1『宵ノ花街』
冷たい初夏のことだ。
ささやかな石造りの水路。
古式ゆかしい木造建築。
散りばめられた提灯の、仄かな温もり。
幽玄な景観に、欺かるることなかれ。
言うなれば其処は、悲運の果て。
肉親より売り叩かれ、女衒より買い叩かれ、連れて来られた女たちの行き着く果て――――それが、澄ました顔で上品を装う、この花街の本質であり本性なのだ。
今日も今日とて、もう陽も遊女たちを見捨てようかという逢魔時。
花街のとある一軒から、女が出てきた。
「桔梗、お願いね」
「はい」
桔梗――――無論、源氏名である――――と呼ばれた少女が、店先に暖簾をかける、行燈を置く等々、開店前の準備をし始める。
桔梗という娘は、さながら名匠が腕によりをかけて創った人形のような、ぞっとするほど玲瓏な美少女であった。
艶やかな黒髪に、白い肌。
まるで、人を人たらしめる濁りさえ欠落しているかのような......その清澄さがあまりに人間味を欠いているために、妖艶な気さえ漂う。
桔梗が花街に来てから、はや三年。
戻ることは叶わないと確かめ、逃げる先に未来が無いと知り、遊女たちは己の運命に折り合いをつけ、いつしか水商売に精を出し始める。
けれども、桔梗はこの定型には当てはまらぬ。
何か、アテがあるわけでもない。彼女の親戚筋はとうに潰えている。ここから抜け出す唯一と言っていい方法である水揚げの誘いが、見目麗しい桔梗に舞い込んで来るのは言わずもがなだが、それも全て断っている。
アテはない。
強いてあるものを挙げるなら、勘だ。
「......」
店前の掃き掃除をする手を止め、逢魔時に染まる空を眺めながら、少女は、母の遺した言葉を思い出す。
"私が死んだら、遠くへ逃げて。誰もあなたを追いかけて来られないほど、遠くへ..."
まるで、追っ手の来ることが必定であるかのような遺言。
間も無くたった一人の肉親は逝き、そして少女は言いつけの通りに家を捨て、放浪し、捕まった。
最期の警告を発する母の想定していた追っ手が、あの頃の少女の独力で対処し得る程度の女衒だとは思えない。
では、何が来る?
分からない。
分かるのは、やがて時が来ること。
そして、来る時、大きなナニカが動き出すこと。
少女の頭の中にある警鐘は、この頃ひときわけたたましく打ち鳴らされて止むところを知らない。
気のせい?思い込み?否。
これはれっきとした、確実性のある第六感。
野生の勘?女の勘?否。否。否。
この閉鎖された島国では、何をも隠そう。少女は――――
「――――すみません」
無機質な声に、少女の視線は宵闇から来訪者へ移った。