海の向こう
時刻は夜。
海の音が心地よく鳴り響き、ちょっと近くで聞きたくなったと思い、布団から起き上がり外へ出ようとしました。
「トスカ様? お出かけですか?」
「おあ! フーリエ、居たのですね!」
「当然です。店主なので」
そういえばフーリエは悪魔で、人間に有るべき心臓の音がありません。普通は気がつく人の気配も、全く動かないと本当に気がつきません。
「こ、呼吸が荒いですよ? 大丈夫ですか?」
「いえ、初めて人の気配に気がつかなかったので、正直凄く驚いただけです。フーリエで安心しました」
「人の気配……そうですか。安心してくださって良かったです」
赤い目を輝かせつつ優しい笑みを浮かべていますが、少し寂しさもありました。
「でもこの時間に一人は危険ですよ?」
「それなら私も行くわよ」
「あ、シャムロエの気配は気がついていました」
「何の話?」
マオとシャムロエは一緒の布団に寝ていましたが、僕が扉を開けると同時にゴソゴソといった音が『見えて』いました。
「どうせ眠れないんだし、お供くらいするわよ」
「ではマオ様はワタチがついていますね。お気をつけて」
「はい」
そして外へ出て、ザザーッと聞こえる波の音に身をゆだねました。
音が僕にぶつかり、それがふわっと広がり、そして消える。森の草木の音とはまた違った音で、なんだか不思議な感覚ですね。
「この海の向こうって何があるの?」
シャムロエは僕に問いかけました。
「この海の向こうですか……え?」
海の向こう。
それは。
それは『何でしょう?』
「と、トスカ? 顔色が悪いけど、大丈夫?」
「え、ええ。それよりも海の向こうですか。考えたことが無かったと言いますか、『どうしてそんなことを思ったのですか』?」
僕も何を言っているのかわかりません。そもそも『海の向こう』という単語は考えもつきませんでした。
漁業に携わる人なら知っているのでしょうか。
『海の向こうは『無』だよ。トスカ』
突如、聞き覚えのある声が耳に入りました。
「この声……カンパネですか?」
「どこよ。ぜんぜん気配も感じないのだけど」
『残念だけど今回は姿を現せない。ヨリシロとなる物が無いからね。それともシャムロエを眠らせれば僕が入ることができるよ?』
それは何か避けたいですね。僕一人になるのは少し嫌ですし。
『ははは、そう心配しないでよ。今回は助言をしにきただけだよ』
「助言ですか?」
『さっきゴルドと近くにいたフーリエという少女とゆっくりお話ができてね。やっぱり予想通りだったよ』
音しか聞こえませんが、カンパネがうんうんとうなずいているような気がしました。
というかゴルドは孤島に無事に到着。そしてフーリエも同行しているのですね。
『音の女神『クロノ』の気まぐれで作った時の箱……それを使えばきっと二人の記憶は元に戻るよ』
「どうしてそんな箱がこの世界に?」
『さあ。この海の底に眠る『城』の主にしか分からない。彼女もまた僕たちに近い存在だからね』
カンパネに近い? つまり神様の様なものでしょうか?
『その箱を使えば『記憶を失う前の状態に記憶を戻す』という凄く複雑なことが行える。これは普通の魔術では到底行えない『原初の魔力』だから行える技だね』
「つまり、私の記憶を千年以上前に戻すということかしら? それって今の記憶は消えると思うけど?」
先ほどの話だとそうなりますね。時間を巻き戻すという認識であっているのであれば、二人の記憶は巻き戻り、冒険した記憶……僕との出会いも忘れるということでしょう。
『そこがあの時の女神『クロノ』の凄いところさ。今の記憶から巻き戻すのではなく、転生直前から失う直前の記憶を巻き戻す。そんな理不尽な条件ですら受け付けてくれるのが『玉手箱』さ』
タマテバコ。それが時の箱というやつですね。
「二つ質問をして良いかしら?」
『なんだい?』
「私はまだ貴方を神様という存在だと信じていないけれど、仮に神様だとしてどうしてそこまで助言をくれるのかしら?」
『と言うと?』
「私は偶然にも転生したわ。だけど元はこの世界出身。冒険してみて特別な存在であることは重々承知したけれど、かといって神様に助言を貰って冒険をするというのは違和感しかないのよ」
ちょっとした沈黙が続き、海の音が響き渡りました。
そしてカンパネが少し笑いながら答えました。
『それもそうだよね。でも確かにそれは言わないと変だったかな。理由は二つ。一つは君という存在にちょっとした罪悪感があるんだ』
「私?」
『きっとゴルドから話は聞いていると思うけど、君の娘は今こっちの世界に居る。そうなってしまったのは僕の責任でもあるんだ』
「よく……わからないわね」
『まあ、言ってしまえば罪滅ぼしさ。親子の再会をさせたい。そう思ったんだ』
「もう一つは何ですか?」
『もう一つは君達のもう一人の仲間の少女。あの子は本来こっちの世界の住人じゃないからね。あっちの世界の神様に見つかる前にあっちへ戻さないと事務処理が面倒なんだよ』
よくわかりませんが、とりあえずマオが記憶を戻したら帰さないといけないということでしょうか。
それはそれで悲しいですね。
「とりあえず状況はわかったわ。じゃあもう一つ。この海の向こうはどうなっているの?」
僕にした質問を今度は神たる存在にシャムロエは行いました。
『さっきも言ったけど、この先は『無』だよ。この世界は僕が何とか作り出した『あの方』から守った世界。だからこの世界は丸くなく、同時に不安定なんだ』
丸い? 不安定? どういう意味でしょう?
『君達はいずれ僕の元へ来る。そうすれば『女神様』に出会うことになる。世界の仕組みはそこで教えてもらえると思うよ』
「そちらへ?」
『あれ? もしかしてゴルドってその辺のお話をしていなかったか。ごめんごめん、忘れて』
聞いてしまった以上はゴルド本人にも聞かないといけないですね。
「はあ、分かったわ。とりあえずこの先の『リュウグウジョウ』に行って時の箱を使えば良いのよね」
『そう。それで記憶は戻る。その時はまた助言をさせてもらうよ』
その発言が終えると、先ほどまで見えた音がふっと消えました。
「なんだか靄が残る感じだけど、とりあえず言われた通りのことを……」
「どうしました?」
「いえ、その……すっごい今更なんだけど」
シャムロエが急にうつむいて、様子を伺う表情を浮かべました。どうしたのでしょう?
「リュウグウジョウまで一緒に来てくれるかしら?」
「本当にすっごい今更ですね!」
☆
朝。
布団から起き上がると、シャムロエが僕の部屋の中心で柔軟体操を行っていました。
何故シャムロエが僕の部屋に居るのかと言うと、昨日の夜、宿に戻ってシャムロエが部屋に入ろうとした瞬間。
『と、トスカ様! シャムロエ様! た、助けてください!』
『……動くパムレット。そしてひんやり。もうこれは食べるしかない。むぐむぐ』
『にゃー! ワタチを食べても美味しく、ちょ、すさまじい『心情偽装』で頭がかき回されて、やめ、全ワタチに影響が……あああああああ!』
パタン。
と、静かに扉を閉めてシャムロエは僕の部屋の椅子に座って目を閉じました。
精霊の魔力を宿しているシャムロエは『寝る』ということができないので、それを打ち消す『眠くなる音楽』を奏でたらすんなりと寝ちゃいました。
部屋には布団が二つあったので、使っていないほうへ持っていき、僕も先ほどの出来事は忘れてそのまま夢の世界へ。
「二人はワタチより悪魔です。今日の朝ごはんは栄養豊富な野菜盛り合わせです。召し上がれ!」
「……うう、フーリエの悪魔。トスカ、甘くなる音楽を所望」
「ワタチは悪魔です。トスカ様、もしこの野菜料理の味を変えたら、大陸中のワタチが襲撃しますからね!」
確か『ドッペルゲンガー』ってお互いを見た場合、自我を持ち始めて争うのでしたよね。そんな超危険な場所に巻き込まれるなんて想像したくありませんよ!
そんなドタバタ騒ぎが起こる中、地中から音が聞こえました。何かが迫っているような……。
「シャムロエ、何か地面から気配を感じませんか?」
「ん? 特には」
「……同感。魔力的感知も無い」
「相変わらずマオ様はさらっと『魔力探知』を使うのですね。それはそうとトスカ様、ご安心ください。きっと彼らです」
彼ら?
そんな疑問を浮かべていると、音は徐々に迫ってきました。
「おそらく『認識阻害』でしょう。魔力や気配すら遮断する神術ですが、唯一『音』だけはかき消せないのでしょう」
「というと?」
そして窓から見える庭の隅っこの土が勢いよく噴出しました。
「んじぇー! ようやく外だんぼ!」
「掘ったんじぇー。疲れたんぼー」
なるほど、ノーム達でしたか。
「地鳴り等も懸念されるので、彼らには『認識阻害』を使って作業をしてもらいました。『リュウグウジョウ』は知る人ぞ知る城なので、直通の道があるなんて知れ渡ったらワタチが困るのです」
「どうしてフーリエが?」
「あそこは……『りぞーと地』なので……お客さんが増えるとワタチの負担も増えるのですよ」
なにやら遠い目をしていますね。というか『りぞーと』ってなんでしょう。
「……遊楽施設。遊ぶ場所。そんな単語」
「マオ、知っているのですか?」
「……マオの世界の言葉。記憶は無くても言葉は知っている」
マーシャおばちゃんと初めて会話したときもそういえば別の世界の言葉で会話をしていたのでしたっけ?
ともあれ、その『リュウグウジョウ』という場所へ行く道がつながったということですね。
「ノーム、ありがとうございます」
「んじぇ。ほかならぬトスカの頼みんぼ。それに……」
「それに?」
「フーリエ様ともお知り合いとなるとさらに頑張らないといけないので、ここは一つノーム達は一丸となって道を作った所存……だぼ!」
何か一瞬声色が変わりましたよ!
というかフーリエ、凄く恐れられていますね!
「……トスカ、ノームは別にフーリエを恐れては居ない」
「ではどうして?」
「……フーリエが近くにいるだけでノームの魔力が勝手に吸い込まれているだけ」
「それって理由としては十分よね?」
「シャムロエは無事なのですか?」
「目の調子が少し変なだけで、それ以外は無いわね」
「これでもシャムロエ様の前ではかなり我慢しているのですよ! その芳醇な魔力は魅力と言いますか、もう今すぐかぶりつきたいところなのですが!」
ではもし路頭に迷った際に雨風を凌ぐ場所に困っていたら、シャムロエを差し出しましょう。等価交換ですね。
「……トスカ、最近色々と毒されている。パムレット不足?」
「最近疲れも取れない状態ですからね。何かと問題が発生しますから」
そう言うとフーリエが手をパンと叩きました。
「でしたら、それこそ『リュウグウジョウ』がちょうど良いです。あそこは娯楽施設なので、トスカ様の疲れも癒されるでしょう!」
娯楽施設。
……また何か騒動に巻き込まれないと良いのですが。