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神の温床  作者: 寿 利真
6/13

森の中の罪人と海賊

 その日は、わたくしにとって特別な日になった。


 来年行われる国家的な祭事のため、計画責任者が打ち合わせに来ているのだという。尼僧の高等修道院内に入れるほど、とても高貴な身分の人らしい。

 

 けれども男性なので、院内の日常の儀式は全て中止され、ごく僅かの重鎮を除く全修道女は、自室に閉じ籠って、扉もカーテンも固く閉ざしていた。


 うるさい修道院長や監視役が顔を見せないのが気分がよくて、窓の外を眺めてみた。


 老修道女に案内される、まだ少年にも見える人物を、そこに見つけた。貴族の衣装をまとい、物静かで大人びた雰囲気の、あまりに若すぎる政治家。

 何の感情も映さないその瞳は、まるで鏡の中のわたくしのようだった。


 その灰色の瞳は、わたくしと目が合って、はっと見開かれた。それはいつもの反応。わたくしの黒髪にでも驚いたのだろう。今更何も感じない。彼はすぐに前を向いて、何事もなかったように歩いて行った。


 異変が起こったのは、その深夜こと。                 


 もともと病的に睡眠時間の少ないわたくしは、暇を持て余して窓を開けた。

 夜風とは別の空気が流れてきた気がする。目をやった瞬間、息が止まった。


 ずっと遠くの暗闇の向こうで、通用門の一つが、開いていた。


 一瞬も迷わなかった。


 反射的に窓から飛び出した。何故かなどどうでもいい。世界に開いた穴へと、一直線に駆け出した。


 扉をくぐる直前、不意に立ち止まる。わたくしの人生の全てを占めてきた牢獄。


「――!」


 振り返って、目が合った。貴人用の客間の窓に佇む男と。

 誰かに知らせようとする気配もなく、感情の枯れた瞳で、ただ黙ってわたくしを見ている。


 わたくしは振り切って再び走り出した。生まれて初めての全力疾走。息が続く限り、決して止まるものか。

 何かにつまずいて転び、血が出た。その痛みすら新鮮だ。

 埃も払わず立ち上がり、重く立ち込める闇色の空を見据えた。


 先のことなど分からない。もし神罰が下るなら、それもいい。

 訳も分からないまま罪を償い続ける生にしがみつくよりは、はるかに上等だ。


「母の罪を、父の恥を、何故わたくしが背負わねばならない。そこにいるなら、審判を下すがいい。――わたくしは、自由だ!」


 わたくしは、ただ闇雲に走り続けた。














 木々の合間を縫って、遠くから鐘の音が微かに聞こえた。八刻を知らせる時報だ。

 すっかり日も落ち、普通の家庭なら家族で食卓を囲んでいる頃だろう。


 まるで敷き詰められたかのような草の上に寝転んで、シンは役作りのイメージトレーニングに没頭していた。

 仰向けになって見上げても、生い茂る木々の枝が空を視界から消してくれる。


 ここは『神々の森』と呼ばれる原始林に近い天然の樹海。

 人の出入りが一切ない、シンのお気に入りの場所だ。今日は五日に一度の仕事休みのため、昼過ぎからずっと、ここで時間を潰していた。時折ここでぼんやりと時間を過ごすことが、ノイエと出会う前からの、密かな習慣だった。


 この森の中では、どんな強力な魔法使いも全くの無力になるというが、シンには初めから関係のない話だ。神々が地上に現れる聖地だとも伝えられるが、まだ会ったこともない。いるなら姿を見せてみろ、というくらいのものだ。


 いるのは野生の生き物だけ。人の気配のまったくしない世界に、やっと一息付けた。

 物心ついた頃からずっと、人の中にいると息がつまってくる。ノイエと暮らし始め、大勢の仲間ができた今でも、それは変わらなかった。

 日常を重ねていくと、ある程度のところで奇妙な違和感を感じ始める。どこか、地に足が着かないような焦燥感。周りの流れに、無理をして足並みを揃えている自分を強烈に意識する。

 そしてペースが乱れ出した頃、少しだけ休む時間が欲しくなるのだ。

 またみんなに合わせて歩いていけるように。


 気付いたのは、芝居を始めるようになってからだった。

 心の底から笑い、本気で怒り、どん底にまで嘆きながらも、それを動かない心で冷徹に観察する、もう一人の自分。仲間と打ち解けている己の姿を、瞬きすらせずにじっと見つめる別の視線。

 それはまるで、舞台の上で激しく慟哭しながら、頭の中では次の演技を冷静にに計算している時のようだ。


 結局、自分が仲間達と別のものである事実を、改めて思い知る。どれほど親しくなろうとも。

 この世界に溶け込むためには無理をし、努力をしなければならないのだ。

 けれどそれは、全て承知で背負い込んだものでもある。今の生活が続けられるなら、それ以上望むものなどないのだから。わずかな休息ですむなら、安いものだ。


「さて、そろそろ帰ろうかな」


 十分に英気を養って、立ち上がった。これでまた、いつもの『シン』を続けられる。


「あ、薬草忘れてた」


 思い出して、慣れた足取りでいつもの採集場所へと向かった。

 本来なら足元すら見えない暗闇のはずだが、歩行に苦労しない程度の光が枝の隙間から洩れている。


「暗い日だったら遭難するとこだね」


 物騒な感想を漏らす。この世界では、雲に覆われて実態が掴めないものの、明るい日と暗い日が、定期的に入れ替わる。幸い今日は一番明るくなる日らしかった。神話では、こんな日は雲の上で、神々が篝火を灯して宴を設けているのだという。

 馬鹿げた妄想だと、鼻で笑ったところで、小さな湖の畔に到着した。


 透明度の異常に高い水面をのぞき込むと、かなり深いところまで見通せた。薄っすらと光るような、白いもやが揺れている。夜にだけ花開く非常に希少価値の高い水草で、一抱えも摘んだら一年分の稼ぎにもなる代物だ。


「やった!」


 無造作に服を脱ぎ棄て、一糸まとわぬ姿で、躊躇なく水面に飛び込んだ。

 肌を刺す冷たい感触が気持ちいい。シンの灰白色の髪が、水中で緩やかに踊った。荊のような白い水草を二枝だけ手早く手折り、一直線に水面に戻る。

 静寂すぎる暗闇の湖を、自分の立てる音だけを聞きながら泳ぎ、岸に手をかけた。


 反射的に、体が凍り付いた。水に洗い流された髪が、俯いた顔にかかる。いつの間にか、闇よりもなお深い漆黒へとその色を変えていた。

 いや、凍り付いたのは、心の方か。一体つになったらこの呪縛は解けるのか。


 自分と世界を隔てる決定的な差。この世界でたった一人の黒髪。

 極端な話、魔法が使えないだけなら、大した問題ではなかった。稀だが、世の中にいないこともない。しかしこの髪の色だけは、どうにもならなかった。


 普段はノイエと同じ色に染めているこの髪を、もし本来の色に戻したとしたら――下町の仲間達はそれでも、自分を受け入れてくれるかもしれない。驚きはしても。

 分かってはいても、シンはその一瞬を受け入れる覚悟がなかった。その驚愕の瞬間は、きっとシンのいる場所が、そこではないことを証明してしまうから。


 だからこそ、付き合いを深めるほどに、もう一人の自分の心が冷えていくのかもしれない。一度として、本当の自分を曝け出したこともないくせに、と。


 魂に深く刻み込まれたた負い目を吹き飛ばすように、両方の頬を強くはたいた。一息に岸に上がろうとして、今度は思わぬ事態のために硬直した。


 禁域の『神々の森』の中で、唐突に人の気配を感じたのである。

 気のせいかと耳をそばだてると、信じ難いことに、複数の足音と声が間違いなく聞こえた。


 戒律違反はお互い様だが、今はこの髪色だ。関わり合ってもろくなことにはならないだろう。とにかくこのままやり過ごしたほうがいい。シンは湖岸にしがみついたまま、身動ぎもせずに息を潜めた。


「ちょっと、寥庵。この転送位置、どうにかならない? 水天号から二百メートルも離れてるんだけど」


 イーライが空間に映し出したナビの映像をを見ながら、寥庵に文句をつけた。定時連絡のため、潜入先の王宮先から転送してきたところだ。ここから二百メートル程先に、仮基地として設置した小型艇がある。


「水天号のコクピットとか、せめてすぐ横辺りに設定できないの?」


 自分の指にはまる赤い石の付いた指輪を示し、その性能へのクレームを延々と続ける。製作者の寥庵は、いたってのんきなものである。


「これ以上は無理だな。ここの強力な磁場に加えて、王宮のバリアの干渉も激しいから、平面座標での設定が精一杯だ。この樹海の中で、同じ標高で一番安定している地点はここだし、これ以上複雑な計算をして、わざわざリスクを上げる必要性もない。諦めてくれ」


 腹も立てずに逐一クレーム対応をして、すっぱりと拒絶するが、寥庵には寥庵で不満点があった。


「しかしここの食事のまずさは如何ともしがたいなあ。あすらに味覚をマヒさせる薬を開発してもらおう」

「それよりオレは暑苦しい服の方が苦痛だね。やっぱり軍服が一番落ち着くよ」


 実際に任務に入ると色々と不具合も出てくるため、その都度報告して対処策を検討するが、これはほとんど愚痴のレベルだろう。イーライは深紅の軍服、寥庵はゆったりした着物と、普段の衣装に着替えて、慣れない樹海を、ザカザカと音も気にせず歩いていく。


 潜入作戦に入ってから早七日。仕事の進展は捗捗しくなかった。位ある身分の設定とはいえ、王宮内で動ける範囲が想定より大分狭かった。情報収集も見取り図作成も、当分かかりそうだった。

 王宮で王女然として口数少なく微笑んでいる分の鬱憤をここで晴らすかのように、イーライが一人で口を動かし続ける。


「いやあ、参ったよ。しゃべれないのがこんなに辛いなんてねえ。こんなことなら天鏡号でバックアップに専念しとけばよかった。お宝見つけるのって大変なんだなあ。やっぱり俺は現場仕事は向いてないんだよね。ここまでやって見つかったお宝が天弓宝珠じゃなかったりしたら、目も当てられないよ」


 面白半分で慣れない仕事に手を出したことを、早くも後悔し始めている。


「しゃべるならしゃべるでまた一苦労だしさあ。貴族流だか知らないけど、あんなヤツらと会話するくらいなら、黙ってた方がマシだよ」

「お前も元は貴族だろう?」

「基本軍人の出だし」

「貴族にも面白い者はいるということだ」


 寥庵の含みに、目敏いイーライはすぐ気が付く。


「ヴァイシャだね?」

「ああ、もしかしたら気が付いているかもしれんな」

「あのお姫さん、要注意だよね。他のボンクラと違って何考えてるのか分からない。見てくれが穏やかそうな分、怖いタイプだよね」


 イーライの評価に、寥庵も同意する。


「あれは王の器といやつだな。本質を見抜く目と強かさを持っている。彼女なら私達について何か勘付いていてもおかしくない」

「まさか今日病気で引きこもってたのって、何か企んてるってことはないよね。計画変えるの面倒臭いんだけど」

「まさか結婚と戴冠を控えた大事な時期に、あえて閉じ籠る真似はしないだろう。正体に感付いたかどうかは別だが」

「じゃ、その時の対応策は?」

「彼女となら、多分話が付けられる。無論相応の条件は付くだろうが、小細工をしたらかえって警戒される。それだったら、私達の正体を打ち明けてでも、正攻法での商談をした方が……」

「ちょっと待って」


 イーライは会話を遮って、ナビを指し示した。すぐ側に、人間の反応があった。

 寥庵は無言で手振りの指図をし、挟み撃ちにするため素早く二手に分かれる。場合によっては、捕らえて記憶を消去する必要がある。


 ライトで照らしながら茂みを掻き分けると、寥庵の視界が突然開けた。森の中に湖がぽっかりと広がっていた。水際に沿って光を走らせたが、人影は見当たらない。

 代わりにこれ見よがしとしか形容しようのない状態で、衣服一式が脱ぎ散らかしてあった。

 寥庵はきょとんとして、ナビに映る点滅と見比べる。無言で歩み寄り、少し屈んで水面をのぞき込んだ。


「無駄な努力だな。息が苦しい分だけ、損だと思うぞ?」


 見えない何者かに向かって、飄々と呼びかけた。わずかな間をおいて、水面が突き上がる。


「――悪かったね。無駄な努力で」


 黒髪の少女が、憮然とした顔で肩まで浮かび上がった。

 その顔を目にし、さすがの寥庵もぎょっとする。


「そこで待機!」


 反対から回り込む予定だったイーライに叫んだ。

 仏頂面で湖に浮いている少女を、寥庵は知っていた。すぐに気を取り直して、その人物の名を呼んだ。


「これはヴァイシャ様ではありませんか」と。


 髪の色こそ黒いが、空色の瞳で見返した少女の顔は、紛れもなくヴァイシャのものだった。


「お互い思わぬ所でお会いしたものですね。ですが身分あるお美しいご婦人が一人でいらっしゃるべき場所ではありませんよ。よろしければ私がお送りいたしましょう」


 寥庵はぬけぬけと、笑顔でその場を取り繕った。


 ――な、なんなんだ、この男は……。


 予想外の展開に、シンはぽかんとする。突然現れた掴みどころのない男の親し気な対応に、突っ込みどころが多すぎて、迅速的確な対応をしそこねた。見たこともない衣装に、浮世離れした不思議な空気――外国人のようだ。

 ヴァイシャという身分の高い女性と人違いしている様子だが、それにしても見事な変わり身だ。なんともとぼけた雰囲気で、こんな状況なのにあまり危険を感じない。


 さてどう対処したものか――シンは瞬時に考える。それほど似ているならそのヴァイシャとやらに成りすましてやろうかとも思ったが、いくら何でも知らない人間の演技はハードルが高い。典型的な貴族女性を演じればいけるだろうか。

 とにかく目の前の男の態度があまりにのどかすぎて、今は緊急事態なのか、そうでもないのか、決断の早いシンが珍しく考えあぐねていた。普段なら、服を諦めてでも一目散に逃げているところなのに。


「――ヴァイシャ様?」


 無言の数瞬で、寥庵は不審を持った。ヴァイシャはおっとりして見えても、実際は相当気が強く根性も据わっている。強かな微笑で、手厳しい追及をされるくらいの覚悟はしていたのだが。


「――誰だ? あなたは、ヴァイシャ様ではないのか」


 落ち着いた声で、きっぱりと結論を下した。信じられない程似ているが、反応の仕方が明らかに違う。


「特に双子を忌む習慣はなかったはずだが……しかし他人と言うには酷似しているなあ。――ああ、そうだ。おい、イーライ。出てきていいぞ。私の勘違いだった」


 思い出して繁みの奥に一声かける。


「勘違いだってえ? まったく、人騒がせもいい加減にしなよ。大体あんな美女がそんじょそこらにゴロゴロ転がってるわけないんだから、よく見れば……げっ、ヴァイシャ様!」


 出てくるなり馬鹿にし始めたイーライも、シンを目の当たりにして絶句した。


「こ、これで、別人? まんま本人じゃない」


 呆然と見下ろす。イーライは寥庵の「見る目」を絶対的に信頼している。その徹底して主観を排除した機械的な観察力で違うと判断したなら、確かに違うのだろう。分かっていても、目の前の少女はヴァイシャにしか見えなかった。


 ――また変なのが現れた。


 水から出られないまま、シンは二人を見比べた。

 もうこのまま普通に出て行っていいんじゃないかと、その緩い空気に馬鹿馬鹿しくなってくる。国禁を犯しているのはお互い様だし、優男二人くらいどうとでもできる。 


 少し落ち着いて、状況を観察することにした。

 それぞれに見たこともない衣装をまとった、奇妙なノリの二人組。自分の知っているどんな空気とも違う。のんきで軽くて、とにかく鷹揚な雰囲気――他人にペースを狂わされていたことに、そこで初めて気が付いた。


「あんた達、いつまでそうしてる気なんだい?」


 二人のやり取りをしばらく見た後、とりあえずいつもの調子で割って入ってみた。寥庵は首を傾げる。


「そうしている、というと?」

「いい加減に水から出たいんだけど。このままじゃ、風邪ひいちまうよ」


 その意味が、寥庵には理解できなかった。


「……? 出ればいいだろう? 別に私は構わんよ。邪魔をするつもりもない」


 本気で不思議そうなその反応に、シンは目を丸くした。いつもなら気が利かないと怒鳴りつけるところだが、何故か強い興味が湧いてくる。


「あんた達にそこでぼうっと突っ立って見てられちゃ、岸に上がって服が着れないって言ってるんだよ」


 試しに今度は別の言い方をしてみた。寥庵は一層不可解そうだ。


「ん? それはつまり引っ張り上げろということか? 或いは座れと言っているのか。ぼうっとが駄目ならしっかり見ればいいのか、いやそれとも、私達に着替えを手伝えという意味も考えられるか。イーライ、どう思う?」


 ぼかっ!!


 イーライの返答は、後頭部への一撃であった。


「痛いじゃないか。いきなり何をするんだ」


「このドアホ! 着替えを見るなって言ってるんだよ!」


 どこまでも悠長に頭を押さえる寥庵に、イーライが怒鳴りつける。


「世の中あんたみたいに情緒欠陥人間ばっかじゃないんだから、少しは考えなさいよ。お嬢ちゃんもこんな鈍い男にまわりくどい言い方しちゃダメだよ」


 シンにまでおかしな忠告を始めるイーライの横で、寥庵はまだ腑に落ちないでいる。


「着替えを見るな? まあ、見るなというなら見ないが、どうしてそんなことを……ああ、そうか。『恥ずかしい』というやつだな」


 寥庵はポンと手を打った。


「なあ、そうだろう? 着替えを見られるのは『恥ずかしい』んだな。そういう文化を持っている世界は割と多いからな。なるほどなるほど」


 一人で納得して頷く。寥庵にしてみれば、感情はあくまで当人だけのものであって、第三者の視線によって初めて成立する感情というものが、あまり理解できない。しかし他文化の精神性を蔑ろにするつもりもない。


「よし。ではあなたが服を着る間、私達は向こうを向いていよう。その後で用がある。少し話を聞きかせてほしい」


 勝手にどんどん仕切って、イーライともども回れ右をした。


「それにしてもよくあの発言内容から、彼女の意図が読み取れたなあ、イーライ。私も他文化には疎くないつもりだが、即座に『羞恥心』と関連付けるまでには思い至らなかった」


 呆気に取られて見守るシンを後目に、感心する。


「あのシチュエーションでなんでそこに至らないかの方が疑問だよ。まったくあんたんとこの文化は一体どうなってるんだ」


 イーライはあからさまな皮肉で返す。昔軍人だったためか、風紀に関しては幾分堅い面がある。喧嘩相手のあすらの露出過多の服装にも、口には出さないが好ましく思ってはいない。こういう寥庵の無頓着さは、未だに看過できなかった。


「どうかと聞かれても、知っての通りだろう? 何度も行ったことがあるはずだが」


 厭味にも逐一律義な回答を与える寥庵に、イーライは溜め息をつく。


「――誰が答えを求めてるよ」

「お前だろう?」

「……」


 イーライは反撃を放棄した。気力と根気が持たない。


「ぷっ、あははははははは」


 シンは思わず笑い声を上げてしまった。


「おかしいねえ、あんた達は……」

「そんなにおかしいかな?」


 きっちり三分経ったのを確認して振り向いた寥庵の目に、闇に浮かぶ抜けるように白い肌が映った。

 奇妙なやり取りについ見入ってしまったシンは、まだほとんど何も身に着けていなかった。


「もう少し向こう向いて、待っといてくれないかねえ?」


 ハプニングにも平然として、ふてぶてしく注文を付けるシンに、寥庵も素直に詫びる。


「これは申し訳ない。三分あれば十分かと思ったのは、私の勝手な判断基準だったようだ」


 何事もなかったように、再び背を向けた。直後に舞ったイーライの二度目の拳に、多少顔を歪めることになったが。


 今度こそ手早く服を着ながら、シンは内心おかしくて仕方なかった。


 感覚のズレた激しくマイペースな、それでいて他人の意見に素直で寛大な男。

 おしゃべりで無遠慮、ど派手な外見で軽薄に見えながら、実は意外と堅そうな男。

 国も服装も文化も性格も考え方も全く違うらしい二人が、それぞれ認め合って対等に接している。自分には全く無縁の関係性に、妬ましいくらいの羨望を覚えた。


「もういいよ。こっち向いても」


 二人の背中に声をかけた。要求に応じる筋合いはないのだが、もう二度とは会えない二人だと思ったら、このまま黙って逃げることに抵抗があった。


 向かい合うと、寥庵は絞ってあったライトの光を調節して、周囲を広く照らした。


「では早速始めよう。あなたはいつからここにいたのかな?」


 寥庵が穏やかな口調で質問を始めた。


「さてね。少なくともあんた達よりは前だろうさ」

「つまり、私達の話を全て聞いていたと解釈していいということかな?」

「話? 聞かれて困る話でもしてたのかい?」


 シンはあくまでも白を切る。この胡散臭い連中の目的は、話を聞かれた場合の自分の処理かと、内心ヒヤリとした。元々話のほとんどは理解できなかったのだから、知らぬ存ぜぬで押し通しても、全くの嘘ではないだろう。


 寥庵とイーライは顔を見合わせる。シンは食えない相手であるらしいと気付いて、質問を変える。


「では、あなたの名前は?」

「シン」

「シン?」


 イーライが怪訝そうに聞き返す。頭の中にインプットされているデータを引き出す。


「Sin――原罪、神の掟に背く罪……?」

「変わった名前だな。魔除けのためにわざとタブーを名付ける習慣とかか?」

「いや、この国は普通に目出度い名前つけるはずだけど」


 周りの誰もさすがに憚るセリフを、二人は悪びれもせずに言い合う。あまりの他意の無さに、シンは怒る気力も湧かなかった。


「まったく、罪だタブーだと、よくも遠慮なく言って……あっ!!!」


 シンは突然素っ頓狂な叫び声をあげて、がばっと頭を抱え込んだ。二人が全くの無反応だったため、完全に忘れていた。天然の黒髪を、何の誤魔化しもなく曝け出していたことを。

 動転して二人に問い質す。


「あ、あんた達、あたしの髪見て、何とも思わないのかいっ!?」

「髪?」


 意味不明の質問を受けて、寥庵は改めて観察してみる。


「濡れているな」

「だ――っ、そうじゃなくって! この髪を変に思わないのかって訊いてるんだよ! なんで驚かないのさっ!?」

「変? どうして? きれいな黒髪じゃないか。似合ってるぞ」


 何が何だか分からない――そんな顔つきで、逆に寥庵の方が問い返す。

 何の気負いも意図もない、ありきたりの社交辞令。そんなものに、シンは急激に顔が熱くなったのを感じた。

 今まで腐るほど浴びせられてきたどんな美辞麗句にも、心を動かしたことはなかった。偽った自分への賛辞など、虚しいだけだから。

 けれどこの男、寥庵には、シンの姿が普通に見えた。その美貌も黒髪もどうでもいくらい、無関心なお世辞。心が籠っていないからこそ、シンにとっては嘘がなかった。

 生まれて初めて、自分が『特別』でないと思えた。


 心の中の『動かない人』は、どこへ行ってしまったのか……今まで感じたことのない感情に、激しく動揺する。


 耳まで真っ赤になったシンを寥庵は楽しそうに観察して、イーライに問いかける。


「随分紅潮している。脈拍が上昇するようなことが何かあったか? どうもここの文化は掴み切れないな」

「ここの文化、なんて言い方したら、まるで他の文化なら掴み切ってるみたいで語弊があるね」

「なるほど。確かにその通りだ」

「せめて厭味くらい通じるデリケートさがあればねえ。話も簡単になるんだけど」

「残念だったな」

「――まったくね」

「いやあ、それにしても、なんだか可愛いなあ」


 赤面する美少女を愛でながら、寥庵が率直な感想を漏らす。シンの顔が一層激しく火を噴いた。


「なっ、や、藪から棒に、何を言い出すんだいっ」

「私は思ったことを言っただけだが」


 どこまでも表現のストレートな寥庵の後ろで、イーライが思わず溜め息をつく。これでは完全に、現地の少女をからかう悪いオトナではないか。悪気のないのが余計質が悪い。


「一体どーなってんだいっ、この男は!」


 照れ隠しに吐き捨てるシンに、寥庵はああ、と気が付く。


「この男じゃない。まだ名乗っていなかったな。私は『玄斉』だ。こちらはイーライ」


 にこやかに自己紹介した。その後ろのイーライは眉一つ動かさず成り行きを見守る。父親の名を騙る意図は分からないが、寥庵は意味のないことはしない。


「え……ゲンサイ……? リョーアンじゃ……」


 まだ動揺の抜けないシンは、思わず聞き返した。それを受けて、笑顔のままイーライに向き直った。


「イーライ、私の名を呼んだのは、いつが最後だったかな?」

「――っ!!?」


 シンの顔色がさっと変わった。その耳に、イーライの正確な解答が届く。 


「樹海への転送後、すぐの第一声だね」


 間違いなく確認を取ってから、寥庵は優しくシンの手を取った。


「と、言うわけだ。私達と一緒に来てもらおうか」


 穏やかだが有無を言わさない様子で、掴む手に力を込めた。仮基地の水天号で、記憶の操作をするためだ。


「何、心配することはない。一晩拘束させてもらうが、手荒なことはしない。ここ三十分ほどの記憶を、うわっ!」


 世界が逆さになった――そう自覚した直後、寥庵は背中から着地していた。掴んだ手を逆に掴み返され、あっという間にシンに投げ飛ばされていた。


「外泊なんかしたら、母さんに殺されちまうよ」


 すかさず隣のイーライを体当たりで吹っ飛ばし、シンは一目散に駆け出した。

 首領とは言えほぼ技術屋の寥庵と、元軍人ながら官僚寄りのエリートだったイーライという、バックアップ専門の二人組では、全くシンの相手にはならなかった。


「イーライ、スタンガンっ!」


 ひっくり返ったまま、寥庵が即座に指示を出す。イーライも尻もちをついたまま、直ちにそれに従った。その手元から一瞬の光がきらめき、シンの背中を一直線に貫いた。


「っ!?」


 シンは一瞬何か感じた気がしたが、結局何も自覚しないまま意識を失った。


 イーライは唖然としつつ立ち上げり、埃を払った。


「まったく問答無用で投げ飛ばすとか、とんでもない娘だなあ。あー、痛。この手の顔の女ってのは、みんなこんなにオソロシイ性格なのかね。寥庵は大丈夫? だったらもたもたしてないで、彼女運んでよ。オレはやだからね。怖いもん」

「それは構わんが……いやあ、それにしても驚いたなあ」


 強かに打ち付けた背中の痛みに顔を歪めながら、寥庵も立ち上がって、横たわるシンに歩み寄った。


「こんなに細い体のどこから、あの怪力が出るんだろう。イーライ、この世界の女性は、こんなに強かったかな?」

「まさか。そんなデータ入ってないよ。ここの連中は強力なESPのせいで徹底的に体を甘やかしてるから、体力面では平均値の半分にも届かないよ。歩くくらいなら飛んじゃうし、まともに走れるかだって怪しいもんだよ。ちょっと重いものなんか持たなくたって浮かせられるから、鍛えようが……ああ、そういえば……」


 長話が炸裂しかけたところで、イーライはふと一つの可能性に思い当たった。


「彼女、黒髪がどうとか言ってたけどね……確かここの人種は濃い色の遺伝はほとんどない。黒なんてまず出現しない色のはずなんだけど。あの異常な強さも、突然変異の一端、ってことはあるかもね。ま、道理で黒髪褒められて、あそこまで照れるわけだよ。この国では黒は『負の色』ってことになってるから、特に肩身の狭い思いをしてきたろうね。ああ、『(sin)』って、そういうことか」


 結局とどまらない長話を聞きながら、寥庵は慎重にシンを抱き上げた。たった今自分を軽々と投げ飛ばしたとは思えないほど華奢な体つきだ。


「髪の色くらいで苦労しなければならんとは、難儀な世界だな」


 シンの顔を覗き込んだ寥庵は、そこで珍しく絶句する。


 目が、合った。驚きはお互い様だが、シンの方が遥かに仰天していた。気が付いて目を開けたら、寥庵の顔が極至近距離にあったのだから。


「……な、ん……だっ……」


 言葉がうまく出なかった。何が何だか分からない。彼らを倒して、逃げ出したはずなのに、どうして自分は寥庵の腕の中にいるのか。とにかく逃げなければともがいたが、手足が痺れて、思うように動かなかった。


「二時間は寝てるはずなのに、なんで?」


 イーライの呟きに、自分が完全に彼らの囚われの身であることを自覚した。


「体に感電のショックがまだ残っているんだ。無理に動かないほうがいい。時期に元通りになるから」


 戸惑うシンに、寥庵が優しく語り掛ける。


「すまなかった。手荒なことはしないと言ったが、嘘になってしまったな。訂正しよう。できれば私達に手荒な真似をさせないでほしい。このまま大人しくしていてくれないだろうか。私達が用心を怠ったせいで、ここに居合わせただけのあなたに不要な迷惑をかけてしまうのは申し訳ないが、こちらの都合を譲るつもりはない。私一人の問題ではすまないし、身勝手でも妥協してもらう。『魔法』の使えないこの森の中では、いくらあなたの力が強くとも、私達から逃げ切ることは不可能だと思いなさい」


 口調こそ柔らかいが、絶対に揺るがない強硬さが見て取れた。


 好き勝手な言い分に、いつものシンなら激怒して殴り倒しているところだ。しかし体は硬直したまま、動かない。


 このとぼけた男を、初めて怖いと思った。その言葉は脅しでもハッタリでもない。ただ、事実の指摘。

 今まで自分より強い人間はいなかった。誰の魔法も自分には通じなかったから。


 けれども彼らは違う。そう、寥庵も言った『魔法の使えないこの森の中』で、シンを捉える得体の知れない力を持っている。


 彼らの本性を、見誤っていたのか――不気味な不安感が、シンの心をじわじわと侵していく。体は動かないのに、鼓動ばかりがますます激しさを増した。限りなく太平楽な空気を醸す男の腕に揺られながら、言い知れない恐怖に呑み込まれそうだった。


「怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳ない」


 怯えの色を見せ始めたシンに、寥庵は大して悪いとも思っていない様子の謝罪の言葉をかけた。


 ――逃げなきゃ、駄目だ!!


 落ち着いた眼差しの緑の瞳と目が合った刹那、シンは本能的に確信した。これ以上、この男の傍にいてはいけないと。


 事態が急変したのは、その直後だった。

 シンを支えていたはずの寥庵の腕が、突然重力を失ったように空を掻いた。


「はっ!? 今度は何!? どーゆうことだよ、これ!!」


 イーライは目を見張り、慌てて辺りを見回した。


「――消えた?」


 自身の両腕を、寥庵がまじまじと見つめる。シンの姿が、一瞬で消えていた。


「瞬間移動か?」


 寥庵の達した結論に、イーライは反論する。


「まさかこの樹海で? こんな異常な磁界の中で、ESP波が発現させられるはずないよ。まして転送が超難度なのは、計算したあんたの方が分かってるでしょーが」

「しかし現実に消えた以上、その可能性が一番高いだろう。彼女が突然変異だと言ったのはお前じゃないか。実際、ここの人種用に調整したスタンガンすら効果は薄かった」

「……とことん規格外な娘だなあ」


 イーライは呆気にとられた。


「で、どうするの?」

「まあとりあえず、予定通り水天号へ行こう」

「シンのことはどうするのかって訊いてるんだけど」


 寥庵は少し考えこんだ。


「うーん。一般人だったら、無理に手を打つ必要もないんだがなあ。王侯貴族の類には見えなかったが、とにかくヴァイシャに似過ぎているのが気にかかる。放置してはおけないな」

「了解。ジェナイエンに調査を指示しよう。名前が本名かは分からないけど、あの顔ならヴァイシャ王女の映像が代用できるから、すぐ見つかると思うよ」

「できるだけ急がせてくれ。王宮に我々の情報が漏れたら、計画はそこで終わりだからな。ただの取り越し苦労ならいいが」

「まあ、どう見ても庶民的だったし、王宮関係との繋がりはなさそうだよね」

「いっそヴァイシャ本人だったほうが、話が簡単だったな。まあ、終わったことを言っても仕方ない。シンの件は後衛に任せよう」

「それじゃ早いとこ行こうか。ジェナイエンが待ってるし、イヤなことはさっさとすませたい」


 ジェナイエンは、無敵のおしゃべりを誇るイーライが、唯一会話を避けたがる相手だ。邪険な言い草で何気なく湖面に視線をやって、その顔に怪訝の色を浮かべながら空を見上げた。


「水天号が飛んでる。何かあったかな」


 ジェナイエンが待機させているはずの小型艇が、湖面にシルエットを映しながら上空を旋回していた。

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