇所くらいのグループに分かれて、机をくっつけて和気藹々と食事をしている。

 こちらに背を向けている女が何人かいるが、顔の判別できる人間に写真と該当する女はいなかった。

「背を向けて座っている奴の誰かかかもしれないが、わからんな」

「ちょっと大声で呼んでみてくれよ」

「嫌だ」

「なんでだよ」

「じゃあお前言ってみろよ」

「注目されちゃうだろうが、俺はごめんだぜ」

 小向はいやいやと手を振って拒否する。

 気持ち悪いなぁ、もう帰ろうかなぁと思っていると、

「ごめん、そこを通してくれる?」背中に声をかけられた。

 澄んだ声だった。教室の入り口を塞いでいた俺たちは慌てて道を開けた。

「どうもありがとう」

 少女はお礼を言うと、サっと俺の脇をすり抜けていく。背中まであるふわりとした黒髪を、自然と目で追っていた。

「あ、ちょっと待ってくれないか」

 遠ざかろうとする彼女の後姿に、思わず声をかけてしまった。

「ん、何か?」

 俺に声をかけられて少女は振り向いた。

 綺麗な顔立ちをした少女だった。ピンと伸ばした背中や、振り返った時の柔らかな物腰と相まって、お嬢様と呼びたくなるような雰囲気を醸し出していた。

 口元はわずかに笑い、にこやかな表情を作っているものの、こちらを見つめる瞳には、少しの驚きと警戒の色を僅かに滲ませている。

「ちょ、ちょっと人を呼んで欲しいんだが」

 少女の佇まいに気圧されて詰まりながら、俺は尋ねた。

「かまわないけど、誰を?」

 少女が訪ねる。至極当然の疑問だろう。

 そういえば生徒手帳に書いてあった名前をよく見ていなかった。

「名前を忘れた」

「そう、名前がわからなくては呼べないわね」少女は困った顔で言った。

「あ、天野緑さんって女の子を呼んで欲しいんだけど、いらっしゃいますでしょうか?」

 小向が少しどもりながら、おずおずとお願いする。

 すると、途端に少女の目つきが鋭くなった。

「緑ならいるけど、いったい何の用?」

 おちついているが厳しい口調だった。天野緑の名前を聞いてから、明らかに少女は警戒していた。

 この少女と天野緑は仲が悪いのだろうか?

「いや、それは、あれだよ、こいつを見てくれ」

 小向は例の生徒手帳を胸ポケットから取り出して、印籠をつきつけるように見せ付けた。

「あ、コレひょっとして緑の?」

「そうだ、こいつを届けに来たんだ」

 少女は自然な動作で素早く小向から生徒手帳をすっと取りさる。

「あら、それはありがとう。じゃあ緑に渡しておくわね」

 ニコリと作り笑いを浮かべながら少女は早口で言った。

「え、あ、ちょっと待ってください!」

 用は済んだと立ち去ろうとする少女を、小向が呼び止める。

「まだ何か用?」

「いや、ほら、直接渡したいんだよ」

「あら、それはどうして、何のために?」

「それは……」

 小向は応えに窮した。問い詰めるような少女の視線から目を逸らして、横で傍観している俺のほうを見る。

 その顔には”助けてくれ”と書いてあった。

 なんとも情けないやつである。

 とはいえ、これでも一応友人であるし、友人が助けを求めているのなら、できるだけ助けてやるべきだろう。

 俺は一歩前に出て、小向と少女の間に割り込んだ。

「な、なによ?」

 少女が俺を睨みつけてきた。綺麗な顔立ちに間近で見据えられて、俺はドキリとした。

「俺は……通訳だ」

「通訳?」少女が聞き返す。

「こいつはな、とってもバカなんだ。だから俺が通訳してやろう。わざわざ届けに来てやったんだから、礼ぐらい本人から聞かせて欲しいもんだ。関係の無い女はすっこんでろ。と言いたいそうだ」

「はぁ……随分な物言いね」

 少女はムッとした表情を作って、俺の影に隠れている小向を睨む。

「お、おい、そ、そこまで言ってないぞ!」

 小向が俺の腰をゆすって抗議する。

「ご期待に沿えず申し訳ないけど、お引取りください。緑はとっても奥ゆかしい子で、男子と会話なんかできないから」 

 少女がそう言って去ろうとした直後、

「ねぇ、アザミちゃん。その子達はだぁれ?」

 教室の奥からやってきた少女が会話に割り込んできた。

 名前は聞かなくとも、彼女が何者かは生徒手帳を見て知っていた。、

 奥ゆかしくて男子と会話なんかできないはずの天野緑だった。

「あら、来ちゃったのね」

 アザミちゃんと呼ばれた少女が振り向いて、小さく舌打ちをして言った。

「私が来たらまずかった?」

「いいえ別に、この人たちが、あんたに用があるそうよ」

「え、私に?」

「そう。生徒手帳を拾ってやったから、お礼を寄越せと言ってるわ」

「違います! 俺はお礼を寄越せとまでは言ってません!そんな図々しい」

 小向が手をバタバタやりながら必死に否定する。顔をリンゴのように真っ赤にして、必死すぎてちょっと引く。

 もう少し肩の力を抜いたほうがいいと思う。

 と俺はネガティブな感想を持ったが、天野緑は小向の必死な様子に動じていなかった。

 小向の目をじっと見ながら、その手を握るように生徒手帳を受け取った。

「そうなんだ。わざわざ届けてくれてありがとう。お礼はなにがいい?」

 小向は、困惑した顔で俺の顔と天野の顔を交互に見比べている。可愛い女の子に手を握られて酷く動揺しているのだ。

 俺は目に力を込めて"シャキッとしろ"と小向に喝を送った。

 あいつが俺のメッセージをどう解釈したかは知らないが、平静を取り戻す助けにはなったようで、小向は背筋を伸ばして姿勢を正した。

「いや、お礼と言っても。僕は当然のことをしたまでですよ。ははは。気にしないでください。あ、僕は小向っていいます。クラスの人気者です」

「あはは面白い人。小向君っていうのね。じゃあ、お礼にデートしよっか」

「え!」

 俺もたいそう驚いたが、小向は驚きのあまり、時間が止まったか、石になったかと見紛うほど完璧に制止していた。

 固まった小向に、天野緑が長く艶っぽいまつげを伏せて、甘えるように問いかける。

「お礼、デートじゃ駄目?」

「いえ、は、はい。是非お願いします!」

 小向は敬礼をしながら元気良く返事を返した。

「よかったぁ。じゃあ決まりだね。いつにする?」

「ええ、もういつでも暇です。なんなら今からでも」

「あはは、まだ授業あるから無理だよー」

 盛り上がる二人の脇をすり抜けて、天野緑にアザミちゃんと呼ばれていた少女が、俺の手を引っ張った。

「ちょっと来て」

「なんだ?」

 アザミちゃんに手を引かれ、二人から少し離れた廊下の隅で立ち止まる。

「どういうこと?」

 なんて漠然とした質問だろうか。

「何がだ?」

「あの男の子、小向君だっけ? 緑の好きなタイプからはかけ離れているわ」

「そうなのか。そもそも、あいつが好みのタイプだという女がいるとも思えないが、世の中には海のように心が広い人もいることだし。個人の趣向の問題だ。口を出すことじゃない」

「うん。それはそうなんだけどね。ねぇそういえば、あの生徒手帳はどこで拾ったの?」

「ん、確か校門の前に落ちてた、と小向が言っていたな」

「そっかぁ、また校門の前か……」

 少女は腕組みをして考え込む。

「また、ってなんだよ?」

「この前も同じようなことがあったの。校門のところで生徒手帳を落として、それを拾ってくれた女の子が届けに来てくれたのよ」

「なんだそりゃ。天野緑はドジっ娘なのか?」

「いつもはしっかりした子なんだけどね、ひょっとしてわざと落としているのかも」

「なんでそんなことするんだよ」

「知らないわよ。でも、この前は拾ってくれた女の子に、駅前のケーキをおごってあげるから一緒に行きましょうって誘ってたわ。断れてたけど」

「疑ってるなら本人に聞いてみればいいじゃないか」

「嫌よ。たまたま同じことが重なっただけかもしれないじゃない。そうしたら私、すごい疑り深い人だと思われるわ」

「それに何の問題が?」

「……あなた友達少ないでしょう?」

「いるぞ、あそこに一応、そんなようなのが」

 俺は天野と歓談している小向を見る。随分と盛り上がっているようだ。いったい何の話をしているのだろうか。

「随分楽しそうね」

「そうみたいだな、いったいどんな話をしているのやら」

「まぁいいわ、見守ってあげましょう。あの子が男の子に興味を持ってくれれば、私も助かるし」

 少女はそう言うと、F組の教室とは反対の方角へ歩みだして、思い出したように足を止めて振り返った。

「そうだ、忘れてた」

「まだ何かあるのか?」

 少女は、たおやかな淑女のような正しい姿勢で改まると

「橘アザミです。今後ともよろしく」

 と言って右手を差し出した。握手を求めているのだ。

 ふんわりとした笑顔だった。

「あ、これはご丁寧にどうも。伊吹明介です」

 俺は焦ってその手を握る。

 橘アザミの手は、小さくてしなやかだった。

 もっと感触を堪能したい気分だったが、すぐに放したいとも思った。

 自分の顔が赤くなっていないか心配だったのだ。

 手を繋いだくらいでドキドキしちゃっている事を看過されるのは恥ずかしい。

「伊吹君ね、覚えたわ。じゃあまた今度ね」

 そう言って、橘は手を放して去っていく。

 俺の見間違いでなければ、彼女は形の良い唇の端にうっすらと、何かを企むような含み笑いを浮かべていた。

 悪い予感はしていたのだが、橘は結構可愛かったので、右手に残る手の感触を思い出しながら、俺はむしろ何かが起こるのを期待していた。

「何ニヤニヤしてんだ?」

 いつの間にか、天野緑との会話を終えた小向が俺の傍に来ていた。

「いや、別に……そっちの首尾はどうだったんだ?」

「いやぁ~聞いてくれ、今度学校の帰りにデートすることになった。悪いな」

「いや、別に悪くはない。よかったな」

「ああ、俺にもようやっと春が来たぜ」

 両手で自分の頬を包み、恍惚とした表情の小向は、夢に出そうな気味の悪さだった。

 教室に戻ると、小向は朝宮の席まですっ飛んでいき、マシンガンのように自慢話を始めた。

 怒涛の勢いで同じ自慢話を何度も繰り返し、終いには怒った朝宮に強引に追い払われた。

 朝宮に追い払われた後は、普段あまり関わりの無いクラスの男子と話している。

 相手の迷惑そうな態度を見れば、会話の内容は朝宮にした自慢話とほぼ同じだと容易に想像できた。

「小向の奴、すっかり有頂天になってやがるな」

「うっとおしいこと、この上ないですね」

 朝宮はナイフのような目つきで小向の背中を睨みつけている。自慢されて相当腹がたっているようだ。

「いいじゃないか、どうせ上手くいかないさ。束の間の幸福感を味あわせてやろう」

「そうですね。あの幸福に満ち溢れた憎たらしい顔が絶望に沈む様を早くみたいです。それで放課後デートはいつなんですか?」

「日付はまだ決まってないみたいだったな」

「このまま予定が合わないだとかで、放課後デートの約束がうやむやになるのは嫌ですね。小向君に気持ちの整理の期間を与えてしまいます。

 だいたいね、あんな可愛い子が本気で彼のような知性も清潔感もない男を相手するわけないじゃないですか。

 モテる男というのは清潔感が一番大事だとあらゆる調査結果が証明しています。結果は見えてるんですよ。バッサリとふってほしいです」

 よほど悔しかったのか、朝宮は頬をひきつらせて、吐き捨てるように言った。




 学校が終わり、のんびりと自転車を漕いで家に帰りながら考え事をしていた。

 橘の言っていた、この前も同じようなことがあったという話。もし偶然でなく故意であったとしたなら、なぜ天野緑はそんなまねをしたのか?

 まさか校内で美人局をするわけでもないだろう。個人的な趣味だろうか。

 小向のような女子に縁のなさそうな男を弄んで楽しんでいるのか?

 いやしかし、生徒手帳を拾った相手が女子でも誘っていたというから、その線はないか……。

 普通に考えれば裏の意図はなく、ただ落し物が多い女の子なんだろうけど、彼女の友人の橘はずいぶん怪しんでいた。

 いったいどんな秘密が隠されているのだろうか、などという俺の思考は突然の豪雨に打たれて中断されることになった。

 大急ぎで自転車を走らせたが、努力の甲斐も無く、家に着くころには着衣水泳でもしてきたかのようにずぶ濡れになったいた。

 自転車を置いて、ポケットから家の鍵を取り出して差し込み、捻ろうとして、鍵がかかっていないことに気付いた。

 両親は今日は夜まで仕事だ。早く帰ってくるような話もない。家族の中で、俺より早く帰る可能性があるのは妹しかいない。

 俺は玄関のドアに手をかけて、少し気合を入れた。

「あ、お兄ちゃん、おかえり」

 ドアを開けるなり出迎えの声が聞こえて、妹が居間から顔を出した。

「大変、ずぶ濡れじゃない。まってね、今タオル持ってくるから」

 そう言って妹は一旦奥に引っ込む。

 濡れたかばんを廊下の隅に置く。あとで床を拭く必要があるな。

 妹は準備してあったかのように、すぐにタオルを取ってきた。

「ほら、拭いてあげるから、頭下げて」

「自分で拭くから、かしてくれ」

「いいからいいから、かがんでよ」

 俺が膝を落とすと、妹は嬉しそうに、俺の頭をくしゃくしゃと拭いている。

 頭を拭き終わると、肩を拭き始め、手、体、そして下半身へと降りていく。

「きゃあ!」

 妹の手が俺の股間のあたりをぐりぐりと拭いたので思わず悲鳴が出てしまった。

「ん、どうかしたの? お兄ちゃん」

 妹は、何か問題でもあるのかと問いたげな、純真な目で見上げてくる。

「いや、なんでもない」

「そう?」

 妹は視線を下に戻すと、まるでわざとかのように股間を重点的に拭いていた。

 カワイイ女の子にぐりぐりとされて、俺の意志とは無関係に体が膨らんでいくのがわかった。

 これはいけないと、修行僧のように必死に己の体を律したが、なかなか妹の手つきは手強かった。

(まずい……このままでは誤魔化しがきかないほど元気になってしまう……。そうだ!宇宙だ!宇宙のことを考えよう)

 唐突にそう思いついた俺は、大宇宙の雄大さに思いをはせることで、どうにかこの窮地をやり過ごすことに成功した。

「はい、いいよ」

「ふぅ……ありがとう」

 ありがた迷惑だったが、一応お礼を言うと、妹は照れくさそうに微笑んだ。

 自分で拭いたほうが、よほど疲れなかっただろう。

「風邪引いちゃうからシャワー浴びなよ」

「ああ、そうだな」

「一緒に入ろうか?」

「馬鹿いうな」

「だめだよ風邪引くよ。ほら、制服脱いで」

 妹は俺のブレザーを脱がそうとする。

「そうじゃなくて」

 俺は妹の手を払いのけて

「一人でできるって」

 そのまま脱衣所に逃げ込んだ。

 この家に引っ越してきてから一年ほどだが、やはり違和感が抜けない。

 俺はゆったりとシャワーを浴びて、無垢を装った妹の親切心で、乱された心を落ち着ける。

 体を拭いて、脱衣所の引き戸をあけて、俺は驚いて息を呑んだ。

 妹がそこに立っていたからだ。

「わぁ、びっくりした!」

 妹はわざとらしく言った。こっちのセリフだと言いたい。

「なにしてんだよ」

「え? いや……」

 妹は目をそらして、廊下の床を見つめる。そんなところには何もないぞ。

「ちょっと……そこの床が気になってんですよ?」

 なぜ敬語なのか、なぜ疑問分なのか、いったい何をしていたのか、疑問は尽きないが、

「そうか、わかったから出て行ってくれよ」

 俺は深くは追求せず、妹を追い出した。

 寝間着がわりのスウェットに着替えて、俺は階段を上がって二階にある自室に向かった。

 ベットに倒れるように横になった。濡れた髪が枕を濡らすが、今は構わないと思う。

 いったい何故、妹はこんなに甲斐甲斐しくなったのか考えるが、答えは出ない。

 そもそも俺には妹と一緒に過ごした記憶が欠落しているのだ。

 俺が小学校6年生のとき、妹は車に轢かれた。俺より2つ下、小学校4年生だった。

 確かに、その時に妹は死んだはずだった。葬式の記憶は鮮明に残っている。

 にもかかわらず、彼女は現れた。さも当然のように。事故そのものが無かったかのように。

 俺の主観的に見て、死んだはずの妹と再会したのは、今から一年ほど前。中学校を卒業して高校に入学する前の春休みのことだ。

 あの日、高熱を出して寝込んでいた俺は夢を見ていた。妹が車に轢かれた瞬間の夢だった。

 今ではあまり見なくなったが、当時は事故の瞬間をよく夢に見ていて魘されていた。


 その事故は誰かに取りたてて落ち度があったわけではない。巡り会わせが悪かったのだ。

 事故が起こったのは、小学六年生の冬休みの元日の事だった。俺は両親と妹と近所の神社に初詣にでかけた。

 冷凍庫の中に放り込まれたかのような異常な寒さの中で、理由も無くはしゃぐ妹とは対照的に俺は憂鬱だった。同じように初詣に訪れた同級生と遭遇したらどうしようかと頭を悩ませていたのだ。

 両親と一緒に居るところを見られると、親離れできていないように思われそうで恥ずかしいというような、思春期の子供にありがちな羞恥心も理由の一端ではあった。

 だが、当時の俺が恐れていたのは、もっと切実で具体的な問題だった。3つ下のおしゃべりな妹の存在である。

 あの子が口走った讒言によって、俺は極めて理不尽で重篤な精神的苦痛に苛まれている真っ最中だった。

 初詣に出かける一週間程前のことである。俺は妹を連れて地域のクリスマス会に参加した。どこからどこまでの地域が該当していたのかは、今をもって不明だが、妹は、俺の同級生の女子達に囲まれて、猫のように可愛がられていた。

 一方、兄である俺は、仲の良い友人の姿も見当たらず、話相手に困ってひたすらお菓子を食べて寂しさを紛らわしながら、妹の様子を羨望の眼差しで眺めていた。

 妹を撫で回している少女の一人が、俺の目を引いた。

 彼女は、確か北山という名前だった。俺のクラスのマドンナ的存在で、手足がスラリとしていて品が良い少女だった。

 かくいう俺も、彼女に漠然と好意を寄せる少年のひとりであった。これは好都合だと妹をダシにしてお近づきになろうとしたことを、いったい誰が責められるだろうか。

 俺は蝶が花の蜜に誘われるように、妹を囲んでいる少女達の輪に近づいていった。

 北山は俺の妹を捏ねる様に撫で回していた。妹は普段の生意気な態度を隠して猫が顎をこすりつけるように甘えていた。

「あ、こんにちは伊吹君」

 彼女は近づいてくる俺の姿に気付くと手を振ってくれた。

 俺も軽く手を挙げて極めてクールな動作で挨拶を返す。

「この娘、伊吹君の妹でしょ。超可愛いんだけど、いいなー。わたしもこんな妹欲しい」

「そんなんでよければどうぞ。外面だけはいいんだ。家では我侭ほうだいだよ」

「へぇ、そうなの?」と北山は意外そうな顔で妹を見つめる。

「我侭じゃないもん」

 妹はそう言うと、俺のほうを見上げて睨んでいたが、急に何か良いことを閃いたのか、パッと明るい顔になり、

「おにいちゃんはねぇ、とってもスケベなんだよ。修学旅行の時にねぇ、北山さんの着替え覗いたって言ってたよ、アハハ」

 と言って笑った。

 無論、俺は即座に反論した。見えなかったと。

 今にして思えば、何も言わないほうが遥かにマシな言い訳だったと思う。

 北山は身を守るように腕を組み、繭をへの字にして困惑した表情を作っていた。

 しばし、真意を伺うように俺の顔を観察していたが、いつしか瞳の色は怒りを帯び、その怒りが染み出るように涙を流して泣き始めた。

 周りの女子達が大丈夫かと大げさに声をかけながら北山の肩をさすり、非難と軽蔑と嫌悪の眼差しを容赦なく俺に向けてくる。

 いったい俺が何をしたというのだろうか。

 なぜこんなゴミ以下の物体を見るかのような視線に晒されなければならないのか。

 突然降りかかった身の不幸に、俺の頭は火がついたように大混乱となっていたが、近所の住人たちが何事かと遠巻きに見ているのに気付いて、いくらか正気を取り戻した。

 頭の良い俺は、事の経緯を知らない町内の大人達から見れば、俺が北山に対して、何かとんでもない破廉恥なことをしたかのように見えてしまうではないか、ということに考え至った。

 まずい、社会的にまずい。とにかく自分が潔白であることを訴えなければ。

 何を言ったのか、詳細は覚えていないが、必死に弁明する俺をよそに、妹がニコニコ笑っていたことは覚えている。子供とはいえ、今思い返しても酷い事をする奴だと思う。

 俺はクラスどころか、学年中の女子達から変態のレッテルを貼られてしまった。

 いっそ開き直って変態として振舞えば楽だったかも知れないが、あどけない少年だった俺には、そんな胆力があるはずもなかった。

 だから、その日の初詣もクラスの女子にばったり出くわさないかとビクビクしていたのである。 

 神社に到着すると、俺は鳥居の影に隠れて様子を伺った。幸いにも境内には見知った人影は見当たらなかったので、ほっと胸を撫で下ろした。

 時刻は午前6時。日の入り前のこの時刻には、小学生は出張ってこないだろうということから、両親達を急かして早く来た甲斐があった。

「お願い事何がいいかなぁ」

 何を願うかを母に相談している妹を待たずに、俺はさっさと賽銭をなげこんでガラガラと鐘を鳴らす。

 当然のことながら、妹との仲は過去最高潮に険悪だった。

「ちょっと待ってよ!」

「おだまり!」

 抗議する妹を高飛車な口調でピシャリと一喝して、俺は手を合わせて祈った。

 俺の願いはクリスマスの日から決まっていた。

 どうか俺の身の潔白が証明されるようにお願いします。

 神に向かって切実に祈りをささげ、その年はクラスの女子に遭遇することもなく、俺達家族は岐路に着いた。

 その帰り路で事故は起こった。

 ようやっと日が昇り始めてはいたが、まだ町には薄く霧がかかっていた。

「わ!」

 突然、後頭部に何かがぶつかって、俺は驚いて声を上げた。

 笑いながら俺を追い抜いて、妹が逃げ去っていく。雪玉を投げつけたのだろう。

 俺がこんなにも頭を悩ませているというのに、妹はまるで関係ないとばかりに楽しそうな笑い声をあげている。

 怒り心頭だった。誰のせいだと思っているのだと、クリスマスでの復讐も含めて、やりかえしてやろうと、手ごろな雪を探す。

 雪が降ったのは数日前のことで、路の脇に残っている雪は踏み固まっていて、雪玉には使えなかった。氷を投げつけたら怪我をしてしまうからね。危ないね。

 誰の家かは知らないが、塀の上にわずかに残っていた雪を引っつかんで、妹の背を追いかける。

 雪を探していて手間取っている間に、妹との距離はかなり離れていた。

 妹が逃げていった先には、片道二車線の太い道路があった。

 妹は、一瞬の躊躇も無く道路に飛び出して、横断歩道を走って渡っていく。

 歩行者用信号は青だった。青信号なのだから車は当然来ないはずだと思ったのだろう。俺も特に危険は感じていなかった。妹が横断歩道の真ん中で転ぶまでは。

 それは普通の転び方ではなかった。走っていて転んだ場合、通常は前のめりに倒れるはずだ。

 しかし、妹は仰向けに倒れた。足を滑らせてすっころんだのだ。

 妹が立ち上がろうとして、また転んだときに、俺は妹の状況を理解して息を呑んだ。

 路面が凍っているのだ。

 信号が点滅を始める。

 そこへ一台のワゴンがゆっくりと、スローモーションのように滑ってきたのを見て、戦慄した。

 運転手の、青ざめた顔は今でも鮮明に覚えている。

 背中越しに、母の空気を切るような悲鳴が聞こえた。

 人間の体からどうやってこんな声が出るのかと思うほど不気味な母の悲鳴が、俺の背中をぞわりと撫でた。

 全身の毛が瞬時に逆立つような感覚に襲われて、俺はカッと目を見開いた。

 目の前には、見慣れない天井が広がっていた。

 ここが何処なのか、ややあってから思い出す。

 ここは新しい自分の部屋だ。

 高校入学と父の転勤が同時にあって、自分はこの家に引っ越してきたのだ。 

「また、あの夢か……」

 誰に言うでもなく、俺はつぶやいた。

 妹が死んでからというもの、定期的に、その瞬間を夢に見るのだ。

 もう何年も前のことだというのに、毎度毎度、五感まで鮮明に再現される。

 そして最後はいつも決まって母親の叫び声で目を覚ますのだ。 

  

 掛け布団をどけると、驚くほどの清涼感が体を覆った。

 まるで洗濯でもしたかのように、衣服がぐっしょりと汗で濡れていた。

 喉も張り付くように渇いている。水が飲みたい。

 俺はヨロヨロと真新しいベッドから降りて、自室を出た。

 新居での俺の部屋は二階の一室をあてがわれているのだが、どういうわけか思うように体が動かない。

 欄干に縋るようにして階段へと向かう。

 階下からは、母が洗い物をしているのか、水の流れる音が聞こえてくる。

 毎朝の事だが、母と顔を合わせるとなると思うとげんなりする。

 妹が死んでから、母の奇行が始まった。

 時間が解決してくれるというのは嘘っぱちで、それは年々酷くなっていき、俺と父の神経を磨り減らしていた。

 そんな母親と朝っぱらから顔を合わせるのは億劫なので、できることなら避けたかったが、喉の渇きがそれを許さなかった。

 俺は手摺に体をあずけるようにして階段を降りていった。

 水の音に誘われるように、俺はリビングに入り、対面型キッチンのカウンター越しに水仕事をしている母に声をかけようとして、それが母ではないことに気がついた。

 母よりも一回り小さく、茶色く染められた髪。

 若い、というよりも幼い顔立ち。中学生くらいだろうか。可愛らしい桃色のエプロンをつけた少女が食器を洗っていた。

 その少女は俺の気配に気付いて顔を上げた。

「あ、起きたの。平気?」

 少女は手についた水を拭くと、カウンターを回りこんでこちらに近づいてくる。

 目の前までくると、俺の顔を下からマジマジと覗き込む。

 俺は気恥ずかしさを覚えて、反射的に目を逸らした。

「どこか悪いところはある?」

 少女は言った。

「いや無いけど喉が渇いて水を一杯貰えないでしょうか?」

 緊張して、妙に早口になってしまった。 

「ああ、そうだよね。ちょっと待っててね」

 少女は頷くと、小走りで嬉しそうに台所に戻っていった。

 戸棚からグラスを出して、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぐ。

 テキパキとした動きで一連の動作を終えると、立ち尽くしていた俺のところに戻ってきた。

 俺は少女からグラスを受け取ると、一気に飲み干した。

「わぁすごい。よっぽど喉渇いてたんだね。もっと飲む?」

「いいのですか?」

「もちろん。ねぇ、立ってないで座ったら?」

「ああ、はい」

 少女に促されて、俺はソファーに腰掛けた。

 このソファーは前の家から持ってきたものだ。

 昔、ソファーは絶対良いものを買うと父が駄々をこねて、母の反対を押し切って買ったソファーだ。

「はい、どうぞ」

 少女が水のおかわりを持ってきてくれた。

「ありがとう」

 俺がその水を受け取りと、少女は俺の隣に寄り添うように、ソファーに腰掛けた。

 見知らぬ美少女に腰がくっつくような距離に座られて、ドキリとする。

「どこか変なところはない?」

 少女は言った。

「へ、変なところ?」

「ほら、ずっと寝ていたでしょう。首が痛むとか、肩が痛むとか」

「ああ……いや、あまり力が入らないけど、別に痛みはない……です。喉が少し痛いくらいですかね」

「ふーん、じゃあ大丈夫なのかなぁ」

 少女はジッと俺の顔を見て容態を窺っている。

 俺はというと、手に持っているグラスに目線を集中させていた。

 女の子とこんなに間近で顔を突き合わせた経験などないし、まして美少女であればなおさらだ。

 というか誰なんだこの子は?

 この町に越してきたばかりで、看病をしてくれるような女友達に心当たりはない。いや、そもそも前の町でも女子からは遠巻きにされていたが……

 現実的な可能性としては、父が近所の女の子に俺の世話を頼んだとか?

 近所でなくとも、父の人脈の線は濃厚だ。他の可能性はまったく思いつかない。

 父はなんてナイスガイなのだろう。こんな可愛らしい少女とお近づきになれるチャンスをくれるとは。ならば父の粋な計らいを無駄にする手はない。

 そういえば、寝起きで酷い顔をしているだろう。俺は顔を洗おうと立ち上がった。

「どこへ行くの?」

「顔を洗いたいと思い立ち上がりました」

「一人で大丈夫?」

「ああ、問題ないです」

 リビングから出て洗面所を探してドアを開けると、トイレだった。

「そこトイレだよ?」

「間違えた」

「ちょっと本当に大丈夫? 洗面所はその奥の引き戸だよ」

「ああ、ありがとう」

 ふらふらと壁伝いに洗面所に入り、扉を閉める。 

 鏡に映る顔は、やや紅潮していること意外は俺の記憶のとおりだった。

 顔を洗うついでに、冷水で火照った顔の温度を無理やり下げる。

 頭をクールダウンしたところで、さきほどの少女のことを冷静に考察する。

 やはり、俺に惚れているのは間違いないだろう。

 理由はわからない。まったく心当たりは無い。初対面だ。一目惚れされたのかもしれない。

 目の前の鏡の前で笑ってみる。顔立ちは上の下くらいだと思っている。誰かの同意が得られたことはないが。

 とはいえ、突然可愛らしい女の子に世話を焼かれて、挙動不審になってしまったのは、かっこ悪く映ったことだろう。

 とりあえず、この町のことでも聞きながら、汚名返上の機会を探すとするか、などと作戦を企画していたとき、ガチャリと玄関の扉を開く音が聞こえた。

「ただいま」

 父の声だった。俺は洗面所から顔を出して驚く。

「あら、起きて大丈夫なの?」

 母が俺の顔を見て和やかに声をかけてきた。父の両手は買い物に行ってきたのだろうか、レジ袋で塞がっていた。父と母が一緒に買い物に行くなど何年ぶりだろうか。

「おかえりー」

 少女がリビングから出てきて二人を出迎えた。

「ただいま」

 母がにこやかに答えた。

 二人は仲が良いのだろうか?あの母と?

「もう、体はいいのか?」

 父は俺の姿をみて、顔を綻ばせた。

「うん、大丈夫みたい」

 俺ではなく、少女が応えた。

「そうか、じゃあ快気祝いも兼ねて、どこか食べに行くか?」

 父は爽やかな笑顔で言った。父のこんな顔を見たのは何年ぶりだろうか。

「駄目よ、病みあがりなんだもの」と母が父を叱りつける。

「そうね。まだ上手く動けないだろうから、今日は止めておいたほうがいいかも」

 少女は俺よりも、俺の体の状態に詳しいようだ。

「そうか……」

 父は少し残念そうに、

「じゃあ、出前でも取るか。寿司にしよう、寿司に。なあ明介、お前好きだったろう?」

 たしかに寿司は好きだが……この雰囲気はなんだ。

 この和気藹々とした雰囲気は、妹が死んでから失われていたものだ。

 この少女が居るからかもしれない。両親とこの謎の少女は妙に親しいようだ。

 買ってきた掃除用具などを整理している両親と少女を傍目に、俺は階段をあがって自分の部屋に戻った。

 白と青のストライプのダサいパジャマのままでは格好がつかないので、着替えようと思ったのである。

 私服を出そうとして、自分の部屋の中にあるはずの、まだ整理が終わっていなかったダンボールが片付いていることに気付いた。

 俺が寝込んでいるときに、誰かが整理してくれたのだろうか。母か、父か、ひょっとすると、あの少女かもしれない。

 整理してくれたのはありがたいが、自分の部屋なのに物の位置がわからなくなってしまった。ダンボールのままであれば、だいたい中身がわかったのに。

 ぼやきながら部屋を見渡して、すぐに異変に気付いた。この部屋には、物がなさ過ぎるのだ。

 引越しのときにも、ほとんど処分しなかったはずだ。

 幼い頃から使っている箪笥の引き出しを引っ張り出して目を疑った。どれもこれも見たことの無いような服が入っていたのだ。

 これはいったい誰の服だ?

 それに、集めたはずの漫画や雑誌類などはどこへ行ったのだろうか。

 俺のお気に入りのグラビア達はどこへ消えてしまったのか。

「どうかしたの?」

「え、ああ、いや」

 少女の声がしてギョッとして振り向く。

 いつの間にか、ドアを開けて部屋の中を覗いていた。

「箪笥の中に、見覚えの無い服ばかり入っていてな」

 少女は少し困った顔をして、

「引越し業者が間違って、お兄ちゃんの服だけ捨てちゃったんだよ。覚えてないの?」

「ええ!?」

 驚愕である。思わず驚きの声を上げてしまった。

 荷物が捨てられてしまうなんてことが有り得ることは、衝撃だったし残念だ。しかし、少女はそんなことがどうでもよくなるくらいの事を言った。

 今確かに、少女は俺のことを、お兄ちゃんと呼んだのだ。

「お兄ちゃん、だと?」

「混乱しているの? お兄ちゃん大丈夫? 病み上がりなんだから無理しないでね」

「いや、しかし確かに、自分の荷物を部屋に運び入れた覚えがあるんだが、それに服も取り出した気がするが、あとお兄ちゃんってなんだ?」

「うーん。まだちょっと記憶があいまいみたいだね」

「いや、しかし、確かに」

「夢でも見てたんじゃないかな? 引っ越して来て、部屋の整理をする夢」

 少女はかわいらしく笑いかけながら、俺の前に座って、子供を落ち着かせるように俺の頭を撫でた。

「だから、代わりに私が選んでおいた服を入れておいたから」

 お礼を言っておくべきだったかもしれないが、放心状態になっていたのでかなわなかった。

 我に返ると、俺は少女が去ったドアを見つめていた。

 たぶん年下の可愛らしい少女のナデナデには、俺の思考を止めるだけの十分な破壊力があった。おかげで重要なことを聞きそびれてしまった。

 俺の妹は死んだのだ、3年以上も前に。まさか引越しの記憶と同じで夢だったなどということは無いだろう。

 なら少女はひょっとして、俺の幼馴染か何かで、年上の俺を慕ってお兄ちゃんと呼んでいるとか? こっちに引っ越してきて再開したとかそういうことなのだろうか。

 俺は記憶の糸を辿るが、そんな少女は存在しない。

 しかし、俺はその可能性を否定しなかった。自分が覚えていないだけかもしれない。二次元界隈では幼い頃に親しかった幼馴染が美少女になって登場することは、少年・青年向け問わずありふれたことだからだ。

 俺は現実感のないフワフワとした気持ちで少女の選んでくれた服を着た。

 なんだかよくわからない状況だが、家の中の雰囲気は明るくなったし、可愛い少女とお近づきになれて、俺は新生活がすばらしいものになる予感を覚えていた。

 適当に服を選んだ後、部屋の中を確認する。何が無事に届いて何がなくなっているのかを確かめるためだったが、新たに異変を発見してしまった。今度は無いはずのものがあるのである。

 たとえば、中学一年生の夏に誰かに貸したまま戻って来なかったアニメキャラの絵柄をそろえるルービックキューブが、勉強机の引き出しに入っていたり、売り払ったはずの漫画が本棚に収まっていたり、などである。

「明介。お寿司がきたわよー」

 母の呼ぶ声が聞こえたので、疑問は残るが、探索を中断して階下に降りていく。

 食卓には豪勢な寿司がならんでいた。

「へぇ、やっぱり似合うね」

 居間に入ると、少女が駆け寄ってきて俺の服装を褒めてくれた。女の子に褒められるのも照れくさいことだが、この少女はいちいち不必要に近寄ってくるので、余計に気恥ずかしい。

「あら、ほんと。いいじゃない」

 と母が同意する。そして衝撃的な言葉を続けた。

「やっぱり時子に選んでもらって正解だったわね」

 母は少女の事を時子と呼んだ。

 この少女が死んだ妹と同じ名前だとでもいうのか。

「あら、どうしたの変な顔して。出目金みたいよ」

 きっと俺は、驚きのあまり目を見開いていたのだろうが、実の息子を出目金呼ばわりとは酷いものである。

「ほら、早く食べよう」

 皿を配り終えた父が、俺達を急かした。

「うん。おなかペコペコだよー」

 時子と呼ばれた少女は、席に腰掛けると自分の隣の席をぽんぽんと叩いて、

「何してるの、はやくすわんなよー」

 と言って、俺に隣に座れと促してくる。

 席に着いて豪勢な食事を前にすると、急に腹が減ってきた。そういえば最後に飯を食べた記憶もあいまいだ。

 父は既に何かを口にほおばっていて、もしゃもしゃとしていた。俺と目があうと、俺に向けて、こぶしを握って親指だけ立ててきた。グッドという意味だろうか。父は柄にも無く随分うかれているようだった。原因は明らか。母の容態が落ち着いているからだろう。

 そういえば妹が亡くなる前はもっと元気で子供っぽかった。こんな人だったかもしれない。

 腹が減っては戦はできぬと言うことだし、とりあえず気になることは置いておいて、俺は目の前の食事にありつくことにした。

 時子という名の少女と母の会話は随分盛り上がっていたようだが、どうでもよい世間話だったので、内容は忘れてしまった。

 食事の後は、病み上がりということで自室に戻って休むことを薦められた。

 ベッドに横になって、部屋の様子や自分の状況について思い返してみたが、どうもはっきりしない。

 うつらうつらしていると、ドアをノックする音が聞こえた。

「はいはい」

 返事をすると、時子という名の少女が入ってきた。

「おにいちゃん、お風呂あいたよ。ご飯の前に入っちゃえってお母さんが」

「え、ああ。そうか」

 体を起こして少女の姿を見ると、彼女はパジャマを着ていた。

 湯上りのシャンプーのほんのり甘い香りが漂ってきて、艶かしい。

「え、泊まって行くのか?」

 少女の色香に動揺して思わずついて出た言葉だった。

「え、何言ってるの?」

 少女は俺を責めるように問い詰める。

「ねぇ、何言ってるの?」

 少女は繰り返した。

「いや別に」

「嘘、今、泊まって行くのかって言ったよね、お兄ちゃん?」

 はぐらかそうとしたが、少女の詰問はこれまでの優しげな様子と違って執拗だったので、この際俺は、いずれ聞くつもりだった事を、今聞くことにとにした。

「ここはお前の家じゃないだろう?」

「何言ってるの、時子だよ。妹の。さっきもそんなこと言ってたよね。私のこと忘れちゃったの?」

「初対面のはずだ」

「どうしてそんなこと言うの? お兄ちゃん」

「時子は3年以上前に交通事故で死んだ」

 時子と名乗る少女の顔から血の気が引いていく。尋常ではない。人形のような精気を感じさせない顔になっていた。

 少女はベッドの上に飛び乗ると、俺の体を押し倒して覆いかぶさった。

「ねぇ何言っているの? 頭おかしくなっちゃったの? 寝ぼけているの?」

 俺の記憶の清濁はともかく、この少女は普通ではないのかもしれない。異常な反応だ。

 ともかく、これ以上、少女の言うことを否定することは、俺にはできなかった。

 下腹部に感じる少女の体重や、甘いシャンプーの香りに惑わされたからではない。

 両手で俺の顔を掴み、目を見開いて、瞬きもせずに俺の瞳を至近距離で凝視している少女に、俺は恐怖を覚えていた。

「う、頭が痛い」

 静寂を打ち破った言葉は自分でも間抜けなものだったと思う。俺は仮病を使うことにした。

「本当? 大丈夫?」

 少女の瞳と声に感情が戻っていた。

「まだ少し高熱の後遺症があるみたいだ」

「そ、そうだよね。ごめん。病み上がりなんだもんね」

 少女は俺の上から降りる。

「大丈夫? お風呂一人で入れる?」

「ああ……大丈夫だ」

 上体を起こすと、少女は俺の耳元に囁いた。

「何かあったら言ってね。大丈夫。私は時子。お兄ちゃんの妹はここにいるよ。お兄ちゃんは何も心配しなくていいんだよ」

「そうだな。ありがとう」

 俺は適当にお礼を言って逃げるように風呂に向かう。階上で、少女が独り言のように何かを呟いていた気がしたが、見上げる勇気はなかった。

 風呂から出ると、父がソファーに横になってテレビを見ていた。

「お、風呂空いたのか?」

「ああ、次どうぞ」

「じゃあ入るかな」

 父はゆっくりと体を起こした。

 俺は居間に妹と母の姿が無いのを確認する。ちょうどいいので父にも聞いてみることにした。

「なぁ、あの女の子誰?」

「はぁ、あの女の子?」

「いや、だからさ。今家に居る女の子」

「おいおい、怖い事いうなよ」

 父は大げさに両手を肩でさする。

「別にこの家は曰く付きとかではないはずなんだが」

「いや、そうじゃなくて、あの時子とかいう名前の女の子だよ」

 父は少し怒って、

「自分の妹のことを忘れたのか? 俺がそういうの苦手なの知ってるだろ。やめてくれよ」

「いや、妹のことは覚えているんだけどさ」

 父は俺の顔を心配そうに覗き込む。

「熱で頭がやられたのか? 病院に行って見て貰ったほうがいいかもなぁ」

「いや、大丈夫だ」

「そうか? まぁ少し様子を見るか」

 父はそう言って、俺の脇を通ってリビングから出て行った。

 父の反応は自然なものだった。

 母も少女のことを時子と、妹の名で呼んでいた。

 そして、件の少女も俺の妹であると自称している。

 3対1。常識的に考えれば、俺がオカシイのだろうが、納得がいかない。

 記憶が抜けているならいざ知らず、妹が亡くなった瞬間と、その後の淀んだ家庭の記憶はあるのだ。忘れたくても忘れられない、あの重苦しい空気が嘘だったとは、とても信じられないのだ。





「という話なんだけど、どうして妹の事を思い出せないんだろう」

「記憶喪失設定ですか?」

 俺は、今日も朝のホームルーム前の時間に、後ろの席の朝宮と談笑していた。

「いや、設定とかではなくてだな」

「一度病院で見て貰ったほうがいいんじゃないですかね」

 朝宮が月並みな返答をする。

「いや、抜け落ちているのは妹に関する事だけなんだけど。まぁ部屋が少し違うとかはあるけどさ。なんでだろう?」

「あなたの頭がおかしいんじゃないですかね」

 朝宮はつっけんどんに返した。どうもこの話はウケがよくなかったようだ。

 そもそもなぜ朝宮に自分の過去話をしているのかというと、先日の公園の事件に進展があった事が関係している。

 例によってニュースを見ていなかった俺は、朝宮にさきほど、あらたに発覚した新事実というのを聞いた。

 それによると、まず被害者と思われていた死体は既に死亡していて、死亡後に煮られていたということ。 彼らが殺したわけではなく病没だということ。

 彼らの中には、死体の人物の妻もおり、どうも彼らは死体の人物を復活させようとしていたそうなのだ。

 つまり彼らは、善意からそうした行動をしていたのだと主張しているそうだ。

 もちろん煮られたことで死んだ人間が復活するわけもなく、当然のように蘇生は失敗。後にはゲテモノスープが完成しただけとなったのだが、俺の心に引っかかったのは、彼らが復活の儀式をしているときに、唱えていた呪文である。

 ソース不明なネットの情報によると、彼らはドラム缶を囲んで両手をあげて、「大釜礼賛!」と何度も叫んでいたらしい。

 大釜と聞いて、そういえば母が以前に傾倒していた怪しげな団体も、大釜がどうのこうのと言っていたのを思い出したのだ。

 確か、大釜協会、という団体名だったように思う。俺は関わるのも嫌だったので、不確かな記憶ではあるのだが。

「物忘れの激しい人ですね」

 などと朝宮は言う。とにかく、大釜協会と蘇生という二つのキーワードを聞いて、妹が大釜協会の力で蘇ったのではないかという説を思いついたのだ。

「うわぁ、それ本気で思っているんですか?」

 朝宮は馬鹿にしたように俺の目をマジマジと見つめる。

「思っていない、言ってみただけだ」

「蘇ったら大混乱ですからね。それに妹さんが亡くなったのはあなたの不確かな記憶によると4年以上前なんでしょう。もうとっくに骨になってますよ。葬式とかどうしたんですか? どうせ覚えていないんでしょうけど」

「いや、葬式はちゃんと覚えているぞ」

 もちろん覚えている。妹が無くなって母が放心状態だったので、父が全て段取りして行った。妹は友達が多かったのか、小さな女の子が大勢いて、妹の棺に花を入れていた。

 俺は誰だかわからない親戚の老婦人に促されるままに花を棺に入れて、そうして妹の小さな体が火葬場で焼かれるのを見送った。出てきたときは粉々の骨だけになっていて、妹を失ったという実感は湧かなかった。

「いいじゃないですか、あなたの記憶が間違っていた。妹さんは生きていた、皆幸せで問題ありません。それとも妹さんのこと嫌いなんですか?」

「いや、別に好きでも嫌いでも無いけど、そういうことじゃない」

「何かの映画と混同しているんじゃないですかね。ほら、小さい頃に見た映画のワンシーンが深層心理に残っていて、その役者を自分と妹に置き換えて夢で見たんじゃないですかね。私もこの前、暗黒の力に堕ちた父親とチャンバラを繰り広げる夢を見ましたよ」

 朝宮は剣を振るまねをしている。

「じゃあその、大釜協会がすごい技術を持っていたらどうだ。クローンとか作っちゃったりしたら可能だろう?」

「というよりもですね。あなたの話を聞いてると、高熱がひいて、最初あったときに妹だと思ってませんよね。まるっきり別人の可能性を考えた方が現実的なんじゃないですか?」

「それは俺も思ったさ。でも落ち着いてみれば良く似てるし、あの妹が成長して女の子っぽくしてたらこんな感じかなとも思う。でも実際、雰囲気がぜんぜん違うしさ。なんというか、リピドーを感じる。いや、俺はロリが好きなわけじゃないんだが……とにかく最初は赤の他人だと思った」

「今は実の妹だと思っているのですか?」

「いや、半々だな」

 彼女が本当に妹ならいい。俺の記憶がオカシイだけで朝宮の言うように皆ハッピーだ。

 だが良く似た他人だった場合はどうだろう。

 俺まで彼女を妹として認めてしまうと、死んだ妹の存在を皆がなかったことにしてしまうのは可愛そうな気がするのだ。

 だから俺は、もう1年以上も同じ屋根の下で暮らしている今の妹と、表面上は仲良くしていたが、心の底では精神的な壁を作って距離を置いていた。

「まぁどっちでもいいですけどね。本当に記憶に齟齬があるならご両親に相談したほうがいいと思いますよ」

 朝宮は興味を失ったようだった。

 ちょうど一区切りついたところへ小向がロケットのようにつっこんできた。

「聞いてくれ!」

「なんですか騒々しい!」

 朝宮が叱りつけるが、今の小向には何の効果も無い。

「今日、ついに放課後デートすることになった!」

 小向の顔は夏のひまわりのごとく満開だった。

「おお、すごいじゃないか」

 内心では妬ましいが、朝宮のように歯軋りしていては、小向の優越感を助長するだけだ。

 俺は余裕綽々として、美少女と懇意になった友人の飛躍を褒め称える。

「それで、どこへ行くんだ」

「喫茶店だって言ってたぜ、この前のお礼がしたいから、一緒に帰ろうと言われた」

「その後は?」

「知らん!」

「それはデートなのか?」

「もちろんだ、俺はこれで、決めるぜ!」

 小向はぐっとブイサインを見せ付ける。

「まったく、何を浮かれているんでしょうねぇ。どうせ上手くいきませんよ」

「イケメンチキンは黙ってろ!」

 小向が吼える。

「俺はなぁ、この機会を待ってたんだ。この恋だけに生きてきたといってもいい。もう今後の計画もばっちりだ!」

「計画? どんなだよ、一応聞いてやるよ」

「そうだな、まずこう、今日のデートで好きですって告白されるだろ?」

 いきなり相手から告白されている。小向が語りだしたそれは、計画というより妄想だった。

「一緒に映画にいったり、遊園地にいったりして、手なんか繋いじゃったりして、観覧車の中で、キスとかしちゃったりなんかしちゃったりして、エヘヘ、そこで俺が言うんだ。いつから俺のこと好きだったのって、緑は耳まで真っ赤にしながら、小学校で同じクラスになったときからって応えるんだ。俺はそんなに前からって驚くんだ」

 どうも小向の妄想の中の天野緑は幼馴染設定になってしまっているようだ。

「俺は感動したね、俺のことをずっと見てくれてた娘がいたんだって。この娘といっしょになりたいってね。それで俺達は観覧車のなかで夢中でキスをするんだ。もうアメリカ映画みたいな一心不乱のディープキスをする。それでふと気付くと、観覧車の隣の籠の子供がこっちを指差していて、その子供の目を隠そうとしている母親と目があって、俺と緑は赤面するんだ」

「そうか……」

 それ以上は何も言うことができなかった。

 小向の計画通りには100%いかないことは明白だった。99.9%ではない100%だ。過去まで違うのだから当然である。

「プロポーズをしようと俺は思い立って」

「まだ続くんですか?」

 さすがに朝宮が制止する。

「おいおい、当然だろ。付き合った後も、立ちはだかる七難八苦を乗り越えて真実の愛を確かめ合うのが恋愛ってもんだ」

 ドラマかよ。この男はフィクションと現実の区別がつかないようだった。

「まぁつまり、そういうのが夢だってことだろ。お前の熱い心はよく伝わったよ」

 俺が丸く収めようとすると、

「ちょっと待った!」

 小向は、突然見せびらかすようにケータイを取り出して

「おっと、彼女から連絡が入っているぜ。悪いね君達。じゃあな」

 そう言って教室から出て行った。

「ちょっと、デートの話は本当なんですか?」

 小向が出て行くと、すぐさま朝宮が俺に縋りついた。相当気になっているようだ。

「本当だとも。この前もそう言ったろ」

「二人きりで、あんな可愛い子とですか?」

「ああ、そうみたいだな」

 朝宮は絶句している。

「信じられません。あんな可愛いらしい女性が小向君のような下品な男を相手にするなんて、僕は悔しい。物申したい」

「君けっこう酷いね。でもまぁ、玉砕するだろうさ。きっと律儀な娘なんだろう。お礼をせずにはいられないんだろう」

「可愛くて、律儀で、小向君のような男子にも優しい、いいですねぇ」

「横恋慕はやめておけ」

 朝宮は本気で羨ましがっていた。

 俺は絶対上手くいくわけがないと思っていたので、小向が上手くいくかどうか賭けをしないかと持ちかけたが、二人とも小向が玉砕するほうにかけたので、賭けにならなかった。というわけで、玉砕した彼をどうやって貶しつつ慰めてやろうかと、ついでにその時の様子を根掘り葉掘り聞きだす場を設けようという話になって、俺の家に待機することになった。

 ホームルームが終わり、韋駄天のように教室を飛び出した小向を見送った後、俺は教室を出ようとして、前を歩いていた朝宮の背中に鼻をぶつけた。

「急に立ち止まるなよ。どうしたんだ、朝宮?」

 朝宮は廊下の一点を見つめている。そこには上品でしとやかな美少女が立っていた。

 あの印象に残る綺麗な佇まい。見間違うはずもない。橘アザミであった。

「美しい。あの娘を見てください、うちのクラスの人に用があるようです、あ、今こっち見てますよ」

「ああ、あの娘は俺の彼女なんだ」

「ははは、ご冗談を。いや、あれは、しかし……え? 本当に?」

 そう話していると、橘がこちらに歩み寄ってきた。

 シャイな朝宮は慌てて目を逸らした。

「やあお嬢さん。うちのクラスに何か用かい?」

「なによ、そのキザったらしい態度は」

 橘は俺の態度になんくせを付けた後、

「小向君は居ないの?」

「いないよ。あんたの友達と一緒に帰るんだそうだ。聞いてないのか?」

「知ってるわ。もう行ったのね。ならすぐに私達も行きましょう」

「行くってどこへ?」

「後をつけるに決っているでしょう?」

「ええ! ヤボなことはよしなよお嬢さん」

 俺は橘を引き止める。面白そうだが、良い趣味とはいえないだろう。

 しかし、橘の計画に賛同する者がいた。

「いいじゃないですか、いきましょう」

 鼻息を荒くした朝宮だった。

「あら、こちらの方は?」

「ぼ、僕は朝宮といいます」

 と自己紹介をしつつ、横を向いている。教室の出入り口の側には掃除用具入れがあるが、そちらの方角を向いていた。

 さながら掃除用具入れに挨拶しているようだ。

「……彼はなぜ掃除用具に挨拶を?」

 橘も疑問に思ったのか、俺に対して尋ねる。

「シャイなんだ。面と向かって、女子と話せないんだよ」

「ふーん、小向君といい、あなたのご友人はシャイな人が多いのね」

 橘は腰に手を当てて何かを考える仕草をすると、俺の脇を通って、朝宮に近づく。

「朝宮君?」

「は、はい!」

 朝宮は軍隊のようにピンと背筋を伸ばし直立不動の体制でいる。そうしていると、橘は朝宮と掃除用具入れの間に割り込んだので、一瞬二人の目が合った。

 すぐに朝宮は顔を背けるが、顔面が耳まで真っ赤になっている。

 橘が美人だからか、かつてないほど緊張しているようだった。

「わぁ、照れてる。これだけ露骨に反応されると面白いわ」

 橘は楽しそうだ。

「簡便してやってくれ」

 さすがに可愛そうなので、むりやり朝宮の視界に入ろうとする橘を制した。

「そうね、遊んでいる暇はないわ。急がないと見失っちゃう」

 俺は賛同していなかったが、結局ついて行くことになった。

 尾行する理由は後で説明すると言われたのと、朝宮はついていく気満々だったからである。女子と二人きりだとろくに意思疎通できないくせに、どうしても見に行きたいと聞かず、俺に付き添いを頼んできたのだ。

 小走りで校門を出たところで、楽しそうに談笑しながら並んで歩く小向と天野の姿を捉えた。

 下校する生徒の波に紛れて尾行を開始する。

「最近ね、あの子の様子がおかしいのよ」

 肩を並べて歩く二人を遠目で観察しながら、橘が切り出した。

 先日の橘の話を思い出す。天野緑は生徒手帳を拾ってくれた女子生徒も、お礼に誘っていたと。

「あの娘、女の子が好きだから、その時は何の疑問もなかったわ」

「そ、その話、詳しく教えていただけませんか!」

 朝宮がどもりながら条件反射のように食いつくが、

「え、なんか嫌」と一蹴されてしまった。なぜか自分の肩を抱いて身を守るような仕草をしているところから察するに、橘も天野の恋愛対象なのだろう。俺も具体的な仔細に興味があったが、気持ち悪がられた朝宮のションボリした姿を見ていると、聞かなくて正解だった。

 それにしても病的にシャイな朝宮にしては随分無茶をする。ひょっとして百合好きなのだろうか?

 橘はつかず離れずの距離を保ちながら歩いている。別に物陰に隠れたりはしないが、彼らが気付く素振りはなかった。後ろを振り返りながら帰る奴も少ないだろう。俺達は橘を先頭に一列になって歩く。

「ごめんね話を戻すけど……だから男子に興味を持つのはよいけれど、小向君のような……不潔?じゃなくて野性的?な人はイメージが合わないと思うのよね。あ、曲がったわ!」

 二人の姿が、路地の角に消えたので橘は走りだした。俺と朝宮も続く。

「急いで!」

 橘は以外と足が速い。遅れた俺達は必死で追いすがる。橘が角を曲がって見えなくなったかと思うと、突然戻ってきたので、ちょうど曲がろうとしていた俺と衝突した。

「どわ!」

「し!」

 橘は俺の唇に指を立てて、静かにしろと伝えてくる。

 その後、塀の影からこっそりとのぞきこんでいる。

「そこにいるのか?」

 声を殺して訊いた。

「ええ、そこの自販機で飲み物を買っているわ」

「喫茶店に行くのに、ここでジュースを飲むのか?」

「あら、喫茶店に行くの?」

「聞いてないのか? 小向がそう言ってたぞ」

 以外にも、天野緑は友人兼恋人候補の橘に行き先を告げていなかった。

 自販機の前で会話している二人の声は、角に隠れている俺達にも聞こえるが、内容までは聞き取れなかった。

 ジュースを飲み終えると、再び小向たちは歩き出した。

 俺達も距離をおいて続く。

「いったい何処へ行くつもりなんでしょう。駅の方角ではないですが」

「というより、学校の方角へ戻っていないか?」

「ここらへんを大回りにぐるりと一周したわね」

 ゆっくり、時々立ち止まりながら、まるで時間をつぶすかのように二人は歩いている。

 遠くから見守る様子では、会話は途絶えることなく盛り上がっているようだ。

 普段とても女性には聞かせられない類の話題しか持たない小向が、いったいどんな話をしているのか気になるところである。

 それにしても彼らは何処へ向かっているのだろうか。

「やっぱり変ね……迷った様子でもないし」

 橘は誰にいうでもなく、独り言のように呟く。俺も朝宮も返事をしない。別に橘も俺達の応えを期待しているわけではないだろう。

 最初は尾行を楽しんでいた俺達3人だったが、だんだんと口数が少なくなっていき、今では会話すら成立していなかった。さんざん歩きまわされて疲れていたし、いいかげん進展がないので、飽きてきたのである。

 それとは対照的に、よほど趣味が合うのか、小向と天野緑の会話が途絶えることがなく、今も俺達に見せ付けるかのように歓談しながらゆったりと歩いている。

 青春を満喫している小向の姿はまぶしかった。

 唐突に、俺は自分がなんて矮小な人間であるのだという観念にとらわれた。なんということだろう。俺は小向のことを心の底から馬鹿にしていたが、今の俺の姿は、紛れもなく、負け犬。成功者を日陰から羨む落伍者の姿だ。

 こんなことをしていては、実は俺のほうがはるかに劣る人間だったと錯覚してしまう。

 俺がアイデンティティのゲシュタルト崩壊に苛まれていたころ、ようやっと彼らは目的地に着いたのか、足をとめて、その建物の中に入っていった。  

 そこは我らが母校だった。

「戻ってきたな……」

「結局何がしたかったんでしょうか?」

「あ、校舎裏に行くみたいね。追いかけるわよ!」

 朝宮と橘にも生気が戻った。

 橘は校舎裏に姿を消した二人を追いかける。

 俺と朝宮も彼女の後に続いた

「学校で何をするつもりかしら」

「イチャいちゃするつもりではないでしょうか?」

「それは無いと思うけど?」

 校舎裏といえば、恋人達の逢瀬に定番のスポットだというのが一般的なイメージかもしれないが、この学校にはあてはまらない。

 校舎裏の通路は、本来自動車一台が通れるくらいの広さがあるはずなのだが、あまり整備されていない為に木々が生い茂っており、伸び伸びと育った木々の枝に押されて、人間は校舎の壁に沿って歩くことを余儀なくされていた。

 その窮屈な通路にも、しょっちゅう蜘蛛の巣のバリケードが張られていた。

 蜘蛛にとっては良い狩場となっているのは、自然が溢れているからだけではない。角を曲がって校舎裏に入るとすぐにゴミ置き場が設置されているのだ。ゴミ置き場の隣には、何に使っているのか分からないトタン屋根の、木の壁が腐食している汚らしい小屋も設置されており、この二つの不快な建造物を通り越さないと、校舎裏の奥には進めない。そして進んだからといって、正門から校庭へ多少近道になるだけである。

 人目を凌ぐためとはいえ、不良生徒のたまり場にもならない場所で愛を語らうカップルはいないだろう。当然のことながら、俺も新入生のころに探検したくらいしか、校舎裏を訪れたことはなかった。

 天野緑はゴミ置き場を素通りすると、迷うことなくトタン屋根の建物に近づき扉を開いた。面食らっている小向を招き入れて、小屋の中に姿を消す。

 せいぜいトイレの個室を2つ並べた、その程度の広さの小屋の中で、いったい何をするつもりなのか。

 小向と天野緑が小屋の中に入り扉を閉めると、橘は猫の忍び足のように足音なく素早く近寄って、扉に耳を当てて中の様子を伺う。

 俺と朝宮はどうしたものかと立ち往生していると、すぐに戻ってきた。

「どうだった?」

「なにも聞こえなかったわ」

「何も? じゃあ二人は中で何してんだ?」

 吹けば飛ぶような小屋だ。わずかな衣擦れの音も、耳を側だてれば拾えるだろう。

「そもそも人の気配がしないわね」

「地下室でもあるんでしょうか?」

 結論を言えば、朝宮の想像はあたっていた。

 尾行がばれることも覚悟して、橘がゆっくりとドアノブをまわすと、木が軋む甲高い音を出して扉が開いていく。

 その先の空間には、洞窟のような、怪しげな雰囲気の漂う地下への階段が続いていた。

「まさか本当に地下があるなんて、何があるんでしょうか?」

「確かめに行きましょう」

 橘は虚勢をはるように肩をいからせると、階段を一段降りて、頭をぶつけて叫んだ。

「いた!」

「大丈夫かよ?」

「ちょっと、この天井低すぎ」

「隣のゴミ置き場を避けてるんだろう。気をつけろよ朝宮。お前が一番大きいからな痛てぇ!」

 頭頂部を強打して、目の前に火花が散った。

 頭にコブを作りながら、俺達は下に降りていく。

 突然、バタリという音が背後から聞こえて、辺りが真っ暗になった。

「びっくりしたぁ、何よ?」

「扉が閉じたようですね」

「なにも見えんぞ」

「大丈夫、ケータイがあるわ」

 橘は携帯端末の明かりを頼りに進む。階段は何度か踊り場が設けられており、下に行くと、2、3人が横に並べるくらいの幅になっていった。体感的には2階分ほど、折れ曲がりながら降りていったところで、目の前に分厚い観音扉が立ちふさがった。

「鍵がかかっているわ」

 橘はドアノブをガチャガチャ弄る。地下に音が響いた。尾行だということを忘れているのか、最早気にしていないようだ。

「どうするんだ? さっきの腐った扉はともかく、この鉄の扉をぶち破るのは無理だぞ」

「大丈夫よ」

 じゃじゃーん、という効果音を口で出しながら、橘が鞄から取り出したのは、ペンギンのストラップのついた鍵だった。

「なにそれ?」

「鍵よ? たぶんここの」

「なんで持ってんの?」

「前に、あの子が鍵を落としたときに、一緒に探してあげたことがあったのよ」

「ふむ」 

「それで、どこの鍵か聞いたら、変に慌てていたから、後日ちょっと拝借して合鍵を作っておいたのよ」

「用意がいいな。人として最低だけど」

 手元を照らしてと言って、橘は俺にケータイを手渡した。一分ほど鍵穴と格闘した後、ガチャリと鍵が外れる音がした。

 観音扉の先も薄暗かったが、手の届く距離であれば、互いの顔を判別できる程度の、弱い赤色の光が通路を満たしていた。

「不気味だな」

 橘が俺の唇に指をたて、

「し、こっからは慎重に行くわよ」

 と言って奥へと進んでいく。

 小向と天野緑と思われる男女の姿を見つけたのは、駐車場のような広々とした空間に太い柱が何本か立っている大きな部屋だった。

 実際駐車場として作られたのだろう。足元には白線が等間隔で引かれているようだった。ようだったというのは、普段教室で使っている机や椅子やロッカー、あるいはグランドピアノや、大玉、果てはマネキンや被り物などの粗大ゴミが所狭しと並べられていたので、辛うじて見える白線の位置から推測しているからである。

 本来であれば、ただっぴろい空間が広がっているようだが、並べられた粗大ゴミの区画によって、曲がりくねった複雑な通路が形成されていた。

 橘は積み上げられた机の隙間から、その先の様子を伺っていた。 

「なんか、立ち止まっているようね」

「何か話しているのか? こっからじゃ聞こえないな」

「もう少し近づいてみるわ」

 橘は先へ進もうと一歩踏み出して

「きゃあ!」

 突然悲鳴をあげて、真後ろを歩いていた俺に抱きついた。

 俺は心臓が止まるかと思った。橘に抱きつかれたからではない。橘を驚かせたものと同じものを見たからだ。何か黒光りする素早い生き物が足元を横切ったようである。冗談じゃない。

「は、しまった、隠れて!」

「え、なんだって?」

 橘はすぐさま正気に戻り、事態を飲み込めていない俺を、ゴミ山の一角にあったロッカーの中に押し込み、自分も入って後ろ手で器用に扉を閉めた。

「誰かいるの!」

 天野の声だ。

 悲鳴を聞きつけてこっちへ歩いてくるようだ。ヒステリックな口調だった。

 橘はぐいぐいと体を押し付けてくる。ロッカーの扉を背中で開けてしまわないように気をつけているのだろうが、押し付けられる橘の双丘が俺の体を硬直させる。

 ロッカーの中は古臭い臭いが充満しているが、俺の下半身は、そんなの関係ねぇと言わんばかりに力を溜め込んでいた。

 まずい、別のことを考えなければ。そうだ、さっきの黒光りする生き物、あいつがこのロッカーに潜んでいるかも。

 それが俺の背中でつぶれていることを想像することで、血液の流れを制御することを試みる。

「どこにいるの! 出てきなさい!」

 天野緑が叫ぶ声が木霊する。ロッカーの通気口から、積み上げられた机の山の一角を、苛立たしげに蹴り飛ばしている彼女の姿が辛うじて見えた。

 机の山の一部が大きな音を立てて崩れ落ちる。

 朝宮は大丈夫だろうか。ロッカーの通気口から得られるわずかな視界で、粗大ゴミの山の中から朝宮の姿を探す。

 赤色のわずかな光を頼りに、懸命に眼を凝らして、ようやっと朝宮らしき影を見つけて、俺は目を疑った。朝宮はマネキンや被り物が置いてある区画の中で、腰に手をあてたセクシーなポーズで固まっていた。マネキンに扮しているつもりなのだろう。

 天野緑が、その前を通り過ぎていく。

 なぜ見つからないのか不思議だったが、案の定、違和感に気付いた天野緑がすぐに引き返してきた。 

「あなた誰?」

 朝宮は微動だにしない。まだマネキンの演技を続けている。

「ちょっとバレてるのよ! 返事しなさいよ!」

「見つかってしまいましたか……」

 天野緑が激昂して、ようやっと朝宮は擬態を解いた。

「なんだ、朝宮じゃねぇか。何してんだ?」

 小向が駆け寄ってくる。

「小向君、知ってる人なの?」

「ああ、同じクラスだ」

「ねえ、あなた、どうしてここにいるのかな?」

「いえ、それはたまたま通りがかって……ひひ」

 朝宮の引きつった笑い声が聞こえる。無理も無いことだ。

 女子生徒と目を合わせるだけで、混乱に陥る朝宮である。

 ましてその女子生徒が、激昂しながら詰問してくる状況とあっては、意味の通る受け答えができているだけで奇跡だろう。

「嘘つくんじゃないわよ!、鍵かかってたでしょう! どうやって中に入ったの!」

 朝宮のあまりにも苦しい言い訳は天野緑の逆鱗に触れたようだった。

 可愛らしい外見とは裏腹に、その怒り方は獣のようだった。尋常ではない。発狂といってもいい。

「鍵が開いていたんです」

「嘘つくなやぁあ!」

 金属が床に跳ねる音が聞こえる。何かをたたきつけたようだ。

「ちょ、ちょっと待ってください、落ち着いてください」

「本当の事言いなさい!、後をつけていたでしょう! 鍵はどうしたの!」

「待ってください。助けて小向君!」

 掴みかかる天野緑を押し戻しながら、朝宮は小向に助けを求める。

「え、俺?」

 小向は状況についていけていないのか、助けを求める悲痛な朝宮の叫びは届かなかった。

「ひっぃぃぃ」

 朝宮は甲高い悲鳴をあげる。

 天野緑を突き飛ばして走り出したが、すぐに何かにぶつかって尻餅をついた。

「どあぁ、な、なんですか?」

「なんですかじゃないだろう。こんな薄暗いところで走り回ったら危ないだろう」

 朝宮がぶつかった大きな人影は、野太い声で朝宮を注意する。

 その口調と声には聞き覚えがあった。いつも数学の授業の時に聞いているのと同じものだった。他にも何人か大人がいるようだが顔は薄暗くて見えない。

「ん? お前は朝宮か。ここで何してる?」

「この人、つけていたんですよ」

「ストーカーか?」

「ち、違います、こ、小向君が変なことしないか心配で、わ、ぼ僕は」

「そうかそうか、しかし尾行はよくないな、まぁいいじゃないか。許してやれよ天野」

「そんな、でもこの地下を見られたんですよ、先生」

「だから、許してあげて我々の仲間に入れてあげればいいじゃないか」

「あ、それは名案だわ!」

 天野緑は、さきほどまでの獣じみた声とはうってかわって、歓喜の黄色い叫び声をあげた。その豹変はあまりにも不気味だった。

「い、嫌だ、僕は帰るんだ」

「遠慮するな、せっかくこんなところまで来たんだから」

 朝宮も身の危険を感じたようだ。抵抗するが、身元不明の男達に両脇から抱きかかえられて、連行されて行く。

「さぁ、小向君も行きましょう」

「え、いや、俺もちょっと」

 小向も動物的直感で身の危険を感じたようで、天野緑が差し伸べた手を前に躊躇する。

「小向君。わたしのこと嫌いになっちゃったの?」

「な、なに言ってんだ。そ、そんなことはないっすよ!」

「じゃあ、一緒に来てくれるよね?」

「いや、それは……」

「ダメ?」

 媚びるような甘い声だった。

「行きます!」

 小向は抵抗むなしく、あっさりと篭絡されてしまった。まぁ最初から期待していなかったが……。

 一行が暗闇の奥に姿をけしたところで、俺と橘はロッカーから音をたてないように慎重に出た。

 ぐるぐると肩を回して体をほぐす。開放感を感じる反面、自分の体に残っている橘の肢体の温もり思うと残念にも思う。

 ほっとしたのも束の間。橘は俺の手を取とって、出口に向かって一目散に走り出した。

「お、おい、どうした?」

 手をつないで走りながら、橘の背中に問いかける。

「いったん逃げましょう!普通じゃなかった」

「朝宮はいいのか?」

「考えるのは後にしましょう。全員捕まるわけにいかないでしょ」

 地下室から出て、観音扉を抜けて階段を駆け上がって、学校の敷地を出てからも全力で走った。走って走って、俺と橘は人通りの多い駅前まで来て、ようやっと一息ついた。

「なんなんだいったい、あいつら何をやっていた」

「どうしようかしら、朝宮君」

 呼吸を落ち着けて、今後の事を相談する。

「こういうときは、とりあえず警察に連絡するか?」

「誘拐ってこと? 相手にされないんじゃないかしら。相手は学校の先生なのよ。まだ何か具体的にされたわけじゃないし」

「お前の友達は、朝宮を殺すような剣幕だったぞ」

 その時だった、俺の携帯電話が振動した。

 鞄から取り出して画面を見ると、朝宮と表示されている。

「朝宮君から?」

「そうだが、どうする?」

「出てみたら」

 俺が電話に出ると、橘は俺の耳に顔を近づけてきた。自分も聞こうとしているのだ。吐息が頬にあたってこそばゆい。

「俺だ」

「伊吹さんですか。今どこですか?」

「駅前だ」

「そうですか……僕を置いて、そんなとこまで逃げちゃったんですか」

「すまん。しかし一網打尽は不味いと思ってな。それで、そっちは大丈夫だったのか?」

「ええ、以外にも学際の屋台に使う器具を運ぶのを手伝わされただけでした」

「それだけ?」

「それだけですが?」

「じゃあ小向も、そのために連れまわされていたのか?」

「え? ええ、そうみたいですね」

「そうか、とにかく無事なようでよかった」

「そういうわけで、先生があなた方も暇なら手伝うように言ってますが」

「これから学校に戻ってこいって?」

「そうです」

 朝宮はさも当然のように言う。

 日は沈みかけて、あたりは夕焼けに赤く染まっているというのに、今から雑用を手伝いに戻れと言うのか。

 とはいえ、見捨てた負い目もあって、俺が返事に窮していると、耳を側だてて聞いていた橘が、耳元で甘い声を出した。

「ねぇ。橘くん。はやく行こうよぉ」

「今の声は、まさか橘さんですか?」

「ああ……そうだ」

「たったの数十分で何がおこったんですか?」

「俺もよくわからん」

「ねぇー、長電話してないで、早くいきましょうよぉ」

 橘が俺の腕に自分の腕を絡めてひっぱる。

「悪い朝宮、そういうわけだから、切るぞ」

「ええ……、明日何があったのか説明してくださいね」

 朝宮はそう言って電話を切った。俺は携帯電話をしまって、俺の腕に絡み付いている橘を見下ろす。

「なんだよ急に?」

「あら、電話を切りやすくしてあげたのよ」

 橘は俺から離れると、髪の毛をいじっていた。俺をからかっているつもりかもしれないが、自分も恥ずかしかったようだ。

「さっきまで普通にしてたのに、いきなりラブラブになってるのは変だろう」

「きっと吊橋効果というやつね。あなたに手を引かれて逃げているうちに、惚れてしまった。そういうことにしておいて」

 実際は、手を引かれていたのは俺のほうなのだが、

「朝宮にそんな嘘をつく必要あるか?」

「念のためよ。とりあえず今日は帰りましょう。あなたも帰り道気をつけて」

 橘はそう言って背を向けると、駅のほうへ歩いていった。

 俺はしばらくその背を眺めていたが、橘が振り返ることはなかった。

 家に帰ると、いつものように妹が出迎えてくれたが、やけに慌てているようだった。

「大丈夫? 怪我は無い?」

「なんでだよ? 怪我なんて無いぞ」

 どういうわけか妹の顔は真っ青だった。

「なんでそんなことを聞く?」

 まさか、俺が学校の地下へ忍び込んだことを知っているのかと、だとしたら妹も奴らの仲間ではないのかと疑った。

 妹はおろおろとしていたが、やがて、小さな声で呟いた。

「だって、帰りが遅かったから。車に轢かれたんじゃないかとおもって……」

 聞き逃しても不思議ではないほどか細い声だったが、俺の耳は鮮明にその一言を聞き取ってしまった。妹が死んだ瞬間の光景がフラッシュバックして、吐き気を催すような不快な気分になった。

 同時にこの拒絶反応は、あの事故がやはり実際に起こったことなのだと、俺に強烈に訴えかけてくるものだった。

 ならば、この目の前の女は何者なのか。

「お兄ちゃん、どこへ行くの?」

 その呼び方をするなと、怒鳴りつけたい気持ちを抑えて、俺は自室に閉じこもった。

 父の教育方針なのか、俺と妹の部屋には鍵はついていない。しかし、部屋の扉は内側にひらくようになっているので、漫画本を大量に入れたダンボールを、扉の前において鍵の代わりにした。以前にも、いろいろと一人になりたい用事がある時に使ったことのある手段だった。

 妹の体重では、ダンボールごとドアを押し開けることはできないのだ。

 妹がしばらくドアの前に立って、ガチャガチャとドアノブを捻ったり、俺の名前を呼んでいたが、今相手にする気にはなれない。

 死んだ俺の妹に化けた何者かだと思うと、どれほど美少女でもうすら寒い気分になる。

 お兄ちゃんと俺を呼ぶ声から逃れようと、頭から布団を被ったが、疲れていたこともあって、そのまま眠りに落ちてしまった。

 眼が覚めたのは深夜だった。ドアが開かないようにしていたので、誰も起しにこれなかったのだ。

 おかげで、俺はその日の夕飯をくいっぱぐれることになってしまった。




 翌朝、予想はしていたことだが、学校に着くなり朝宮が顔をつきつけて詰問してきた。

「ということは、二人は付き合うことになったと、そういうことでよろしいですね?」

「いや、うん。まぁ、恋人未満みたいな?」

「それは良かったですね。僕がコキ使われている間に良い関係になれて」

「悪かったって。でも全員捕まるのは不味いだろ?」

「そうかもしれませんけどね」

 朝宮は昨日の事で、まだ不貞腐れているようだ。

「何もなかったんだから良いじゃないか」

「何もないわけないじゃないですか」

「どういうことだ?」

「荷物運びを手伝わせたのは、我々の眼を欺くカモフラージュでしょう。あの天野緑の剣幕を見ましたか? どう考えても、彼女には他に目的があったんですよ」

「他の目的ってなんだよ。エロいことか? 小向を連れ込んで?」

「さぁ。でも先生方も関わっているようでしたから、その線はないかと」

 考え込んでいる俺と朝宮に、いつもの朝と同じように小向が声をかけた。

「やぁおはよう、二人とも」

 だが、小向の様子はいつも通りではなかった。生まれ変わったようにさわやかな笑顔だった。

「気持ちの良い朝だね。今日も一日勉強頑張ろうね」

 俺と朝宮は顔を見合わせる。

「お前、どうしたんだよ。変なものでも食べたのか?」

「伊吹君、どうしてそんなことを聞くんだい?」

 小向に伊吹君などと呼ばれると寒気がする。それに口調がすごくハキハキとしていて気持ちが悪い。

「いつもみたいに、エロい話はしないのか?」

「あはははは」

 小向は口を大きく開けて笑うが、目は少しも笑っていなかったので、不気味だった。

「伊吹君は面白いね。そういう話はTPOをわきまえるべきだよ。学校で話す話題じゃない。女の子もいるのにさ。そうだろう?」

 至極全うなことを言っているのだが、小向の話をしているのに、当の本人から諭すように言われると非常に腹が立つ。

「小向君。昨日は橘さんと一緒に帰ったのですか?」

 今度は朝宮が訊ねた。

「あはははは」

 またも小向は、口と声だけで笑う。

「そんなわけないだろう。校則違反じゃないか」

 朝宮が俺の顔を見る。その顔には、こいつは何を言っているんだと書いてあった。俺も同じ気持ちだった。

 俺達が合点がいっていないのを察して、小向は生徒手帳を取り出した。

「ほら、ここだよ。ここに書いてある。本校の生徒は疑いの目で見られるような異性との交流は慎まなければならない。ほらね。男女一組で下校するなんてとんでもないことだよ」

「振られたショックで現実逃避しているのか? 気を落とすなって、女なんていくらでもいるさ」

 理論的に考えれば、だいたい男と同じ数だけいるのだから、あぶれる人間は少ないはずなのだ。理論的には。

 小向は、あきれたようにため息をついた。

「伊吹君、学校は勉学の為に来るところだよ」

 その男は、小向と同じ顔をした別人だった。俺と朝宮は唖然として、自分の席に着席する小向をしばし眺めていた。

 席に着いた小向は、1時限の授業の教科書を準備している。

「なんだあいつ……心を入れ替えて真人間になったのか?」

「いえ、彼の性根はそう簡単には直らない。やっぱり変です。ひょっとして昨日何かされたのかも」

「何かって、何さ?」

「洗脳とかでしょうか?」

「そんなことができるのか?たった一晩で?」

「知りませんよ。薬物とかも使えば可能なんじゃないですかね。もう一度あそこへ行って、確認してみましょうか」

「え、本気?」

 もう一度地下に行くなどと、朝宮の話がいきなり飛躍したので思わず聞き返す。

「もちろん。小向君がこのままでいいんですか?」

「うーん。少々、いやかなりイライラするが、別にいいんじゃない?」

 親も教師も女子達も喜ぶ。本人にとっても、たぶん今のままのほうが幸せな気がする。

 危険を冒してまで小向を元に戻さなくてもよいのではないかと、すくなくとも差し迫った脅威は感じていなかった。

「昨日僕を見捨てたことといい、薄情な人ですね」

「冗談だよ。でも、もう一度忍び込むのはリスクが高すぎるぞ。お前は無事だったが、3人まとめて捕まれば、俺達も洗脳されていたかもしれない。そういえば昨日は小向と一緒に帰らなかったんだな」

「ええ、途中まで一緒に手伝わされていたんですが、気がついたらいなくて、先生にきいたら、天野さんと一緒に先に帰ったといわれました」

「小向は校則違反になるから別々に帰ったと言っていたぞ」

「だから辻褄があわないんですよ」

「つまり、その時に洗脳されてしまったと考えているわけだな」

「はい、せめて手段だけでもわかれば、彼を助け出すこともできるのではないかと」

「しかし、現場を押さえるつもりなら、闇雲に潜入するのはリスクが大きすぎる。奴らが常に地下に入り浸っているわけではないだろうしな」

「……ちょっと考えておきます」

 朝宮は真剣な面持ちだった。本気で小向の身を案じているようだった。

 昨日はあんなに小向に苛立っていたのにである。

 それと比較して自分はどうなんだと、俺は少々自己嫌悪でナーバスになっていた。

 しかし、このとき朝宮は、実はまったく小向の身を案じてなどいなかったのだと、後々知ることになる。

 放課後、学校の帰りに自転車をえっちらおっちら漕いでいた。

 俺はいつも登校と下校の道を変えている。

 朝はなるべく早く学校に着いてゆっくりしたいので最短距離を選んでいるが、下校の時には急ぐ必要もないので、少し遠回りになるが、交通量がすくなく走りやすい道を選んでいる。

 下校ルートにある、ブランコと砂場しかない小さな公園の近くに差し掛かった所で、自分の名前を呼ばれた気がして、自転車を止めた。

 あたりを見渡してみるが、人影は見当たらない。気のせいかと、再び自転車を漕ぎ出そうとしたところで、

「伊吹君」

 再度声をかけられた。今度は確かに聞こえた。

 姿を確認できないが、この声には聞き覚えがある。

「その声、橘か?」

 橘は、すぐ右前の電柱の裏から姿を現した。

「私よ」

 いったい何時から電柱の影に隠れていたのだろうか?

「15分は待ったわね。けっこう疲れるし恥ずかしくて、何度もやめようと思ったけど、あなたが来てくれてよかったわ」

 こいつ結構変な女かもしれない。

 俺が自転車を降りて橘に近寄ると、橘もゆっくりと同じ方向へ歩き始めた。

 一緒に帰ろうと誘っているのだろうか。だが自転車に乗ってきたわけではないようだ。

 学校から歩くにしては、この公園まではかなり距離がある。

 この近所に住んでいたとしても、登下校に自転車は必須だろう。

「お前の家もこっちなのか?」

「私? 違うわよ。電車通学」

 橘はこともなげに言った。

「駅は学校挟んで反対方向だぞ」

「知ってるわよ。言ったでしょ、あなたを待ってたって。学校じゃ話づらいから」

「ああ、そうか」

 俺と話すために待っていたと言われるとドキドキするが、艶っぽい用件でないことはわかっていた。学校の地下の一件に関わることに決まっている。

「それで、あなたのご友人達の様子はどうだったのかしら?」

「そうだ、俺もその話をしたかった。様子がおかしかったんだ。小向は真人間になってた。人が変わったみたいだったよ。なんていうか、顔つきからまず違うんだよな。朝宮は昨日も言ったろう。大丈夫だったよ」

「そう。まさか本当に一日で洗脳されてしまうなんて驚きだわ」

「ちょっと待て、ひょっとして知ってたのか? 洗脳されるかもしれないって事」

 そんなヤバイ話だとは聞いていなかった。俺の指摘に橘は眼を泳がせている。

「とりあえず朝宮君が無事でよかったわ。彼も洗脳されてしまった可能性もあったから」

「話を逸らすなよ、知ってたんだな。なんなんだ連中は。あの場所は」

 俺が詰め寄ると、橘は少し考えた後、口を開いた。

「大釜協会って知っているかしら?」

 大釜。またしても大釜だ。今世間を騒がせている、そして、おそらく母が以前傾倒していた団体もそのキーワードが関わっているのだ。

「その顔。やっぱり知っているのね」

「もちろん。公園で起こった事件と関係しているとか……まさか学校の地下に居た連中が大釜なんちゃらなのか?」

「たぶんね。前に緑が寝言で大釜がどうのと言っていたことがあったから、でもまさか学校の地下に拠点があるとは思わなかったけどね。緑は彼らに洗脳されてしまっているのよ。あの子が事件に巻き込まれる前になんとかしたいのよ」

「だったら、もっと慎重に行動すべきだったろう。俺達まで捕まっていたら、ミイラ取りがミイラになっていたところだぞ」

「だって、まさか一日で洗脳されてしまうなんて思わなかったから」

 それは個人差があるのだろう。小向は信じやすいからな。前にも怪しい露天から、お年玉はたいて石コロ買ったりしてたし。

「それに、これはあなたにとっても無関係な話ではないはずよ」

 橘は一歩詰め寄って、声を殺して囁く。

「あなたのお母さん。大釜協会の関係者よね?」

 俺は応えなかった。それを認めてしまって良いものかという判断がつかなかったからだ。だが、橘は俺の表情の変化から確証を持ったようだ。

「図星みたいね。大丈夫。誰にも言わないわ。公園で大釜協会関連の事件が起こったから、下手をしたら取調べを受けるかもしれないし、あまつさえお縄を頂戴する可能性もあるものね。あ、あなたのお母さんが犯罪に関わっているとは思っていないわよ。スケープゴートにされるかもしれないってことを危惧しているの。でも安心して。誰にも言わないから」

 橘はいたずらを思いついた子供のような不敵な笑みを浮かべる。そうしている橘はとても楽しそうで魅力的だった。

 獲物が俺でなければ、もっと眺めていたいと思えるだろう。

「今はたぶん関係していない。こっちに引っ越してきてからは、別人のように明るくなったな」

「……ふぅん。抜け出せたのなら良かったわね」

 と言いつつ橘は酷く残念そうだった。俺を強請るつもりだったのが、あてがはずれたからだろうか。

「ただ、腑に落ちないことがあってさ」

 何故か橘が落ち込んでいるので、橘が興味を持ちそうな別の話題、すなわち妹の話をしてやることにした。

 もちろん朝宮に相手にされなかったので、橘であれば何か建設的な意見を聞けるのではないかという思惑もあってのことだ。

 案の定、橘は水を得た魚のように元気を取り戻した。

「それって、やっぱり抜け出せていないって事だわ。だってそうでしょう。復活の儀式なんて馬鹿らしいけど、だったらその妹さんは何者なのかしら、本人に聞いてみたの?」

「まさか。お前は本当は死んでいるハズだなんて気けないだろ」

 本当は一度聞いてしまったことがあるのだが、いろいろ恥ずかしいので、そのときの話は伏せておいた。

「じゃぁ調べに行きましょうよ」

「何を?」

「お墓よ」

 とんでもないことを、あっさり言いやがる。

「誰の?」

 もちろん、わかっているが、聞かずにはいられない。俺の勘違いかもしれないと思うほど、突拍子も無い提案だからだ。

「妹さんのよ。お墓はどこにあるの?」

「おいおい、冗談じゃないぜ、コンビニじゃないんだから、そうそう行ける距離じゃないし、墓をひっくり返してたら通報されてしまう」

 墓のある場所は交通の便が悪いうえに、この町に引っ越してしまったので、直線的な距離も相当なものだ。今から行ったら、終電は確実に無くなる。

「うーん、骨があるかどうか見たかったんだけど、なら仕方ないわね。あなたの妹さんの部屋を調べましょう」

「勝手に?」

「告知したら、見たいものを隠されてしまうでしょ?」

「いつだよ?」

「差し支えなければ今から」

「今から? たぶん妹はもう帰ってきていると思うぞ」

「じゃあ別の日にするわ」

「いや、妹が俺より遅く帰ってくる日はそうそう無いな」

「だったら、やっぱり今からにしましょう。あなたが注意を引いている間に、私が探すわ」

 橘は颯爽と歩き出した。彼女の頭の中では俺の妹の部屋を漁るのは決定事項らしい。

 俺は心の中で妹に詫びつつも興味があったので、橘の提案に乗ることにした。興味というのは、もちろんやらしい意味ではなく、真実を知りたいという意味だ。

 というわけで、突然美少女が俺の家に来ることになった。自慢ではないが、女の子を自宅に呼んだのは始めてである。

「あら、けっこうしゃれたお家ね、誰のセンス?」

「たぶん父かな」

「それで、私は恋人の振りをしていたほうがいいかしら?」

「友達ってことでいいんじゃないか」

「友達以上恋人未満、付き合うか付き合わないか、そんな曖昧な関係性の演技をすればいいのね。けっこう難しいリクエストをするわね」

 そんなハイレベルな演技を要求した覚えはないが、橘はふざけている様子はなく本気で言っているようだったので、何も言わずにおいた。

「あれ、誰もいないのか」

 家の扉に手をかけたが、鍵がかかっていた。俺は財布から鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。

「留守なの?」

「靴がないから、誰もいないみたいだな」

「あら、そう」

 橘は安堵したようにため息をついた。

「何?、緊張してたのか?」

「ええ、上手く演技できるか自信がなかったものだから。なんにせよ丁度いいわ」

 橘は、そう言いながら俺に向かって微笑えんだ。

 家の中に橘を招き入れて、二階へと連れていく。

「着替えてくるから、ちょっと待っててくれ」

「妹さんの部屋はどっち?」 

 妹の部屋も二階にある。俺の部屋の隣だ。

「妹の部屋はそっちだ。おい、あんまり勝手にいじるなよ。バレるから」

「大丈夫よ、ちゃんと元の位置に戻すから」

 橘はイタズラを思いついた子供のような笑顔で、一瞬の躊躇もなく、つかつかと妹の部屋に入っていった。

 はやく行かないと何をしでかすかわからない。俺は剥ぐように制服を脱いで、急いで着替えたが、遅かった。妹の部屋は衣類やぬいぐるみが床に散乱していた。

「本当にこれ、戻せるんだろうな」

「私じゃないわよ。もとからこうだったのよ。それよりも、これを見てよ。すごいわよ」

 橘は部屋の角に置かれた妹の勉強机の上の壁に取り付けてある、コルクボードを指し示す。

「あなた、すごく愛されているのね」

 ボードにピンで貼り付けられている数枚の写真には共通点があった。必ず俺が写っているのだ。

 中には撮られた覚えのないものも多い。

 写真はそれだけではなかった。橘が机の引き出しの中から発見した缶箱の中にも、大量の写真の束が納められていた。

 橘は写真の束をむんずと掴んで、一枚ずつおくっていくが、十数枚捲っても、俺が写っていない写真は一枚も無かった。

 俺が眩暈で棒立ちになっている間も、橘は写真のチェックを進めていたが、ふと手をとめて、一枚の写真に見入っていた。

「ふーん。この子があなたの妹さん? 結構可愛いじゃない。よかったわねぇ。まんざらでもないのね」

 なじるように言って、その写真を俺に手渡した。

 何が写っているのかと手にとって見ると、俺と妹のツーショットだった。

 この写真には覚えがある。昨年の春。俺の入学祝いにホテルで食事をしたときに撮影したものだ。

 まとわりついている弾けるような笑顔の妹とは対照的に、あからさまにドギマギしている俺の表情がなんともいいがいたい。俺にとって彼女は、妹を自称している正体不明の美少女でしかないからだ。それは今でもかわらないのだが、一年もの間、一つ屋根の下で暮らしていれば、ある程度免疫はついている。

 この時は、俺の体感的に言えば、彼女に出会って数日と経っていなかった。

「ねぇ、この写真、全部あなたが写っているけど、ほとんど高校生になってからの写真じゃないかしら」

「かしてくれ」

 橘から写真の束を受け取って、俺も目を通してみたが、たしかに全て、この一年で撮られたもののようだった。

 撮影されていたことには気がつかなかったものが多いが、いつ撮影されたものなのかは大体見当がつく。なぜなら大部分は、今の家の写真だからである。

 引っ越す以前の家の写真は一枚も無いのだ。

「こっちに引っ越してきてから好きになったのかしら? 何があったの?」

「俺もそれが知りたいんだよ」 

「まぁいいわ。他も調べてみましょう。早くしないと妹さんが帰ってきちゃうわ」

「そうだな」

 俺は写真を缶箱に収めて、机の引き出しに戻すと、妹の部屋を見渡した。

 机はもう調べた、残るのは本棚とクローゼットと箪笥、それにベッドくらいである。

 床に散らばっているぬいぐるみや衣類は調べなくてもいいだろう。

 橘はクローゼットを覗きこんでいたので、俺はとりあえず手近な箪笥の一番下の段を引き出した。

 色とりどりの布が眼に飛び込んできた。これはイカンと慌てて閉めたが、

「へー、いきなり下着からですかー」

 振り返ると橘がジト目で見下していた。

「違うぞ、たまたまだ」

「どうだかねー。そこは私が調べるから、あなたは他のところをお願い」

「ああ、そうしてくれ、クローゼットはもういいのか?」

「ええ」

 橘に箪笥の前の位置を譲って、俺は適当に本棚の中をあさろうと立ち上がるが、すぐに橘が悲鳴をあげた。

「わ、ナニコレ!」

 俺が振り返ると、橘はなにやら紐のようなものを持っている

「なんだそれ?」

「こ、これは俗に言うヒモパンというやつでは……妹さんけっこう過激なのね」

「嘘だろ?」

 橘の手の中で広げられている紐には、確かに大事な部分を覆う布がついていて、下着として使えなくも無いように見えた。

「思春期だからな。冒険したくなるときもあるだろうさ」

「大冒険にも程があるのでは?」

 確かに。妹がいったいどんな思いでそれを購入したのか見当もつかない。

「他にもいろいろすごいのがあるわよ」

 橘は箪笥の奥から、品評会のように次々と下着を取り出しては広げていった。

「お前、さっきは見るなと言ったくせに、見ろといったりどっちなんだよ」

「いえ、あなたの反応を見るのも楽しみかなぁと、ほらコレなんか、スケスケじゃない。こういうのを見て興奮するものなの?」

 少々気にはなるが、妹が可哀想になってきたので、見るのは止めた。

 本棚に戻ると、すぐにまた、橘が声をかけてきた。

「あ、見て!」

「もういいよ。早くしないと時間切れになるぞ」

「違うわよ、これこれ!」

 橘が手にしていたのは、メガネケース程度の小さな木箱だった。

「なんだそれ?」

「下着の奥にあったわ。開けていいと思う?」

「なぜ俺に聞く? 善いか悪いかでいったら悪いだろうな」

「何言ってるのよ、ここまできて」

 えい、とかけ声をかけて橘が蓋を開くと、箱の中にはペンダントが一つ入っていた。

「ペンダントね。なんで下着の奥にしまってあったのかしら」

「そりゃあ、隠したかったんだろ?」

「隠すにしても、下着の奥にわざわざ隠したのよ。この卑猥な下着の数々をみてごらんなさい。これよりも見られたくない物ってことよ、あんなヒモのような下着のさらに奥にあったのよ。変じゃない?」

「まぁ確かに。でもどっちも見られたくなかったとしたら、奥か手前かは関係ないんじゃないか? コルクボードの写真だけでも俺にとってはかなり衝撃的なんだが。誰かに漁られることなんて想像してないんだろう」

「そうかしら、私にはむしろヒモパンとか卑猥な下着はデコイなんじゃないかって思えてきたわ」

 橘は蛍光灯の光にかざしてペンダントを見上げている。

 鎖から、消しゴム程度の大きさの長方形のチャームがぶらさがっている。アクセサリーにしては無骨なネジの頭が露出していた。

「なんか女子中学生のアクセサリーにしては、変なデザインだな。最近の流行なのか?」

「中に何か、入れられるみたいね、このネジをはずせばね」

 橘はさまざまな角度からペンダントを観察しながら、そう言った。

 言われて見れば、容器に見えなくも無い。

 長方形の小さなチャームは二つの部分からなっているようだった。買ったばかりの消しゴムで例えるのであれば、カバーに覆われた部分と、むき出しの部分の二つである。 

 むき出しの部分が蓋とすれば、頭が見えている二本のネジによって、蓋を止めてあるようにも見える。

「開けてみるか?」

「やめておいたほうがいいわね。たぶんコレ、遺灰を入れておくやつだわ」

「遺灰を?」

「そう、あるらしいよ。そういうの聞いたことある。私の母も持ってたわ」

「そんなものがあるのか。しかし、だとしたら誰の遺灰が入ってるんだ?」

「そりゃあ、肉親とか、大切な人のでしょうねぇ」

「両親は健在だぞ」

「妹さんが赤の他人だったとしたら、彼女の本当の親の遺灰かもしれないわね。やっぱりあなたの妹は不審な点が多いわ。本当にニセモノなのかも」

「……そうだな」

 そういわれると、俺はなんとも悲しい気分になった。本当の妹では無いのではないかと疑い、その疑いがより強くなったのに比例して、俺の心に深い靄が立ち込める。

 疑いつつも本当の妹であってほしいと願っていた。俺は真実を暴きたいわけではなく、妹だと信じられる確証が欲しかったのだ。

「あら、あなたの持ってるそれは何?」

「ああ、本棚の下の戸棚に入ってた」

 それは紫色の風呂敷で包まれた四角い物体だった。

「それ骨壷じゃないの?」

「やっぱりそう思う?」

 俺の記憶では、妹の葬式で見たのが確かこんな風呂敷に包まれた箱だった。

「それ一つだけだった?」

「ああ、これだけだ」

「両親のだったら二つあるはずだけど、一個しかないとしたら、本当の妹さんのお骨かもしれないわね。それとも片親だったのかしら。まぁ開けてみればわかることね」

「開けるのか、ちゃんと結びなおせるんだろうな」

「大丈夫覚えられるわ」

 橘は風呂敷を俺から受け取ると、床に置いて慎重に結び目を解いていく。

 風呂敷の中から姿を現したのは、白い木箱だった。その木箱の蓋を取り外すと、案の定、中には壺が入っていた。

 一瞬、橘は許可を求めるように俺の顔を見上げる。俺が頷くと、木箱から壺を取り出した。

「え! これって……」

「どうした?」

「んー」

 何を見たのかと、俺が覗き込もうとするのを、橘は壺を胸に抱え込んで隠す。そして俺の顔を見つめる。

「なんだよ?」

「見たい?」

「そりゃな」

「じゃあいいけど、一応心の準備が必要だと思うわ」

「へぇ?」

「あなたの名前が書いてありました」

「俺の?」

「はい」

「冗談だろう?」

「これよ、見て御覧なさい」

 橘は壺をまわして、俺に骨壷に書かれた字を見せ付ける。

 伊吹明介

 壺の正面には、確かに俺の名前が書かれていた。

「これは……何かの間違いじゃないのか?」

 これがいったい何を意味するのか、さっぱり理解できなかった。

「中身も入っているみたい」

 橘は壺を揺すって中身を確認している。カラカラという音がなった。

「あ、こらやめてくれ」

「なんでよ?」

 なんとなく怖くなって制止しようとするが、橘は手を止めなかった。壺の蓋が開かれて、中身があらわになる。

「おい、開けるなよ怖いなぁ」

「私にとっては、あなたの存在のほうが恐ろしいわよ。早く成仏してよ」

 橘は中に入っていた骨を取り出して、しばし観察していたが、すぐに壺の中に戻して、骨壷を木箱にしまって袋に包んだ。

 俺はその間、橘の様子を眺めて呆けていた。

 橘は急に押し黙って、最低限のことしか話さなくなった。

 淡々と妹の部屋を元に戻して、俺達は逃げるように妹の部屋から退出した。



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