第1章 ~ショタ誕生編~
云っておくが、これはショタコンの物語ではない。心して読むように。
僕は横山将太。三十八歳、普通の会社員だ。
それは突如として、僕の洋々たる前途を遮る最大級の災難という名のもとに降りかかった出来事だった。
季節は春。少し肌寒く感じる雨の夜。仕事を終え、帰路についた僕。
確か、時間は午後九時を過ぎていたと思うが、正確なところは記憶が欠落してしまった。
朝の天気予報は曇りのち雨。急に落ちてきた大粒の雨に、やっぱり降って来たかと思いつつ、コンビニの軒下で鞄から黒っぽい折り畳み傘を取り出し、広げた。
今日は木曜日。
あと一日仕事が残っていると思うと疲れが足にきた。決して元気よく歩いてはいなかっただろう。
ちょうど歩道側の信号が青になり、僕は横断歩道を渡り出した。そう、目の前の歩行者信号は確かに青だった。
眩いばかりの光と、タイヤが路面に擦れてギャギャギャッと響く鈍い不協和音。傘をさしていたので僕自身、視界は決して良くなかったが、その不協和音が僕の方に近づく気配がした。
光と闇、そして鈍い音が雨の音を掻き消しクロスする刹那。その後は何も覚えていない。
気が付いたとき、僕は何処かの建物にいるらしかった。
初めは何が起きたのか分からなかった。
急いで記憶を辿った。
ああ、車だ。もしかしたら、事故に巻き込まれたのかもしれない。此処は病院だろうか。何処も痛くはなかったが、骨折でもして運び込まれたのだろうか。目を開けた記憶が無い割に、なぜか、周りの様子が見て取れた。
家族が泣いている。
妻の小枝子、息子の穣司、十三歳、私立中学一年、娘の星羅、九歳、小学三年。三人とも声をかけるのが憚られるくらい抱き合って嗚咽を漏らし大声で叫んでいる。
救急センターらしき室内では,医師や看護師さんが大勢、指示を出したり器具を持ってきたり、大声で僕の名前を読んだり頬を叩いたりしていた。
と、意識が途切れた。次に目の前に現れたのは、白い布だった。
嗚咽を漏らす人、泣いているふりをしている人、お喋り盛りの人。部屋の中に何人いただろう。家族は勿論のこと、会社の社長や先輩・同僚、なぜか近所のスピーカーおばさんまでが駆けつけていたようだ。部屋の中だけでなく、待合室にも何人駆けつけているらしく、声が聞こえた。
お医者さんらしき人が、僕の家族に告げた。
「残念ですが、横山将太さんは、二十三時九分、お亡くなりになりました」
またもや、みんなの泣き声だ。
なんだって?今、誰のことを言ったんだ?横山将太って。僕?
これまでの出来事を総合すると、どうやら僕は、とある年月の、とある雨の晩、運悪く車に轢かれ命を落としてしまった・・・らしい。
僕には全部聞こえているよ!
だから死んではいないよ、生きているよ!
何かの間違いだよ!
誰か、聞こえないの?
僕の声が!
でも、なんのリアクションもない。このまま僕が死んだことになってしまったら・・・どうなるわけ?
もしかしたら、この後に僕を待ちうけるのは火葬じゃないのか?地獄じゃあるまいし、悪いこともしてないのになんで火攻めに合わなきゃいけない。
そう、僕からは、みんなが見えていたし聞こえていたから、自分が三途の川を渡ってしまったと理解していなかったのだ。いや、わかっていたとしてもきっと信じなかっただろう。
だから僕は、足掻いた。もがいた。なんとかして生きている事を知らせなきゃと必死だった。
ああ、どうしよう・・・諦めかけた。
そうして、僕の意識は途切れてしまった。
次に目覚めたとき、僕は生きていた。息をしていることを確かめた。前は息をしているかどうかまでは確かめなかった。いかん、いかん。人間、パニックになると、咄嗟にしなければいけないことを忘れてしまうらしい。
これからは忘れないようにしないといけないな。
父親たるもの、子供たちの手前恥ずかしい。こんなことではいかん。さあ、今度こそ家に帰れるぞ。
さ、みんな、一緒に帰ろう。
と、周りを見渡した。病院だとばかり思っていた白い壁はなかった。目の前にあったのは、とてつもなく大きい花だった。こんな変な花、あったか?新種か?気候変動による変化なのか?いや、テレビか何かのイタズラ番組収録に違いない。こんな大きい変な花、見たことも触ったこともない。
でも、なんとなく蒲公英に似ているような気がする。気のせいだと思うけれど。 それにしても、妻や子供たちは何処にいるんだろう。
青い空が広がっている。どうやら病院からは退院したようだ。青空の下、僕は歩き出した。・・・しかし・・・だな、思ったように前に進まない。とにかく、その、蒲公英みたいな花、いや、森をかき分けていくのに、とても時間がかかった。
此処は一体何処なんだ?僕が事故に遭った場所の近くにある病院じゃなかったのか?
あ!あそこにあるのは、いつも本を立ち読みしていたコンビニ。看板に見覚えがある。デカいけど。看板デカくすると売上げ良くなるんだろうか。なんか、店もデカくなってる気がする。やっぱり何かのお笑い番組ネタかもしれない。
テレビに映るのも悪くないな。どれ、行ってみるとしよう。
・・・ドアが動かない。って、自動ドアだろ、直せよっ!
それにしても、なんで人の足しか見えないんだろう。巨人のぬいぐるみ着たドッキリ番組か?店から出てきた巨人の子供が「可愛いっ」って。デカい手で撫でられた。
おいおい。大人をからかうな。
次に巨人の店員が来た。僕を追い払うような仕草だ、なんで追い払う!客だぞ、僕は!
しかし、なにか変だ。おかしい。っと、光の加減で、コンビニのドア部分が反射した。いつもなら、こういう時は自分の姿が映る。何の気ないふりして、髪型やネクタイ直したりするもんだ。
どれ、今日の僕はどんな格好してるんだろう。
・・・いない・・・いない、いない、いない!!
なんでだよ!
僕、幽霊になったわけ?
ホントに死んだの?
あ、でも。
さっき「可愛い」っていわれた。店員に「あっちいけ」ってやられた。みんなには見えるんだ、僕の事。なら、幽霊ではないな。
きっと、自動ドアに何か細工してあるに違いない。よし、再トライ。また、店員に追い出された。「ダメだよ~」って。店員のお姉さん、怒ってはいなかったけれど、いい年したオヤジに言う言葉じゃないだろう。
また、さっきのようにドア部分が反射した。今度は目を見開くだけ見開いてよーく見た。・・・そこにいたのは・・・・。
トラ猫だった。それも、超可愛くないハンブサな子猫。
なんでっ!
どうしてっ!
イケメンだった僕が、ハンブサな猫っ!
僕は思いっきり、気が遠くなった。まだ夢の中にいるんだろうか。なんかまた、パニック状態になってきた。落ち着け、僕、横山将太!これじゃ家に帰ったって、誰も気付きゃしない。野良猫扱いされてしまう・・・。その上、この半端なく可愛げのない顔。
ああ、どうしよう。
ああ、どうしよう。
兎に角、僕の家はひとつしかない。行くだけ行こう。そんでもって、家に入れてもらえなかったら・・・野良猫生活か・・・。できるかなぁ。野良猫だぞ、青空生活だぞ?できるのか?僕に?今からもう、心配だ。
いや、できるだけの努力をしよう。まずは、僕が父親だってわかってもらえる努力だ。其処からしか始まらないさ。
しかしだな、僕が夫だって・・・わからないな、妻の小夜子には。でも、子供たちはきっとわかってくれる。普通の猫より超縮小版なのが気になるけど、普通に戻るかもしれないし。戻るわけないか。なんでだよお、なんでこんなになってんだ。そうだよ、まだ夢の中なんだ、きっと。
確かここのコンビニをまっすぐ行って、次の角を左に曲がって。そのまま100メートルくらい歩いて右に曲がれば僕の家だ。急げ、急げ、僕。しっかし、この格好だと足が短いから、いくら歩いても進まない。ああ。腹が立つ。
ふと思い出した。猫なら走れるじゃないか。よし、走ろう。あら、あっらら?今まで二足歩行してた僕が四つん這い?なんか、違和感バリバリー。もうやだよー。
と。
目の前に黒猫降臨。
さっき子供の声が聞こえたってことは、人間語はわかるらしい僕。猫語もわかるんだろうか。っと、相手にその気はないらしい。「グギャッ」飛びかかってきた。必死に逃げる僕。
とにかく、何が何でも家に帰らなくちゃ。危なく道を間違えつつも、どうにか家の前まで辿り着いた。でかっ。こんなにデカい家だったっけ?普通の二階建ての家だったぞ。
ああ、みんなに会ったらどんな顔すりゃあいいんだ。お、誰も僕とは気づかないか。
ただの野良猫にしか見えないだろう。なんか、だんだん、だんだん、だんだん、かなーり心配になってきた。
家に置いてくれるかなぁ。どうせなら、家の中に入れて欲しいなぁ。で、目覚めたら人間に戻ってるっていう、それがベスト。
しっかしまあ、今更ながら、なんで猫っ!
イヤ、他の動物に比べれば猫はまだいい方かもしれない。
熊だったら・・・怖くて考えたくもない。
猫から変身できないまま、庭に入った。妻の小夜子が手入れしている庭は綺麗だった。なんだっけ、庭の、んー。
あ、思い出した。ガーデニングだ。
妻が丹精込めたガーデニングの数々が目に入る。ああ、こんなに細かく手入れし綺麗にしていたのかと驚く。しかし・・・すべてがデカい。なんだっけ、なんかの童話に出てきたような話だ。
あ、う、んー。思い出せない。
庭は、冬になると此処にイルミネーションを追加して、それはもう、綺麗なクリスマスになる。家族で毎年それを楽しみにしながらクリスマスを迎えていた。今年も見ることできるのだろうか。・・・不安・・・めちゃくちゃ・・・不安・・・。
家の玄関前に来た。開いていない。非力な子猫が自分で開けられるわけもない。超能力猫でもないし、化け猫でもないのだから。
小夜子ときたら、どこにいったんだ。穣司も星羅も、どこ遊び歩いているっ!
お父様のお帰りじゃ。早う戻って参れ。
綺麗な庭をもう少し上から見たくて物置に上ろうとする僕。小型の物置は高さ1.5mほど。しかし、登れない・・・。一所懸命トライするが、やっぱり無理。仕方なく、玄関前にあったダンボール箱の上でうたた寝するのだった。ああ、段ボールって温かい。
神よ、感謝します。
そんなとき、「あら!」と妻の小夜子の声がした。続けて、穣司と星羅の声もする。
「子猫がいる!」
三人揃っての大合唱だ。
そんな家族に、必死に訴える僕。
「僕だよ、わからない?」
「わかってよ、将太だってば」
「お前たちはわかるだろ、パパだよ!」
ミャウミャウ鳴く声しか人間たちには聞こえないらしい。僕の心の声は、家族に届かない。
小夜子が怖いことを言う。
「困ったわねぇ。野良猫よ。此処に居ついたら庭が荒らされるかもしれないわね」
僕はニャウニャウ、反論する。
「そんなことするか!お前の宝物だろうが!」
そのとき、先刻の黒猫がやってきた。あまりのふてぶてしさに、げんなりする家族。
小夜子が、またまた恐ろしいことを言い出した。
「その猫も追い出しましょう。もう来ないように」
っと、子供たちが言い出した。
「お父さんが死んでからすぐにこの子猫にあった。何かの縁かもしれないよ、飼おうよ」
「そうだよ。生まれ変わりかも。首輪つけて、家の中で飼えば庭も荒れないよ。飼おうよ」
「あたしたちが二人でお世話するから。お願い、お母さん」
ありがとう、我が子らよ。やっぱりお前たちは僕の子だ。それにしても、小夜子、お前は冷たい奴だなぁ。昔からそうだったよ。合理的っていうか、何というか。
なんだかんだと三人で論争していたが、最終的に小夜子が折れたようだった。
「仕方ないわね、じゃあ、お世話はあんたたちが責任もってやるのよ」
おおお。神よ、仏よ、再びの幸運に感謝します。我が家でまた暮らすことができるなんて。
猫姿だけどな。
「お父さんの部屋にトイレとベッド用意するね」
「今からペットショップ行ってくる。首輪やご飯もいるし」
「着替えていってらっしゃい」
二人が出かけると、小夜子は僕を拾い上げた。
「そっか、将太さんが居なくなってから現れたから、お前はショタだ。それにしても、面白い顔だね、お前は。将太さんとは似ても似つかないわ」
なんで伸ばさない。小夜子、お前のそこが、昔から不思議だった。でもって、僕と似てないって、不細工な猫ってことだろう?
そうだな、コンビニのドアだけじゃ十分じゃないけど、ハンブサだった記憶はある。
人間時代の僕は、自慢じゃないけど美男子という部類に属していた。身長は百八十センチを超え、若い頃にはモデルのスカウトさえあったくらいだ。
それが今や、ハンブサ子猫。
似ても似つかないという小夜子の表現は的を得ている。三十八にもなれば容姿は衰えるに決まっているけれど、ハンブサよりはマシだろう。どうしてハンブサになったのか、誰か教えてくれ。
小夜子に許しを得て、やっと家に入ることが出来た僕。
安堵の溜息・・猫は溜息をつけない。なんかこう、調子が狂っちゃう。家の中はなんだか線香臭い。
一体僕は、亡くなってから何日経ったのだろう。と、その晩に和尚さんと親戚や近しい友人たち、会社の上司と同僚が来た。
「ショタはこの部屋から出ないの!」
星羅は9歳だ。
余りに早い父親の死を受け入れることができたのだろうか。
しかし、出ちゃダメ?星羅が言うのだから仕方ない。みんなに挨拶したいけど、我慢だ。お経を唱える声と、合掌しているらしい声が響く。どうやら今日は僕の四十九日らしい。四十九日ってのは、今生の死と来世の生との中間の期間なんだそうだ。は?中間の期間ということは、今日を過ぎたら僕はどうなるんだ?せっかく猫になってまで、此処に帰ってきたというのに。
来世の生は、もう決まってたでしょ。目を閉じたあの時に。
だから今、こうして猫なんでしょうが。
いいよ。人間に生まれ変わらなくていい。猫としてこの家でみんなを見守ることにしたから。生まれ変わったら、また逢おうねなんて、クサーイ台詞はいらない。僕は泥臭くても、今の家族と一緒に笑って泣いて、そんな生活が出来ればそれでいい。
っと。あのふてぶてしい黒猫が、急に目の前に降ってわいた。
「おおおおっ」
驚く僕。
「驚いてんじゃねぇ」
凄む黒猫。
「な、何の用だ」
尻込み、というより、逃げかまそうとしている僕を睨んでる黒猫。
「俺はジョーイ。この世と来世のマッチングを生業としてるのさ」
へー、そんな商売あったんだ、っと、ここで気が付いた。
猫の言葉が解る!いや、コイツが人間の言葉で話してるのか?どっちにしても、すげぇことだ。と、ボンヤリしていたら、ジョーイの猫パンチが炸裂した。
「お前がこの世で暮らしたいのはわかった」
一応、お礼言わなきゃ。
「ありがとう」
年貢とか納めないといけないのかな。ビビる僕。
「いや、納めるとかそういうモンはなんもねぇ」
ど、どうして僕の心の声が聞こえたんだ?
「橋渡し役っていったろうが。そこらの猫と一緒にすんな」
立ち上がってガッツポーズのジョーイ。
「ま、それはいいとしてだ」
ジョーイの話が続く。
猫として生きるからには、猫としての寿命があること。
それは人間の年齢とは違い、早々に過ぎていくものであること。
人間たちにわかる言葉で話しかけることはできないこと。
人間の夢に入り込み、横山将太に戻って話すことが「可能な場合」があること。
人間の夢に入ると、僕自身の寿命が短くなること。
寿命が来たら、ジョーイが迎えにくること。
だから自分と再度会うまでに、思い切り生き抜け、ということ。
それだけを言い残し、ジョーイは消えた。
僕は話を半分しか聞いていなかったような気がした。でも、いつかジョーイが迎えに来ることだけはわかった。
心構えじゃないけれど、決めた。いつジョーイに会ってもいいように、その日その日を大切に生きようと。
ショタと名付けられた僕は、正式に横山家の猫として迎えられた。「ショタ」とチョコで名入れした猫用ケーキが僕を待っていた。へぇ、猫用ケーキってあるのか、初耳だった、猫なんて興味もなかったから。
かつて自分が書斎として読書や仕事を片付けた部屋だ。懐かしい。ただ・・・小さな手に何もかもが巨大で、触るのにも一苦労。以前のように触って何かしらしようと試みたが無理だった。
子供たちは、机の傍らに猫用ベッドを備えつけてくれた。思い切って、机の上にジャンプしようとしたが、チビすぎて無理だった。早く成長しないかなぁ。でも、成長すればするほど、早く寿命がくるらしい。
ああ。ジレンマ。
僕が感じただけだろうか。母と子供たちだけになった我が家は、何か寂しげだった。
僕だって、そんなに家族と話したわけじゃない。帰りだっていつも遅かったし、夜はほとんど子供と話していない。妻とも、その日あったことをさらりと聞くだけで、長話はしなかった。休みの日だって、子供たちと妻だけで出かけさせたことがよくあった。
仕事もあったし、疲れていたし。夏休みとかお正月だけだ、父親らしいことをしたのは。家族サービスというヤツだ。
本当に、済まないことをしたと今更ながらに反省する。反省だけならナントカだってできる、か。
僕の没後、家のリビングには小型の仏壇が供えられた。仏間が無いのも理由だったけれど、子供たちが父親と一緒に、と願ったらしい。僕はみんなと一緒に居たくて、 猫用ベッドの端を歯でしっかり噛んでずるずるとリビングに引っ張って運んだ。みんな驚いて書斎に戻そうとするけれど、ミャウミャウ鳴いて抵抗した。戻されればまた、ずるずる引っ張った。みんな、根負けしたようだった。
リビングの仏壇前に置いた猫ベッドの中が僕の定位置になった。
そういえば、色々な人が弔問に訪れてくれた。親戚一同はもちろんのこと、会社の上司や同僚、大学時代のサークル仲間、高校や中学校の同級生などなど。
その中でも、頻繁に訪れては妻の悩みを聞いてあげている男がいた。
会社の同僚、岩本憲明だった。大人しいし、優しい奴だ。
岩本は、バツイチのやもめ暮らしだ。なんでも、前の妻はDV妻との噂でもちきりだった。煙草を押し付けられた跡が生々しい手首とかで、彼はシャツを捲り上げたことがない。休みの日に来ると、子供たちに玩具やお土産を買ってきてくれた。
子供たちは恐る恐る受け取った。何故喜ばなかったのか、結構高い玩具だったのに・・・。
それから半年が過ぎたある日の夜、ご飯を食べたあと、妻が子供たちをリビングに呼んだ。僕は例により猫ベッドの中だ。妻は、なんだかいつものような覇気がない。 いつもは目を閉じて眠ったふりの僕だけど、この時ばかりは片目を開けた。
妻は、唐突に「岩本と結婚したい」と子供たちに話した。一瞬、場の空気が凍りついた。誰も何も、口にしなかった。僕も、さすがに驚いた。まだ半年。僕がこの世から去ってまだ半年。妻にとっては、もう半年だったのだろうか。
ちょっぴり、寂しかった。
子供たちは母を無視し、何も言わずリビングを後にした。しかたない、まだ中学一年と小学三年だ。大人の気持ちや家庭の事情など、わかるはずもあるまい。
妻が台所に戻って片づけをしていた。猫ベッドから出て台所にいった。
小夜子は、とても哀しそうな顔をしていた。
「気にしてくれるの?」
小夜子は哀しそうに笑った。奴と結婚したいのだろう、岩本はいい奴だし、反対する理由もない。ただ、半年・・というのが、ちょっと気にかかるだけだ。
僕はリビングの猫ベッドに戻った。そこに、娘がやってきた。猫ベッドごと持ち去ろうとしたらしいが、半年経って、僕は大きくなっていた。たぶん、三キロ近くあったと思う。猫になってから食欲が凄くて、腹が出た。当然、娘がベッドごと僕を持つのは無理だった。娘は猫ベッドを諦め、僕だけを抱っこして自分の部屋に篭った。娘お気に入りのブランケットを畳んで段ボールの箱に入れ僕の猫ベッド代わりにしてくれた。優しい子だ。
それにしても、まだ九歳の子。それも父親が亡くなって半年しか経たない日に聞かされた母の再婚話。どんな気持ちで聞いたのだろうか。
僕は、眠ることもできずに娘の心を推し量った。正直、わからなかった。
それは十三歳の長男も同じだが、彼は水泳、それも背泳のアスリートを目指していたから、まだ目標があったに違いない。ペットボトルを額に置き、落とさず泳げるトップアスリートの大ファンだった。地元のクラブでは不満だと常々漏らしていた。
長男が長女の部屋に顔を出した。
「ショタ、連れてきたか?」
小さな頃から、小さき者や弱き者を苛めたり嫉妬してはいけないと、二人に教えてきた。と同時に『お兄ちゃんだから我慢しなさい』長男に対し、絶対にそれだけは言わなかった。妻が言うと、すぐに嗜めた。何度でも嗜めた。長男は好きで最初に生まれたわけではない、大人の都合でお兄ちゃんになっただけだ。小さき者を守るのは鉄則だが、我慢とそれは違う。僕が解りやすく言葉にしたからか、うちの子供たちは、とても仲が良かった。
って、思い出し笑いしそうになってから気が付いた。
もしかして、穣司、お前の指示か。なら猫ベッドごと、お前が僕を持てばよかったじゃない。妹をこき使うとは、失礼なヤツだ。でも、二人とも猫である僕の事を忘れていない、それだけはわかった。
ふたりは段ボールに寝そべる僕を見て、
「なあ、ショタ」
「ニャー」
「半年で新しい父さんってどう思う?」
「そうだよ、お母さん、お父さんの事忘れちゃったのかな」
「ニャニャニャッ」
「お前もそう思うか。イヤだよな」
いや、イヤとは思ってないから。亡くなって半年なのが気にかかるだけだから。岩本はホント、いい奴なんだよ。酒飲んでも人間変わらないし、タバコはやらない、ギャンブルもしない。趣味はなんだったっけな、忘れた。
僕はいつまで生きられるかわからない。猫は人間に比べて短命だ。だから、家族みんながそれぞれに幸せを掴んでほしいと思っている。
それぞれに、悩む日々が続いたようだ。僕も悩んだ。夫ではなく、父親として。
ところで、猫も実は夢を見る。先日、夢にジョーイが出てきたので心臓が止まりそうになった。夢の中でジョーイは僕に言った。
「悩むな、寿命に響く。人間の格好になってみんなの夢に渡ればいいじゃないか」
「悩んでも寿命って縮むのか。ところで、夢に渡るなんて、そんなことできるのか」
「俺の最初の言葉、忘れていたろう。夢に渡れる「可能な時」があるんだよ」
「それってどういう時なんだ?」
「まずは、相手の幸せを願う時、だな。今回は可能だ、行けよ」
「すまん、ありがとう、ジョーイ」
早速、まず妻の小夜子の夢に渡った。小夜子は、半年で心変わりしたわけではないようだった。いや、岩本を金蔓にするつもりでもないようだが。
再婚せずに自分が働いて子供たちを養い続ける勇気がないこと、お金の面ではなく、心理的余裕の面で、だ。どんなに待っても想っても、将太さんが帰ってくることはない。半年経って、ようやくそれがわかったこと。このまま哀しみを背負って子供たちの前で笑うのがとても辛いこと、自分はしばらく笑えそうにないこと。
新しい父に子供たちの前で笑って欲しいこと、将太さんがみんなの前で笑うことが多く、怒ったことがないように。岩本になら、それができそうだと思ったこと。
小夜子が僕の死をそんなに悼んでいるとは思いもよらなかった。結構厳しい妻だったぞ、お前は。いや、僕がグータラしていたからか。
事実、女独り身で働き、父親の役割と母親の役割をモノの見事に演じ切ることは難しい。子供を怒ってばかりではいけないし、ほったらかしでもいけない。疲れて帰り ご飯を作り、疲れて眠るだけの生活。そんな生活を妻には望まない。家のローンも、僕が亡くなったら相殺になるよう保険に入っていたし。子供たちの学資保険も入っていたから大学も通わせられるだろう。生命保険も十分なくらい入っていたはずだ。仕事をしてもしなくてもいいくらいに。
何より、明るく元気でいて欲しい、それだけだ、小夜子に望むのは。
独り身を貫き、旦那の保険金を取り崩したり、ちょっとしたアルバイトをして生きる女性も多いだろう、健気な選択だと思う。どちらの選択も間違ってはいない、僕はそう思う。それぞれが事実を受け止めつつも笑顔で暮らせることこそが、残された家族にとって一番なのだから。
その後、暫く小夜子は再婚話をしなかった。岩本も訪ねてこなかった。もう秋も深まってきた。
そういえば、年末恒例、クリスマスイベントがあるじゃないか。あれをやらないのは寂しい、ぜひ見たい!
小夜子はその後も庭だけは丹精込めて手入れしていた。天国の僕に見せてあげたい、と1回だけ呟いたことがある。そうだよそうだよ、見せてくれよ-。というわけで雑誌にクリスマス特集が載っていたりすると、僕はそのページに陣取ってクリスマスイベントを強調した。
妻であろうが、子供たちであろうが、ミャウミャウ鳴いて呼びつけた。
みんな、やっとやる気になったらしい、庭のイルミネーション飾りが始まった。
そうだ、岩本の夢に渡らなくちゃ。
岩本は、DV妻から解放され、もう結婚はこりごりと思っていたようだ。
しかし、先輩の奥さんや子供さんが悲しむのを見たときに思ったのだとか。こんな素晴らしい家庭を築いた先輩はすごい。先輩の奥さんの哀しみも聞いてしまった。僕 で良ければ、先輩の代わりになれないだろうか。子供さんたちの前で笑ってあげられないだろうか。 でも、子供さんたちの反対が根強いようだし、今は顔を出せる状況ではないようだ。同居まで望むつもりはないし、別に籍を入れようとか結婚しようとかまで思わない。それでも、僕は先輩の奥さんが可哀想で、可哀想でならない。 年月を重ねれば哀しみは消えるのだけれど、楽しめるはずのいくつもの季節は、もう戻らないのだから・・・。
僕は夢の中で岩本にけしかけた。
フランス婚でいいじゃないか。入籍しないで同居する=おフランス婚だ!
純粋に相手を認め合う外国の結婚観もいいと思わないか?お前に秘策を伝授してあげよう。横山家の、あの家のトラ猫ショタを崇めろ。可愛がれ。ショタは将太。
子供たちは親父の生まれ変わりと思っている。だから、ちょっとショタが引っ掻いたくらいで怒るなよ。必ずやショタはお前に幸福をもたらすぞ。あ、ショタが好きな猫エサと玩具教えるから、買って行け。
坊主憎けりゃ・・じゃないな、なんだっけ、忘れた。まず周りを味方につけろというじゃないか。そんな感じの言葉、あったよな?どうも僕は諺に弱い。
翌日、その通り、岩本は買い物をしてきてくれた。・・・単細胞だったんだな、お前。僕はシメタ!とばかりに猫ベッドにゴロゴロ、ご飯ガツガツ。玩具に飛びつき岩本と遊んだ。何が悲しくて後輩と猫遊びせにゃならん、と思いつつ、家族のため。ガッツだ、僕!
ショタが懐いたおじさん。それが子供たちの反応だったようだ。ショタ=父親の生まれ変わりと信じていた子供たちは、岩本に心を許すようになってきた。
お互い手探りではあったけれど。
小夜子はまだ、今後を決めかねていたようだ。岩本は、籍を入れないフランス婚を提案した。自分は戸籍上の家族ではないけれど、みんなを支えたいと。
それを陰から聞いていた長男、穣司。早速パソコンで意味を調べたらしい。へえ、そんな形があるのか。なら、俺たちなんて呼べばいいんだ?憲明さんか?いいな、それも。
娘の星羅は、まだ実父の僕の事を引きずっていた。呼ぶならパパが良いけど、まだ呼ぶ気になれない。おじさんが良い人っていうのはわかった。ショタがあれだけ懐いているから。でもおじさん、独り暮らしなんだよね。独りのクリスマス、寂しいよね。
今度のクリスマスは、みんなでお祝いしよっか。
クリスマスイヴ。子供たちは揃って小夜子と岩本の前に出ると、僕を高々と持ち上げて宣言した。
「おじさんを、我が家のクリスマスにご招待します!」
岩本は涙を流して礼を言った。小夜子も、笑いながら泣いた。お前ら、泣くか笑うかどっちかにしろ。全く子供の前でみっともないったらありゃしない。でも、素直に嬉しかったんだと思う。僕は猫だから涙を流せないけど、胸にジーンと響くものがあった。
クリスマスを盛大に祝ったあとは、すぐに正月だ。今年は正月飾りを飾れない。僕が逝った年だから。
クリスマス当日、子供たちは小夜子と岩本のフランス婚を承認した。年末の忙しい中、岩本は横山家に引っ越してくるための準備に追われた。大晦日の除夜の鐘を聞きながら、やっと片付け終わったようだった。小夜子は、僕が使っていた部屋を使うよう勧めたが、岩本が断った。
先輩の在りし日々を忘れたくないから。子供たちが、何より貴女が僕に気兼ねなく接することができて、先輩が夢でOKしてくれたら、そうします、と。
うん、岩本、いい心掛けだ。とはいえ、暮らす部屋が無いじゃないか。リビングで寝るわけにも行くまい。子供たちの手前、小夜子の部屋には入れないだろう?恥ずかしいだろう?なら、僕の部屋を使うしかないじゃん。と、伝えたいんですが。僕は。
え?また夢に行くの?ジョーイの話じゃ人間の格好で夢に入るのは寿命使うとか。
仕方ない、岩本。お前の夢に侵入してやるよ。書斎を使え。その代り、僕を今後も崇めてくれ。
フランス婚はしばらく続いた。
小学校辺りでは父兄のお姉さま方が何やらひそひそやっていたようだが、小夜子は僕と岩本の二人に敬意を表していたので、噂など気にしなかった。
娘は何かもめて周囲から苛められると、こう嘯いて周りを圧倒していたようだ。
「知らないの?外国じゃ当たり前のことなんだって。うちの親、カッコいいから」
さすが小夜子似だよ、星羅。
中学校ではそんなこと話にも上らない。父兄の関心は、専ら、誰が何処の高校を受験するか、だ。横山家では、長男穣司は水泳部の有名な高校への進学を決めていた。
元々、背泳のタイムが良かった穣司には、県内外の私立校から続々とオファーが来た。
その中でも信頼のおける指導者がいる高校に決めた。寮生活になる。三年間、ほとんど帰ることもないだろう。
夢は、五年に一回開かれる世界大会の水泳の部で優勝することなのだそうだ。
そんなこんなで二年余りが経ち、娘が小学六年生になった。
僕も3歳になりました。
娘は、私立中学を受験したいという。小夜子は金銭的な面から、無理だと告げた。星羅は、がっかりした様子で部屋に引き籠った。
おい、小夜子、岩本。
受験させてやれ。
でもって、この機会に籍入れろ。結婚話とかそういうのになると、地方のジジババは五月蝿い。
「こんな時期にそんな話するもんじゃねぇさ」
これは12月と1月、3月、8月、9月に当てはまる。
十二月は師走で忙しいからだろうが、あとは弔いの月だからだろう。今は四月。丁度いいじゃないか。小夜子と岩本は籍を入れ、岩本が横山を名乗ることにしたようだった。
すげえ、自分の姓を捨てて僕の姓になるなんて。
なんかちょっとこう、しっくりこない部分もある。
夫の姓を名乗った妻と結婚し、妻の姓を名乗る。
ああ、わからなくなってきた。養子扱いなのか?やっぱりわからない。
っと、受験話がまだ収束してないぞ。引き籠ってぶーぶーしてるのかと思えば、星羅は必死に勉強していた。成績を見てもらって、私立中学校に行きたいことを実証するつもりのようだ。
僕は、岩本と妻にひたすらゴマをすった。
毎日のように、すってすってすりまくった。勉強の話になるたびゴマをすり「ニャー」、喧嘩をすれば仲裁に入り「ニャー」兎に角、鳴きまくった。
あるとき、岩本が呟いた。
「ショタがこれだけ鳴くってことは、将太先輩が認めてあげなさいって言っているのかも」
小夜子も、はっと気が付いたようだった。
「そういえば、ショタがこんなに鳴いたことなかったわね。そうなのかもしれない。将太さんなら、行かせてあげろって言ったと思う」
そうだよ、僕なら絶対に受験させる。
合格するかどうかは別として、チャンスがあったらトライするのが鉄則だ。
何もしないでタラレバするのが一番嫌な僕。さ、ご両人よ、腹を括れ!
結局、娘は私立中学受験を許され、それから猛烈に勉強しまくった。兄も遠くの高校にいて、猫の僕としか話せなかったし。僕を傍らに寝かせ、勉強に飽きたかと思うくらい勉強したようだ。
猫になったものの、僕は人間時代と変わらぬ時間帯で生活していた。朝の起床から始まり、朝食、昼も欲しかったのに猫は一日二回の食事で済むなんて言われて、昼抜き。夕飯も人間時代と同じ時間、就寝時間も同じ。時々、夜十一時頃、星羅の部屋から物音がする。
星羅の部屋いつでも明るかった。勉強もいいけど、身体を第一にしろよ。
そんな僕の願いも一緒に神様に届いたのだろうか、翌春、見事娘にも春がきた。
合格おめでとう、星羅。僕は一所懸命、星羅の頬を舐めた。
「ショタ、ありがとう、きっとお父さんも喜んでくれてるよね」
星羅は呟いた。
うんうん、今現在、リアルタイムでめちゃくちゃ喜んでます。言葉にできず残念です、はい。
人間男性でも三十歳を過ぎると余り自分の年など気にしなくなるものだが(あれ、僕だけ?)子供たちのそれと言ったら、あっという間に姿かたちが変わっていく。
時間の過ぎるのは人間たちばかりではない。僕はもう四歳になった。人間でいくと・・・成人か?青年?どっちかわからないけれど、身体は、るんるん調子。台所のカウンターから冷蔵庫の上に飛ぶのが趣味だ。
ひゃっほーっ!
あとは、本も読めるし、新聞もOK。家電プッシュボタンも押せる、話せないけど。あ!ちっちゃなコンパクトデジタルカメラならシャッター押せるようになった!僕はコンデジで世の中を捉えよう。そのくらいかな。さすがに重い家電は動かせない。掃除機とかね。あと僕でもできるような訓練を模索中だ。
星羅が中学に入学したと思ったら、次の年は穣司が高校二年生。五年に一度の世界大会水泳の部出場に向け、ひたすら練習に励む毎日だった。あちらの都合の良い時だけ、メールが来る。こちらからしても返信は無い。だから、好きにさせている横山家の面々。
高校のインターハイや国体などではそれなりの成績を残していたようだが。僕が穣司の成績を新聞で確認しようとすると、岩本の奴、乗られると思って閉じてしまう。
この・・・すかぽんたんがっ!!!
仕方ない。新聞入れからずりずり引き出し、床に広げて読むとしよう。彼の目標は、あくまで五年に一度の晴れ舞台なのだ。それに至るまでの栄光を、勇姿を、僕が見ないでいったい、誰が見る。まあ、家族はみな見ているが。
だから僕も見る権利があるんだ! と自分で自分を納得させて、新聞を読む猫になった。
小夜子も岩本も星羅も、びっくりしたようだ。
「ショタが新聞読んでる」
「寝てるんじゃないの」
「いや、活字を目で追ってる」
「まさか」
「字の読める猫っているの?」
「たぶん、いないと思う」
「すげー。テレビに出せる」
・・・出るか、アホ。
「無理だよ、喋らない限り読んでる事証明できないよ」
「そっか。残念だな」
「意味、わかってんのかな」
「いつもスポーツ欄開いてるよ」
「兄貴のこと、心配してるんだ」
「かもしれない。そりゃそうだ、可愛がってくれたし」
・・・いや、息子だから。
言いたい放題の三人は放っておくとして、だ。
今回は残念ながら世界を目指すことはできなかったようだけど、次があるさ、穣司!
イベントのない年は平和な横山家。
思い出したが、岩本の趣味はカメラだった。やもめ暮らしでお金持ちだったのね。
凄く高価なカメラやレンズを、何台も持っていた。う。羨ましい。
ああ、僕もカメラは嫌いじゃなかった。小夜子の手前買わなかったけど。岩本のカメラは外国産の超高級品と、国産メーカー2種。ふふふっ、カメラ好きな人は、どこのメーカーか当ててごらーん。
でもね、非常に残念なことがある。猫が近づいたら、カメラ内部に毛が入ってしまうような気がして、僕は書斎に行けなかった。どんなレンズをどのくらい所有しているか見たかったのに。
残念至極とは、こう言うことを言うのだろう。
で、岩本と小夜子はたまに旅行しながら、沢山写真を撮ってきた。岩本の腕前は相当なものだった。あのカメラを使うに相応しい腕、といったら失礼だけど。写真って、カメラが良いから良く撮れるのではないからね。被写体への想いが強ければ強いほど、良い写真が撮れる、と僕は思っている。岩本の、小夜子への愛がヒシヒシと伝わる写真だ。
小夜子、幸せ者だよ、お前は。
だから・・・岩本に「シワ写すな」というのは止めてくれ。お前の笑いジワ、本当に可愛いんだから。
それから五年が過ぎた。
五年の間に、僕は様々なことを修得した。まず、パソコンの入力。電源くらいなら指で「エイッ」と押せるのだが、キーボードの入力ができない。一所懸命考えて、方策を編み出した!指をすぼめて爪を出し、コツンと打つ。人間時代のように早くは打てないし長い文章も無理だ。しかし、ワンフレーズで言いたいことは伝わるはず!が僕の信条だった。
家族に内緒で岩本の書斎に入りこんだ。岩本は僕のパソコンに上書きしたくないからと、自分のパソコンを使っていた。僕がいくら使っても、誰も気づかないという寸法なのだ。
よっしゃー。練習するぞー!
テレビの録音や新聞読みなどお手のもの。スマホはダメだった。爪が引っ掛かり画面を流そうとすると液晶を壊してしまうのだった。猫にスマホを与える家もないから、実害は無かったのだが。
それにしても。光年矢の如し、だっけ?昔から諺に弱い僕。早いものだ、月日が過ぎてゆくのは。今年はイベント続きの年になる。まず、大学に進学した長男、穣司。今 年は五年に一度の世界大会がある。また、長女、星羅は大学受験。
かあああっ。
気が抜けないっていうか、心配っていうか。見てられないっていうか、でも指の間から見ちゃうっていうか。とにかく、心配で心配で眠れないショタパパ、九歳なのである。
娘は、見事第一志望の大学、それも法学部に合格した。桜は満開だ!
勉強した甲斐があったよね。夜も寝ずに頑張ったんだ。偉いぞ、星羅。星羅は合格通知を僕にも見せてくれた。
「ほら、ショタ。合格したよ。天国のお父さんにも伝えなくちゃ」
お父さんは、目の前で伝えられていますよ。合格祝いに、星羅の指をペロリと舐めてあげた。星羅は人間の父親に見せるような顔をして、嬉しそうに笑った。
おい、星羅。岩本にも合格伝えろよ。
お前、なんだかんだで、ちょっとあいつに冷たいだろう。あいつはあいつなりにお前を心配してフォローしているんだ。特に金銭面なんて、あいつが居なかったら子供二人私大なんて、無理っ!小夜子は稼ぐって言葉を知らないし。
少しはアルバイトでもして岩本を助けてやれよ、小夜子。
といってる間に、季節は移り変わり夏が来た。
あああっ。五年に一度の世界大会。緊張するっ。ジョーイが来ないかも心配だけど、それより穣司の方が心配だよ!
確か、穣司は今回も日本代表には選ばれたはずだ。試合は何時なのかな、また新聞見なくちゃ。で、人間たちに不審がられながら、またもや新聞記事をチェックする 僕なのだった。今回もテレビ中継するようだ。観なくちゃ。
星羅が夜中でも観てるはずだ、二階に行こう。
・・・あれ?ちょっと。上手く登れないんですけど。ふらつくんですけど。
その様子を見た星羅がいう。
「ショタ、もう9歳だからお祖父ちゃん間近だもんね」
なぬ?猫の九歳は祖父さんなのか?ちょっとショックが大きい僕。いやいや。猫の十一歳からだか十三歳からの缶詰あるだろう。テレビCMで観たぞ。あの年になったら祖父さんと自負するわい。とはいえ、体力が無くなってきましたー。ワンコのように散歩するわけでもないし。
というわけで。星羅が気を遣って、リビングのテレビを見せてくれた。テレビの真ん前に陣取って、僕は穣司を応援した。頑張れ!行け!もうすぐだ!もう少しだぞ!
結局、穣司は四位に終わった。メダルを逃して悔しかったことだろう。メダル候補と言われ、家にもマスコミが押し掛けていた。小夜子は答えられず、岩本が「すみません」とインタビューを遮った。
よし、岩本。グッジョブ。
穣司。今回は惜しかったな。残念だけど、この次にまた、行けるかもしれないじゃないか。要は、体力と気力だよ。
そんなことを思っていた僕。大会が終わると、珍しく穣司が家に戻ってきた。
「ショタ、元気だったか?なんだかしょぼくれたな」
「9歳だもん、もうお祖父ちゃんだよ」
星羅が僕に容赦ない言葉を投げつける。
「俺、水泳止めようかな・・・」
穣司が弱音を吐いた。
それでいいのか?今止めて後悔しないのか?僕は、穣司の前に香箱座りして、じっと穣司を見つめた。立ち上がった僕は穣司に近づき、ペロリ。穣司の頬を舐める。
「ショタ、ありがとう。悔いあるままじゃ終われないな。やるよ、最後まで」
僕の想いが伝わったのか、少し元気が出たようだ。そのまま彼は大学の寮に戻っていった。穣司の挑戦は続き、星羅も大事な時期に花を添え、夢を追っている。
僕自身、何もしているわけじゃないけれど、すごく満足だった。子供たちの成長がこんなに嬉しいなんて、思ってもみなかった。
また季節は流れに流れた。僕は十四歳。ヘロヘロ祖父ちゃん猫になった。でも、まだジョーイは来ない。まだ皆と居られると思えば、身体の不具合なんて気にもならなかった。
ただ、よく吐いた。苦しい時が結構あった。声が枯れて鳴くこともできなかった。
心配した星羅が、動物病院に連れて行ってくれた。ギャアアアアッ!熱を計るのに、体温計お尻から入れるな!
他にも、なんだかんだと検査された。何回も注射され、血液を採られた。
実は僕、小さな頃から注射だけは嫌いだったんだ。金輪際、病院は勘弁してくれ。
そうそう、今年は再び、五年に一度の世界大会があるのだよ。穣司はどうしているだろう。
星羅は大学院法学研究科とやらに進学した。どうやら法律を極めたいらしい。
二階には上がれなくなった僕。勉強するとき以外は、星羅から僕のところに来てくれる。
「ショタ、あたしね、司法試験受けようと思うの」
キョトン?
司法試験って、あの、凄く難しいって噂の、あの試験?
星羅、お前は昔からチャレンジャーだった。またしてもお前のチャレンジは続くんだな。僕が応援するよ。やりたいことを精一杯やればいい。
さて、夏を目の前に、僕はなんだかトイレが近くなった。水を飲む量も多くなった気がする。喉が渇いているのかな。今までになかった感覚だ。それでも、夏前だからだと自分を納得させ、水をがぶがぶ飲んだ。そうこうしている間に、五年に一度のドキドキシーズン。聖なる闘いの火ぶたは切って落とされた。
色々な競技があって日本中が声援に沸いたけれど、僕の興味は専ら水泳だった。長男は二十七歳を迎えていた。たぶん、これが選手生命最後の大会だ。どんな結果でもいい。穣司自身が納得する結果であれば。僕は前よりも低く枯れた声で「ニャ、ニャ、ニャ」と応援した。勿論、家族全員がテレビにくぎ付けだったし、メディアも何社か来ていた。
星羅がパンチを繰り出した。
「いっけぇ~、兄貴!」
最後の最後、三位決定戦はもつれにもつれた。僕は目も悪くなってきていたから、穣司が速かったのか、それとも相手だったのか見逃してしまった。たぶん、同時くらいだったのだと思う。
暫く順位の電光掲示板は動かなかった。
動くまで、どのくらい経ったのだろう。
ガッツポーズをした選手が目に入った。穣司なのか?僕はとっても心配で、家族たちを見た。みんな、ポカーンとしている・・・と、星羅が小さくガッツポーズを決めた。
勝ったのか?三位に入ったのか?どうなんだ?
結果は、タッチの差で四位だった。
悔しかっただろう。哀しかっただろう。でも、穣司は満足げだった。穣司の握り拳が、僕にはガッツポーズに思えた。
メダルは逃したけれど、家族は口々に健闘を褒め称え、メディア対応は星羅が行っていた。さすが法律家を目指すだけはある。堂々とした面持ちで兄の栄光を称え、他選手への賛辞も忘れていなかった。
成長したな、星羅。
試合後のインタビューで、現役を引退し、指導者として再出発する決意を表明した穣司。穣司自身は、故郷に戻りたかったらしい。高校で教鞭をとれる免許があったから、高校の水泳部コーチを希望しているのだそうだ。
久しぶりに、穣司に会える。僕の身体は今一つ動きが鈍い。ちょっぴり食欲もない。でも子供の凱旋に勝るものは無い。凱旋会場へは、星羅が連れて行ってくれた。「猫バッグ」なるものに入れられ、「会場内では大人しくね」との申し渡し。
はい。わかりました。
星羅が呟いた。
「ショタ、痩せたね」
うーん、体重計に載ってないからだけど、痩せたかな。そんな気もする。
次の年、穣司は正式に帰ってきた。
暫く学校の水泳部で教えた後、競技系のコーチになるかどうか決定するのだという。うん、今まで頑張ってきたんだ、その誇りを若い世代に伝えてやってくれ。
あ、忘れてた。今年は娘の司法試験があるんだった!気合が入ってる星羅。
絶対受かるからね、って僕に何度も言う。どうしてそんなに司法試験に拘るのか、僕には良くわからなかった。
ある晩のこと。リビングで眠る僕の横で、穣司が星羅に話しかけていた。
「親父の敵討ちか」
「そうだよ、絶対に許さない」
「そうだな、許さねぇ」
「今も、のうのうと暮らしてるんだよ。ひき逃げしといて」
「車そのものが見つからなかったからな」
「たぶん、海にでも落としたんでしょう」
ポン、と肩をたたく穣司。
「それでも、親父がいいって言う程度にしとけよ。優しかった親父だ」
「わかってるよ。ショタと同じ」
「ショタ、元気ないな」
「うん、腎臓悪いみたい。こないだ病院連れて行ったら、もう永くないって」
突然、星羅は涙を流した。あらら、こないだの病院は検査だったのか。痛かったもんな。そうか。もう永くないか。
ジョーイ、あの黒猫が来るのも間近か。
だけど、せめて、星羅の試験結果を聞くまでは此処にいたい。喜ぶ顔が見たいな。
猫だから、泣けない。
鳴けるけど、泣けない。
悔しい、死ぬってやっぱり悔しい。
家族と居られないって悲しい。寂しい。僕は悲しんでいる顔を見られたくなくて、まるっと蹲っていた。
その夜、ついにジョーイが来た。ジョーイに聞いた。
「もう行かなくちゃいけないのか?お願いだ。もう少しだけ待ってくれ」
「身体がもたないだろう、苦しくないか」
「もう少しだけ我慢させてくれ。娘の試験結果が知りたいんだ」
「わかった。結果がどうあれ、試験の合格発表の日、迎えに来る」
試験の発表日まで、あと一週間。僕は家族の皆にお別れを言わなければならない。
小夜子。子供たちを励まし育ててくれてありがとう。十五年間、よくやってくれた。君と出逢えて子供たちを授かり、本当に良かった。
心から礼を言うよ。
小夜子は寝相が悪いから夜は近づきたくない。すまない、小夜子。せめて、起きているときにと思った。台所で「ニャニャ」っと鳴いてお礼を言った。
岩本とケンカするなよ。あいつは大人しいから。大事にしてやってくれ。
星羅。ショタと呼んでいつも可愛がってくれてありがとう。十五年、ずっと一緒に居てくれてありがとう。僕のために、仕事を選ぼうとしているなんて知らなかった。
自分の幸せも掴むんだよ、それが僕の願いでもあるのだから。
星羅は、試験結果が発表になるまで落ち着かない様子だった。そうだよな、なかなか難しい試験と聞く。大丈夫、星羅ならきっと正義への道を切り開いていくさ。星羅が僕のためにリビングに座っていてくれる。星羅に寄りかかって、頭を膝に付けた。鳴きたかったけど、鳴けなかった。そのまま、星羅が動くまでそのまま、僕は膝にもたれていた。
穣司。目標のために何年も頑張ったな、お前の精神力は大したものだよ。父さんはお前を本当に誇らしく思う。母さんと妹を助けてくれてありがとう。
穣司は何か申し訳なく感じているようだった。自身が高校に行くまではあんなに元気だった子猫が、戻ってきたら病になってしまったからか。
そんなことはないさ、自分を責めるな、穣司。だんだんお祖父ちゃんになれば病気にだってなるもんだ。おまえ、帰ってきたときにはいつも抱っこしてくれたじゃないか。
水泳で鍛えた筋肉が、ムキムキで気持ち良かった。ムキムキの筋肉を、ペロペロと舐めて感謝の気持ちを表した。
岩本。悪いな、最後になって。横山の姓を名乗ってまで家族を支えてくれてありがとう。お前が居てくれたおかげで、皆が飢えることなく希望を持って前に進むことができた。小夜子が泣くこともなくなった。本当にありがとう。
猫のショタが亡くなっても、皆を支えてやってくれ。お前には感謝の言葉しか浮かばない。
本当にありがとう。
でも、少し悪戯してやろう。
今は皆から「お父さん」て呼ばれている岩本に。だから、足をカジカジかじってあげた。「ギャーッ」奴が悲鳴を上げたのは言うまでもない。
試験発表の前日、もう一度僕は家族四人の夢に飛んだ。猫のショタは本当に横山将太、つまり僕だったんだぞ、すごいだろう!その上で、みんなに礼を言った。ショタを可愛がってくれてありがとう。人間の横山将太も、猫のショタも、もうすぐ旅立つ。永遠のお別れだ。みんな、元気でいて欲しい。明るく過ごしてほしい。それだけが僕の願いだ。
小夜子も、穣司も、星羅も、岩本までが夢の中で涙を流し悲しんだ。
そうして、試験発表の日がやってきた。ジョーイが来るのが先か、星羅が来るのが先か。僕はドキドキしながら待っていた。先に僕のところに来たのは・・・。星羅だった。娘は、僕を抱っこして、辺りを燥ぎ回った。ああ、どうやら合格したようだ。
同時にジョーイが現れた。
「おい、行くぞ」
「わかった」
みんな、ありがとう。
僕は、最後まで家族を愛することができた、とても幸せな一生だった。
猫だったのがちょっぴり残念だったけど、猫だからこそ分かったことも多かったし。
さようなら、みんな。
僕は、家族みんなの顔を想い浮かべながら、今度こそ、永遠の眠りについた・・・。