3『虫喰絵巻』
砂嵐。
記憶の絵巻は、破れて、散って、砕けて尽きて燃えて沈んで消えて千切れて失せて絶えて切れて裂けて溶けて零れて取れて剥がれて落ちて溺れて欠けて壊れて削がれて割れて――――映らない。
朽ちてはいないはずなのに。
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見覚えのあるようなないような、雑木林の中。
まだ九つの少年は、自分を見下ろすその女を見上げていた。
狩衣姿の、妙齢の女性だ。
艶やかな黒髪に白い肌。深紅の瞳は虹みがかっている。
人が人で在り続ける為の一線を超えてしまった、そんな妖しさが漂っている。
「――――奏士と言ったか」
女は語りかける。
「お前は今日から、私の弟子だ」
「...?」
首を傾げる奏士少年に、彼女は続ける。
「私についてこれば、私はお前に、その厄介な素術を御する術を教えよう」
「...!」
そうだ。たしか、自分はそれがしたいのだ。
どうしてそうしたいのかは、忘れてしまったけど......そうしたい。
少年は礼をしながら、年に見合わぬ落ち着いた言葉を発した。
「宮条奏士と申します。どうか、よろしくお願い致します」
この女が今日から、自分と一緒に生きていく人だ。
父や母はもういないから。どうしていないのかは...これも、上手く思い出せないけど...とにかく、いないのだけは分かっている。
代わりに、この人がいる。
ところで......この人は、いったい誰だったか?
虫喰いの記憶を頼ろうとする少年に、女は先に言った。
「私はシビト――――妖怪だ」
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山深い森の奥には、一筋の滝がつぼを作っている。
惜しみなく溢れる清流を見つめながら、霊術師の師弟が話している。
「お前の幼少の記憶は、私が預かっている」
17になった弟子に真実を告げる不老の妖怪は、八年前に出会ったそのときから、全く容姿が変わっていない。
「言っておくが、盗ったんじゃないからな?」
「では何故、私に今まで隠していたのです」
「ほう?」
声を尖らせた奏士に、シビトは面白いとばかり、ニィ...と妖艶に薄ら笑う。
「手違いで本物の命を吹き込まれてしまった木偶のようなお前が、執心とは珍しい」
「それは...」
たしかに、言われてみれば、小さい頃の記憶に拘る理由などないのかもしれない。
(しかし...)
胸の奥が、ざわつく。
「お前の記憶の管理はな、頼まれてやったことだ」
「依頼?どなたに?」
「お前だよ。家族のこと、お前自身のこと...チビのお前が、遠ざけてほしいと言ったんだ」
「...!?」
「まあ、覚えてないだろうさ。自分が依頼した記憶もまとめて――――ココにあるんだから」
言って、シビトは自分の心臓のあたりを拳で小突く。
「しかし、まあ...こうしてバレたのも何かの縁。そろそろお前に、記憶を返してやってもいいと私は思う」
「では...」
「預かり賃をくれれば、な」
こういうところが、シビトの抜かりなき師と怠け者の側面だ。
「何事も、ご自分で調達された方が、私の何倍も入手が速やかと思われますが」
「やだ」
シビトは小柄な身体を仰向けにして、ものぐさそうに伸びをする。
「私は普段お前に教えを施してやってるんだ。育てた弟子を小間使いにして横着することの一回や二回...」
「既に三百十七回の実行歴がありますが」
「うるさーい!砂利粒を数える童子か、お前は!とにかく!」
ゴロリと寝返って、シビトは奏士をビシッと指差す。
「課題だ、課題。今回のは難しいぞ。なにせ、お前の記憶と引き替えだからなァ...」
「何を用意すれば良いのですか」
「――――久遠石」
シビトの声が低く静まる。
「さて、奏士。久遠石とは何だった?」
「天然鉱物の一種です」
習った事を忘れない優秀な弟子は、抜き打ちの復習にすらすらと答える。
「膨大な霊力を吸収し、蓄積する性質を持ちます」
「探し方は?手当たり次第に鉱山掘るか?」
「いいえ。久遠石は、霊力の発する気配――――霊気を頼りに居場所を特定するのが最善手です」
「たまには間違えてくれても可愛いものを...」
ぼんやりとそんなことを零しながら、シビトはムクリと起き上がり、肩にかかる黒髪をサラリと後ろに流す。
「せっかくだから、大きな宝石がいい。真価も知らない奴らが嗜好品として使っている場合もあるから、探すのも、奪うのも容易だろう。少しは襟好んで来い」
「掠奪ですか」
「あ?ああ。まさか、話し合いでも試みるのか?」
「事は穏便に済ませるに限ります。むやみに諍いを呼んで、霊力を削るわけにはいきませんから」
奏士は淡々と言う。
「――――相手が仕掛けて来ない限りは」