叔父との取り引き
その日は、朝から雨が降っていた。
純白の服を着た奇妙な女が、濡れながら歩いていた。空も飛ばず、雨粒も除けず。足取りはひどく重かった。
その手に、小さな壺を大事そうに抱えている。
わたくしはカモだと狙いを定め、素早く奪い取って走り出した。
どうしても欲しかったわけではないけれど、白い服が癇に障ったから。
ひったくりで失敗したことはない。大抵の獲物は、魔法が効かないことに慌てているうちに、簡単に撒ける。
でも、女の反応は違った。魔法が効かないと気付くと、地面の棒切れを掴んで、自力で投げ飛ばしてきた。
回転する棒は、わたくしの足を絡めとり、激しく転倒させた。
「このあたしからひったくろうたあ、いい度胸じゃないか」
立ち上がるより早く、女に腕を掴まれる。初めの印象とは正反対の力強さで。
「そいつをお返し。お前さんにゃ、用のないもんだよ」
特に怒っている様子もなく、空いた手を伸ばす。隙を作るため、わたくしは黙って壺を返した。受け取るなり女は手を放し、その手でわたくしの頭に拳骨を落とした。
「っ!?」
生まれて初めての衝撃に、困惑した。
「いいかい。悪さをした子供は、みんなこうされるんだよ」
叱りつけた女は、そこではっと目を見開いた。はずみで頭の布が取れ、わたくしの漆黒の髪が露わになったから。
女はしばらく言葉もなく見つめた後、わたくしに穏やかな笑顔を向けた。
わたくしの息が止まった。
頭の中が真っ白になった。他人から、初めて向けられた笑顔に……。
逃げ出すのも忘れて、立ち尽くしてしまったわたくしに、女は壺の蓋を開けて見せた。中には、茶色と金茶、二色の二房の髪が入っていた。
「亭主と息子のさ。流行病だったから、全部焼かれちまってね。これだけ取っとくのが精一杯だった。ちょうど今、墓に骨を収めてきたところさ」
白い服は、喪服だったのだ。
女は何を思ったか、突然壺を力いっぱい投げ捨てた。
呆気に取られるわたくしの前にしゃがみ込むと、目を真っ直ぐにのぞき込んできた。
「あたしはノイエ。亭主と息子と、三人で下町で薬屋をやってた。今は一人だがね。お前さんの名前は?」
「――名前などない。ただ、罪と呼ばれていただけだ」
誰にもされたことのない質問に、誰にもしたことのない返事をしていた。
女――ノイエは、なおも質問を続ける。
「仲間は? お前さんくらいの子は、普通つるんで行動するだろう?」
「足手まといはいらない。一人の方が安全だ」
戸惑い続けたまま、わたくしは本音で答えた。人との『つるみ方』など、わたくしは知らない。
ノイエは手を伸ばし、躊躇いもせずに黒髪をくしゃくしゃと撫でた。
思いもよらない行動に、わたくしはただ身動ぎもできず硬直してしまった。目を見開いて、目の前のノイエを見つめる。
「お前さんは、他人に関心がないんだね。確かに一人でも生きちゃいけるが、その生き方は楽しいかい?
あたしは、遠ざけるより、好きになりたい。そうすりゃ、楽しいことは勝手に寄ってくるものさ。もっと気楽に構えりゃいい。生きるってのは、その程度のことさ」
気ままにそんなことを言ってくる。でも、わたくしには理解できない。できるはずがない。償うためだけの人生を強いられてきたのに。その全てを投げ出しながら、まだそこから一歩も動けずにいるのに。
わたくしの頑なな気持ちは伝わったはずなのに、ノイエはまたにっこりと微笑みかけてきた。
「どうだい、あたしのところに来ないかい? もちろんお前さんの意志で決めることだがね。だが、あたしゃ……」
言葉を切って、わたくしの両手を取って続けた。
「――薄情でも、生きてる方がいい」
その言葉に、わたくしはやっと気が付いた。
ノイエは、大切な過去を捨てたのだ。出会ったばかりの、未来を手に入れるために……。
「あたしと一緒に、来るかい?」
わたくしは、自分の両手を包むノイエの手を見つめる。
初めて自分の頭を撫でてくれた手――ただ、そのためだけに、わたくしは頷いていた。
ノイエが豪快に笑う。
「今日はついてるね。壺の代わりに娘を手に入れた。今から、あたし達は家族だよ。シン」
何のこだわりもなく呼ばれた罪という名前を、それほど嫌とは感じなかった。多分、ノイエが呼んだなら、何でもよかったのだと思う。
「何か、別の呼び名がいいかい?」
「――それで、いい」
「それじゃ、家に帰ろうか、シン」
ノイエはわたくしの手を引いて歩き出した。
雨に濡れて芯から冷え切った手は、氷のように冷たかった。
おしゃべりの仕方など知らない無言のわたくしに、ノイエは歩きながら楽しそうに話しかけ続ける。
どれくらい歩いただろうか。
いつの間にか、その手は温かくなっていた。
わたくしは、そこで初めて声を上げて泣いていた。
――これがわたくしの……あたしの欲しかったものだったのだ。
うとうとしながら、シンは眩しさに目をこする。
昔の夢を見ていた。ノイエと出会った頃の夢を――。
「――母さん!!」
一瞬にして現実に引き戻される。ガバッと起き上がって、現実がまた少し遠のいた。
「……何だってんだい、この扱いは……」
寝かされていたのは、最上級の羽根布団のベッド。シンの自宅全室を足したよりまだ広そうな、贅を凝らした一室だった。
ぽかんとして室内を見回す。
重厚だが機能性重視の机、大きな姿見、壁際を飾る風景画や花の生けられた骨董の花器。ベッド脇のキャビネットには銀の燭台と水差し。全体的に抑えた色調のファブリックは、趣味も居心地も良く、壁一面のガラス窓の向こうには、テラスと手入れの行き届いた庭園が見える。
間違いなく金のかかった客間だが、それを感じさせない、むしろ意匠に乏しいとさえ思える程シンプルで実用的な印象だった。この屋敷の主の人柄ががうかがい知れるようだ。
窓から見える限りでは、一階建築のようだ。機能性とは無縁の、どこまでもだだっ広く展開する一層構造の邸宅と庭園を持てる貴族は、数える程しかないはずだ。
その一点からだけでも、国内有数の大貴族の屋敷だと分かる。
不意に三刻を知らせる鐘の音が鳴り始めた。鐘の塔は王宮の敷地内にある。響きは、近くはないが、遠くもない。音から判断してここは、王宮の北側にある超高級住宅地の一つ、イメニア街区辺りのようだ。
「きゃあっ!?」
突然、扉の外から悲鳴と、ガチャンと言う破壊音が聞こえた。ベッドから飛び降りて、扉を開ける。鍵はかけられていなかった。
廊下には、割れたガラスと水を撒き散らしておたおたする、若いメイドがいた。出し抜けに現れたシンの姿に、目を丸くする。
「あら、お嬢様。お目覚めになったんですね。お加減はいかがですか?」
含みのない笑顔に、シンは拍子抜けする。いきなり『お嬢様』とは……。
「お嬢様は、もう三日も眠り続けていらっしゃったんですよ。私は主からお世話を申し付かりましたアリッサと申します。あ、危ないので、廊下にはお出にならないでください。すぐに片付けます。新しい水差しをお持ちしたのですが、うっかり集中力が途切れてしまったようで……申し訳ありません」
魔法が途切れた原因を目の前にして、弁解をするように謝る。どうやら、シンのことは主とやらから何も知らされていないらしい。
「あ、あら? 魔法が……どうしたのかしら……?」
ガラスを片付けようとして、魔法が発動しないことに戸惑う。このメイドからノイエのことを聞き出すのは無理そうだった。動揺するメイドを手で制する。
「あとでいいよ。それより、この屋敷の主人のことだけど……」
「あ、はい。ただ今お呼びします。お嬢様がお目覚めになったら、すぐお知らせするよう主に言われていますから。お部屋でお待ちください」
指示を思い出し、慌てて背を向けようとしたアリッサを、すかさず呼び止める。
「ちょっとお待ち。その主ってのは、誰なんだい?」
「は?」
「あんたの雇い主の名前」
令嬢然とした美貌の少女に不釣り合いな物言いに驚きながら、アリッサはあっさりと答える。
「内務卿セメト・ヌアク様ですが……」
「――セメト・ヌアク……セメト――」
現在その称号を持つ人物は、スウェネト国内でたった一人。産みの母アルファーシュの弟――シンの叔父だ。話に聞いたことはあるが、会ったこともない。
さすがにわけが分からなくなってきた。
連れ戻されたのでないことは確かなようだ。目覚めた場所が修道院ではないのだから。
一体叔父が、何の用があるというのか。眠り病から目覚めるまで自宅でメイドに介抱させて、あれだけのことをやらかしたシンを、拘束すらしていない。それは、ノイエの安否を確認するまでは、絶対に逃げないと分かっているということだ。
ヌアクは自分のことをよく知っているらしい。やりにくい相手かもしれない。
「そいつは、どんな男なんだい?」
「良い方です」
にっこりと即答だった。客人に主人の悪口を言うメイドもいないだろうが、それにしても他意がなさ過ぎる口振りだ。普通召し使いは、主人の嫌な面を一番見知っているはずなのに。
「本当ですよ。他の使用人に聞いていただいても、答えは同様だと思います」
アリッサはシンの疑念を読んで、説明を続ける。
「貴族のお客様は多いですから、比べるとよく分かるんです。傲慢で理不尽なところが少しもありません。国王陛下の弟君でいらっしゃるのに。やはり御苦労されている方は違うのでしょう。無口で怖そうに見えますが、とても物静かで怒ることのない方です。あの方への誹謗中傷や噂を気にする者など、この屋敷には一人もおりません。――あ、それでは、急いでお呼びしますね」
好きなだけ主人の賛辞をして、今度こそ足早に去っていった。
「――御苦労……?」
大人しく部屋に戻り、シンは古い記憶を手繰り寄せた。
王弟ヌアクは、先代の女王の末子。ただし、父親は未だ知れない不義の子だ。昨今の王室は罪の子が続くと、修道院長が嘆いていたのを思い出す。
世間の噂レベルでも、切れ者と評判が高い。大学時代に実際に接したという知人が何人かいたが、口を揃えていくつもの逸話を披露してくれたものだ。冷静、慎重、努力家、謙虚、秀才――聞いた限り、ほとんどが賞賛だった。
好かれないまでも、貴族が庶民に嫌われないこと自体、生半可なことではない。下級貧乏貴族ですら、一般庶民に混ざって通う大学での気位の高さは度を越しているという。極端な話、平民の教授に教えを乞うことすら忌避する貴族はざらにいたらしい。自分より身分が低いからと言うだけで。
メイドの躾に厳格さが皆無だったのも、貴族的でない。ほとんど仕事さえできれば、それでいいといった風情だ。
じわじわと嫌な予感がしてきた。普通の貴族が相手とは思わないほうがいい。
考えながら何気なく部屋を見回し、姿見の中の自分に目を留めた。髪の色が違った。自前の黒でも、いつもの灰白色でもない。輝くような美しいプラチナ。
「あたしに、何をさせようってんだい……?」
貴族の令嬢のような身なりで佇む自分を見据え、背後の扉の向こうへと問いかけた。
「その姿が、必要だった」
鏡の中に映ったのは、開いた扉から入ってきた長身の青年。
「あんたが叔父上ってわけかい?」
振り返って値踏みするように睨み付ける。思っていたよりずっと若かった。
嫌な予感は当たっていた。
静かで落ち着いた――まるで空気のような男だと思った。触れることも砕くこともできない。灰色の瞳は何も湛えない。何もかもを素通りさせるような、無色透明の印象。
何人にも侵されない倫理を超えた価値観。形も色も熱もなく、ただそこにあるだけの心。タブーを持たず、何物も畏れず、全てを躊躇わない――一目見て、シンはすぐに理解した。
自分と同じ種類の人間だと。
一切の油断を持たず、正面から向き合う。
「母さんを、どうした?」
「今は、丁重に預かっている」
「話を聞こう」
迅速に要求を求めた。小細工は効かない。何も感じない人間に刃物を突き付けても、顔色すら変えられない。癪だが、言いなりになることでノイエが戻るなら、それも一つの解決策だ。シンにもタブーはないのだから。
「今は、シンと名乗っているそうだな」
ヌアクも余計な話はせず、すぐに本題に入る。
「レシオス座のポスターを見る機会があった。すぐにお前だと分かった」
「……」
シンは怪訝そうに眉根を寄せる。下町の仲間達にからかわれた新公演のポスターには、確かにシンの絵姿が描かれている。
しかしヌアクと面識はないはずだ。いや、仮にあったとしても、子供の頃とは外見も雰囲気もずいぶん変わっている。成長後の絵などで、どうして昔の自分と結びつけられるのだろうか。
ヌアクは机に歩み寄った。シンは気付かなかったが、その上に置いてあった一枚の絵を手に取り、シンに見せる。
「――!?」
シンの肖像画だった。しかし、その髪の色は今と同じプラチナで、華やかなドレスに身を包み、優雅な微笑みを湛えている。
「メネイオス陛下のお世継ぎ、ヴァイシャ王女だ。お前の従姉妹に当たる」
――ヴァイシャ!
シンは目を見張った。樹海の二人組が間違えた相手。本当に造形だけなら自分自身を見ているようだ。
ヌアクに探し当てられたのも、やっと得心がいった。
腹立ちに、唇をかみしめる。とんだ落とし穴があった。
世間と隔絶された修道女以外、自分の容姿など誰も知るはずがないと、深く考えていなかった。まさか自分と従姉妹がこれほどまでに酷似していようとは。
そんな顔をやすやすと舞台で晒していた自分の迂闊さに腸が煮えくり返る。
そんなシンをよそに、ヌアクは淡々と説明を続ける。
「十四日後、私と婚姻の儀を執り行い、スウェネト国王となられるご予定だったが、何らかの陰謀に巻き込まれ、行方不明となられた」
ようやく謎が解けたシンは、ヌアクを睨み付けた。
「つまり、ヴァイシャの替え玉ってわけかい」
ふつふつと湧き上がるやりようのない怒りに、拳を握り締める。
「ふざけるな! 人を散々罪だ何だと修道院に押し込めて出生すら公表しなかったくせに、ヴァイシャがいなくなったからって、今度は代わりに王にでも仕立て上げようってつもりかい!? あたしのことを一番忌み嫌っていたのは、あんたら王族じゃないのか!? あたしが今の生活を手に入れるまで、どれだけっ……」
激昂のあまり、言葉が続かなかった。
昔の恨みなどどうでもいい。こんな王家のゴタゴタに、何の関係もないノイエを巻き込んでしまった事が、許せない。
いや、駄目だ、落ち着け……必死で心を静める。なんとしても、ノイエを奪い返さなければ。
やっと手に入れたあの手の温かさ――ほんの少し手を離しただけで、もう一人の自分が節々に顔を出す。もう二度と、息をするだけの人形に戻るつもりはないのに。
頭の中で話を整理する。
一番の問題が、ヴァイシャの行方不明。ヌアクの話を全て信用するつもりはないが、丸っ切りの嘘とは思わない。神々の庭の入り口に落ちていた王家の首飾りを思い出した。ヴァイシャが発見されれば全て解決となるだろうか。
ノイエともども口封じされる可能性も忘れてはならない。
「行方不明と言ったね? ヴァイシャが見つからなかった場合は、どうなるんだい?」
「見つかるまで、続ける」
「見つかる保証でも? そもそも生きてるかすら怪しいもんだ。あたしはあんたの栄達に一生を捧げてやるつもりはないよ」
頭をフル回転させながら、ヌアクに追及した。
「そもそもこの手際の良さはなんだい? 王女の行方不明なんて大事件を、そうそう隠し通せるものか? その間に身代わりのあたしまで探し出した対応も、迅速過ぎて不自然だ。自分で姿をくらましたのか、誰かに誘拐されたのか、それとも暗殺でもされたのか……あんた、真相を――あるいは犯人を、知ってるんじゃないのかい? 事件を公にしないで、あたしをすり替えて穏便に済ませようってことは、かばわなきゃならない相手ってことかい? 本心は、ヴァイシャが戻ってくるなんて、考えてないんだろう?」
一つ一つカマをかけながら、ヌアクの反応を細大漏らさずうかがってみるが、やはり読み取れるものは何もなかった。
実際はかなり核心をついた推量だったが、ヌアクはそれを教えるつもりはない。
「ヴァイシャ殿の不在に気付いた侍女のキーアが、大事に至る前に私に助けを求めた。私はヴァイシャ様のお立場を守るため、それに応じただけだ。ヴァイシャ様の安否は現在密かに確認中だ」
「手掛かりさえあれば、あんたはヴァイシャを捜すのかい?」
シンの言葉に、ヌアクは初めて反応を見せた。
「どういう意味だ」
「ヴァイシャの所在地の手掛かりを知っている」
用心深く観察しながら、カードの一つを切る。
「ある場所で、スウェネト王家の紋章の首飾りを見つけた」
「それがヴァイシャ様のものだとでも?」
ヌアクもすぐには食いつかなかった。彼自身も、シンが同類であることは知っている。ノイエのためならどんな嘘でも真顔でつくだろう。余程の信憑性でもなければ、鵜呑みにできるものではない。
「純プラチナ製。宝石類は一切ない。三十センチほどの長さで、翼を象った横幅十センチ足らずの台座に、王家の紋章を彫り込んだシンプルな奴だった。値段だけで言えば、素材がプラチナだけだから大した価値はなさそうだが、細工の技術は精緻を極めた、芸術品レベルだ……まだ続けようか?」
「それは、どこにあった?」
質問が、ヌアクの答えになった。それはメネイオスに指示されて、数年前に二つだけ造らせて献上したものだ。メネイオスは王宮の外には出ないし、失くしたり盗まれたりすれば、ヌアクの耳に入る。
ヴァイシャの物に間違いなかった。
一般人としてのシンの行動範囲で見つかったということは、そのどこかに、ヴァイシャの避難先、或いは死に場所があるということになる。地域が絞られるなら、どんなに生存の確率が低くとも骨を折る価値はある。
「教えるのは構わない。だが、仮にヴァイシャが戻ってきたとして、その後のあたし達の無事は保証できるのかい? 口封じなんて御免だよ」
「あえてお前に危害を加えるつもりはない」
ふてぶてしい物言いで安全を確認するシンに、ヌアクは感情もなく答える。
「お前が修道院から逐電した時、陛下は探索を望まれなかった。逃げたなら逃げたでいいとお考えになったのだろう。今回は危急の折ゆえやむを得なかったが、もはやお前には関わるまいという陛下の御意志を蔑ろにするつもりはない。もしヴァイシャ殿がお戻りになったら、二度とお前には関わらない」
「母さんの安全は?」
「お前と関わりを断つということは、ノイエにも手を出さないということではないのか?」
「――母さんが無事に帰ってくるなら、あたしも他のことはどうでもいい」
シンはなんとなく納得した。ヌアクの言葉を疑わなかった。
ヌアクは誰よりも自分を理解している。そして、自分もヌアクを――。
初めて会話した相手なのに、それが分かる。
シンにとっての最大のタブー――ひとたび不用意に犯せば、どんな結果をもたらすか。全て承知の上で、自分と対峙しているのだ。
ヌアクを信じる気は更々ないが、そのラインの見極めを誤る男でない事は確信した。
「教える替わり、母さんに会わせろ」
「いいだろう」
予想外の即答。文句があるわけではないが、思わず拍子抜けした。この男は、本当に自分と言う人間を理解しているのだ。この要求が通らない限り、指示通りに動く気がないことを見透かしている。
「すぐに対応する。教えてもらおう」
「……第三街区の二条通りを西にまっすぐ進んで、『神々の庭』に突き当たった辺りだ。ちょうど森との境に落ちてた」
素直に拾った地点を伝えた。
ヌアクは頭の中の地図で、大体の見当をつける。
言われてみれば、なるほど、ヴァイシャらしいと思う。そこなら人目に触れる心配もない。この禁域に近付けるのは、神意を畏れないヴァイシャや、初めから魔力を持たないシンくらいのものだ。
しかし人が近寄らない場所だけに、誰かに救助された可能性が果てしなく下がったのは否めなかった。
そんなヌアクの思考を読んだわけではないが、手掛かりは多いほうがいいかと、シンは更に続ける。
「あと『庭』で、外国人の二人連れに会った。あんたに捕まる半刻前ぐらいに。ヴァイシャと間違えられたが、この件とは関りはあるかねえ?」
「他にも人の出入りがあったのか? それも、ヴァイシャ殿の既知の人物?」
「ああ、親し気な感じだった」
さすがのヌアクも、それには眉根を寄せた。ヴァイシャの逃亡先に、ヴァイシャの知人。そんな偶然があり得るだろうか。追手ならまだ分かるが、親しげな外国人だという……。つまり、王族や貴族にほぼ限られるはずだ。今、来訪している賓客の誰かだろうか?
「ヴァイシャ殿が行方知れずとなった翌晩だな。特徴は?」
「二人とも男で、年はあんたと同じくらい。金髪に緑の瞳がリョーアン、薄い紫の髪と瞳がイーライ。見たこともないような服装だった」
「心当たりはないが調べてみよう。他に『神々の庭』でヴァイシャ殿に繋がるような手掛かりは見なかったか?」
「『庭』の中というか――」
言い淀むシンに、ヌアクは先を促す。
「言ってみろ」
「多分『庭』の、真上――だったんだと思う。雲の上に、誰かいた」
「雲の上?」
さすがに虚を突かれて、聞き返す。
「雲の上に、白い建物が浮いていた。その中に、確かに誰かいたんだ。――って言っても信じられないだろうけどさ」
「信じよう。嘘の必然性がない」
事も無げに受け入れられて、逆にシンの方が唖然とする。実際に目撃したシンですら馬鹿げた話だと思っているのに、それをまさか聡明で名高いヌアクが鵜呑みにするとは思いもしなかった。
ヌアクの判断基準は明快だった。嘘ならもっとうまい嘘をつく。見たというなら、実際そこにあったのだろう。
シンとは違い、いもしない神の存在など一片たりとも疑わない。この世界の人間にできないことなら、単に別の世界の人間がいたというだけのことだろう。現にシンも、血の半分はそうなのだから。
とはいえ、さすがにそこまでは話の広げ過ぎだろう。空の上にいるという未知の世界の住人に幾何かの不安要素は覚えるものの、そこまでヴァイシャとの関連を考える必要はない。
差し当たっては、二人の異国人の探索に的を絞ることにした。
「他にないなら、私は仕事に戻る。案内を付けるから、この部屋で少し待て。ノイエに会わせた後、お前を王宮へ連れて行く。その後のことはキーアに任せてある」
ヌアクは相変わらず淡々と必要事項だけを言い渡し、用件が終わるなり部屋を後にした。
残されたシンは、足音が消えるまで、閉ざされた扉を眺めていた。
どっと気が抜けた。ベッドに腰を下ろす。思ったていたよりずっと張りつめていたようだ。まるで自分自身と対峙しているようだった。
今後のことを考えると、気が遠くなりそうだ。
ノイエと会えても、連れて脱出できるような隙など、あの男は与えてはくれないだろう。可能なら、腕に抱えて、それこそ外国まででも高跳びしてやるところだが。
ヌアクと結婚してヴァイシャとして王位に就く未来は、逃げない限りほぼ確定事項なのだと思うと、さすがに気が重い。
それより、ノイエと会って、何を話せばいい? こんなことに巻き込んで、言い訳する言葉もない。
今まで頑なに口を閉ざしてきた自分の秘密を、話すことになるだろう。
どんな過去があっても、動じるようなノイエではない。心配なのは、大人しく人質をやってくれるかだ。娘の今の状況を知って、おめおめと監禁の身に甘んじてくれるだろうか。この自分を育てた母だけに、心配は尽きない。
脱出や反抗で無茶をされるよりは、安全第一で静かに迎えを待っていてい欲しいのが正直なところだ。
たとえ何か月、何年経とうと、必ず助けに行くのだから。
今は自分も雌伏の時。ノイエを連れて、再び自由の身になるまではなんだってやってやるさと、頭の中で何通りもの起こりうる事態を思い描く。
何が起ころうと、肚はとうに決まっている。