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神の温床  作者: 寿 利真
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王女の願い

 母親の名はアルファーシュ。国王になるはずだった女。

 父親のことは知らない。『扉の向こうの国』とやらの、神を冒涜する背徳者の内の一人だそうだ。


 いくらか成長した頃から、修道院長はわたくしの罪について詳しく教えてくれるようになった。


 伝統と信仰を軽んじ、『罪人の国』への留学を押し切り、罪の子を宿して連れ戻された母。継ぐはずだった王位も、産み落とした赤子も、全てを捨てて、再び『罪人の国』へ――男の元へと逃げて行った女。


 魔法も持たない神に見放された男との子供は、やはり魔法を持たなかった。罪人の黒髪を、罪と一緒に受け継いで……。


 それが、わたくしの罪だという。


 けれど、わたくしにはどうでもいいこと。会ったこともない他人。関心もない。

 院長が押し付けてくる言葉も、もはや心を動かすことはない。

 所詮変動のない世界で、ただ黙して暮らすしかない我が身だ。


 黒髪を蔑む人の目も、永久に閉ざされた高い塀も、孤独も、雲の上の魔物すらも、すべからくわたくしを苛むことはない。


 わたくしの棲む世界は、修道院の壁の中ではなく、この心の壁の中だから。













「はーい、オッケー! 次は二幕三場、シャメナ公とカリムの口論シーン行きます。インサー、スワンフ、舞台上がって!」


 演出のカインの一声で、張り詰めていた稽古の雰囲気がいったん和らぐ。

 ここは繁華街でも高級店街方面に並ぶレシオス座。シンの所属する劇団所有の歴史ある劇場である。今日は初めての舞台稽古だった。


「シンはちょっとこっち来なさい」


 恋敵役のエシェレとおしゃべりをしながら階段を降りるシンを、観客席からカインが呼びつけた。


「……やっぱり来たか」


 予想はしていたので、苦い顔で歩み寄る。カインは気楽な口調で指導を始めた。


「シン。今回はヒロインなんだから、もっと自然に感情込められないかなあ。それじゃ、観客が物語についてこれないよ」

「うーん……正直お手上げだよ。どうしてもナイザの考え方が理解できなくてね」


 自主練の時からずっと躓いていた部分だ。やはり演出の目は誤魔化せなかった。カインが意地の悪い笑みを浮かべる。


「珍しく弱気じゃないか。まあ、たまには壁に突き当たるのもいい経験さ。君は器用過ぎるからね」

「そうかい? あたしゃ不器用なつもりだったけどねえ」


 半ば本音の軽口を、カインは笑い飛ばす。


「技術の点では文句の付けようがないからね。顔だけで客が呼べると思ってスカウトしたら、いきなりプロ顔負けの演技力だったからなあ。まあ、あの時点では模倣力だったか。指示さえ出せば一発でその通りに応えてくれるし――まあ、模範的な演技をやってくれる役者だよ、君は」

「なんだか含みがある言い方だねえ」

「あとは君自身の問題だからね。『考え方』を理解することは大切だが、『気持ち』程じゃない。ナイザ役は、何物をも跳ね除けるくらい圧倒的なひたむきさがなければ、ただの自己チュー女になってしまうよ」


 カインは柔らかい物言いで核心を突いてくる。しかしそこがシンには理解できない部分だ。


「それじゃ感情表現を上手くやれば、自分勝手な迷惑行動が許容されるわけかい?」

「少なくとも観客を感動させることはできるぞ。道徳よりも背徳が、人の琴線に触れるのは確かさ。他人事ならね。何にこだわってるのかは知らないが、舞台はそれが全てだ。もっと恋する女の研究をすることだな」

「……はーい」


 ようやくカインから解放され、シンは苦笑いで自分の待機場所に戻った。 

 見抜かれてるなあ、と気が滅入る。

 シンはメンタルな部分の演技が苦手だ。それをテクニックでカバーしてきた結果が、『模範的』と称される演技となる。


 その弱点さえ抜かせば、役者はシンの天職だった。舞台映えする容姿、よく通る声、度胸、要領、記憶力、そして何より、魔法を使わなくてすむ職業。仮に必要なシーンであっても、舞台袖からの吹き替えが可能であるため、魔法が使えなくてシンが困ったことはほとんどない。シンもそれを想定してスカウトに乗ったわけだ。


「お疲れさん」


 エシェレがタオルを放り投げて笑った。


「人が注意されてるのはそんなに楽しいかい?」

「そりゃあもう。シンの場合、滅多に見られないもの」


 悪びれもしない先輩に、シンは仏頂面でそっぽを向いた。


「あたしゃ、こういうワガママ女、大嫌いだよ」

「ふふっ、あんなにモテるのに、色恋沙汰に疎いなんて。片っ端から袖にしてないで、何人か遊んでやればいいのに。貴重な人生経験よ。楽しいし。私にも何人か回してほしいわ」

「勝手に持ってっていいよ。迷惑してるんだ」

「コドモねえ、シンは」


 楽しそうに笑うエシェレが大人びて見え、シンは憮然とする。


「……分からないんだ。他の大切なもの全て捨てて、裏切って、自分だけ幸せになろうとする奴って、弱者じゃないだろ? むしろ最強に図太くて無神経じゃないかい? これ、どうやって儚く演じるってんだい?」


 どこか途方に暮れてもいるような様子に、エシェレは問いかけようとしてやめた。シンがスラム出身の孤児だというのは秘密の話でもない。色々とあったのは、予想がつく。

 自分ができるのは、先輩としてのアドバイスくらいだろうか。


「ねえ、シン。演技は、何があっても最後までやり通さなければダメよ。でなければ、『シン』じゃなくなるわ」


 シンの性格を知りながら、一番きつい言い方をした。シンは睨み返しながら、思わず笑う。


「まるでうちの母さんみたいだね」

「あら、光栄だわ。あたし、ああいう強い女大好き。将来の目標ね」


 エシェレは涼しい顔で答え、シンの頭をくしゃくしゃと撫でる。


「だから、おじょーちゃんも好きよ」

「ふんっ、厭味な女なら、もう達成してるんじゃないかい?」

「ふふん。コドモ扱いが嫌だったら、惚れた男の一人でも連れてきてごらん」

「――めんどくさい。あたしゃ、ずっとあの家で母さんと二人の生活でいいよ」

「若さがないわねえ! せっかくの美貌が宝の持ち腐れよ。でもまあ、落ちたくなくても勝手に落ちちゃうのが、恋ってものだから。キョーミあるわあ。あんたがどんな男に惚れるのか」


 若い女性らしく恋バナにはしゃぎながら決めつけるエシェレに、シンは閉口してどすんと腰を下ろした。


 そんな日は来ないと、シンは知っている。

 何故なら、自分には人に順番が付けられない。仲間や友人なら山ほどいるし、本当に好きだとも思う。でも、いないならいないでそれも構わない。自分の居場所が、いつも揺らいでいる気がする。


 大切なのはノイエだけ。それだけがシンの『絶対』。心の中の特別な席は、たった一人のためにしか用意されていない。あとは全てが同列。だから、他に特別な人間など、できるはずがなかった。


 それでいいと、シンは変えるつもりもなかった。














 少し調べてみて、ヴァイシャははっきりと疑念を持っていた。

 六日前に来訪した、エルシャス大使夫妻についてである。


 婚儀と戴冠式に出席すべく訪れた外国の賓客は、式が終わるまでは王宮に滞在となる。当然、多くの相手と会話をする機会があるのだが、その中で、フェトヒ・イエ王女とケユクス外務大臣の二人に、ヴァイシャは初対面から違和感を感じていた。


 話が合ってしまうのである。


 外国とはいえ、国の現状はどこも似たり寄ったりだ。上辺の会話だけは弾んでも、大抵の王侯貴族とは感性が合わない。

 だからこそ、ヴァイシャは気の合う相手には決して油断しない。何を考えているか分からないからだ。


 そこでわざわざ、王立図書館まで足を運び、エルシャス王国についての文献を調べてきたところだった。

 その結果、疑いは深まる一方だ。

 言葉や習慣、知識などは確かに典型的なエルシャス人だが、潜んでいる意識の在り方がどうにもしっくりとこない。噛み合っていないというのか。

 一山いくらの貴族達の中で、彼らだけが際立って見える。ひどく面白く、進歩的な感性が見え隠れしてるような。彼らを気にかけ、毎日のように交流の機会を設けてきて、その違和感の正体が輪郭を帯びつつある。

 帰ったらしっかり問い質してみようと、ヴァイシャは今から楽しみにしていた。


 窓の外を見れば、もう日が沈みかけていた。キーアを従えて、王宮への帰途である。


 外に御者席のついた個室に乗って、地上五百メートル程の貴族専用空路を飛行している。もう二百メートル上は王族専用になるが、馬鹿馬鹿しくて使う気にもならない。


「下は大分混在しているようね。ここはこんなに空いているというのに」


 一般人専用空路を見下ろして、向かい合いの座席のキーアに声をかけた。


「ちょうど帰宅の時刻ですから。学校や仕事帰りの人達の渋滞ですわ」

「不合理なものね。雲の下はこんなに広いのに。専用空域なんて無意味な制度を廃止したら、交通事情は格段に改善されると思わない?」

「それはそうでしょうが、現実問題として身元も知れない不特定多数がヴァイシャ様のお側近くを通り抜けるようになったら、私は気の休まる暇がなくなります。ましてやこれから国王におなりなのですから、もっと用心してくださらないと」


 キーアは諫めずにはいられない。本来なら、御者と侍女一人しか伴わないお忍び行動も慎んでほしかった。たかが調べ物のために大袈裟にしたくないという考えも分からなくはないが、護衛なしはやはり心配でたまらない。


 その時、乗用室がゆっくりと停止した。王宮はまだ先だ。真下辺りにはそれぞれに派手な大看板の群れが天を仰いでいるから、繁華街の辺りだろう。

 王宮までの道筋では決して通らない場所なのだが、それに気付かないまま、キーアは御者へ通じる小窓を開けた。


「なぜ止まるのです? 何か問題でも?」


 いつもの御者が病欠したため、馴染みのない新顔に声をかけた。男は緊張した面持ちで振り返った。


「陛下からの御使者です。緊急の御用件だとか」

「父上から?」


 キーアと顔を見合わせる。すぐに帰るのに、それも待てない程の緊急事態だろうか。

 時期が時期だけに、悪い予感しかしない。


 実は今回の婚儀には、一つ問題がある。メネイオスはヴァイシャの結婚も戴冠も反対していたのである。

 それをヴァイシャは、ヌアクの助けを借りて、素早く発表し強引に押し切った。そのうち何らかの問題は生じるものと、覚悟はしていた。


 キーアに扉を開けさせると、浮遊する絨毯の上に直立不動の男がいた。


「火急の用向きとか。何事でしょう」


 キーアの問いに、男は一礼する。


「極秘事項なれば、ご無礼致します」


 片膝を着いて入室し、どこか緊迫した空気をまとって扉を閉めた。


「殿下にお渡しするものがございます」


 差し出された掌の上には、数個の鉛玉があった。


「――しまっ……っ!?」


 事態を悟った時には、もう遅かった。

 初速数百キロ毎時の弾丸が、ヴァイシャの体を貫いた。


「きゃあああああああっ!!! ヴァイシャ様あっ!!」


 切り裂くようなキーアの悲鳴に、ヴァイシャの口から洩れた呻き声が掻き消される。

 傷口から溢れ出る血が、ヴァイシャの全身を赤く染めていく。激痛の中、致命傷だと、当人が最も自覚していた。


 この男が、父からの刺客であることを、欠片も疑わない。完全無欠なる神の御教えの使徒であるメネイオスが、殺人――それも実の娘であり、唯一の王位継承者を暗殺するという大罪を犯すはずがない……それでも、絶対的な予感があった。


 自分を排した後、誰を次代の王に据えるつもりなのか――無能な政治家達よりも遥かに遠くを見通せるヴァイシャにも、父の意図が一片たりとも読めなかった。宗教上は、絶対にいるはずがないのだ。


「……キーア、逃げなさいっ」


 掠れる声で命令し、抜け行く力を振り絞って、室内から瞬時に消えた。数ある魔法の中でも上位に挙げられる転送魔法だ。おいそれと追跡できるものではない。


「ヴァイシャ様あああっ!」


 残されたキーアは、予期せぬ惨事に絶叫する。そして、男へと怒りが向いた。初めてヴァイシャからの命令に背いた。

 消えたヴァイシャに一瞬気を取られた刺客の心臓に、無言で護身用の短剣を突き立てた。

 助けに行こうにも、居場所が分からない。ならば今すべきことをなそうと。


 声もなく崩れ落ちた男の呼吸を震える手で確認し、あまりの大罪に絶望で壊れそうになる心を更に奮い立たせる。

 まだ、もう一人いる。


 キーアは御者席の背後の小窓をそっと開けた。


「――お、終わりましたか……?」


 恐る恐る訊ねた御者は、喉元のヒヤリとした感触に、硬直した。背後から伸びた手が襟首を掴み、短剣を肌に押し付けていた。


「動くな。前を向きなさい」


 硬質な声で凄まれ、御者は竦みあがった。ガタガタと震えながら、言葉を振り絞る。


「お、お許しください……」


 男の反応に、キーアの怒りが膨れ上がる。


「――何者の指示で手引きした。お前達だけの犯行ではあるまい。何が目的で、ヴァイシャ様のお命を狙った」


 詰問するキーアの脳裏に、血まみれのヴァイシャが蘇る。身代わりにもなれなかった無力さに腹が立つ。無事に決まっている、助けを求めに行ったのだと、必死で不穏な妄想を振り払った。


 わずかに冷静さを取り戻して改めて御者を見ると、どこか様子がおかしかった。異常と言ってもいい。

 焦点の合わない目で、ブツブツと意味不明の呟きを漏らしている。もはやキーアの声も届いている様子はない。どう見ても、正気ではなかった。

 男は天を仰ぎ、誰に聞かせるともなく微かな叫びをあげた。


「お許しを……どうか、私を、お許し下さい……」

「――何をっ!?」


 止める間もなく、押し当てられた短剣で自分の喉を掻き切った。

 御者席から滑るようにずり落ちる。同時に、激しい衝撃がキーアを襲った。

 御者を失った浮遊室が、突如重力に従い始めたのだ。

 キーアはとっさに魔力を放って、急落下を防いだ。同時に御者も浮かべ、すうっと室内に運び入れる。意識はまだあるようだがビクビクと痙攣しており、とてもしゃべれる状態ではない。


 血にまみれた狭い一室で、死体と死にかけを前に、キーアは泣きたくなった。

 信じられないというよりは、信じたくない。ヴァイシャと同じ結論に達した。――誰が首謀者であるか。


「何故ですっ。それほど王位にしがみつきたいのですか!?」


 王女暗殺という恐ろしい犯罪を実行させ、口を割る前に自ら命を絶たせる信仰の対象を、他に知らなっかった。


 キーアは自分の頬をバシッと両手ではたく。嘆いて時間を無駄にしている場合ではない。誰かの助けが必要だ。

 迷いの中、心に浮かんだのは、ヴァイシャが全幅の信頼を寄せる人物、セメト・ヌアクだけだった。













 何故、こんなことになったのだろうか――いくら考えても、答えは出なかった。激痛に顔を歪め、片膝を着く。


「ぐっ……」


 立ち上がる拍子に、血が噴き出した。それでも構わず、ヴァイシャはよろけながら歩き始めた。


 ここは『神々の森』。窓から遠くに見えたここへとっさに転移し、その入り口から鬱蒼とした原生林の中へと分け入っていく。この森は魔法が使えないため自力で進むしかないが、誰にも見つからない禁域だ。


 誰にも知られてはいけない。

 王位継承者が、現国王に暗殺されたなどとは――そう判断した時、ヴァイシャはこうする以外思いつかなかった。


 この事件が公になれば、王家には破滅すらあるかもしれない。法的にも宗教的にも、他の貴族達から徹底的に攻撃される。跡継ぎのいない状況なら、なお更。


 こんな王家などなくなってしまえばいいと、何度思ったか分からない。


 しかし今はまだその時ではなかった。たとえ王家が滅んでも、平等を大義名分に掲げた革命には繋がらない。簒奪を目論む大貴族による、ただの空席の奪い合い。終わりの見えない不毛な混乱のつけは、国民に回ることになる。


 だからこそ、自分の死を確信した時、無駄な治癒魔法に賭けるよりも、証拠と情報の隠蔽に全力を注ぐと決めた。

 死体を晒すよりは、消息不明の方がまだましだ。

 

 父の仕業であると、確信がある。

 ヴァイシャの即位にもっとも難色を示していたメネイオス。しかしこんな大それた真似をして、これからどうするつもりだろうか。

 王位にしがみつくためとは思わない。無能なりに、国と民を思い、神を敬い、身を慎んで清く正しくあろうとしてきたことを知っている。


 だからこそ、これほどの凶行を犯してまでも何をなそうとしているのか、理由が分からなかった。

 完全無欠の正当性を持つ唯一の王位継承者の暗殺――神の目を常に畏れてきたメネイオスにとって、これは背徳行為ではないのだろうか。

 お互い情は薄いとはいえ、実の娘を殺してまで、次に誰を即位させるつもりなのか。


 誰もいるはずがない。宗教上でも慣習上でも。


 直系の王族としてヌアクがいるが、彼が王位に就くことは絶対にない。例によって神話由来のしきたりがあり、王の弟妹は例外なく、兄姉が即位した時点で、継承権を完全に抹消されるのである。つまり兄のメネイオスが即位したときに、継承者たる資格は永久に失った。

 もし血統の点でヴァイシャの次に王になれる人物がいるとしたら、まだ見ぬヴァイシャの、あるいはヌアクの子しか有りえなかった。

 他に、王家の直系は絶対にいなのだから。


 仮にどこかに隠し子でもいたとしたら、そして表舞台に引きずり出されようとでもしているのなら――気の毒なことだと思う。

 不義の子、ヌアクに対する不当で理不尽な仕打ちを、間近で見てきた身としては。


 いずれにしろ、これ以上できることはない。これが精一杯、最期の仕事。

 置き去りにしてきたキーアは大丈夫だろうか。心配だが、王女としての決断と行動をすること以外の選択肢は、ヴァイシャにはなかった。ただ彼女の無事を祈るだけだ。


 朦朧とした意識の中、もうどれだけ歩いたのだろうか。まだほんの数歩なのかもしれない。

 すっかり暗くなった樹海の中で、ヴァイシャは物体のように重く傾いで地面に倒れ込んだ。――この暗闇は、夜のためなのか、それとも死に逝く者が潜るべき門なのか。


 王女になど、生まれるのではなかった――気丈なヴァイシャが今までずっと押し込め続けてきた弱音を認めた時、空色の瞳から涙が零れ落ちた。


 普通の娘にさえ生まれていれば――贅沢はできなくとも身に過ぎた重責を背負うことなく、平凡に育ち、平凡な恋をして、愛する人とともにささやかな幸福の中、白髪が生えるまで穏やかな日常を送っていけたのだろうか。こんな所で、孤独な死を迎えることなどなく。


 ぼんやりと思いを馳せるが、想像ですら思い描けない自分に気付いて悲しくなった。もう整然とした思考もできない。


 闇の中、ヌアクの表情のない顔が浮かぶ。叔父の笑顔を今まで一度も見れなかったことが、変に心残りに感じられた。プロポーズをする時、何気ない微笑みにどれほどの努力がいったことか。


 あとは叔父上が何とかしてくれる。無条件で信じていた。何も映さなくなった瞳を閉じても、心の中の風景は変わらない。

 やっと、国のことだけを考えなければならない立場から解放されたのだ。それだけが不思議と心を安らかにした。たった一人を心に想う、普通の少女でいることの許される今の自分が、少しだけ幸せに思えた。


「待って……もう、少し、だけ……」


 しかしやがては心の映像も、闇の中に融けて消えた。














「それで、ヴァイシャ様の撃ち抜かれた箇所は?」


 報告後の、ヌアクの第一声に、キーアの心はさざめいた。あれからすぐ、浮遊室ごとヌアク邸に駆け込んでからのことである。

 この方は本当に心というものを持っているのだろうか――疑いたくなりながらも、記憶にある限り正確に、自身の体の数ヶ所を指し示す。


 確認して、ヌアクは黙り込んだ。

 ならば生存はなしと考えて間違いないか――平静を微塵も崩さずに断定する。


 キーアは余計な憶測は言わず、ただ事実だけを伝えたが、ヌアクも首謀者が誰かはすぐに分かった。

 まったく、あの方は一体何を考えておられるのか。ヴァイシャと同じ疑問が湧き上がる。


 ヴァイシャの行動――その意味を、ヌアクは寸分違わず把握していた。

 冷酷な父を恨むよりも前に、王女として国の安定を願い、苦渋の決断で孤独な死出の旅路を受け入れた姪。事後処理の全てをキーアと自分に託して。一片たりとも、読み誤ったりはしない。


 ノックが聞こえ、ヌアクの部下が入ってきた。ひそひそと何かの報告をし、ヌアクもいくらかの指示を与えて退出させる。


「刺客二人の死亡を確認した。遺体はこちらで処理する。ヴァイシャ殿に背格好の似た侍女を選んだ。今夜はその女を連れ帰り、急病を装え。当分はそれで押し通す」


 予想外の命令にキーアはぎょっとする。


「そ、そんなその場しのぎで誤魔化しきれるはずがありませんっ。下の者ならば私以外を近付けないようにもできましょうが、貴族や聖職者、外国からのお客様方のお見舞いがおいでになったら、追い返すことなど……」

「その懸念は必要ない」


 キーアの批判にも、ヌアクは取り付く島がない。


 見舞いはあり得ない。メネイオスは、ヴァイシャの『急病』の原因を、自身の送り付けた刺客に見出すだろう。刺客が二人とも生還しないことから、計画は失敗したと見做す。負傷を癒すためか、無傷のまま反撃を期して……或いは再度の刺客を危惧して閉じ籠ったのか――いずれにしろ暗殺計画は、ヴァイシャ本人にに露見したと考えるしかない。


 一時的にヴァイシャが表舞台から姿を消すのは、むしろ恐怖であるはずなのだ。

 悪事が発覚すれば、国王といえど身の破滅は確実。後ろめたさに怯えながら、何としてもヴァイシャに人を寄せ付けないように手を打つことだろう。


 まさか暗殺は成功していて、影武者が立てられているなどと考えるはずもない。

 刺客二人の死体を、メネイオスの耳目に触れる場所にでも放置すれば、脅しとしては十分だ。報復を企んでいるかもしれない娘の元へ、一人で対決に来られる度量の持ち主でもない。しばらくは黙認の方向で来るはずだ。一時しのぎとしては、それほど無謀な手段ではない。


 問題はその先。

 そう何日も誤魔化せるものではない。その間に、手を打たなければならない。


 ヌアクの脳裏には、一人の幼い少女の面差しが浮かんでいた。

 十年前、高等修道院で一度だけ会った幼い少女。ヴァイシャを含め知る者はほとんどいないが、現時点で、血統の上では正当な王位継承権を持つ唯一の存在。


 ひょんなことからその生存は確認している。所在地も調べればすぐに掴めるだろう。方針を決定するのは、『二世』を確保してからだ。


 ヴァイシャという目のよく見える後継者を失った今、スウェネトをうまく軌道修正することが、自分の役目。とりあえず今打てる手は何か、思案を続けるヌアクの元に、二度目の報告が来る。


「身代わりが用意できた。今すぐ連れて帰れ。顔を隠して、看病するふりで常に付き添っていろ。後のことはその都度指示する」


 その命令に、キーアは色を失った。


「お、お待ちください! それではヴァイシャ様はどうなさるのですか!? きっとどこかで苦しんでいらっしゃいます。一刻も早くお助けしなければ……っ」

「必要ない」


 にべもない返答に、怒りがこみ上げる。


「――それはつまり、もう生きてはおられないと……?」

「話はそれだけだ。下がれ」


 必死の訴えを、ヌアクは淡々と切り捨てた。もともと必要事項ですら言葉の足りない男である。もうこれ以上ない。キーアは表情を隠すようにうつむいた。


「それでは、失礼します」


 退出しながら、心の中で叫んだ。

 ――ヴァイシャ様は勘違いされている!!

 あの男には誠意など欠片もありはしない。ただ目の前の仕事を大過なくこなして国王の機嫌を取るだけのからくり人形に過ぎない。ただの保身の亡者だ。だから姪である婚約者が命を狙われ、国王の伴侶になるチャンスを潰されてさえ、その元凶のために平然と働けるに違いない。


 ヌアクはそんなキーアの内心を察しつつ、無言で送り出した。


 ヴァイシャ殿が、逝ったか……。


 扉の閉まる音を聞きながら、取り留めのない記憶が蘇る。


 大司祭の元で、無為徒食に生きていた少年の頃。国中が世継誕生の祝辞に沸く中、一体何がそれほど嬉しくて目出度いのか、馬鹿騒ぎする国民を不思議に思ったものだ。


 この赤子は自分と違って、全ての人から望まれて生まれてきた子なのだ――初めて見た時の感想はそんなものだった。初めての血の繋がった姪に、何の感慨も持たなかった。


 衝撃を受けたのは、それから間もなく、誰に祝われることもなくひっそりと生まれたもう一人の姪。ヌアクですら大司教から話を聞かされただけの存在。姉のアルファーシュが産み落とした、ごく限られた聖職者のみが知る、忌み子。


 間違いなく幽閉の生涯を強いられるであろう、哀れな姪。便宜上『御子』とか『二世』とか呼ばれるだけの、名前すらない子供。


 自分以上に望まれなかった罪の子に、同病相憐れむつもりもないが、珍しく関心を持った。一度見ただけの顔は、ヌアクの記憶に今もはっきりと焼き付いている。

 

 出会った日の夜、修道院から姿を消した少女。存在そのものを抹消されているため、捜索の手立てもなく、行方不明となったまま。


 彼女を探し当てたら、そしてもしヌアクの思惑が当たっていたとしたら、思いつく限りで一番穏便にこの事態を解決できる策がある。


「ヴァイシャ殿。あなたの願い通り、この国は私が守って見せましょう」


 抑揚のない声で、無表情のまま呟いた。


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