見えへんのか?
「見えへんのか?」
突然意味の分からないことを言い出す患者が居るのは、精神科の病院ではよくあることだ。夜勤だった私は本来なら2人以上で部屋を巡回しなければならないのに、人手不足ということで一人で、19人の患者の様子を伺わなければならない。もし転倒や自殺、他の患者への暴力などを起こされては困る。本当ならば3人ぐらいでフロア・巡回・事務室を担当すればそのリスクも減るのに……
「眠剤飲みましたよね。それではトキさん、部屋に戻りましょう」
私だけではないが、早くフロアから部屋へ患者を誘導したいスタッフは眠剤を早い時間に盛る。それでも薬の効果が切れれば患者の数名は、フロアを行ったり来たりする。これは精神薬の副作用で落ち着きがなくなる物があるからだ。
「なぁ、見えへんのか? えぇ!?」
まともに付き合っていてはこちらの頭がおかしくなる。この人は精神障害者。典型的な妄想型の統合失調症患者。私はそんな人たちの面倒をみるスタッフ。ただ冷静に、相手を否定することも無く肯定することも無く、一人の病人として扱うこと。それが私のポリシーだ。
また一人、部屋から抜け出して廊下を歩く患者がいる。
「リコさーん、危ないですから部屋に戻っていてくださいねー」
「……なぁなぁ! 見えへんの?」
リコちゃん。心の中ではそう呼んでいる、割かし症状の落ち着いていた少女だが、今日は様子がおかしい。つんのめりそうになりながら私の方へ駆け寄り、ほこりを払うように私の衣服を叩く。そんなに強い力ではなかったので、痛みや不快な感覚は無かった。リコちゃんの大きな声を聴いて多くの患者が部屋から出て来てみんなが同じ言葉を発する。
――なぁ、ホンマに見えへんの?――
「あー、はいはい! 見えます、見えますよ~!!」
半ばやけくそになった私は患者たちに向かってそう叫んだ。すると、みんな納得したかのように大人しく部屋の中へ入っていく。一体なんだったのか。薄気味悪い。
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「それがさーすっごい怖くてなぁ」
私は昨日の事を仲の良いスタッフと話していた。すると、
「……岩崎さん、もしかしてあなた間違って2階の夜勤してた?」
「え? 私は3階の……」
――そうだ、トキさんもリコちゃんも、2階に居た筈だ。
「昨日、トキさんとリコさんが理由はそれぞれだけど、救搬になっててね。昨夜、意識不明からなんとか蘇生出来たみたいよ。なぜだか知らないけれど、ずっと岩崎さんの名前を呼んでいたわ『なぁ、ホンマに岩崎さんには見えへんの?』って」
「なにそれ……」
――もしかして、私があのとき「見えない」と言っていたら――
それ以上私は何も考えないようにしている。
たすけてくれてありがとう