無情の罪人
残酷描写あり
その日は朝から雨が降っていた。
わたくしがスラムに住み着いてから、すでに二年近く。
相変わらず一人で、根城を転々としていた。
今は割のいい仕事をするために、王都の外れの『神々の森』へ向かうところだった。人目を避けるため、わざと雨の日を選んだ。誰も立ち入らないこの禁域は、わたくしのお気に入りの場所というだけでなく、金目の物の宝庫だった。
ここで入手した動植物は、スラムのブローカーに高値で売れる。
元手のかからない商品を仕入れるため、半日の距離を苦も無く歩き続けた。
仕事の要領を覚え、生活の質は日を追うごとによくなっていく。今ではお腹を空かせることもない。
警吏に追われることはあっても、修道院よりははるかに自由な生活だ。――けれど、それだけだった。
今は分からなくなっていた。
永遠に続くだろう、孤独な人生。修道院の頃とどこが違うのか。
これがわたくしの求めていたものだったのだろうか。
壁の外に出れば、何かがあると思っていた。それはただの錯覚だったのかもしれない。
自分が何を欲しているのかも分からない。ただ、これは違うと思うだけだ。
――結局この世界のどこにも、わたくしの居場所などなかったのか……。
奇妙な女と出会ったのは、ちょうどその時だった。
「――なんで、生きてるんだ……?」
神々の庭の入り口にしゃがみ込んだまま、シンは茫然と自問した。
雲の上から真っ逆さまに落ちたはずだった。
――これが神罰か。このまま地面に叩き付けられて死ぬのか。遠のく意識の中でそんなことを思いながら、気が付いたらこの場所で寝そべっていた。
助かったのだから、多分また魔法を使ったということだろう。
今まで一度も使えなかった魔法が、今夜二度も発動した。その理由を考えてみる。
たった二つの例では検証しきれないが、どちらもシンが身の危険を――もっと言うなら、心の底から恐怖を覚えた瞬間に起こった現象、と考えていいだろうか。
振り返ってみれば、今までの人生で何かに死ぬ程恐怖したことなどない。今夜に限って魔法が使えたのも、それなら納得できた。
再び忍び寄ってきそうな不安を押し殺して、恐る恐る空を見上げる。
「あれは、いったい何だったんだ……?」
三つの赤い目に、四本の腕――その顔かたちまではっきりと思い出せる。
反射的にあれが神かと思った。だからこそ死を覚悟したのに。己が背いてきたものが全て真実なのだとしたら、むしろ必然なのだろうと。
「でも、あたしは生きている……」
確認するように、自分の掌をまじまじと見つめた。
唐突に、馬鹿馬鹿しくなった。今まで何に怯えていたのか、本当にそれだけの価値があったのか――拍子抜けだ。
空の上のあれらが何であろうが、結局のところ、自分には何の手出しもできなかったのだ。雲の上から落ちてすら無事でいる身が、訳の分からないものに怯えている図は、むしろ滑稽だった。
一旦は覚悟した死から免れたことで、すっかり開き直ってしまった。
「ふふ、あははははっ」
なんだかおかしくなって、大の字に転がって大声で笑った。
なんて夜だろう。今まで生きてきた全ての価値観がひっくり返ったようだ。
樹海で出会った謎の二人組を思い返すと、心がざわめいた。あのまま連れて行かれたら、どうなっていたのだろう。
首を激しく横に振り、その考えを振り払った。
もう二度と会うことはないのだ。忘れるのが、一番いい。
心のどこかにぽっかり穴が開いたような気分を、気のせいにして。
「――あれ? 何だい、こりゃあ?」
伸ばした手に、堅い物が触れた。草むらに鎖が見え隠れしている。何かの装飾品らしい。
手に取って、目にした瞬間、思わずぎょっとした。
それはプラチナの首飾り。それも、スウェネト王家の紋章を象ったものだった。
「――冗談じゃない!」
慌てて投げ捨てた。厄介事に巻き込まれるのは御免だ。詮索しようとも思わない。
すぐに立ち上がり、逃げるように走り出した。
こんな夜遅くでは、たまに空を飛ぶ人影はあっても、地面を行く者などはいない。別段人目を気にすることもなく、自宅までの十キロ近くを苦もなく走り抜けた。
商店街に入る辺りで、さすがに立ち止まる。すでに国中が眠りについている時間だが、念のため頭に手拭いを巻いて、注意深く警戒しながら進んだ。
ノイエ薬局の看板が見えたところで、足を止めた。締め切った窓の隙間から、微かに灯りが漏れている。一階は倉庫兼薬品調合室だが、こんな深夜に作業しているはずはない。
「遅くなるから先に寝といてって、言ったのに」
怪訝に思いながらも、いつも通りにドアを押し開けた。
「ただいま、母さ……っ!?」
中に入りかけた足が、そこで止まった。
男三人、女一人、計四人の見知らぬ訪問者が、ノイエの代わりにそこにいた。
彼らは入ってきたシンを確認して、一斉に緊張した気配を走らせた。
来るべき時が来たのか――常に覚悟だけはしてきたシンは、即座に油断なく部屋中に視線を走らせる。
ノイエの姿はどこにもなく、荒らされた室内の様子が、激しく争った痕跡を示していた。
シンの顔からスッと表情が消える。後ろ手に扉をそっと閉め、四人を一通り見据えた。
「誰だ、お前達は。母さんをどうした」
抑えた声で問い質す。招かれざる訪問者達の方が意外に思う程の、冷静な反応だった。
シンに逃げ隠れする意思はない。ノイエの無事を、まず確認しなければならない。
頭の芯が急速に醒めていくのを感じた。すでに心の中で戦闘態勢は完了している。
「母さんに下手な真似したら、全員ただじゃすまないよ」
静かな口調だが、ハッタリではなく警告である。
「当方で丁重にお預かりしております」
女が事務的に答えた。
目線一つ見逃がなさいつもりで観察するシンは、その女だけ毛色が違うことに気付いた。上品な物腰に丁寧な喋り口――貴族の側近くに仕える者のそれだ。側近か秘書、侍女といった辺りだろうか。いずれにしろ表の社会で生活する普通の人間。
一方三人の男達は、人知れず陰で生きる側の人種に見えた。身のこなしに無駄がなく、鋭い気配から手慣れた印象を受ける。
どうもおかしいと感じた。もし自分を連れ戻しに来た連中だとしたら、実戦で役に立たない普通の女を連れてくるはずがない。まして、ノイエを丁重に預かる必要などない。――シンを育てた罪で、罰されることはあったとしても。
「あなたが、シンですね?」
女の問いに、シンは確信した。
彼らは、予測していた相手ではない。もしそうなら、手拭いから垣間見える黒髪の自分に、そんな愚問は発さない。
普段から灰白色の髪をした、一般人のシンに用があるということらしい。とすると、さすがにここまで剣呑な真似をされる心当たりが、全くなかった。
「だったら、どうだっていうんだい?」
男達が自分の周りを取り囲み始めたのを静かに確認しながら、問いかける。
「まずあなたには、私共とある場所まで来ていただきます。大人しく従ってくださる限り、絶対にあなた方に危害を加えることはないとお約束します」
「ふん、すでに力尽くで連れて行こうって構えじゃないか」
「お好きな方をお選びください」
女が型通りに決断を迫る。
「連れて行け」
シンは欠片ほどの動揺も見せず、即答した。選ぶも何もない。シンの取るべき行動は、初めから決まっている。彼らは、ノイエをさらっていった者達なのだ。
女は頷き、シンの背後に立つ男に付いていくよう促した。向きを変えたシンの両脇も固められたままで、その後ろを女が塞ぐ形になった。
「参りましょう、くれぐれも行動は慎まれるようお願いします。その限りは、人質の無事は保証いたします」
女の忠告に無反応のまま、歩き出した男に続く。周囲の位置関係と体勢、体格を確認しながら。
動いたのは、先頭の大柄な男が、扉に手を伸ばした直後だった。
一番無防備だった女の鳩尾を後ろ蹴りで吹っ飛ばした。男三人が対処に動くより早く、反動に乗って右側の男の顎を蹴り上げる。後ろに半回転した勢いで、左側の男の鼻に裏拳を叩き込み、振り返った先頭の男の顔面に、頭突きで体ごと飛び込んだ。頭の手拭いが落ち、黒髪がふわりと宙に舞う。
ほんの瞬く間、声を上げる余裕も与えず、流れるように四人の敵を一気に沈めた。闇のような黒髪を振り乱し、立ち上がろうとした一人の後頭部を遠慮なく踏みつけて、完全にとどめを刺した。
その激しい行動とはあまりに不釣り合いな、まるで能面のような表情で。
「さて、母さんの居場所を教えてもらおうかね」
息も切らさず、淡々と次の作業に入った。
自分からノイエを奪おうとする何人にも従う気はないし、その必要もない。力尽くで奪い返すのみだ。
普段用の顔が消え、もう一人のシンが顔を出す。
意識はあるものの動けない女は、苦痛と狼狽の色をその目に浮かべ、ただなされるままに見ているしかない。
シンは無言のまま、三人の男を柱の元まで引きずり、倉庫の縄と小鉈で、手早く縛り上げた。女だけ、柱には繋がず、傍らに転がすように拘束する。
「……な、何を、する、つもりですっ!?」
横たわったままの女は、咳き込みながら呻いた。
「あんた、名前は?」
全員が意識を戻すのを待って、シンはようやく口を開いた。口を噤む女の顎を乱暴に掴む。
「名前を訊いてるんだよ。あんたの」
その声は、どこまでも冷ややかだった。
「……キーア」
寒気を覚えながら、キーアは一言だけ答えた。その顔に、シンは見覚えがあった。
「見た顔だね。あんた、今朝、店の前を歩いて通り過ぎていたね?」
キーアの顔色がさっと変わる。図星だった。まさか、通りすがりの顔を全て覚えているのかと、その記憶力と観察力に慄然とする。
「つまりあんたは、あたしの確認役か。朝のは下見ってわけだね。あんたの主の差し金かい? まさか貴族に仕える身で、こんなふざけた真似を独断ではしないだろ。この容姿か能力か、技術か、記憶か――いずれにしろ、あんたの主はあたしの何かを必要としてるってことかい? 人質を取ってまで無傷で連れてこうってくらいだから、少なくともあたしに害を与えようってことじゃないね? あたしでなければできないような何かをさせるつもりってとこか?」
抑揚のない口調で次々と言い当てていくシンに、キーアは顔色を失っていく。母親をさらわれたにもかかわらず、動揺するどころか、表情一つ浮かべない目の前の少女に、言い知れない不気味さを覚える。恐怖と言い換えてもいいだろう。
ヌアクの指示により、やむを得ず関わった仕事だったが、まさかこんな事態に陥ることになるなどと、思いもしなかった。
気の進まない悪役など、早々に片付けたかった。シンのことも、魔法障害があるだけの普通の少女だと、疑ってもいなかった。顔が似ているだけでこんな厄介事に巻き込まれようとしている気の毒な一般人だと、同情すらしていたのだ。
しかし実際に接したシンは、明らかに普通ではない。零れ落ちた黒髪にまず驚いたが、それ以外も尋常ではなかった。行動力、判断力、洞察力に運動能力、頭の回転、全てが異常だ。
そして何より、さっきから魔法が全く使えなかった。いくら集中しても、縄一本切ることができない。
一体、何が起きているというのか。
その瞳に次第に募っていく恐怖の色を観察しながら、シンは頃合いを見計らっていた。脅すなら荒事に慣れていないキーアが一番扱い易い。
「それじゃ、一番肝心なことに答えてもらおうか」
見定めてから傍らにしゃがむと、キーアを引き起こして同じ高さに目線を合わせた。
「母さんは、今どこにいるんだい?」
キーアは目を逸らした。ヌアクの邸に送り届けられたはずだ。
「――知っているね?」
その反応から、逃さず見抜く。もう一度同じ言葉を繰り返した。
「母さんはどこにいるかと訊いてるんだよ」
だんっ!!
質問の直後、奇妙な音と振動が起こった。
ぴちゃっ、っと、生暖かい滴が頬に跳ねる。
キーアはシンを見て、目の前の光景に愕然とした。
「うわあああああああっ!!!」
目の前の男が、形容し難い絶叫を上げた。
キーアは恐怖のあまり、悲鳴も出せない。シンが男の右足の甲に、眉一つ動かさず鉈を振り下ろしていた。
シンは切断された男のつま先を靴ごと摘み上げ、キーアの鼻先にかざした。
「ひっ……」
目の前に突き出された白磁のような腕を、鮮やかな赤い筋がいくつも伝い、肘の先から雫がぽとりと滴り落ちた。キーアの息が止まり、がたがたと体を激しく震わす。
他の仲間二人も、正視出来ずに目を背けた。
シンだけが平然として、キーアの顔をのぞき込んだ。
「あんたもひどい女だねえ。一言答えりゃ、こいつも痛い思いをしないですんだのにさ、こんな風に」
だんっ!!
もう一度、十センチ程、奥にずらして鉈が振り下ろされた。足首から踵にかけて、刃が埋まっていた。
さらなる絶叫が、キーアの耳に突き刺さる。
「うるさいねえ。夜中の騒音は近所迷惑だよ」
シンは落ちていた手拭いを掴んで、男の口に無造作に押し込んだ。そして何事もなかったかのようにキーアに向き直る。
「スペアはあんたを含めて、まだ三人いる。こいつが死んだって、あたしは一向に構わない。――それじゃ、反対の足行こうか」
「こ、この、悪魔……!!」
堪り兼ねたキーアは、引き攣った顔で非難した。
「今頃気付いたのかい? あたしはガキの頃から知っていたよ」
答えたシンの眼には、熱さも、そして冷たさすらも宿ってはいなかった。全く温度を持たない、まるで人形のように無機質な瞳――キーアは不意に誰かとイメージが重なった気がしたが、思い出す余裕のないままに掻き消えていた。
ほんの昨夕、人を殺したことを思い出す。突き立てた懐剣の感触に、気を抜けば恐怖と罪悪感が絶えず心を襲う。そういう感覚を、目の前の悪魔は持っていないのだ。
本当にやる。何の感情もなく――その温度に思い知る。
実際、今のシンには、何の感情も湧いては来なかった。大切なことはノイエと取り戻すことだけ。それ以外はどうでもいい。
拷問をする前に、必死で考えたのだ。
キーアはノイエを人質と言った。つまり人質として価値のあるうちなら、手は出されない。
一方、今分かっていることは、シンを確保するグループと、ノイエを監禁するグループの連絡が、絶たれていること。何故ならシンが帰宅した時点で、魔法による通信手段は断たれるから。
だったら、自分に割かれたチームは、今、潰して構わないと判断した。その惨状は、敵の本拠地にすぐには伝わらない。現状は、ノイエ薬局でシンの帰宅を待っている状況と思われているはずだ。
だから、これは時間との勝負になる。連絡が断絶した状況に気付かれる前に、ノイエの元に駆け付けなければならない。危害を加えられる前に、一刻も早く。
そのためなら、最も効果的な手段を躊躇う理由はない。
決断を下した時には、もう何も感じなくなっていた。肉を断つ感触も、跳ね返る血飛沫も、誰かの苦悶の絶叫も……。
きっと自分はどこか、壊れている。それで構わないと思う。
ノイエは自分が守ると、心の中で思う度、強さが泉のように湧いて出る。
世界中でたった一人きりだった自分に、初めて手を差し出してくれた人。シンの世界の住人は、シン自身ではなくノイエだけ。
拾われたその日から、何もない心の中をずっとノイエが照らし続けている。この世界を守るためなら、何でもできる気がした。ノイエだけが世界の全て。
ノイエをまた世界の中心に引きずり戻すためなら、この手が血にまみれたとしても、それは正当な手段に過ぎない。過程で、辺りの小さな虫を踏み潰そうとも、心が痛むことはない。それはシンの知覚外の出来事。
そもそも心がないのだ。心の真ん中の定位置が、空席の今は。
「それじゃ、もう一度訊こう。母さんは、今どこにいる?」
いっそ優しいほどの口調で、三度目の問いを投げかけた。キーアは項垂れて、力なく口を開く。
「もう……もう、おやめなさい。あなたの質問に答えます」
もっと早く決断するべきだったと後悔しつつ、キーアは独断で決めた。シンが勘違いするのも無理はないが、この男達と自分では主が違う。ヴァイシャの命令なら死んでも守るが、ヌアクに命懸けの忠誠を誓ってなどいない。ヴァイシャが何といおうと、ヌアクが信頼に足る相手だとは思えなかった。
「ノイエが今いる場所は……シン……?」
そこでキーアの瞳が怪訝そうに曇る。
「なっ……!?」
シンは、あまりの事態に二の句が継げなかった。体ごとぐらりとかしいで、がくりと膝をついた。
眠り病だ。
「なんでっ……なんで、今なんだっ……」
ヒステリックに金切り声を上げた。
今でなければ、今夜中でなければ駄目なのに!
己の不甲斐なさが許せない。
――いや、必ずこの手に取り戻す。何をおいても。
必死で意識を保とうと努めながら、しかしすでに両手は地面についていた。
「もし、母さんに、手を……出したら……お前ら、全員、殺す……かな、ら、ず……」
声を振り絞るように凄むが、とうとうその意識は闇の中に滑り落ちていった。
「そんな、いくらなんでも、それは無理です! あの少女は、私の手には負えませんっ」
ヌアク邸の執務室で、キーアは部屋の主に訴えた。まだ腹部がズキンと痛む。
「確かに並みの少女ではありませんが、ただの下町娘でしょう。数日で貴人の振舞い方を身に付けさせるなど不可能です」
必死で説得を試みる。
今日は散々な日だった。無関係な少女の拉致に一枚かまされ、予期せぬ反撃にあって蹴り飛ばされ、スプラッタ紛いの惨劇まで拝む羽目になって……。
その上その惨劇の主人公の世話係を言い渡されるとは。それもたった数日間で、ヴァイシャとして振舞えるようにしろという。
「この少女ならできる」
一方のヌアクは、相変わらず淡々とした様子で断言する。
「作法や儀礼知識は問題ないはずだ。お前は、ヴァイシャ様としての立ち位置や知識を授ければいいだけだ」
事も無げに言ってのける。キーアは気が遠くなった。
シンは昏睡状態のまま、目覚める気配がない。そのおかげで魔力を取り戻した四人は、つい先程、ほうほうの体でヌアクの邸に引き上げてきたところだった。
医者の診断では、シンはただ眠っているだけだという。その目覚めを待って、シンをヴァイシャの身代わりとして入れ替える計画を実行するつもりだ。
事件の翌日にシンを確保できたのは、実に上出来だった。
まずは十日後に行われる婚約祝賀会までには、なんとしても間に合わせなければならない。
実のところ、メネイオスの姪に当たるシンにも正当な継承権はあるのだが、それを公にするという発想は、ヌアクにはなかった。法的には認められるとしても、信仰的にはその不道徳な存在がどれほどの軋轢を生み、人心を惑わすものであるのか……異端児の受ける扱いを、ヌアクは身をもって知っている。姿かたちも想定以上にヴァイシャそっくりに育ってくれていたのも、皮肉だが天の配剤と言うべきか。
婚姻の儀まではあと二十日足らず。
どれほど強引で無茶に見えても、偽ヴァイシャを立てることが、もっとも穏当な解決法だった。
シンにとっては、たまったものではないのだろうが。
これまでの人生で、おそらくは初めて、メネイオスの方針に対立することを選んだのだ。やるなら、徹底的にやる。巻き込むのがシンとノイエの二人だけなら、むしろ安いものだ。
自分は、ヴァイシャの遺志を取ったのだから。遺志……遺志と断言すべきではないかもしれないが、今すべきは、最悪を想定して対処することだ。
勝算がないとは思わなかった。
「どうか、ご再考を。あまりに非現実的です」
しかしキーアにその考えが納得できるはずはない。ひたすら反対を訴えた。
ただの下町娘を国王に据え、その伴侶として権力を奮う――完全にヌアクによる王位の簒奪ではないか。結局自分の野望を叶えるためなら、相手はヴァイシャでも、ただ似ているだけの少女でも、誰でもいいと証明されたようなものだ。そんな大罪に手を染めさせられるくらいなら、一人ででも、ヴァイシャの捜索に向かいたかった。
「そもそも、いつまでその入れ替えを続けるおつもりですか? ご結婚して、王位を継がせて、次の王位継承者が生まれるまでですか? いくら母親を人質に取ったからって、そこまで徹底して貫けるものではありません」
これ以上ヌアクの保身にどっぷり浸かるのは御免だった。
「いや、できる。母親のためだったら、彼女はどんなことでもやり遂げる」
微動だにしないヌアクの断言に、眉間にしわを寄せる。
「まるであの少女のことを、以前からよくご存じでいらっしゃるかのような口振りですね」
追及するが、反応は読み取れなかった。しかしここで引くわけにはいかない。一番大切なことが蔑ろにされている。
「ヴァイシャ様のことは、どうなさるのですか。必ずご無事でいらっしゃいます。どこかで助けを待っておいでです。すぐに、捜索をっ……」
必死の訴えを、ヌアクは無反応に聞き流した。それこそ非現実的な希望的観測に過ぎない。ヴァイシャに関して、現状できることはない。
初めから職場を掴んでいた『二世』を捜すのとはわけが違う。仮に生存していたとして、ごく限られた人員で極秘裏に探し出すのは不可能だ。
現時点での最優先事項は、機密保持。無事生還する保証があるなら、多少無理をしようと、全てをひっくり返す逆転も目もあるだろう。しかしそれに賭けて、シンをすり替える計画自体を危険にさらすのは本末転倒と言うものだ。
この件に関しては、ヴァイシャ本人から動いてもらうしかない。もし、生きているのならば。
「ヴァイシャ殿のためを思うなら、なおさらこの計画を進めるべきではないか?」
キーアに本音を語る必要はないが、計画には不可欠の人材でもある。ヌアクはいつもの淡々とした口調で翻意を促す。
「ヴァイシャ殿の望みは私と結婚し、王位に就くことで、現在の社会と政治体制を改革することだ。今回の真相が知れて、国に混乱を招くことは、ヴァイシャ殿の御本意ではない。だからこそ傷ついたお姿を隠された。何事もなかったことにして、今は理想通りの帰る場所を作り、もしヴァイシャ様が無事に戻っていらしたら、速やかに入れ替わればいい。お前はこの計画を全うするべきなのだ」
理詰めで指摘され、キーアは反論の言葉が出なかった。詭弁だが、事実だとも思う。
「――分かりました。できる限り、努力してみます……」
渋々だが承諾した。
「ですが……」
しかし沈鬱な表情で続ける。
「あの少女は、異常です。母親の居場所を聞き出すために、いとも簡単に鉈を振り下ろしました。表情一つ変えずに。人としての感情を持っているとは思えません。危険な精神の持ち主です。きっと彼女は自身の目的を果たすためなら、人殺しも躊躇わないし、それを罪とも思わない人間です」
意見をするつもりではなく、ただ率直な心証を述べた。ヌアクが聞いているとも思わない。だからこそ言えたのかもしれない。
そして、ヌアクの反応に少なからず驚いた。
「太陽を守るに、罪悪感はいらぬ。ただ盲目的に、遂行するだけだ」
抑揚のない声で、どうでもいいことのように呟いた。何を当たり前のことを、とでもいうように。
ヌアクの欠片ほども情味の介在しない瞳を見ているうちに、キーアはふと思い出した。あの、温度を持たない狂気――シンの中に見出した別人の面影が、誰だったのかを。