第3章 ~正体不明の猫たち編~
僕はショタ。
人間から生まれ変わって猫になり、生まれ変わって、またもや猫になった。
それも、人間時代には、『かなり』美男子だった僕が、ハンブサ顔のキャラ猫として。
前世は家族の元で何一つ不自由なく、可愛がられて過ごした僕。本当に幸せな15年ほどを過ごしたものだ。
生きると掛けて、過酷と解く。
今回は、生まれ落ちて以来、過酷の連続じゃないかと思うくらい、悪い意味で刺激的な毎日を送っているのが現状だった。野良猫の生き様とは、それだけ過酷を極めている。
「自然は雄大だ」という人がいる。
そう、自然は雄大かもしれない。しかし同時に野生の動物に対し刃を向け続けるのも確かだ。雄大だと笑っていられるのは人間だけだと、今は理解できる。
それでも、僕はまだラッキーだった方だ。
現在は、とある猫カフェで「お・も・て・な・しサービス」しながら働いている。
ニャーと鳴いて、おもてなし。くるくる回って、おもてなし。
って、みんな、僕たちの一挙一動に黄色い声を上げる。じろじろと見る。
わかる、わかるさ、それが僕たちに与えられた使命なのだから。それでも、おもてなしを簡単に考えていないか?
僕たちの一挙手一投足は、綿密な計算の元に成り立っている。普通の野良猫っちなら、7匹もの猫がいれば井戸端会議が始まってもおかしくない。しかし、カフェではそんな行動など見られない。何故か?
猫同士、時にはすれ違いざまの会話やアイコンタクトで「カウンター右端の青年に声かけろ」とか「子供がいるから猫らしく燥いで見せろ」とか、色々と情報交換し合いながら、さも自然にその行動が行われたかのように振舞っているのだ。
どうだ、みんな。知らなかっただろう。
カフェ猫は、ご飯にも寝床にも困らない。
それを差し引いても、接客業は大変なのだ。
触られたくないのにベタベタ頬ずりするオバサンや、飴を持った手で毛を触る子供を注意しない親がいる。オバサンはまだ許せるが、飴の坊や、頼むから止めてくれ。 飴のべとべとで其処彼処の毛がねっとりと絡まって、しまいには一気に抜けちまうんだよっ!
親は何処にいるんだ!ドアホ親は!といえたら、どれだけ胸がスッキリすることか。
といった具合に、接客とはいつも時代も、どんな動物であれ、大層気を遣うモノなのである。
現在は僕の他にも六匹の猫たちが、「おもてなしサービス隊」として、店を巡回パトロールしている。先ほども述べたように、人間からみれば、好き勝手に移動しているように見えるだろう。
チッチッ。違うんだな、これが。
猫を間近にしたい、目の前でみたいというその視線を察知し、素知らぬふりをしながらそこへ向かう。
「キャー、来た!」
その言葉が、おもてなしサービス隊の点数にもなるのだから。
それでも、点数によってご飯の量が変化するわけでもなければ、寝る場所を区別されたりはしない。家猫とは違って、内職をしているようなもの、ただ、それだけだ。
しかし、先日のように、狂喜めいた事件に巻き込まれることだってある。
あの詐欺女は大変だったよ。
僕が出動していなかったら、解決しなかったとジョーイが言っていた。
ジョーイ。この世と来世をマッチングする黒ブサ猫。
おっと、奴はいつ現れるか分からないから悪口は言っちゃいけない。何せ、奴は僕たちの心の中を読んでしまう不思議な力を持っている。
それだけじゃない。ジョーイはただの案内猫とは到底思えない。
だって、詐欺女の魂を現世から抜いてしまった。これだけでも、奴が到底侮れない種の猫であることがわかる。
ただ、どうやらジョーイが見える、ジョーイのことを認識できるのは僕だけらしい。他の猫たちに聞いてみたが、誰も知らなかった。
何故、僕にしか見えないのか。
今のところ、それは、まったくもって摩訶不思議、謎の範疇だ。
あれから半月。
事件らしい事件もなく、カフェでのおもてなしサービスは続いている。
休日は毎週水曜日。
嬉しいことに、先日の事件を通してカフェオーナーのあゆむ、いや、こう呼んだら怒られる。あゆみオネエが僕の娘に、「ショタがいる」ことを知らせてくれた。
人間時代の家族が、時間を作っては僕の顔を見に来てくれる。娘は勉強に勉強を重ね、念願叶って今や検事として活躍している。頼もしい限りだ。
息子は水泳の指導者として、苦悩し疲れたときなどに、たまに顔を見せる。僕の顔を見るだけで、父親に応援されているような気分になるのだとか。今の僕でも、何かしら家族のためにしてあげられることがある。
それだけでも、生まれ変わった甲斐があるというものだ。
だから、この命を大切したいと、僕は心底願ってやまない。
そうそう。
この猫カフェは、6階建ての賃貸マンションの一階にある。それらのマンションでは、猫仲間達が、臨時の飼い猫として暮らす。そちらを仕切っているのが動物愛護団体の彩良さんだ。猫を終生飼えない人々に向けてのサービスなのだという。転勤族などが主流のため、猫によってはマンションとカフェを行ったり来たりする場合もある。一応全室借主がいるようだから、今カフェにいるのは7匹だが、転勤時期になるとカフェの猫たちは増える。
僕がいうのも可笑しな気がするけれど、人間社会とは奇奇怪怪だ。カフェに戻ってきた猫たちによれば、可愛がってくれる人ばかりではないし、円満な家庭ばかりでもない。猫たちに守秘義務はない。人間にそれらを話せるはずもないのだから。
僕がパソコンなどを通じて人間と会話できることが知れてしまった。
だから、彩良さんたち人間は、猫たちに危険が及びそうな場合、僕に知らせろと猫たちに言い含めている。
あ!今そこで笑ったキミ!
猫が人間語を理解していないとでも?
違うんだなあ。知らないふりをしているだけで、実のところ猫は人間の言葉を理解しているのだよ。ただ、犬さんのように従わないだけ。従属しないだけなんだ。
そういうわけで、事件の臭いがすると、僕にお鉢が回ってくる仕組みが整えられた。
あゆみさんや彩良さん、彼女たちは本当に猫のことを気にかけてくれる。
隣の動物医者、聖司だけは別だが。聖司は、ことある毎に僕を観察したがるから苦手だ。放っておいてくれ、僕のことは。
みんな、結構怪しい匂いのする人間だけれど、僕たちへの処遇はきちんとしている。動物愛護団体も機能しているようだが、4階建てだったか、愛護センターから移されたビル。いくらちょっと距離があるとはいえ、あのビルを借り切るなんて尋常な賃料ではないはずだ。血縁の資産か、よほどの篤志家でない限り、まともに払えるとは思えない。
動物マンションだって、最初一括借り上げした際には莫大な賃料を支払ったことだろう。そのあとは順調に居住が保持され空き家もないようだから、プラスマイナスゼロ、といったところか。
猫カフェだって、平日の昼間など、閑古鳥が鳴く日もある。夕方以降や休日はまあまあお客さんも来てくれるから、売り上げは、賃料や各種経費を賄えるほどしか手に入るまい。
それでいて、自分たちの生活も僕たちの生活も成り立っているのだから、ただのオカマや、ただの俗人アラフォーであるわけがない。悪い人間でないことは承知しているが、彼女らの背景については杳として謎であり、調べる術もない。
まあ、隣の動物病院は評判がいいようで、ひっきりなしに動物患者が訪れる。聖司たちの腕や誠実さが、ペットの飼い主さんたちを安心させているからだろう。そう、今や病院だって、信頼関係で成り立つ時代なのだから。
今の時代、ペットと呼ばれる動物たちは、大事にされているのがわかる。いつか雑誌で読んだことがあったな。ペット産業は1億円もの利益を生み出すと。
僕は今、猫生活を謳歌しているから、特に気に掛けるような話題でもないけれど、不幸な動物が増えるペット産業だけは排除願いたいものだ。そうなることを信じてやまない。
さて。
今日も開店時間近づいたようだ。
あゆみさんが口笛で洋楽のバラードを口ずさみながら、床にモップをかけている。
カフェの開店時間は、朝の10時30分だ。遠方からのお客さんや、近所の奥様層などが訪れやすい時間帯を模索中、といったところで、たまに不定期な時間帯になったりもする。
あゆみさんは、俗にいうオネエ=オカマ人間だが、摩訶不思議な人。何かしら連絡を受け取ると、ボランティアさんを掻き集めたり、彩良さんに連絡を取ったり、隣の動物病院に駆け込んだりと忙しい。
突如として姿を消すこともあり、ボラさんがいなかったりすると、「ごめんなさい、また来てね」の猫型不定期休業看板の登場と相成る。今日は、どうなることやら。
カフェが開店して間もなくのことだ。
「こんにちはー」
お客さんだ。30代前半くらいか。伸びやかな声で、とても愛想が良い。目鼻立ちもすっきちとした今風の顔立ち。サラサラの長い髪に、ほっそりとしていてモデルさんかと見間違えるくらいだ。
しかし、僕は二度目に猫として生を受けてから、何かこう、預言じゃないけれど、嫌な雰囲気であったり、どうしても進みたくない道であったりと、危機回避能力が備わっているような感覚に捉われる場面がいくつかあった。その度パソコンやらを使って人間たちに知らせたものだが。
え?その割に叫んでばかりいたって?
そんな呟き、聞いたことがないって?
いや、その。あまり他人様には心の内を話さないだけだ。
実はそういう時もある、くらいに考えてくれ。
今日も、そのお客を見た瞬間、背筋がぞくっとし、寒気がした。思わず毛が逆立ち、身体をブルブルッと震わせたほどだ。
もしかしたら、また、虐待者か?
勘弁してくれ。
その女性は、大きなカバンをもっていた。カウンターのところにカバンを置くと、あゆみさんに声を掛けた。
「オーナー、実はお願いがあるんですが」
「いらっしゃいませ、どういったご用件でしょう?」
あゆみさん。少しだけ小首を傾げ、にっこりと微笑む姿は女性そのもの。姿勢、手つき、爪の先に至るまで日々修練を怠らず、オネエ道を邁進している。
はは、並の女性より、女性らしい所作。
これで、声さえ低くなかったら、喉仏さえ見えなかったら、完璧に女性なんだが。
本人もその辺は充分に理解しているようで、外部に対しては声を二オクターブくらい上げ、なおかつ、夏でもくしゅくしゅしたタートルネックのカットソーを欠かさない。喉仏が上手く隠れるよう、色々と工夫しているらしい。
怪しげな女性は、声を小さくして告げた。
「猫を預かって欲しいんですが」
あゆみさんは、顔色一つ変えずに応対する。
「まあ、何かお困りのご事情でもあるのかしら?」
「実はこれから海外出張がありまして。一週間ほど留守にするんですが、ペットホテルにいったら予約で一杯だと断られてしまったんです。それで、以前こちらのカフェや動物病院のことを雑誌で拝見したものですから、もしかしたら置いてくれないかなと思いまして」
「基本的に、お預かりはしていないんですよ」
「そうですか・・・」
残念がる女性。
海外ねえ、それにしちゃあ、荷物が少なすぎるんでないかい、お嬢さん。事前に荷物を送っているとか、向こうに本拠地があって御身だけが向かうならまだしも、こちらで猫を飼うような生活なら、日本が本拠地だろう。事前に荷物とは言うが、外国の郵便などは結構当てにならないものだ。空港でさえ当てにならない。荷物が消えたり、他の人間の荷物をわざと間違えて掴まされたり。中には麻薬入りのキャリーケースが自分の物になっていることすらあるんだからっ!
なのに、キャリーケースの一つも持たず、猫の入ったカバン一つで海外一週間。
胡散臭いこと、この上ない。
どや?あゆみ?
僕は、ちらりとあゆみさんを見る。あゆみさんも僕の方を見た。
皆で決めたルールではないのだが、僕が「気に入らん」と言う場合、後ろ足で右耳と左耳をそれぞれ交互に掻くことでみんなに僕の気持ちが伝わる様、先日取り決めを行ったばかりだ。
早々に、後ろ足で右耳を掻く。
猫をほったらかしにはできないだろう。
この女性が、猫を迎えに来るかどうかはわからない。それでも、一週間、路頭に迷えとは言えない。
そのへんは、あゆみさんも了解しているはずだ。
「それでは、お隣の動物病院でお預かりするということで如何でしょう。隣で健康診断を受けて、その後はよしなにお取り計らいいたします。相応の病院費やお食事代は、前金でお支払いくださいませ」
「ありがとう!」
女性は安心したように笑って、住所と氏名、携帯の番号を書き、携帯番号をあゆみさんが確認したあと、お金を支払った。健康診断付き、6泊7日猫ホテル、いや、病院代金。〆て4万円也。ま、妥当なところか。
僕はその光景を傍で見ていて、女性のゆっくりとした動きが気になった。
4万も払って預けていくくらい大事な猫がカバンにいるなら、早く出してあげないと苦しんじゃないのかしらん。
果たして、僕の小さな予想は当たっていたようだ。ロシアンブルーと呼ばれる品種の大人しそうな猫が、カバンの隅から顔を出した。息が苦しかったようで、外に出たときには伸びと深呼吸を繰り返していた。
おおっ、なんという毛並みの良さ。グレー色の身体に青みがかった瞳。
気品にあふれ、凛とした佇まい。
七色のオーラがロシアンブルーを包み込んでいる。昔でいうところの『後光が差す』というやつか。
大人しい猫種だと聞く。頭がいいとも聞く。
いいなあ。僕みたいなハンブサ顔の半猫みたいな種と違って、純血種なのだろう。
どうせ生まれ変わるなら、純血種が良かったゼ。
じっと僕が見ていることに、ロシアンくんは気付いたらしい。
にやりと笑われた。
・・・笑う?猫が?見間違いか?
僕が場所を変え、角度を変えて、また見る。
向こうが気付く。そしてニッと笑う。
・・・コイツ、猫じゃない。
聖司じゃないが、猫は笑えないと聞いた。口角とかの角度で笑っているように見えることはあっても、猫が笑うなどあろうはずもない。こちらは観察するため場所を変え、角度まで変えたんだ。二回も偶然が続くわけがない。
あゆみさんに知らせておきたかったが、今は無理だ。
ロシアンくんが病院に健康診断に行ったら、「ロシアン 二度 笑った 不気味 ショタ」とパソコンにメモを残そう。
しかし、その作戦は実現しなかった。
ボラさんがヘルプに入ったり、お客さんが入れ代わり立ち代わりで、パソコンの前に立つことは無理だった。こういうときほど、時間の流れは早い、いや、早く感じるものだ。隣の動物病院から、ロシアンくんはこちらのカフェに戻ってしまった。
僕がパソコンで文字を打っても、普通の猫さんなら何をしているのかわからないだろう。
でも今、ロシアンくんの前でそれをすべきではないと、僕の第六感が告げている。
僕の他にカフェに住む猫さんたちは、先週動物センターからレスキューされた黒白ハチワレの「エルライトくん」(通称エル)、こちらも先週レスキューされた、そっくりな双子の白黒ハチワレ「キラライトくん」(通称キラ)、先月まで転勤族とご一緒していた黒猫「ジャック・ジルくん」(通称ジジ)、前からカフェにいるサビ猫「ミルキーちゃん」(通称ミー)、これまた以前からカフェにいる茶トラ猫の「茶々丸くん」(通称チャチャ)カフェでおもてなしサービス隊を統括指揮する大人三毛猫の「ハナミズキさん」(通称ハナさん)、そして僕の7匹だ。
以前からいるミーちゃん、チャチャ、ハナさんの3匹は、僕が変なことをやって、ピンク肉球のトラ猫くんを助けたらしいことは知っている。人間とどうやら話せるらしいことも知っている。でも、あれ以来、僕等の中でもそれは秘密事項だ。
マンション組の猫たちには教えていない。
たぶん、自分たちが選ばれなかった悔しさなんだと思う。マンション組は、皆が幸せな生活を送っているのだろうと僕たちは思っていたから。だって、彩良さんたちや聖司たちが、定期巡回や抜き打ち巡回に歩いていたもの。マンション賃貸借契約条項の抜き打ち巡回は、確か合鍵で入って猫の状態を確認するものだったはずだから、猫へのモラハラでもない限り、身体的な虐待は見抜けるようにしていたはずだ。
でも、マンションから帰ってきた猫たちに話を聞く機会もあったし、またすぐマンションに行く猫もいた。そんな彼らからマンションの内情を聞いたりしたものだが、先月マンションからカフェに来たジジには、誰もマンションの内情を聞かなかった。ジジに聞こうとすると、露骨にイヤな顔をするから。余程聞かれたくないことがあるのだろうと、心中を察するしかなかった。
先週レスキューされた双子猫のエルキラ兄弟は仲が良い。いつも2匹一緒だ。挨拶くらいしかしないけど、このまま2匹一緒に飼ってくれる人がいればいいのに、と思う。兄弟が引き離されるのは可哀想なことだから。
カフェ常連のミー、チャチャ、ハナさん。
3匹も言う。
「新入りの前では、事件でも起きない限りむやみやたらと力を見せるべきじゃない」
そう、仲良くしていても、していなくても、僕の力は極力秘密に、ということだ。元々のカフェ組しか知らない秘密。あの事件の際、僕が寝込んでいる時に当時のカフェ組は一致団結、約束したのだそうだ。
カフェから一般家庭にお引越しした子もいる。ホントの家族になれたのだ。素晴らしいことだ。
え?僕にも家族がいるって?
まあ、それはそうだけど。僕はここの生活が結構気に入っている。前回の生まれ変わりで家族と一緒に15年ほど暮らし、猫たちの介護は大変なのだと知ってから、今は尚更帰りたいと思わない。
だって。僕の介護を妻だった小夜子が・・・するわけがない。小夜子は、結構冷たい。小夜子は元来そういう女だ。娘の星羅ならまだしも。でも、星羅は毎晩忙しいから迷惑を掛けたくない。
そういう事情も相俟って、僕はこのカフェ生活を満喫することにしたのだ。
なんだかんだと、時間が過ぎた。
閉店時間を迎え、店はライトの大部分が消され暗くなり、おもてなしサービス隊はそれぞれ自分の寝床に行く。あゆみさんがテーブルや床、カウンター周りを掃除して、隣の動物病院でシャワーを浴びたのち、カフェに戻り、店の奥に仕込んだベッドで御就寝。あのあとロシアンくんにも変わったところは見られず、猫注意報発令中のまま、僕等は眠りに就いたのだった。
翌朝六時。
「ぎゃ―――――――――――!」
他ならぬ男性の悲鳴で、僕は目を覚ました。嘘つけ、猫は夜型だろう、夜行性だろうと思ってるでしょう。
そうだよ、猫は基本、夜行性。昼はコンコン寝たり起きたりだけど、夜はピカーンと目が輝き、ブツを漁る。
それでもねえ。僕は、元々38年も人間として暮らし、その後15年も人間の心を秘めた猫として暮らし、そのまた数年後に人間の心を持った猫として、この世に生を受けたわけだから、なかなか猫の性質に慣れないのさ。どうしても人間の暮らしに近くなってしまうわけ。
と、こんな講釈、垂れ流してる場合じゃない。
あゆみさんが叫ぶのは、まあ、慣れたことではあるけれど、今日は叫びの種類が違っているような気がする。
どうしたんだろう、一体。
叫び声に反応し、近づくおもてなしサービス隊員たち。
「誰よ!アタシの宝物をこんな姿にしたのは!」
あー。それ。いいじゃん、別に。
あゆみさんの宝物とは、海外でゲット、いや、お友達になった男性とのフォトブックだ。写真が中から取り出され、滅茶苦茶になっている。破れたり、しわが寄ったり。僕には興味のない代物なので、踵を返してベッドに戻とうとした。大体、元データはパソコンにあるじゃないか。
「ちょいまち、ショタ」
極道の方と思しき、地の底から這い出るが如く低く怖い声が、後ろから僕を呼ぶ。
なぜだ。あゆむ、もとい、あゆみさん。僕が何をした。
仕方がない。僕は、くるりとうしろを振り向く。
「アンタ、なんか見なかった?パソコンのデータ、消えてるんだけど」
え?そんな馬鹿な。それで僕が第一容疑者というわけか。
それでも僕はやってない。
首を横に振る。
「そう。じゃあ、なんか変な情報掴んだら、アタシに絶対報告しなさい、わかった?」
怖い。こいつ、マジ元極道の世界に生きていたのかも。
ついつい、首を縦に振る。
うっ、後ろから視線を感じる。猫じゃない、動物じゃないような不思議な視線。何だろう。今まで感じたことの無いような、もやもやとした中から放たれている視線だ。たぶん、僕にしかわからないだろうその視線は、一体何処から僕の背中を射ているのか。
猫たちをくるり、と見回す。
そう、一番簡単な方法。
誰も僕が感じた不思議視線で見ている子はいない。慌てて目を逸らす子もいない。可愛い表情で僕を見ていたのは、来たばかりの双子猫エル、キラと、険しい表情のジジ、そして、別の意味で摩訶不思議さを醸し出すロシアンくんだった。
エルとキラが僕に話しかける。双子猫だけあって、声までシンクロしている。
「キミ、今、首を縦に振っていなかった?」
「いや、見間違いじゃないかな。僕は欠伸をしただけだよ」
ずらっと言ってのける。この際、少々汚い手だが、本当のことを言わないに越したことはない。
「そうか。猫が首を縦に振るなんて聞いたこともないよね、キラ」
「そうだね。もう一度、寝ようよ。エル」
エルキラ兄弟は自分のベッドに戻って行った。
険しい表情だったジジは、僕とエルキラの会話を聞いて、プイ、と横を向いた。何が気に入らないか分からないが、僕としては、藪をつついて蛇を出すような真似だけは避けたい。あゆみさんには申し訳ないが、写真データは諦めてくれ。
ところが、ロシアンくんが近づいてきた。
「ねえ、僕たちって、首振ったり回したりできるの?」
「まさか。ああ、でもその子によって特技があるからね、出来る子もいるかもしれない」
「キミには、その特技があるのかな」
「いいや。僕には特技が無いんだ。この顔をお客さんに覚えてもらうくらいかな」
ロシアンくんがじーっと僕を見つめる。先ほどの視線とは違う、猫らしい視線だ。
「うん、確かにハンブサだ」
「キミは綺麗な顔立ちだからいいけど、そうハッキリいわれるとショックだな」
「悪いね、僕は正直なのが取り柄なんだ。ところで」
「なんだい?」
「あのジジ、黒猫の。あの子は、いつからここに?」
「先月だったかな」
「そう。塞ぎこんでいるね。あっちの双子はいつ来たの?」
「先週、野良猫たちをレスキューしたとき、ここに来たみたいだ」
「レスキュー?」
「人間たちが、野良猫たちを救ってご飯とかベッドをくれるのさ」
「そんな世界があるのかい?」
「キミのように血統書がついてお店で飼い主を待つ猫とは育ちが違うからね、僕たちは」
「すまない、そういう意味ではないんだけど」
ロシアンに謝られて、ふと気が付いた。
どうして人間と猫の間をそんなに訝るのだろう。普通なら猫と人間にある距離感というヤツで、猫は猫の世界を生きるはずだ。
「金を捨ててまで猫に尽くす人間などいない、といった顔だな」
「まあ、そうだな、人間をどこまで信用するか、そういった価値観の違いというヤツだ」
「キミは飼い主を信じていないということか。なら、猫を買うこともお金を捨てるのと同義であるということか」
ロシアンが貴公子のような顔をして尋ねる。
「キミはどうして、お金の価値観が解るんだ?」
ストレートパンチが飛んできた。カウンターを用意しておかなかったのが歯がゆく感じられたが、パンチ自体は軽く凌いだつもりだ。
「野良猫は何事にも飢えているのさ」
ロシアンくんの一面が見えた。金に価値観を見出す、またはそれに近い感情を持つ猫など、通常はいない。やはり、ただの猫では無いようだ。こうして外見で判断する限り、普通の猫のように見えるが、何か種の違う獣臭さが漂う。それがなんなのか、今は判別がつかない。
その日は、朝からあゆみさんの機嫌が超絶悪かったこともあり、店内はお通夜ムード一色だった。それでも、お客さんがくれば、あゆみさんはコロリと態度を変え接客する。僕たちもそれに倣い、おもてなしサービスを開始する。
が、お客がいなくなった瞬間、あゆみさんの視線は猫たち全体に及ぶ。
「ちくしょう。誰がやりやがった。見つけたらお仕置きじゃ済まさねえから、覚悟しとけ」
あゆみは怒ると、本来の男性言葉に戻る。
今日はあゆみじゃなくて、本名の歩夢だ。
くわばら、くわばらっと・・・。
その日はハナさんからの指示の下、あゆむを刺激しないように心掛け、一日の接客サービスを終えた僕たち。
ああ、疲れた。ただでさえ接客には気を遣うのに。
あゆむは、まだ気が収まらないらしい。
さっさと掃除を済ませると、何処かに行ってしまった。その夜、カフェに人間の姿は無く、僕等はあゆむのデカい鼾や寝言を聞かずに、ぐっすりと身体を休めたのだった。
翌日明け方、またもや叫び声が聞こえた。猫たちの誰かだ。
今度は何が起こったんだ?
ハナさんが起きてきた。皆のベッドを巡回する。
「どうしたの?このキズ!」
ハナさんの仰天した声。
僕も遅ればせながら、そちらの方向へ向かう。皆もぞろぞろと声の方向に向かっていた。
僕の目の前に現れた光景。
エルキラ兄弟が鳴いている。
よく見ると、キラの右後ろ脚がナイフか何かで切られたようだった。真っ赤に染まった猫シーツが僕等の真表に広がっていた。
キラが痛い痛いと叫び、エルも釣られて鳴いている。
歩夢はいない。
何でこんな時にいないんだ。
ハナさんの事情聴取に、エルキラは揃って答えた。
明け方にぼんやりとした意識でいたエルキラ。そこに、誰かがやってきた。そして、キラの後ろ足を傷つけると、風のように去り、姿を隠したという。
「エルは相手を追わなかったの?」
ハナさんが聞く。
そりゃそうだ。
兄弟がケガをしたのもさることながら、僕なら咄嗟に犯人を追う。カフェの中は、ある種密室なのだから。
エルは、これまでそういう経験が無かったので、驚きのあまり足が竦んだという。まあ、気持ちはわからないでもないが、少しは根性を見せてくれ。
一番近くにいたのだから、冷静になれば瞬間的に目撃だってできただろうし、相手を追って色艶くらい覚えることができただろう。
それにしても、7匹しかいないカフェの中で、仲間に悪さをすれば人間に知れる。そんなリスクを冒してまでキラを襲う必要があったのか。それとも、キラが何かを見たとでもいうのか。
考えあぐねる僕の前にハナさんが来た。
隣の動物病院に知らせたいという。普段、確かこちら側から内鍵がかかっているはずだ。さて、どうやって知らせたものか。
病院側の扉前に立つ。病院は24時間営業だから、お医者もいるし看護師さんもいる。扉前には、いつもと違って何故かダンボールが貼り付けられていた。ガリガリと爪を立てたが、向こうに音は届かなかったようで、誰も現れない。
病院との間には、小さなガラス窓があったのを思い出した。よじ登るにはちょっと難儀だったけれど、何度かトライして、やっと下から飛び移った。頭を押し付けるふりをして身体を皆から隠し、コンコン、コンコン、と右足でノックするように窓を叩いた。
昨晩の当直医は聖司だったらしい。聖司がこちらを見た。
コンコン、コンコン。またノックする。
聖司が何か気付いたようだ。こちらに近づいてきて僕を見た。僕は招き猫よろしく、来い来いという仕草をする。聖司は一瞬、どんぐりのように黒目の瞳孔が開いたが、すぐに異変を察知したようだった。
姿を消したかと思ったら、カフェ玄関の扉が開いた。聖司が姿を現した。
猫たちが一斉に鳴く。
聖司は僕以外の6匹を見て回った。そして、キラの傷に気が付いた。
「なんだ、こりゃ。ナイフのような傷口じゃないか。どう見ても猫同士の争いでできる傷じゃないな」
僕も近くまで寄っていたので、聖司は僕を振り返る。僕は、わからないといった風情で首を横に振った。
「兎に角治療する。歩夢はまだ帰っていないか。カウンターにメモ残していくぞ」
周囲の人や猫たちが聞いたら、薬臭い男の独り言に聞こえたに違いない。
でも、聖司が僕に対して、わざと呟いたのは一目瞭然だった。旧知のカフェ仲間は、理解したと思う。
僕は、ニャッと鳴いて知らせた。
「承知した!」
キラだけを連れて、聖司は内鍵を開け、隣の病院に姿を消した。
僕は、カウンターに移ってメモの内容を見た。
「キラ負傷、治療のため病院に移す。万が一に備え内鍵は開けておく。猫同士の喧嘩ではない。詳しくは、ハンブサに聞け」
聞け、って。おい、聖司。新参者の前で僕にパソコンで会話しろと?犯人が外から入ったのでない限り、6匹の中に犯人がいる可能性だってあるんだぞ。僕が人間語を話せるなんて知れたら、マズイじゃないか。
どうしてそこまで頭が回らないかな。アホ聖司!
9時近くになり、歩夢がカフェに帰ってきた。
メモを見て、驚いたように僕を見る。僕をガン見するでない。歩夢よ。
歩夢は、他の猫たちに気取られぬよう、店に置いてある落書き帳のようなノートに、さささと何かを書き込んだ。そして、僕だけに見えるよう書き込みを脇にずらす。
「密室で傷害事件発生なの?」
僕は素知らぬふりで落書き帳の傍に寄る。
右足を一回、前に出しカリッと手すりを爪で引っ掻く。
「じゃあ、まさかこの中にキラ傷害犯がいるってこと?」
もう一度、爪で引っ掻く。
断定はできないが、誰も入ってきていない以上、そして猫同士の喧嘩も起きていない以上、現段階ではその線が有力だ。
「アンタとエルキラ除いた5匹が容疑猫かしら?」
何とも答えようがない。僕が犯人でないのは確かだが。小さく、カリカリ音をならした。
「ごめんね、アタシ、昨日のことで頭に血が昇ってたのもあるんだけど、別件で動いてるのよ。こないだのロシアンママ、空港で搭乗手続きした形跡がないのよ。おかしいでしょ?」
やはりそうか。
ロシアンくんは、何らかの意図をもってここに潜入したとしか考えられない。それが悪しき感情かどうか、そこまでの区別はつきかねた。
「彼が犯人かしらね?」
僕は何も答えない。だって、証拠がないから。
あゆむも僕が答えないことで、犯人の目星がないと踏んだようだ。
「目星はついてないのね、わかった。少し様子を見ましょう」
その後、あゆむは隣とカフェを往復し忙しそうだったが、『キラは軽傷。大丈夫よ』と、メモで知らせてくれた。
ボラさんにヘルプを出して、いつもどおりカフェは開店した。双子猫を目当てにきたお客さんは、とても残念そうだったが、酷い怪我ではないと聞いて皆、安心したようだ。
六匹の猫たちは身の危険を案じ悲しそうな声で鳴くこともなく、カフェ内では、一応の落ち着きを取り戻しつつあった。夜8時の営業時間が終わり、あゆむはカフェ内の掃除や売り上げ計算など、実務に追われている。
僕は、のんびりムードを装いつつ、他の猫たちを観察していた。
ミーちゃんとチャチャが傍に寄ってきた。そして小声で話し出す。
「ね、あたしエルキラにベッドが近い訳じゃないけど、おかしな物音が聞こえたのよ」
「おかしな、音?」
「そう、何かを引きずるような音」
「傷を付けた凶器かな」
チャチャも頷く。
「僕も、ちらっとだけど聞いたよ。何の音だかわからないけど。ガツン、ガツンって」
「何か匂った?」
「匂いはなかったね」
「そうかあ。何かまたわかったことがあったら教えてくれよ」
ハナさんは自己防衛手段をとるように、みんなに御触れを出している。頼もしい先輩猫さんだ。僕等にとっては母親のような存在だし。
ジジにも話しかけたようだが、プイ、と無視されちゃった、と嘆いていた。ジジは本当に何も話さない。昼間のおもてなしサービスさえ無視して寝ている時がある。あれじゃ、夜に起きてしまうよ。何がそんなに気に入らないのかわからないけど、チームワークなんて人間みたいなことが出来る訳もないけど、稼いでナンボの世界だろうが。稼がず寝とるヤツに出すメシはねえ!と一言言ってやりたい衝動に駆られ、喉元までその言葉が出かかったが、止めた。
僕が口を挟んだところで、行動は直らないだろう。ハナさんが話しかけても無視するのだ、所詮、犬や猿と違って、猫同士群れることが無理なのだから。
動物病院で治療を受けたキラは、帰りたいと鳴きまくったらしい。こちらでも閉店するや否や、エルが大きな声で鳴きはじめた。仕方がない、動かないように、夜だけキラを戻そうということになったようだ。
毛布に包まれたキラが戻ってきた。エルは嬉しそうに擦り寄った。二匹は狭苦しいベッドに一緒になって眠り出した。ご飯食べなくてお腹空かないのかな。
他の子も、ご飯を食べ終えるとウトウトし始めた。
店内は、夜の帳とともに静かになった。あゆむを除いては。
あゆむが僕に近づいてきた。落書き帳に何か書き込む。どん!と目の前に出す。
あの、あゆむくん。猫は普通ド近眼と言われてますが、僕はね、違うんですよ。
人間時代同様、視力は裸眼で一・五あるの。凄いでしょ。
だから・・・そんな近くで見せられたら、反対に目がチカチカして見えないんじゃっ!
と、パソコンを使って訴えるわけにもいかず、はたまた文字を書くこともできず。げんなりしながら、後ずさりして目標物の落書き帳と目の位置を調整する。どれ、何と書いたんだ?
「カッターの刃が新しい。猫ベッド掃除するふりして古いの探したら、ジジのところにちょっと黒ずんだ跡が付いた刃があったの。犯人はジジかしら?」
カッター?って、あのカッター?
なるほど、あれならスパッと切れるし、カッターそのものを引きずれば音も出る。ガツリとしたのは、刃を折っていたのか。
それにしても、ジジのベッドに古い刃、それもどうやら血が付いていると。何とご丁寧な犯人だろう。もしジジだとしたら、自分のベッドに隠すか?凶器を。そのままエルキラのベッドに置きっぱなしで済むはずだ。
人間の殺傷事件なら指紋を取ったりDNAを取ったりするけど。
あ、DNA。
犯人が人間なら手袋でも嵌めて指紋がつかないようにするだろうが、猫が手袋を嵌めるはずもなく。ましてや、2足歩行で右手にカッター刃!とはいかないだろう。多分、刃を口に銜えて移動したはずだ。
ああ、パソコン打ちたい。
僕は、病院側のドアに走って、開けろ開けろといわんばかりに、ガリガリダンボールを引っ掻いた。
あゆむが追ってくる。そして座りながら呟いた。
「アンタなら何かあったらここをガリガリすると思ったのよ。段ボール準備してて正解だったわあ。でなきゃ、ドアに傷付けた猫としてお仕置きモノだからね」
うっ。そうだったのか。危ないな、段ボールがあろうがなかろうが、ガリガリするところだった。ま、それはこの際脇に置いておこう。急がなくちゃ。
あゆむは、隣の病院に通じるドアを開けた。スタッフさんに声を掛ける。
「聖司は?」
「出かけてますけど、これから戻るって電話ありましたから、そろそろ戻ると思います」
「待たせてもらっていいかしら?」
「どうぞ」
歩夢は聖司が診察に使うデスクに座った。ここは数名ワンニャンドクターがいるので、ドクターごとに仕切り壁がある。あゆむは聖司が使っているパソコンをいじるふりをして、パソコンを立ち上げた。
ソフトを立ち上げ、僕に入力するよう、キーボードを指差し合図する。僕はあゆむの膝に乗り、姿を見られないよう皆に背を向けさせて二足歩行スタイルになる。いや、実際に二足歩行はできないけど。まあいい。ちょっと辛い姿勢ではあったが、DNAと打ち込んだ。
「カッター刃 DNA 誰か 銜えた」
歩夢が小声で囁く。
「なるほど、あの古い刃に犯人のDNAがあるかも知れないってことね?」
頷く僕。
そこに、聖司が戻ってきた。
「おい、歩夢。何やってる」
「アラ、お帰りい。聖司」
「何だ?今度は」
「ショタがね、コレからDNA取り出せないかって」
「DNA?」
あゆむは、猫たちのベッドからカッターの刃が見つかったことを話し、犯人ならぬ犯猫の正体を探るのだと聖司に力説する。
「あのな、あゆむ。ドラマの見すぎ。そりゃ血を取ってDNA鑑定は出来るさ。こないだの事件みたいな時なら。でも唾液でDNAは俺達じゃむりだよ。それこそ科捜研のお出ましさ」
「科捜研ならできるわけ?」
「たぶんな。猫のケガで科捜研が来るなんて、あり得ねえけど」
「外注してるんでしょ、DNA鑑定」
「ああ。ま、まさかお前、こっちの外注にそれ混ぜろっていうの?」
「何よ、協力できないの?」
「俺は仮にも動物病院の医者であって、探偵とか刑事とか警察じゃないぞ」
歩夢の声が、極道のそれに変声する。まるで、ジキルとハイド状態だ。
「わかったわ。自力でなんとかする」
歩夢の声を聞いた聖司の額から、タラーリと汗が噴き出した。歩夢も聖司も、お互いに顔を引き攣らせ、睨みあい、いや、歩夢が蛇で聖司が蛙状態になっている。歩夢が怒ると余程怖いらしい。
やはり。歩夢、キミは元極道か?いや、極道の息子か?極道の息子がオカマってのも、なんかサマにならない話だが。
お二人さん。
何でもいいから、DNAを採取する、または鑑定する手段を探してくれえ。
「歩夢。病院としてそれを出すわけにはいかない。でも別口として外注先に頼んでみるわ。ただし、出来るかどうかはわからんぞ」
「協力ありがとう」
その時だった。
「ギャ――――――――――――ッ、ギャッ、ギャッ、ギャッ。ギャ―――――――――」
間違いなく、カフェ内部から聞こえた。断末魔のような猫の叫び声だ。
僕たちは二人と一匹でカフェに駆け込んだ。誰かケガをしたに違いない。どこだ、誰だ。あゆむと聖司が二手に分かれベッドを探す。
「ジジがいないわ!」
歩夢の声と共に、僕はベッドから離れ床に降りた。血の臭いが酷い。
いたっ!
ベッドから離れたカウンター脇の人目につかない場所に、ジジが倒れていた。
ニャニャニャッと鳴いて知らせる僕。
あゆむと聖司もすぐに気が付き、カウンター脇に急いだ。
「傷が深い!下手したら危ない!緊急オペだ!」
歩夢はジジをみるなり、座り込んで泣いてしまった。
抱きかかえることすらできないくらい、傷が深く、犬猫用の担架を車から持ってくる。
「早くしろ!」
聖司が他のドクターとスタッフに準備を急ぐよう伝える。
その間にも、床には延々と血が流れ続け、ジジの身体から生命の命綱が流れ出ていく。まるで、これまでの罰をジジに与えるかのように。
ジジの緊急手術は、困難を極めたようだった。歩夢は病院には入らず、境のドアを開けたまま、じっと手術が終わるのを待っていた。
初めは、やはりカッターの刃で腹を深めに切り裂かれたものと断定し、傷口を縫合しようとした。ところが、ジジが猛烈に暴れる。不審に思いX線を撮ったところ、あの 細かいカッターの刃が1個ずつ折られ傷口から3個ほど、めり込んでいた。
いや、違う。
わざと、故意に、悪意があって、めり込ませた。だから三回、ジジは叫んだのだ。
とても猫にできるような手口ではない。昼間来て隠れた人間の仕業か、或いはサイコパス猫。そう、猫にもサイコパスがいるとしたら・・・。
通常、サイコパスは人間にだけ存在すると考えられている。
無慈悲で嘘つきなエゴイストたち。
しかし、その研究は、未だ終結をみていない。今この時も、サイコパスによる犯罪は後を絶たないと聞く。サイコパスによる犯罪を未然に防ぐ手だてもなく、サイコパスを探すことすらできない、まして、薬による治療など不可能に近いだろう。
そのサイコパスたちと、星羅は日々闘っているのだ。
先日の猫虐待黒子女が、ちょうどサイコパスそのものだったのを覚えているだろうか。
ああ、話が脇に逸れた。
動物は本能的に生きている。そう決めつけているのは人間だけだ。動物にサイコパスがいないと、どうして断定できようか。
ジジの手術は、聖司たちに任せるしかない。僕に出来ることといえば、祈ることくらいだ。
しかし、犯人が誰で、なぜ、どのようにジジをあのような姿に至らしめたのか、それなら考えることが出来る。犯人を捕まえるべく行動することが出来る。
僕は、病院前のドア付近にいる歩夢に向かい、ニャニャーニャニャーと鳴いた。そして、店内であゆむが履いているサンダルを噛んで引きずろうとした。
早く!早く!僕らにも出来ることがあるんだ!
あゆむは放心状態だった。
そこに、動物病院から電話を受けたらしい彩良さんが駆けつけた。カフェ側からドアを開け、中に入ってきた。
僕は彩良さんに向け、思い切りニャーッと鳴いた。
「早く犯人を!」
彩良さんは、僕を見て事の重大さを感じたようだ。病院との境に佇む歩夢の肩に手を掛けこちらを振り向かせると、思いっきり平手打ちをした。二回、三回。
漸く歩夢は我に返ったようだ。
「彩良。アタシ・・・・」
「馬鹿やろう!オペは聖司に任せとけ!あたしらがすべきことがあるだろう!」
「だって・・・」
「だってもクソもないだろ?早くジジをあんなにした奴捕まえるんだよ!ほら、ショタだってそう言ってる!」
ニャーッと大声で鳴く僕。
カウンターの血はそのままに。
もう、メモでやりとりする時間が惜しい。
僕はカフェのパソコンを立ち上げ、メモ機能を使って思いついたことを書いていく。
「サイコパス猫 ジジ三回鳴いた カッター刃 もっと折られてる可能性あり」
あゆむと彩良さんは、再び二手に分かれ、猫たちを起こしながらベッド周りを探る。カッターの刃は、どこからも見つからなかった。ジジに刺し込んだもので最後だったのだろうか。いや、どこからくるものかわからないが、僕の感が違うと叫んでいる。
猫たちも怯えベッドから離れられずにいた。初め、あゆむたちはみなを一緒にしようと提案したが、僕が反対した。
「犯人 紛れて また刺すかも 危険 明るくして」
閉店したカフェ内が、明るくなる。
猫たちを一匹ずつ明るい場所へ連れて行き、ジジの返り血か何か浴びていないか、普段と変わったところはないか、徹底的に調べた。
時間をかけ、何回も見たが証拠になるようなものは見つけられず、みなをベッドに戻す。歩夢は完全に、ロシアンくんを疑っている。飼い主も怪しかったから、当然と言えば当然なのだが。
ロシアンくんの顔を見た。
考え込んでいる。
卑劣なことをして楽しんでいる顔には見えない。
他の子たちもそうだ。ミーちゃんやチャチャは怯え、ハナさんもどうしたらいいか分からない様子だ。
そんな僕の目に飛び込んできたのが、エルキラだった。二匹とも怯え鳴いている。キラがケガを負わされ包帯姿、いや、毛布姿で帰ってきた。二匹はずっと一緒。僕は、何気なく彼らの足を見た。右後ろ脚の包帯・・・段々と上に視線を移す。何か違和感があった。そうだ。包帯を巻いているのは、エルにしか見えない。怪我をしたキラではなく、エルが包帯を巻いている。
これは、どういうことだ?
あの毛布はどこへ行った?なぜ別の子が包帯を巻いている?包帯に、まさか何かを隠しているのでは?
「うわ――――――――っ!」
彩良さんが大声を出す。
あゆむの寝床方面だ。僕は急いだ。
机の中にあったはずのカッターが、バラバラにされていた。替え刃も一緒にしていたらしいが、ない。どうやら、犯人が持ち去ったのだろう。そして、ベッド以外の何処かに隠しているという推測が成立するわけだ。
彩良さんとあゆむも気付いたのだろう。
最初はカフェを休業にして猫たちを保護ビルに移す計画を立てていたようだが、僕のサイコパス猫という言葉を聞いて、躊躇し始めたらしい。保護場所で凶行に及ばない保証がないのだから。
まして、向こうには医療設備が無い。ジジのような大怪我をしたら、命に関わることになってしまう。
僕は、彩良さんたちをまたパソコン前にひきずるように足を噛んだり爪を立てたりした。
何度もやって、やっと二人は気付いてくれた。
「ああ、ショタ、悪かったね」
「で、今度はなあに?アンタの預言、当たり過ぎよ」
僕がまた、キーボードに触る。後ろから突き刺さる視線。
「画面 見えないように 隠して」
二人が覆い被ることで、画面は見えなくなったはずだ。
「キラ怪我した 包帯と毛布姿で戻った 今包帯してるのエル 毛布ない 凶器もない」
彩良さんが囁く。
「怪しいってこと?」
僕はキーボードを叩く。
「猫耳いい メモで話して 双子猫 言い切れない 包帯おかしい 凶器は毛布の中 毛布探す」
あゆむも、ジジのショックから立ち直りつつあるようだ。
彩良さんにメモを渡す。
そうやって、メモとキーボードでの会話が始まった。
「じゃあ、アタシ、毛布を探す。彩良、双子猫の包帯取り替えるふりして、取っちゃって」
「元からカフェにいる子は対象外?ショタ」
「僕のこと 新入りに内緒 たぶんシロ ロシアン 謎」
「そうなの。ロシアンの飼い主、外国に行くって預けたのに、飛んだ形跡ないのよ」
「それは人間だよね?」
「字も書いたし、お金持ってたし、日本語喋ったわよ」
「国内にいて、何してるんだろう。足取り掴むのは困難だねえ」
「この辺からタクシーに乗ったのは確かだから、片っ端から確認するしかないわ」
「目撃者もいないだろうな」
「また 誰か襲うつもり 間違いない」
「誰が襲われるかわかんないの?ショタ」
「ハナ ミー チャチャ 病院ケージで保護 犯人 あぶりだし」
歩夢が鼻に皺を寄せる。
「危ないわよ!カッターも替え刃もバラバラなのよ」
「包帯だって、猫が自分で巻けないよね」
「カフェにきた客が共犯の可能性は?」
「なるほど。あの女は来てないわよね?」
「見てない 来てないと思う 人間共犯 目立つ」
「包帯巻いたとして、ボラさんの可能性は?」
「あり得るとは思うけど。怪我してない脚に包帯巻くボケたボラさんなんて居ないわよ」
「内鍵 締めたフリ ダンボール 目隠し」
彩良さんも、あゆむも、気が乗らないようだった。
「ハナちゃんたちを保護するのは何とかなるよ、健康診断って三匹まとめりゃいいから」
「でも、ショタ、あんたが心配だわ」
「寝たふり ダンボール 突進 人間いると 犯行ない」
「あああ、痛し、痒しよ、アタシにとっては」
「せめてロシアンが善悪どっちか分かればいいのに」
「ロシアン 金銭感覚あり 変な猫」
「金銭感覚だけでいうなら、アンタも同類でしょ。ショタ」
僕は、言われて初めて気が付いた。
そうだ、人間のような感覚を持った猫などこの世に存在するわけがない。
犯猫かどうかはともかく、ロシアンくんは僕に似ている。飼い主がどういう生業なのかわからないけど、ロシアンくんが、ジョーイでいうところの、向こうの猫である可能性は高い。
しかし、ジョーイのことは内緒だ。
ゆえに、ロシアンくんの仮定話も禁句だろう。ごめんよ、二人とも。僕にも道義ってものがあるんだ。ジョーイには、先日のサイコパス人間から助けてもらった恩があるんだよ。
彩良さんが決断する。
「じゃあ、明日の晩、決行でいい?」
「アタシは毛布とカッターの在処を昼間中に探してみるわ」
「あとね、ショタのベッドにアタシ特製のベル、付けとくわ」
ベル?つまりは、鈴だろう?寝返りの度にリンリン五月蝿いんじゃないのか?
「大丈夫♪何かあったらベッドの中央部、押しなさい。わかった?」
わかったよ。何の仕掛けか知らないけど、僕のためを思ってくれてるのは有難いことだから。
こうして、その夜は更けた。カフェは一晩中灯りが付いたままだった、隣のジジを気遣いつつ、彩良さんとあゆむが交代で仮眠を取りながら、僕等猫たちを監視した。
翌日。ジジは、夜通しの大手術を耐え抜き、なんとか一命を取り留めた。
僕は話を聞きに行けと彩良さんたちに命令され、病院ケージ内のベッドに横たわるジジに話しかけた。
「お早う、よく頑張った」
「俺なんて、死んだ方が良かったんだ」
ジジが、初めて会話に応じてきた。
「何でだよ。生きてりゃ色んなことがあるさ。善し悪し含めてだけど」
「俺、マンションで暮らした時、飼い猫にしてあげるって言われたんだ。新しく家を見つけて迎えにくるから、って」
「そりゃ、めでたい話じゃないか」
「でも、来なかった。嘘だったんだ」
「そうか、それで塞いでたんだな」
「だからもう、命なんて要らない」
「そういうなって。出会いはどんな形で目の前に現れるかなんて誰にもわからんぞ」
「お前はカフェで悔しくないのか」
「ハンブサだからな。ところで、犯人見なかったか」
「すまん、寝てるところを突然襲われて。俺、マンションにいて腹出して寝るクセついたから、たぶん腹出したまま仰向けに寝てたんだと思う」
「なるほど。それで狙われたのか」
「他に恨みを買う覚えもないし、話さえしたことないから」
「うん、恨みじゃない。無差別に攻撃したと僕は思ってる。早く治せ。これからなんだぞ」
「お前みたいに前向きになりたいよ」
「なれるさ。じゃあ、大事にしろよ」
開店時間直前。
カフェの前には「ごめんなさい、また来てね」の不定期休業看板が置かれた。
ハナさん、ミーちゃん、チャチャくんの三匹は、定期健康診断という名目で隣の動物病院に移された。ケージに入れられて。
ハナさんが僕に小声で囁く。
「無理しないで。命あっての物種って、人間から聞いたことがあるわ」
ミーちゃんたちも心配そうな顔をする。
僕は、答えた。
「大丈夫かどうかわからないけど、カフェを滅茶苦茶にするヤツだけは許せない」
「それでも、みんなでおもてなしサービス続けたいから。生きるのよ、絶対に」
「わかった。ありがとう、ハナさん」
皆を見送って、僕はカフェに残った。
命あっての物種、か。そうだな、ジジに言った手前、僕が易々とサイコパスどもに命をくれてやるわけにはいかない。それに、ジジから貴重な話を聞いた。仰向けになっていたから狙われたのだ。そう、野生猫は絶対にお腹を見せない。見せれば敵に塩を送るようなもんだ。
あれ?なんか違う意味のような気もするが、まあ、いいか。
病院との境にあるドアが閉まる瞬間、また、何処からともなく、正体不明、以前にも感じた得体の知れない視線が背中辺りを刺しまくる。
やはり、犯人はハナさんたちでは無い。
双子猫、あるいはロシアンくん。どちらかが傷害犯に間違いないだろう。今日は人間の気配など、無いのだから。
カフェの模様替えと称して、歩夢と彩良さんは大掃除を始めた。病院側の座席やテーブルを一箇所に集め、空いた場所にカウンター内のものを移す。歩夢は気付かなかったようだが、彩良さんが勝手に歩夢ルーム(ご本人は別宅と呼んでいるが)も撤去しようと、そちらへ向かう。
すると、エルキラが、けたたましく鳴きはじめた。
「五月蝿いっ!」
一喝する彩良さん。
っと、ドア越しにこちらを覗いている女性が目に入った。
彩良さんも、人間相手には一喝もできないし、捨て置くわけにもいかないだろう。
ドアを開けた。
「すみません、今日は休業でして」
「あの、前に上のマンションに住んでいた者です」
「ああ、佐藤さんでしたね、先月お引越しされた」
「あの、うちで飼わせてもらっていた猫は、まだこちらにいますか?」
「申し訳ありません、あのあと、一匹は今、別の居住者さんと暮らしているんです」
「黒猫のほうですか?トラ猫ですか?」
「トラ猫です」
「黒猫は?何処かに貰われて行きましたか?まだこちらにいますか?」
「もしかしたら・・・」
「はい、ジジと呼んでいた黒猫です。元気にしていますか?」
彩良さんの表情が一瞬曇ったのを、相手は見逃さなかったらしい。
「まさか、亡くなったりしてないですよね?」
「実は・・・」
彩良さんが事情を説明すると、ぼろぼろと女性は泣きだした。
「あの時すぐに連れていけば・・・」
「隣の病院にいます。お会いになりますか?」
「会わせてください。お願いします」
女性と彩良さんは連れ立って、隣の動物病院に駆け込んだようだった。女性がワンワン大きな声で泣くのが聞こえた。
もしかしたら、ジジにも、切望していた『飼い猫』という幸せが訪れる日が近いうちに訪れるかもしれない。ヤツは基本的に寂しがり屋だったのだ。同じマンションに暮らしたトラっちが、またマンション組として引き取られる中、飼い主に約束を破られ、置き去りにされたと思ったのだろう。僕に言わせれば、たかがひと月、なんだけど。
彩良さんが戻ってきた。
僕は「しまった」と後悔する。
今の人間たちのやり取りを見ていて、カフェ内から目を離してしまったのだ。猫たちが動いたかどうかさえ聞き耳をたてていなかった。
ま、いずれ次に狙われるのは、僕か、残った猫のどちらかだろう。僕の方が不審な動きをしている分、危険と判断しているかもしれないし、何も事情を知らないであろう、残った猫を襲うかもしれない。
どちらにせよ、今晩が最終決戦だと僕の第六感が体中を駆け巡る。そう、針で身体を突かれるような鋭い視線がそれを物語っていた。
今日はカウンター周りの模様替えするわーっと勇み労働に励んでいた歩夢が、疲れ果てた顔を見せて現れた。
メモに何か書いて僕に見せる。もう、隠す必要などないとばかりに。
「毛布発見できず」
そして、彩良さんがいないのに気付いたようだった。
おい、さっきの会話聞いてなかったのか。
「彩良?」
きょろきょろしている。
仕方がない、僕はベッドから降り、歩夢の足元に近づき鳴いた。
病院の方を向いて、ニャ―――――――――――っと。まるで犬の遠吠えかと言わんばかりの長鳴きで。
「あら、何かあったの?」
ニャッ!
その言葉で、歩夢は何をどう理解したのかわからない。それでも、病院に何かあると感じてくれれば嬉しいのだが。
僕の心の声が届いたのか、歩夢は客席の机などをよけながら、病院に通じるドアを開けた。ドアは、病院側へ開くようになっている。だって、向こうから緊急で医者軍団が突入したときにお客さんがいたら大変だろう?僕としては引き戸だと有難かったのだが、ビルの構造に文句を言っても始まらない。
歩夢が姿を消した瞬間、背後から迫る視線は強烈に僕の背中目掛けて集中した。今にも攻撃が始まるのではないかと思うくらい。
僕は踵を返す人間のようにくるりとカフェの方を振り返り、自分のベッドに戻りながらエルキラとロシアンの様子を下から見上げた。
ここも今日中にベッドを移動させる予定だったはずだが、さて、どうするのだろう。こればかりは人間たちにしか任せられない。
現在、カウンターの奥、壁に沿った階段状の足場があり、周囲を囲む太い柱の梁を利用して板を打ち付け、猫たちのベッドが並んで丸を描くような形で置かれている。自分のベッドから他猫ベッドに移動するには、一度階段状の足場に戻る必要があった。
今一度、頭を整理しよう。
ベッドは、一番奥にエルキラがいて、時計回りに、隣はチャチャ、ジジ、ミーちゃん、僕、ハナさん、ロシアンの順番だ。
ロシアンはご滞在猫だから、おもてなしサービスには参加しない。自由気儘に動き回っている。
ジジも、たまにしか参加しなかった。塞ぎこんでいたから、おもてなしサービスなどする気になれなかったのだろう。
その他は、ハナさんをリーダーに開店時間になると降りてきて、おもてなしサービスに日夜勤しんでいた。昼食時くらいか、自由時間があるとすれば。
普通に犯人を推測するなら、おもてなしサービスをしていたエルキラよりも、ロシアンの方に傾倒する。何せ、ずっと自由時間だったのだから。
ましてや、あいつ、笑う猫だ。猫なのに笑う、あり得ない奴。向こうだって、パソコンでキーボード叩く変なヤツって思っているかもしれないけれど。
お互い様だ。
エルキラがここに着て十日ほど。ロシアンが滞在し始まってから三日か四日ほど。そうだ、ロシアンのご滞在が始まったその晩から、異変は始まっていた。
歩夢のお宝バラバラ事件、キラ負傷事件、ジジ殺害未遂事件。
三件の事件に、どんな繋がりがあるのか、それはまだわからない。
でも、序章としてお宝バラバラ事件が起こったことは間違いないだろう。歩夢の寝入る深度を計った可能性もある。歩夢ルームに何があるのかを確かめるのが第一の目的だったのかもしれない。そう、いずれ起こすための事件に備え、凶器を探しながら。そして、犯人は見事に凶器を手に入れた。カッターの刃、という猫でも銜えることのできる凶器。それは諸刃の剣にも等しく、一歩間違えば自分の口を切るのだが。
次に起こったのが、キラ負傷事件。
一緒に寝ていたはずのエルキラ。キラだけが、右後ろ脚を切られた。どうしてエルは襲われなかったのか。あの時点で、一枚の刃しか持っていなかったのか。そうだ、歩夢が出て行ってからガチャガチャとした音が夜のカフェに響いていたか?
否。
やはり、犯人は最初から凶器を隠していたに違いない。
そして、凶行は起こった。キラの右後ろ脚を切るという形で。僕はエルキラの足元を見た。事件のせいかどうかわからない、二匹とも真ん丸になり、お腹と脚をガードしていた。足元の包帯は見えない。普段からこのような姿で寝ていたのだろうか。猫ってあまり観察したこと無かったけど、足とかお腹全てをガードして寝るんじゃなかっただろうか。
どうして後ろ足なんて大事な場所を切らせるような寝方をしていたんだろう。二人寝なんだ、そのくらいお互いに隠せそうなものだが。
ああ、チャチャに聞いておくんだった。何たる失態。日ごろからそういった情報は仕入れておかないと。
今更悔やんでも仕方がない。
兎に角、前に進むしかないのだから。
エルキラが犯人かどうか、それを今の今、論ずるには証拠が無さすぎる。
証拠という点では、ロシアンも同じだ。
笑う猫、ロシアン。
到底、普通に生きる猫ではあるまい。
彼は自由気儘で何事にも動じない。そう、何があっても。キラ負傷の際にも、ジジ殺害未遂の際も。ただ、黙って考え込んでいるだけ。猫の分際で、右前脚を頬に寄せ、まるで頬杖でもついているかのように。
預けた人物も謎だった。今は行方が知れない。携帯電話は、引き受けたときだけ繋がったけれど、次の日にはもう、解約されていた。海外旅行といいながら荷物はロシアンを入れたカバン一個。この先迎えに来るかどうかさえ、危ぶんだものだ。見るからに怪しさ超満載の女性だった。
え?美人だ、モデル体型だと褒めていただろうって?
ま、まあ。そんなことも、あったようなないような・・・。そ、そうだ。美人イコール好い人とは限らないっていう、いい例さ。人間には違いないだろうけど、二度とここに現れることはあるまい。
なぜロシアンをここに置き去りにしたのか、それは今のところ分からない。飼い主だったあの女が飽きてカフェに置き去りにしたものか。或いは、誰かに頼まれて飼い主役を引き受けたか。
飼い主役・・・。
そうか、誰かに頼まれ、報酬でも貰って、彼女は飼い主役を演じた。
ロシアンを手放したかった飼い主がいたのか、それとも、ロシアン自身、本当の飼い主など初めから居ない、何処かの組織に属するスパイ、または殺し屋稼業が生業かもしれない。
今の段階では、それすらも明らかに出来ないが・・・。
全ては今夜詳らかとなり、決することだろう。
真の犯人がエルキラにせよ、ロシアンにせよ、僕は僕の居場所を守る。僕の仲間を守る。
人間時代の記憶を残しこの世に生を受けた僕。其処には何かしらの理由や宿命があるはずだ。
この人間的思考可能な脳みその構造が、何かの罰だとしたら、甘んじて受けるとしよう。
ただ、今は、目の前の敵を葬り去るだけだ。
これで力さえあれば、言うこと無かったのに。超能力的何かとか。例えばジョーイのように。
そういえば、先の猫虐待黒子女事件の際、ジョーイは姿を見せたけど、今回は夢にさえ現れない。ジョーイの言う、向こうの世界には関係のない事件なのだろう。
なんとはなしに、あのブサ顔が懐かしく思い出された。
運命を決する時刻が近づいてくる、段々と陽が傾き、雲が赤みを帯びたオレンジ色に染まって行く。そしてその色は、暗くなりながらパープル系の色へと変化していった。
やがて、すっかりと陽が落ちた街は、外灯が燈りだし、夜の帳に包まれつつあった。
結局、彩良さんも歩夢も、カフェに戻ることは無かった。
いくら明日が定休日とはいえ、窓から見たら吃驚するようなカフェの中。客人用のテーブルや椅子は散乱し、カウンター周りもぐちゃぐちゃ。通りがかりの人が見たら、店主が夜逃げしたカフェに思われること請け合いだ。
ジジのことで色々忙しかったのだろうが、せめてテーブルと椅子のセッティングくらいはして欲しかった。
だって、そうだろう?
万が一、万が一にも僕がここで事切れた際、僕の家族ぐらいは来てくれるだろう。それで乱雑な状況を見てしまった日には、星羅が怒って猫虐待犯人にしてしまうかもしれない。うん。星羅ならやるかも。僕の娘だし。
それにしても、今夜は長くなりそうだ。
人間臭く、太陽とともに目覚め、夜は決まった時間に眠りに就く僕には尚更。灯りさえあれば、読書か新聞でも読みたいところなのだが、変な行動第二段として目を引きそうなので、やめておこう。
ああ、眠くない。
本当に寝るときは、団子みたいに丸まって寝る僕だけど。
そう、リスク管理は大事な仕事だろう?人間だって猫だって、底辺は同じことなんだ。
今日ばかりはリスクに目を瞑り、だらりとお腹を出した格好でベッドに倒れ込んでみる。
まるで昔の人々が木造で彫ったナントカ像のように、後ろ足の片方を上げ、反対側の前足を招き猫状態にぶら下げて。かなりみっともない姿だったと思う。
そんな格好でごろんごろんと寝返りを打ちながら、ひたすら僕は待っていた。
罪という月が満ちるのを待つ囮捜査官のように。
何時間が過ぎただろうか、僕はウトウトと眠りの世界に誘われつつあった。
いけない、ガッツリ寝てしまったら、犯人の餌食になるのは必至だ。
あ。
でも。
・・・眠い。
一瞬だったのか、それとも数分、いや、数十分。
僕の瞼は自然に落ち、目の前が見えていなかったらしい。
つまりは、寝ていたというわけだ。
ヒタヒタ、カタカタ、変な音が夢現の中で鳴り響く。それでハッと目が覚めた。
来たのかもしれない。お目当ての音が。お目当ての者が。
僕は、何の能力もないけど、なんとかするしかない。
こういうのを「身の程知らずの間抜け、アホ」というらしい。ジョーイに言わせれば、だが。
仕方ないじゃないか。これが僕の性分なのだ。
段々、音が近づいてくる。
カターン、カターン。
僕は力がないけど、猫並み、いや、三十八歳人間としての頭脳がある。何とかしなくちゃいけない。僕がやらなかったら、誰も手が出せないじゃないか。
夜の真っ暗な店内に、不気味に光る一筋の光が稲妻の如く走った。
「あうっ」
耳の辺りに鈍い痛みを感じる。
咄嗟に、ベッドの真ん中を押す。そう、例の鈴だ。
・・・ならない。用無してないんでないかい?このエセリンリン!
仕方ない。
「誰だ、お前」
真っ暗だったはずの店内を、いつの間にか月が照らしていた。
犯人の姿が浮かび上がる。
「こんばんは~」
ふっ、この声は・・・。
やっぱり、コイツだったか。
白黒ハチワレが二匹。エルキラ兄弟。エルのみが、カッターの刃を口に銜えている。
キラが喋りたいということなんだろう。
「ほう、新入りじゃないの」
僕は有りっ丈の虚勢を張る。
「お前ら、なんでこんなことするわけ?」
「何のこと?」
「ジジに怪我させたことだよっ!」
「湿っぽくて腹立つんだもん」
僕は逆に腹が立った。それも、大いに。
「馬鹿野郎、大怪我したんだぞ、ジジは」
「自分が悪いのさ、キラだって怪我をしたよ」
「あれは自分たちで付けたかすり傷だろう」
「そうだった。忘れてたよ」
エルは相変わらずカッターの刃をチラつかせ、キラが喋る。
「邪魔なんだよね、キミも」
「僕のことなんぞ、ほっとけ」
「ダメ―、元々の目的はキミだもん」
「どうして僕が目的になる」
「知らない。僕等は従ってるだけ」
「従うってことは、黒幕がいるわけか。どこの人間だ?それとも・・・」
「人間に従う?なんで?なんで僕等みたいな高等な生き物が、人間如きに支配されなくちゃいけない?」
「高等な生き物?何言ってんだ、お前ら」
ヒヒヒ、と笑った二匹。
段々とその姿が変わってきた。
可愛かったハチワレの面影は幻だとでもいわんばかりに、目が怪しく緑色に光り、爪が伸び、耳が伸び、二足歩行になった。
うわっ、こりゃあ僕の出る幕じゃないかも。猫じゃない。怪物だ。
先ほどまで加えていたカッターの刃も、今は手に持っている。
二足歩行の彼らは、それを上から振り回し、僕のベッド周りを笑いながら歩いている。僕の身体は至る所にカッター刃が当たり、無数の傷跡が出来ていた。
かなりの危機的状態にある僕、ショタ。
どうやって、この難局極まりないシリアスな場面を乗り切ろうか、悩んでいる暇はないのだが、妙案も浮かばない。
その時だった。
僕の目に何かが映った。
銀色の細い絹糸(僕にはそう思えた)のようなものがふわりと店内を漂い、こちらに近づいてくる。ちょうど、エルキラ兄弟の後ろ側を漂っていたので彼らには見えなかったと思う。僕は、エルキラが糸に気付かないよう、彼らを直視した。
それは一瞬のことだった。
先ほどの糸が、エルキラに上から巻きつくようにひらひらと舞いながら、彼らの動きを封じた。ゆっくりとした動きだったはずなのに、何故か締め付けは一瞬にして終息したのだ。
「ぎゃ――――――っ!」
二つの怪物が叫ぶ。
もがけばもがくほど、糸は締り、巻きつく糸は段々と喉元へと近づいていく。
その後ろから、糸を操り手が姿を現した。なんとロシアンだった。僕は、実際のところジョーイが来たのだとばかり思っていた。
糸から逃れられないエルキラにとっての、終幕が始まった、と僕は思った。
ロシアンが、エルキラに聞く。
「ふうん。こういう姿だったのか。初めて見たよ。さ、黒幕を話せ。話さなければ、このまま喉まで糸を伸ばす」
「誰が、お前如きに」
「おやおや。無知な輩はこれだから困る。僕を誰だと思ってるんだ?お前達。クラウス・カルラロイド・ロマノフ。まさかこの名前を忘れたわけじゃないだろうね?」
「クラウス?あの・・・お前がそうだったのか」
「さ、お喋りはここまでだ。話さないなら、このまま糸を伸ばすだけだ」
「ジ、ジョーイに頼まれたんだよ」
僕は驚いた。
ジョーイ。
あの世と現世の使いだと自分では言うが、その実物凄い能力を秘めたやつ。
そして、何回も僕に道を示してくれたやつ。
まさか、そのジョーイがこんな卑劣な真似をするはずがない。怪しいことを結構言ってはいたけど。
「ジョーイ?ジョーイ・レンツェル・カフカのことか?」
「そ、そうだ。やつに命じられた」
「で、なぜショタを狙う」
「ジョーイが、邪魔だから片付けろって」
まさか。邪魔した覚えはどこにもない。
クラウスと呼ばれたロシアンが、僕の方を向いた。
「で、ショタ。キミはジョーイに邪魔呼ばわりされる覚えがあるのか?」
「ないよ。助けてもらったことなら何度かあるけど」
「ふうん。なるほど。じゃあ、ご本人に登場してもらうのが一番だろうな、ジョーイ!」
ロシアンが呼ぶと、暗闇からジョーイが姿を見せた。
「俺様の名を出すということは、俺様に恨みがあるヤツということか」
転瞬、エルキラは、猫の姿に戻り、糸から抜けて逃げようとした。
「おっと。逃がさねえぜ」
今度はロシアンの糸ではなく、ジョーイが稲妻を放つ。二匹とも意識喪失し、その場に倒れた。魂も心臓の鼓動すらも、何処か他の場所に堕ちたに違いない。
ジョーイが僕の所在に気が付いたのは、その直後だった。
「よお、久しぶりだな。ショタ」
「本当に。で、どうしてジョーイが黒幕呼ばわりされたんだ?」
「さてねえ、誰かが俺様を追い落としたいんだろう。こいつらは使役された廃猫だ」
「廃猫?」
「向こうの世界の地獄で彷徨っている猫さ。猫にも色々いてな」
「この2匹は、まるで人間のサイコパスみたいだった」
「そういうのが向こうの世界にもいるってことさ。俺様、今回は高みの見物だったけど」
「ジジの大怪我とか大変だったんだぞ」
「あいつに悩みがあったのは確かだ。でも、あのまま自分勝手にしてたら、あいつも地獄行きだったんだぜ」
「そうだったのか?」
「まあな。エルキラは、レスキューされ此処に来ただろ?わざと、この近くをうろついていたんだよ。すべて、お前を探すためにな」
「なんで僕を?」
「俺達向こうの世界にとっちゃ、お前の存在が貴重だからさ」
ロシアンも頷いた。
「そうだな。ショタ、キミの存在は大きい」
「二人とも待ってくれ。僕の存在ってなんだい?」
「人間であり、人間でない。猫であり、猫でない」
僕は悲しい気分になった。好きで猫の姿になったわけでもないし、生まれ変わるなら、どんな生き物でも良かったのだから。まして、人間時代の記憶を留めたのは僕自身の希望ではないはずだ。
僕が気落ちした様子に気付いたロシアンが言う。
「気を悪くしたなら済まない。人間時代の記憶は、留めようとして留まるものではない。そう、選ばれた者にだけ、それが許される。それがキミ、ということなんだ」
「選ばれた者?」
「そうさ。世の中の生物、人間も含めてだが、前世の記憶を持つ者は少ない。必要ないからだ、とされている。しかし違う。昔、人間だったという記憶は良くも悪くも作用する。だから許された者のみが、その力を有する」
「出来ないのは力技だけか。人間を先導することは可能かも。猫教祖とかね」
「そこで、キミを亡き者にしたかったり、反対に仲間に引き込みたい輩が次々と現れる、というわけさ」
「それで、ロシアン、ジョーイ。キミたちはどっちなんだ」
「ぜひ、向こうとこちらの世界を繋ぐ役目を、引き続き担ってもらいたい」
「と、わが世界の主が言ってらあ」
「あるじ?」
「そうだよ、クラウスは向こうの世界の主クラスだ」
「そしてジョーイは将軍、かな。凄い能力だろう?」
「そしてショタ。お前がいないと、向こうの世界からこっちに逃げてきた奴らを捕まえられねえ。今回のように凶悪な奴が逃げることもある。こないだの虐待人間みたいなのも、直接お前が関わらないと、俺たちは手出しができねえのさ」
正直、驚いた。
僕が、狭間のような役割を果たしているというのか。僕という狭間を通して、初めてこちらとジョーイやロシアンの世界がイレギュラーに繋がり、関わりが持てるのだという。
僕は答えた。
「僕がこうして人間の記憶を持ったのには、何かしら意味があるんだと思ってきた。もし、それがキミたちの世界で役立つのなら、喜んで協力しよう。代わりに、サイコパスを黙らせるときは、またお願いするよ」
「任せとけ」
「ありがとう、ショタ。キミを直接見たくてね。ここまで来た。来た甲斐があったよ」
僕は思い出した。
「キミを連れて来たあの女性は人間なのか?」
「ああ、あれか」
「行方もわからないし、キミを置き去りにしたんだとばかり思っていた」
「ああ、これは人間たちには内緒にしてほしいんだが」
「都合悪いことでも?」
「少しだけ、記憶を操作した。あれは元々猫を飼っては、飽きて直ぐに捨てる女性でね。こちらに来るついでに、ちょっと懲らしめたのさ」
「記憶を操作されていたから、お金も直ぐに出したのか」
「そう。いつもなら、世話が面倒になって、ダンボールに入れて捨ててしまう」
「僕等にとっては、キミが人間に置き去りにされた。これが全てだ。キミはいつの間にか姿を消せば大丈夫さ。外に逃げたと思われるだけだから」
「そう言ってもらえるとありがたい。さらばだ、尊き者よ」
「じゃあな、ショタ」
ロシアンとジョーイは姿を消した。向こうの世界に戻ったらしい。
僕は、誰もいなくなったカフェを後にして、病院へのドアに急いだ。ドアには小石が一つ挟められていて、閉まらないようにしてあったのだ。万が一あったら病院に逃げられるように。
みんなに事件の概要と結果を説明した。猫にも、人間にも。
犯人が双子猫で、今まで犯罪を重ねた猫サイコパスだったということ。
困ったのが、どうやってエルキラが事切れたか、その原因を説明することだ。事実は、とてもじゃないが言えないし、かといってエルキラには傷一つなく、カフェには魂が抜け鼓動の止まった身体だけがある。
聖司がエルキラの遺体を運んできた。色々と調べたようだが、答えが出るわけもなく。何らかの理由で心臓発作のような症状を起こしたのだろう、という結論に至った。助かった。こういう時、科学こそが全てを解明する、と考える石頭の聖司は役に立つ。
「そういやお前、傷だらけだな」
聖司に言われて気が付いた。そうだ、結構カッター刃で切られた場所があった。幸い、深く刻まれた傷はなかったけれど。
「包帯巻いたら、眼しか出ないぞ。こいつ」
「ハンブサどころか、ミイラじゃない」
「ミイラ猫が芸をするのもまた一興か」
おいおい。けが人を前にして言うことか。
ロシアンは、騒ぎの最中に逃げ出してしまったことも話した。
「あら、向こうのドア、開け放しておいたかしら?」
「かもしれないよ。ジジのことでバタバタしてたし」
「あら、どうしましょう。あの子自分で食べていけるわけないのに」
「前の飼い主に会ったかもしれないから、いいじゃない」
「それは期待薄よ。ロシアンの飼い主、どうやら捨て猫常習犯だったらしいの。見ちゃった、こないだ猫捨てるとこ。もち、捕まえて延々と説教したわよ。てめえみてえなドアホにゃ、猫飼う資格なんざねえんだよ、今度見たら締めんぞ、ワレぇって。ほんの少しだけ脅しちゃった」
あの、歩夢の極道声。うむ。余程の人間でなければ、もう猫を飼おうとはしないだろう。あの声で締めるぞとか言われたら、極道の方々にぐるーりと取り囲まれるイメージが露骨に浮かぶ。
聞いてないからわからないんだよ!マジ、物凄く怖い。なんとかシネマの世界なんだぞ。
「ロシアン、そのうち戻ってくるかもしれない、わかんないじゃない」
「ならいいけど・・・」
みんな、一匹の猫だけど、こうして命の心配をしてくれる。有難い話だ。
歩夢と彩良さんが、思い出したようにカフェの方を見る。
「そういや、カフェん中、散らかってんじゃないっけ?」
「そういえば、テーブルとかセッティングした覚え、ないわねえ」
「さ、今日はテーブルと椅子片付けて、開店準備しないと」
「ジジ、良かったね。マンションの飼い主さんがお迎えに来てくれたんでしょう」
「少し入院するけどね」
ジジを見舞い、お祝いをいった。
やつも自分の勝手さを恥じていた、大丈夫だ、これなら堕ちたりしないだろう。幸せになれよ、ジジ。
再び始まる、僕たちにとっての安寧の日々。そう、静穏の日常。
数日後の朝、開店前の店先で、歩夢の声が聞こえる。
「あら、あんた。騒ぎに吃驚して出て行ったって聞いて心配してたのよ」
店先を覗き見る。
そこには、ロシアンブルーの猫が大人しそうに佇んでいた。
僕に向かい、にやりと笑う。
出た、ロシアン。いや、クラウス・カルラロイド・ロマノフ。
笑っていることにも気付かない歩夢。ロシアンを撫でた。
「さ、おいで。可哀想に、アンタの飼い主帰ってこないのよ。アンタ、このまま、ここで暮らしたらいいわ。みんなと一緒にね。そうだ、名前付けてあげなくちゃ。ロシアンブルーだから、ロシアンの『ロッシ』にしましょ」
まあ、妥当な名付けだろう。クラウスなどという本名を名乗れるわけもなし。僕がそちらを気にしているように、他の子たちも気にしている。一気に四匹も猫たちが減ったカフェは、とても人口密度が低く、肌寒いような空気に包まれていた。
ロッシは皆に温かく迎え入れられた。ハナさんが早速、おもてなしサービスのイロハを教え、一日の流れを説明する。
説明を聞き終えたロッシが、僕のベッドに近づいた。
「しばらく、ここで世話になることにした」
「え、ここじゃ芸もするよ。おもてなしサービス隊として。主たる者、いいのかい?」
「別に向こうを統率しているわけじゃない。芸だったら、笑うから大丈夫さ」
「いや、それは止めた方が賢明だと思う」
「そうか?いずれにしても、任せろ」
言葉どおり、凛々しい姿のグレー猫は、たちまちカフェの看板になった。
ハンブサ?もう、お払い箱ですよ・・・。
猫が好きな人も、ショタに興味のある人も、是非、またのご来店をお待ちしています。
ハンブサ顔のトラ猫ショタが、事件解決に奔走する!
「うぇるかむ!ニャンズハウス!」