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神の温床  作者: 寿 利真
4/13

王宮の姪と叔父

 ――永遠に続いていく同じ毎日。

 目の前に聳える高い塀の中の生活は、豊かだけれど囚人の日常。


 暗く沈むわたくしの傍にいてくれるのは、シーラと名付けた籠の中の小鳥だけ。


 わたくしの黒髪を恐れもせずに、ちょこんと頭に乗ってくる。

 そうするとわたくしは嬉しくて、心の底から暖かい気持ちが溢れそうになる。


 けれどある朝、シーラは動かなくなった。


 泣きながら冷たくなったシーラを差し出して助けを求めたけれど、院長ははその手を振り払った。

 動物の『死』は穢れだから。高貴な存在は触れてもいけないもの。


 わたくしは修道女たちに反省室へと引きずられていった。地面に横たわるシーラを見ながらどんなに叫んでも、誰も耳を貸さなかった。


 その日の夜、閉じ込められた反省室で、わたくしは意識を失った。気が付いたのは三日後。

 神罰に違いないと、放置されていたらしいけれど、そんなことはどうでもよかった。


 死んだと思ったシーラが、鉄格子の窓から、飛んできてくれたから。

 ――もう、どこにも行かないで。

 手に乗ったシーラの小さな体を撫でれば、冷たい部屋でも孤独は霧散した。

 夜遅くまで、何時間でも語りかけた。


 翌日目を覚ました時、シーラは再び動かないものになっていた。二度と、奇跡は起きなかった。


 わたくしの世界は終わった。――もう、誰もいない。


 反省室から出される時には、ハンカチでシーラを包み、服の内に隠した。

 隙を見つけ、大木の根元にひっそりと埋めた。


 もう泣かなかった。

 何も見ず、聞かず、言わず、しない。――自分の意志では何一つ。


 それが、一番楽だったから。













「ヴァイシャ様。あちらにヌアク様がいらっしゃいますわ」


 侍女のキーアが、バルコニーのテーブルにお茶を置きながら知らせた。

 ヴァイシャは読書の手を休めて、キーアの視線の先を追った。広大な王宮の中庭に、淡いブロンドの髪をした長身の青年が見下ろせた。

 整った顔立ちだが、その灰色の瞳は一切の感情を映し出さない。沈着を通り越した無感情さは、セメト・ヌアクの雰囲気を近寄りがたい硬質なものにしている。セメトとは、降臣した王族の敬称だ。スウェネト王国国王メネイオスの弟であり、王女ヴァイシャの叔父に当たる。


「本当にあの方と、ご結婚なさるのですね」


 生真面目なキーアが、少し気遣わし気に問いかけた。無意識のうちに、何度も我が姫と、ヌアクを見比べてしまう。

 完璧な人形のような空色の瞳とプラチナの髪、輝くばかりの美貌には春の日差しのような微笑、衆目を釘付けにする優美な身のこなし、ただ一人の世継ぎに見合う気品と教養――キーアが青春の全てをかけて世話をしてきた芸術的なまでに非の打ち所がない王女の婚約者として、中庭を横切っていくあの人物は相応しくないと感じられた。


 スウェネト王家では、神の代理人たる国王の立ち合いがあれば、血族婚が許される。それでも、できることならこの結婚は思い止まってほしかった。


 二人の視線に気付き、ヌアクの足が止まる。無表情のまま軽く会釈すると、再び政務棟へ向かって歩いて行った。ヴァイシャの微笑を見届けて。


「叔父上以上に、国王の伴侶に相応しい方はいらっしゃらないもの」


 ヌアクを見送りながら、ヴァイシャが答える。しかしキーアは、常に彼に付きまとう不穏な噂を聞いていた。ヌアクと同い年で、王宮に上がった時から見知っているだけに、あまり好印象で見ることができない。


 

「確かにヌアク様は有能な方ですし、王立大まで出られたご立派な方です……でも」

「キーア。あなたまで、あの方のお生まれが不満? それは叔父上の責任ではないわ。仮に責められる人がいるとすれば、お祖母様(ばあさま)のはずよ」


 主に窘められて、キーアは口を噤む。


 ヌアクは国王メネイオスの、ただ一人の弟。先代女王の末子に当たる。しかしその誕生は、女王の夫の死後、数年後のこと。

 女王の不義の子という大醜聞を揉み消せるはずもなく、当時、父親候補と囁かれた人物は十人を超え、それを利用されて四人が失脚した。

 国王の実子を蔑ろにはできず、宙吊りの立場のまま大司祭の元へ預けられ、ヌアクは誰からも敬遠される幼少期を過ごした。

 自由の身になったのは、女王の死後、義務教育の年齢が終わったばかりの頃。メネイオスが実の弟を、正当な王子として王宮に受け入れることを熱心に望んだためだ。しかしヌアクは大司祭の勧めで、すでに降臣してしまっていたため、王宮には戻らなかった。

 そのまま大司祭の元で無為に過ごした数か月後、突然学問に目覚め、自らの意志で王立大学に通い始めた。

 本来高貴な身分は、大学へは行かない。前代未聞のことだった。実践的学問とは、身分の卑しい者がするものなのだから。必要とされるのは、本来神学と礼儀作法、処世術などだけだ。

 それでもヌアクは庶民に混じって勉学に励んだ。そして今では内務卿として大臣の一角に収まり、兄王に重用されて国政を担うまでになっていた。


「私が気になるのはお生まれではなく、そのなさりようです」


 キーアはおずおずと口を開いた。


「ヌアク様はご自身のご栄達のためには、どのような手段も厭わない方のように思えます。先頃ラハーサ卿が失脚されたのも噂では――申し訳ありません。口が過ぎました」

「あら、噂ではないわ。それは事実よ」


 ヴァイシャは朗らかに断言する。


「でも、栄達のためとは違うのではないかしら。むしろ保身ね。確かにそのためならあらゆる手段を実行される方だけれど、私に害をなすことは絶対なさらないもの。心配はないわ」


 複雑な表情のキーアに、更に続ける。


「識見の高さ、父以外の後ろ盾を持たないしがらみのないお立場。王弟の身分。外戚の台頭や権力の分散、勢力争いの危険性もないのよ。理想的だわ。感謝しなければ」

「……」

「とにかく結婚しないことには始まらないわ。これもくだらないしきたりのせいね。それとも今回はおかげというべきかしら」

「ヴァイシャ様っ、またそのようなことを……神の御定法ですよ」


 慌てて諫めるキーアに、ヴァイシャは内心で溜め息をついた。人より分別のあるキーアですらこれだ。己を育んだ環境に染まりきって、脱却できない。


 何もかもが、神、神、神である。ヴァイシャはうんざりしていた。


 そして神のもっとも敬虔な信奉者は他でもない、父のメネイオスだ。彼には王になるにあたって、一つの負い目があったせいかもしれない。


『故に、天帝は長子を以て世継ぎと為せり』――千年以上も前にまとめられた、カビの生えた聖典の一節である。

 天帝のすることが常に正しい。故に神の子孫たる王家は、絶対長子継承制だった。

 しかしメネイオスは長子ではない。長子が死亡したため次子が継いだ例など、そう珍しくもないのだが、彼の罪悪感は度を越していた。『神の御意志』の完全なる履行者になってしまうほどに。


 その結果、教会を次々と建て、国家財政の三割を神事に注ぎ込み、果ては土地が足りないと他国の土地までないものねだりを始める始末。――これ以上野放しにはできなかった。


 次子でありながら王位に就いた事実が、常に彼の信仰心を苦しめてきた。それは知っているが、正直ヴァイシャの知ったことではない。


 そこで今回重要になるのが、聖典の別の一節。『人は善良にして敬愛すべき伴侶を得て初めて完全になる』の方。未婚者は不完全とみなされ、国家を預かる大事業にたる王と認められない。逆に言えば、結婚さえすれば、合法的に王位を簒奪できるのだ。現国王は、世継ぎの真の成人を祝し、喜んで退位しなければならない。

 

これ以上事態を悪化させる前に、速やかに父を退位させなければ――そう考えた時、ヴァイシャの脳裏に真っ先に浮かんだのが、叔父のヌアクだった。


 温順にして敬虔、花のように美しくたおやかと誰もが、敬愛する王女の、その実したたかで不遜な本性を静かに見ぬく叔父。ともに国政を運営でき、完璧に補佐する能力を持ち、何より本心では神の教えを歯牙にもかけない合理性――そんな貴族は他にはいない。

 神に踊らされて停滞した国をともに立て直すことの可能な、ただ一人の存在。


 『酒を左手で飲んではいけない』『雨の日に青い服を着てはいけない』『石に躓いたら、直ちに教会で懺悔』――もう意味が分からない。神話に由来する無数の決まり事を、何の疑問も持たずに順守する貴族達。

 ヴァイシャはもう我慢ができなかった。そして、そんな不敬罪に相当する思想にも、ヌアクだけは賛同してくれると無条件に確信していた。


「キーア。確かに叔父上は多くの政敵を容赦なく陥れてこられた方だけれど、父上と私にだけは常に誠実でいらしたわよ」

「それも、保身のためではないのですか?」


 その指摘にヴァイシャはくすくすと笑う。


「私も昔はそう思っていたわ。何でも言うことを聞いてくださるから。でもね、父上の我儘などは、上手に誘導してお諫め申し上げたほうが、遥かに利口で楽なやり方なのよ? 実際にそれができる方だし。なのに、ただ黙々と無理な命令を叶えて差し上げるの。そして帳尻合わせに一人で苦心なさるのよ。いつもそう」

「だからご結婚まで?」

「ふふ。『結婚して』って申し込んだら叔父上、たった一言『承知いたしました』よ。普段の頼み事と全く同じ調子でね。私の考えを、即座に読み取られたのね。私はキーアと同じくらい、叔父上を信頼しているの。私達でこの国の妄信的な信仰を、必ず改革するわ」


 理想に突き進むヴァイシャの強い意志とあまりの性急さに、キーアの心には不安が広がる一方だった。


「陛下は御自身の御退位について、どのように思し召していらっしゃるのでしょう」

「父の意志など無意味だわ。土台あの方は王の器ではいらっしゃらない」


 実の娘はシビアに断じる。あまり親子の情も感じない。接した時間なら、ヌアクとの方が余程長いくらいだ。だから客観的な評価ができるのだろう。現実を見ることのできない愚かな王だと。


「父上は何の責任も持たない次子として、お祖母様に甘やかされ放題で育てられた方だそうだもの。突然身に過ぎた重責を背負わされて、むしろ不幸だったのではないかしら。実際王位に就くのにずいぶん抵抗なさったそうだし」

「そうですね。お世継ぎのアルファーシュ様が留学先でお亡くなりなった時は大変な騒ぎでした。ヴァイシャ様がお生れになったばかりの頃ですが、私も幼心に覚えております」


 記憶にはない伯母の話に、ヴァイシャは心を躍らす。


「伯母上の話は、今でも話題に上るわね。ご存命でいらしたら、今、私が出しゃばるようなことにもならなかったでしょうに。どれだけ革新的な方でいらしたか。『地下の扉』をくぐって、全く未知の世界へと自ら学びに行かれたなんて。――あ、『地下の扉』の話をキーアに教えたことは、内緒よ?」

「心得ております」


 どんな些細な情報も、キーアが外に漏らすことはあり得ないが、『地下の扉』はその中でも別格。王族とごく一部の聖職者しか知らない、最重要国家機密である。


 実物を見たことはない。いつの間にかあったという空間の穴に、扉をかぶせたものとヴァイシャは聞いている。穴の向こうには、もう一つの世界があるという。神意を畏れず、魔法も使わずあらゆることを成し遂げる、穢れた――けれども力あるものの棲む世界だという。

 そのためスウェネト王家創設以来、厳重に守られ、みだりに立ち入ることも禁じられてきた。しかし王家が今まで君臨してこれたのは紛れもなく、『扉』を独占し、時折もう一つの世界の知恵や技術を利用してきたためだ。


 その事実を知った時の興奮を、ヴァイシャは今もはっきりと覚えている。

 神に縛られない世界。人間中心の国。実力のあるものが台頭できる社会。想像するだけで、飛んでいきたくなる。

 実際当時も、すぐに行きたいと駄々をこね、生まれて初めてヌアクにたしなめられた。「そのことは決して陛下におっしゃってはいけません。私も忘れます」と。ヌアクの拒否がショックだったが、今なら分かる。

 姉アルファーシュの死以来、メネイオスは病的なまでに『扉の向こうの世界』を嫌悪し、『扉』への通路に近付くことすら許さなくなっていた。出世の亡者と思っていたヌアクの誠実さに、初めて気が付いた。父に告げ口をされていたら、親子の溝はもっと深くなっていたはずだ。


 だから、完璧な王女として時を待った。固く閉ざされた『扉』を開ける時を。王位を継ぐ日を。


 『扉の向こうの世界』の人知を超えた知恵を、世のために有効活用することもなく、王家の私利私欲のためだけに独占する時代は終わらせる。連綿と続けてきた傲慢と怠慢、それこそが罪だ。

 いずれはあらゆる分野の進歩的な学者を組織して留学させ、優れた技術や制度をどんどん取り入れるつもりだ。理不尽な慣習に汚染された社会に、合理性という楔を打ち込むのだ。


 その夢が、近いうちに現実になる。国王としての責任が重い仕事の中で、義務を超えた唯一の楽しみでもあった。


 魔法も使わず火や灯りをつけ、巨大な建造物を建て、空を飛び、海に潜り、山すら穿つ――人の手でそんなことを可能にしてしまうことこそ、まるで魔法のようだ。


 この城の地下のどこかに、すぐ近くに、そんな世界が存在する。

 逸る胸を抑えられなかった。王にさえなれば、その世界を見ることができるのだ。


 ――王にさえ、なれば。











「かくの如く無知蒙昧なる賤民どもが陛下の神国の一部をスラムと為して跳梁するに至り、またその勢力を拡大しつつあるのは、陛下の御威光、ひいては天帝の恩威を蔑ろにしているからであります。神に選ばれたる貴族を襲撃し、金品を強奪するなどという不埒千万なる悪業を重ねるに及ぶも、全ては神威に触れる機会を持たぬがためであります。王家の婚儀という国を挙げての御慶事が、庶民どもに浸透しきらぬのもその表われと言えましょう。婚儀に奉祝の意を表わすためにも、新たなる聖堂を建立し、スウェネト王家の御威信を天下に知らしむるべきかと存じ上げます」


 ――一体この男は、さっきから何を言っているのだ。


 国王の謁見の間で、雄弁に聖堂建立の必要性を滔々と説く隣の男を、セメト・ヌアクは冷ややかに傍観していた。

 ゲネイナ財務卿――ひたすらによく回る口で、その地位を堅守してきた男である。


 謁見の間には、上座のメネイオスが座し、その面前に二人の大臣が立って並んでいる。

 ゲネイナの思惑としては自分一人で奏上することが望みだったが、ヌアクを重用するメネイオスは、あらゆる建議に立ち会わせようとする。


 ヌアクにしてみれば、隣でどんな寝言が飛び出そうが、興味もない。何の感情も湧き起こらない。いつもならただ黙視するのみだが、今回は少し風向きが違っていた。

 結婚を祝って聖堂を建てたいなら勝手にやればいいと言ってやりたいところだが、結局実行するにあたって、全てを統括することになるのは内務卿のヌアク本人である。

 ――祝われる当人であるにも関わらず。


 もちろん建てろと言われれば建ててみせるが、詭弁にもならない馬鹿げた論法には、片腹痛いというしかない。

 スラムが増えるのは、税金が重すぎて、生活できないからだ。税金が重いのは、一握りの金の価値を知らない貴族達が、飽きもせずに教会を建て続けるからだ。

 子供でも分かる理屈が、なぜ政治を預かる者に分からないでいられるのか――貴族には下々のことなど知る機会も必要もない。


 メネイオスはゲネイナの飾り立てた言葉にも、表情を動かさない。数段高い玉座から、二人の大臣を物憂げに見下ろしている。髪や眼の色、顔立ちはヌアクと似ているはずなのに、覇気のない雰囲気が実際よりも老いた印象を与える。


「ヌアク、お前はどう思う」


 調子に乗っておべんちゃらを続けるゲネイナを無視して、信頼する弟に訊ねる。


「お前の婚儀だ。聖堂は欲しいか」

「必要ないかと存じます」


 微妙に論点をずらして即答する。まさか欲しくないとも言えない。それにゲネイナが目を剥いた。


「必要ないですと!? これは最早、慶事のためだけで申し上げているわけではありませんぞ。ヌアク卿は、天帝と陛下への御恩も忘れ果て荒みゆく我が国の現状を何と心得られるのか」

「残念ながら、これ以上聖堂を建てたところで、陛下には何ら得るものはございません。建立の目的が先程の説明だけ(・・)であるなら、無意味な計画と申し上げるしかありません」

「神聖不可侵たるべき天帝を奉るための聖堂に意味を求めるなど、不遜も甚だしいのではありませぬか!?」


 ゲネイナが一層むきになった理由が、ヌアクには分かっていた。彼には『だけ』という言葉が、より強調されて聞こえたのだろう。ヌアクに余計な発言などされないよう、慌てて続ける。


「そもそも我々が神に祈るのは、意味を求めてのことではありませぬ。祈ることで、少しでも神の御心に添わんとするためでありましょう。聖堂を建立するのとて同じこと。建立するという行いではなく、そうしようというその心にこそ、神への敬意の念がこもり、それ故に御加護を受ける資格を得るのではありませぬか」


 ――つまり神の御加護とやらは金品や物品で買えるものなのだな……ヌアクは内心で皮肉る。わざわざ面倒な議論を戦わせようとは、これ以上思わない。

 議論自体に意味がない。

 昔、一度だけ連れて行ってもらった『扉の向こう』――自分はもう気付いている。

 神など、どこにもいないと。


 しかし敬虔な信仰の奴隷であるメネイオスは、ゲネイナ言葉に頷いた。


「王家の威信云々はともかく、ゲネイナの言には理がある」


 だろうな――ヌアクは何の感慨も持たなかった。メネイオスには、神の名さえ出せば大抵の意見を通すことができる。今日も例外ではなかっただけのこと。


「ヌアク。聖堂を建てるがよい。全てはそなたの裁量に任せよう」

「拝命いたしました」


 速やかに了承するヌアクの隣で、ゲネイナが、勝ち誇った顔をした。


「私は建設予定地にイメニア街区を提案いたします。あの区域には確か教会が四棟しかないはずです」

「閣議の結果を待たねば、私の一存では何とも。至急会議の席を設けましょう」


 そんな所に建てられるものかと、心の中で即廃案に追い込む。


 これからが大変だ。ただでさえ婚姻の儀を取り仕切ることで手一杯の上、その祝儀まで自分で贈ってやらなければならいないとは。


 簡単に『建てるがよい』と言ってくれるが、それがどれだけの人の手を経てやっと成し遂げられることなのか分かっておられるのか――。


 『魔法』と言っても、厳然たる理屈があって成り立っている。聖堂が出てくる魔法の呪文なんて都合のいいものはどこにもない。


 これに関して特に大変な仕事になるのが、おかしなことに人事だった。

 何故ならそこでも、不合理な決まり事があるから。職人は、自らの仕事に誇りと責任を持たなければならないため、生涯一度しか宗教関係の建設に携われない。設計者、施工者、工匠、彫工、その他。まだ聖堂建築未経験の匠達の中から、少しでも名手を選び出さなければならない。それは、彼らの命にも係わることになる。


 教会建築に関する熟練者が存在し得ないのだから、当然失敗は少なくない。それでも不備があろうものなら、現場の人間が裁かれるのだ。

 数十年前、落雷で全焼した教会があったが、その時は教会の司祭と建築責任者が死罪となり、残りの職人は指を切断された上で投獄された。


 人事の他にも、資材や予算の確保、増税に関わる法案作成、議会への提起、やることが山のようにある。

 提案者のゲネイナと言えば、甘言を弄するだけだというのに。


 ゲネイナは建築予定地にイメニア街区を推したが、貴族の邸宅が密集しているあの区域に建てられるはずがない。貴族達の猛反対の末、散々もめた挙句、下町方面に強引に押し付けられるのが落ちである。


 国王同様、信仰心の深いはずの貴族達は、しかしながら自宅の地区に教会の類を置かれることを敬遠する。建立の祝賀を始め、神への供物を、周りの貴族達と競って献上しなければならなくなるから。


 そしてその供物は、市民の税から割かれた建築資金の一部とともに、財務卿ゲネイナの懐へ流れ込む仕組みになっている。

 忠臣めかした顔の裏で、ゲネイナが建築予定地にあえて高級住宅地を提案した理由の全てだ。


 ヌアクは思案した。

 これ以上ゲネイナに権力と財力を持たせては、国政の劣化はともかく、自分の立場が窮屈になるかもしれない。時期に女王の夫になる身分とはいえ、用心を怠る理由にはならない。弛みない努力を積み重ねて、現在の地位を守ってきたのだから。


 やはり彼には消えてもらおう――何の感情もなく、判断を下した。



 

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