乙女ゲーの悪役令嬢に転生した元パティシエですが、手作りスイーツで主人公よりも先に王子と婚約します
「ふんふふんふふーん♪」
名門貴族シェール家の厨房では、一人の女性がスイーツ作りに勤しんでいた。
その女性の名は、パディン・シェール。
ファミリーネームから分かるとおり、シェール家の令嬢である。
パディンが作っているのは、チョコレートケーキだ。オーブンの前にしゃがみ込み、生地が焼き上がるのを齧り付いて見守る。
ふんわりと、甘い匂いが厨房に広がる。甘いものが好きな人間なら、一嗅ぎで魅了されるだろう。
「……さてさて、ここまでは及第点ですわ」
パディンの趣味はスイーツ作りだ。
その腕前はシェフ顔負けで、スイーツ業界のパイオニアとさえ呼ばれている。
いつもなら、作ったスイーツは自分で食べるのだが、今回は違う。食べさせなければならない相手がいるのだ。
「好みに合わせて、砂糖は少量、チョコレートもカカオ濃度の高いものを使用しましたわ。ヴィンセント王子のお口に合えばいいのですが……」
ウェールズ王国の第三王子「ヴィンセント・ウェールズ」に、このチョコレートケーキを贈るのだ。
「まさかこんな形で、私の前世の記憶が役に立つなんて思いませんでしたわ」
パディンには前世の記憶がある。若くして事故で死んでしまった、一人の女性の人生の記憶が。
職業はパティシエだった。その技術・知識が、そっくりそのまま頭の中にあるのだ。この世界のスイーツ業界で無双するなら、十分だった。
しかし、何よりも重大なのは、ある乙女ゲーをプレイしたときの記憶である。
最近になって気づいたのだが、この世界の何もかもが、その乙女ゲーとそっくりなのだ。
パディンは、乙女ゲーの悪役令嬢だった。卑怯な手を使って攻略対象と婚約しようするが、最終的には主人公に成敗される、典型的な悪役令嬢。
しかし今なら、手段を選ばなかったパディンの気持ちが、痛いほど理解できる。
シェール家から、ヴィンセント王子と婚約するように指示されているのだ。王族との関係を築くチャンスなだけあり、シェール家からのプレッシャーは重い。婚約に失敗しようものなら、間違いなく居場所を失ってしまう。
人生の転落を防ぐには、ヴィンセントの攻略に成功するしかない。
この乙女ゲーは、プレゼントゲーと揶揄されるほど、プレゼントによる好感度の上がり幅が大きい。
ただし、プレゼントなら何でもいいわけではなく、攻略対象の趣味に合ったプレゼントをする必要がある。
「ヴィンセント王子は大の甘党です。手作りスイーツをプレゼントし続ければ、悪役令嬢の私でも攻略できると信じたいですわ……」
乙女ゲーのストーリーのとおり未来が定まっていれば、ヴィンセントは主人公と結ばれるだろう。
しかし、はいそうですかと諦めるつもりはない。
未来は変えられると信じて、全力でヴィンセントを攻略するのだ。
†
ウェールズ城の大広間では、国王主催のパーティーが開催されていた。
ヴィンセントを始めとした王族に連なる者たちと、名だたる貴族たちが参加する中、パディンもそこにいた。
乙女ゲーの冒頭の場面と同じだ。それなら今、ヴィンセントは乙女ゲーの主人公「ルーシア・フレイヴ」と話しているだろう。乙女ゲーでも、主人公と攻略対象の最初の会話に、パディンが必ず割り込んでくる。
いずれにせよ、今日初めてヴィンセントと話すことになる。必殺のチョコレートケーキを用意しているが、それでも緊張は消えない。
パーティー会場の一画で、ヴィンセントを見つける。その隣には、やはりルーシアがいる。
楽しそうに会話しているが、今からそこに切り込まなければならない。
「失礼しますわ」
意を決して、会話に割り込む。
「初めまして、ヴィンセント王子。私はパディン・シェールと申します」
「君がパディンさんか。君のお父さんから、話は聞いているよ。スイーツ作りが趣味なんだってね」
「ええ、貴族の嗜み程度に」
この趣味のおかげで、ファーストコンタクトは好感触だ。
だが、会話に割り込んだ手前、ダラダラと喋るつもりはない。ヴィンセントを狙っているのを察したルーシアが、今にも会話の主導権を握ろうとしている。
「ヴィンセント王子は、甘いものがお好きとお聞きしました。よろしければ、 こちらのチョコレートケーキを受け取ってくれませんか?」
チョコレートケーキの入った箱をヴィンセントに渡す。
「チョコレートケーキ……?」
ヴィンセントが疑問を浮かべている。
それもそのはず。実はこの世界に、チョコレートケーキはまだないのだ。
だからこそ、その味に衝撃を受けるはずだ。
「中を開けてみてくださいまし」
ヴィンセントが箱を開けると、チョコレートケーキの甘く、芳醇な匂いがふわりと漂った。
「い、いいのかい!? こんなに美味しそうなケーキをもらってしまって!?」
ヴィンセントは目を輝かせ、大興奮している。
プレゼントが大成功だったのは、言うまでもない。
「ええ、もちろんですわ」
「ありがとう、大切に食べるよ!」
こんなにはしゃいでくれると、好感度云々は抜きにして素直に嬉しくなる。昔のパティシエとしての感覚が蘇るようだ。
パディンの表情にも、自然と笑みが浮かぶ。
「おぅい、ヴィンセント」
国王がヴィンセントを呼んでいる。
ヴィンセントは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「すまない。父上が呼んでいるから、僕は行くよ。それじゃあニ人とも、また後でね」
「はい、また後で」
パディンは手を振ってヴィンセントを見送る。
一方ルーシアは、突然現れたパディンに全てを掻っ攫われて呆然としていた。
国王に呼ばれたら、無視するわけにもいかないだろう。
それに、十分にヴィンセントの印象に残ったはずだ。
「……」
「……」
沈黙の時間が流れる。
この気まずさの中、何を言えばいいのだろうか。
ヴィンセントから身を引けと言うと、それこそ悪役令嬢のセリフのようで、主人公に逆転されるフラグが立ってしまいそうだ。
「……あのっ!」
最初に口火を切ったのは、ルーシアだった。
「手作りのお菓子を渡すってことは…… パディンさんも、ヴィンセント王子が好きなんですよね?」
ヴィンセントのことが好きかと聞かれると、なんとも言えないのが本心だ。
美青年だと思うし、決して悪い印象はない。それでも、ついさっき初めて話したばかりなのだ。好きだと言うには、お互いのことを何も知らない。
ただ、ここで「家のため」と答えると、ややこしくなりそうだ。
「……ええ。ゆくゆくは婚約したいと思ってますわ」
「私も…… 私も、ヴィンセント王子が好きです。だからここからは、勝負です。どちらがヴィンセント王子と結ばれても、恨みっこなしです!」
気持ちいいくらい真っ直ぐな、ライバル宣言だった。
これが乙女ゲーの主人公と、悪役令嬢の違いなのだろう。
「面白い、受けて立ちますわ」
悪役令嬢として主人公と闘う運命は、やはり避けられないようだ。
しかしこのとき、パディンはまだ知らなかった。予想の斜め上の結末が、この先待ち構えていることを。
†
それからパディンは、スイーツを作って作って作り続けた。自重は投げ捨てて、持てる知識と技術をありったけつぎ込んだ。
「ショートケーキです!」
「おいしいおいしい」
それら全てをヴィンセントにプレゼントして、好感度を荒稼ぎした。
いつの間にか、お互いの距離も近づいていた。
「モンブランです!」
「おいしいおいしい」
ルーシアを始めとした女たちも慌ててスイーツをプレゼントしたが、どんなに最高級のスイーツを用意しても、パディンのお手製スイーツには敵わない。
それでもヴィンセントは、貰ったスイーツは全て美味しく平らげたが。
「チーズケーキです!」
「おいしいおいしい」
パディンはほぼ毎日、ヴィンセントの元に通っていた。
「シュークリームです!」
「おいしいおいしい」
だから、手遅れになるまで気づけなかったのだ。
「ドーナツです!」
「おいしいおいしい」
ヴィンセントの体型に少しずつ、されど確実に、変化が生じていることに。
†
今日もヴィンセントに会いに、パディンはウェールズ城へ足を運ぶ。
その手には、特製ケーキが入った箱がある。パディンが作るスイーツを、ヴィンセントは毎回子供のように楽しみにしてくれるのだ。持っていかないわけにはいかない。
ヴィンセントの部屋の前に着き、ドアをノックする。
「ヴィンセント様、私です。パディンですわ」
ドスドスと重い足音が響いた後、ドアが開く。
「ぶふぅ、ぶふぅ…… 今日も来てくれてありがとう、パディン」
息を切らし、野太い声で言うヴィンセント。
ヴィンセントは全体的に丸く…… 率直に言えば、激太りしていた。
歩くごとに、顎の下の贅肉がぷるぷる揺れる。かつての美青年っぷりも、今や影も形もない。その太り様は、王国中の女性に多大なショックを与え、阿鼻叫喚の渦を巻き起こしたほどだ。
毎日毎日差し入れられるスイーツを食べていれば、こうなるのも当然である。
「ヴィンセント様、今日もお元気そうで何よりですわ」
ヴィンセントが太ってから、ルーシアを含めた婚約希望者たちはすっかり姿を見せなくなった。ヴィンセントの太りっぷりを受け入れられず、恋が冷めてしまったのだろう。
ヴィンセントの人気は、他の王子に移っていった。
ただ、パディンだけは変わることなく、こうしてヴィンセントの元に通っている。婚約したいという気持ちは、少しも揺らいでいない。
「パディン、君をここに呼んだのは、話したいことがあるからだ」
ヴィンセントは不安そうだが、覚悟を決めたように口を開いた。
「どうか…… どうか僕と、婚約してほしい」
乙女ゲームでは、好感度を一定まで稼ぐと、攻略対象から婚約を持ちかけてくる。
そろそろヴィンセントから婚約を持ちかけられるだろうと、パディンは期待していた。
そして、答えも既に決まっていた。
「はい、喜んで……!」
喜びで声を振るわせながら答える。
無事婚約を受け入れてもらえたヴィンセントは嬉しそうだが…… それでも、不安の色は完全に消えていなかった。
「……本当にいいのかい? 僕はこんなに、醜く肥え太ってしまった。こんな僕と婚約すれば、君だって何を言われるかわからない」
ヴィンセントも今の自分の体型に、思うところがあるのだろう。
自分の婚約者になって、パディンまで馬鹿にされることを心配しているのだ。
太っていることをネタに、ヴィンセントが陰口を叩かれていることを、パディンは知っていた。
「私の作ったスイーツを、いつも美味しそうに食べてくれるから、私はヴィンセント様に惹かれました。外見程度で、この気持ちは揺るぎませんわ」
最初は、シェール家に指示されたから、ヴィンセントと婚約しようとしていた。
ただ、幸せそうに手作りスイーツを食べるヴィンセントを見ていると、こっちまで幸せな気持ちになれた。いつまでも、もっと近くで、その幸せを感じていたくなった。
いつからか、それがヴィンセントと婚約したい理由になっていたのだ。
「それに、醜いだなんてとんでもない! 今のヴィンセント様も、愛嬌があって素敵ですわ!」
「……ありがとう、パディン」
ヴィンセントは嬉しそうに頬を緩ませるが、一拍置いて何かに思い当たったような表情を浮かべる。
「……そもそも、君がスイーツを食べさせまくるから、僕は太ったのでは?」
「ギッッッッックゥッ!!!??」
パディンは飛び跳ねてしまいそうなほど肩を震わせる。
「そそそそそそこについては考えがございますの信じてくださいまし信じてくださいまし!!!!」
「冗談だよ、冗談! 断ることもできたのに、食べる選択をしたのは他でもない僕自身だからね」
本当に冗談なのだろう。ヴィンセントは笑い飛ばしてくれているが、今のヴィンセントの体型について、パディンは責任を感じていた。
今のヴィンセントも素敵に思っていることに、嘘はない。
だがしかし、医療の発達した時代ならまだしも、この世界で糖尿病等になってしまえば、命に関わる。
絶対にどうにかする。してみせる。こんなことで、愛する人を死なせるわけにはいかない。
(……策はありますわ。スイーツを食べながら痩せられる、とっておきの策が)
パディンの目は、決意に燃えていた。
愛する人の身を案じる女として。そして、一人のパティシエとして。
これから乗り越えるのは、パティシエなら誰もが頭を悩ませるであろう最大の壁である。
「そろそろおやつにしませんか? 実は、特製のケーキをお持ちしましたの」
「本当かい!? 楽しみだなぁ!!」
「ええ、美味しく出来上がっていますわ」
パディンは箱から、特製ケーキを取り出す。スイーツを食べる喜びと、ダイエットを成立させる、「美味しさそのまま糖質カットスイーツ」を……。
†
その日もウェールズ城の大広間では、パーティーが開催されていた。ヴィンセントの婚約を祝うパーティーである。
「ヴィンセント王子、また太っていたらどうしましょう? これ以上ガッカリしたくないわ」
「だけど、血筋目当ての卑しい女にはお似合いじゃないかしら?」
クスクスと、あちこちで嘲笑が起きる。
ある日を境に、ヴィンセントは人前に姿を見せなくなったのだが、それが陰口を加速させる原因となってしまった。
さらに、ヴィンセントの不安が的中してしまい、パディンも陰口を叩かれるようになった。ウェールズ家の血筋目当ての卑しい女という陰口だ。
ヴィンセントと親密な関係だったことへの妬みが、そのまま反転してしまってのだ。
このパーティーの参加者の大半は、冷やかし目的である。
「皆様、ヴィンセント様とパディン様がお越しになりました」
ヴィンセントの執事がそう告げると、パーティーの参加者たちは、仮面の笑顔を貼り付けた。
大広間の扉が開く。
「「「!?」」」
参加者たちは、一人残らず目を見開いた。
扉の開いた先にいるのは、ヴィンセントなのだが…… なんと激痩せしているのだ。その美青年っぷりは壮健で、周りの空間が光り輝いている。
王国一の美青年が戻ってきたことにより、会場から黄色い声が上がる。
ヴィンセントの隣にいるパディンは、ドヤ顔を浮かべている。
「美味しさそのまま糖質カットスイーツ」が、ヴィンセントのダイエットに効果覿面で、どんどん体重が落ちた。
今まで人前に出なかったのは、パディンの提案で、大勢が参加するこのパーティーで見返したかったからだ。
「今日はお集まりいただき、ありがとうございます…… と言いたいところですが、お願いがあります。心の底から僕たちの婚約を祝ってくれる方だけ、パーティー会場に残ってほしいのです」
誰もが居た堪れない表情をしているが、パーティー会場から離れようとしない。離れられない。
突然の行動に、隣にいるパディンも驚いていた。初めて見る表情だが、すぐに気づいた。ヴィンセントは今、ブチギレている。
「実は、あなたたちの会話を会場の外で聞いていました。僕が太ったことへの陰口は、事実なので受け入れます。ですが、パディンへの事実無根の陰口は許せない!」
その怒りに満ちた声は、会場の空気を震わせた。
自分の陰口なら、気にしなかった。だけど、愛する人が陰口を叩かれたのなら話は別だ。ヴィンセントが怒っている理由は、まさにそれだった。
パーティーの参加者たちは…… いや、ヴィンセントの陰口を叩いていた者たちは、本人の親しみやすい気性もあって、つい忘れていた。
ヴィンセントは王族なのだ。本来なら、絶対に怒らせてはいけない存在なのだ。
「何度も言わせるな、今すぐここから立ち去れ!」
参加者たちは慌てて会場から立ち去る。
残った者は、誰もいなかった。ヴィンセントの怒りを浴びて、残れる者はいないだろう。
「誰もいなくなってしまいましたわ……」
「別に構わないさ」
ヴィンセントの行動は、大人として褒められたものではないのかもしれない。本当は嗜めるべきかもしれない。
それでも、自分のために怒ってくれたことが、パディンは嬉しかった。
「それよりも、パディンに渡したいものがあるんだ」
その言葉が合図だったのか、執事が箱を持って来た。
ヴィンセントはそれを受け取ると、そのままパディンに差し出した。
「これは……?」
「開けてみてくれ」
受け取った箱を開けると、覚えのある匂いがふわりと漂った。そう、この甘い匂いは──
「チョコレートケーキ……!?」
形は少し崩れているが、間違いなくチョコレートケーキだ。
「それ、僕が作ったんだ」
「えぇ!?」
「スイーツ作りって難しいんだね。最後まで頑張ったんだけど、全然パディンみたいに上手くできなかった」
ヴィンセントは恥ずかしそうに笑う。
「上手くできなかった」と言っているが、初挑戦でチョコレートケーキを作るのは大変だったはずだ。完成するまでに、何度も失敗しただろう。
「パディンが僕のため、どれだけすごいことをしてくれたのか、ほんの少しだけわかったよ。これからは君に貰うだけじゃなく、君に貰った以上の幸せを返していきたい」
前世も含め、これまでの人生の中で一番嬉しい贈り物だ。
パディンの頬に、喜びの涙が伝う。
「ありがとうございます、ヴィンセント様……!」
その後も、パディンは思う存分スイーツを作ったのだが、ヴィンセントが太ることは二度となかった。