雲の上の海賊
壁の向こうには、何があるのだろう。
見上げた空を飛び交う、たくさんの人々。
中でも、わたくしと同じ年頃の女の子達が、とてもきらめいて見える。
わたくしも壁の外に出られたら、あの輪の中に入ることはできるのだろうか。
周りには大人の修道女しかいない。彼女達は、わたくしの世話をよくしてくれる。高い教育も与えてくれる。不自由のない生活も保障してくれる。
からくりのように、無機的に。
わたくしの求めるものは、ここにはない。
誰もわたくしを見ない。
気味悪がって誰も触れようとしない黒髪を、わざと不器用な手つきで梳いてみる。
どんなに待っても、わたくしの本当に望むものが、得られる日が来ることはないと知りながら。
心の慰めは、飼うことを許された一羽の小鳥。この世界で、唯一、わたくしを見てくれる存在。
どんなに懸命に神に仕え、贖罪に励んでも、生涯許されることはない。
この身は、『罪』そのものだから。
――この壁の外の世界なら、わたくしの欲しいものは手に入るのだろうか。
「一言で言い表すと、『変』な世界だね、ここは」
まだメンバーの集まらない会議室で、「3-D、№42」のデータを大型モニターに呼び起こしながら、青年は端的な説明をした。
アメジスト色の髪と瞳をしたこの青年は、名をイーライという。美女と見紛う容貌には大量のアクセサリー類、細身の肢体には丈の長いシグナルレッドの軍服という、とにかく見た目がド派手な男だ。
「随分と大らかなまとめだな」
報告を受けた寥庵は、ミーティングテーブルの上で、のんきにカードの束をかき混ぜていた。無国籍風のゆったりとした着物に身を包み、金髪と緑の瞳の風貌からは、極めて鷹揚な人柄をにじませている。なんとも掴みどころのない、超然とした雰囲気を漂わせる青年である。
まとめたカードを一枚ずつ伏せながら、片手間のように説明を促す。
「で、何が一番『変』なんだ?」
「データ見てよ」
「いや、みんなが集まってからでいい。イーライの所見が聞きたい」
「オレの見解ってことなら、ここに生息してる人類の全てだな。清く正しく美しく病んでるってのかな。文化、社会、性情、能力————とにかく全部変」
ざっくりとして即答の内の一言に、寥庵が反応する。
「能力?」
「そう。人種体系は、オレやあんたと同じく標準型なんだけど、ESP値が異常に高い。もっともここの連中は『魔法』とか称してるけどね」
「超能力か。数値は」
「データに入ってる四十八種の知的人種の平均値の、およそ二万倍。それこそ自由自在に空を飛ぶよ。個人差はあるけど、まあ、超能力の見本市、って感じだな。マジ魔法」
「それは凄い。だが、厄介だな。私達の所在地、見つからないか? 1万メートル級の山に登る登山家がいる世界もある」
「それは問題ないかな。上昇したら寒いし息苦しくなるでしょ? これが彼らには、異常な恐怖らしくて」
「どういうことだ?」
「この苦痛は神々からの警告! これ以上神の領域に踏み込めば、逆鱗に触れる! ってなもんだね」
「なるほど。斬新な解釈だ」
寥庵はカードの手を止めず、飄々と感心する。
「宗教上の教義が、狂信的に厳しいんだよ。実際、雲の上を目指して墜落死した例が多いから、余計恐怖の伝説に拍車がかかる」
「普通に考えれば、急激な気圧低下・酸欠による高山病とか、失神とかだろう? 登山と違って、途中で休めないなら」
「でも普通に考えないで、神罰だ! ってなっちゃうんだねー」
失笑気味に、イーライは調査結果に視線を落とす。
「社会形態とか様式は、中世レベルで、もちろん王族や貴族、僧侶なんかがいる。で、やっぱり特筆事項は、異常に強い信仰心。雲の上にはえらーい天帝様を頂点とした、めくるめく多神教の世界が広がってると、頭っから信じ込まれてるわけ。気候も変わってて、分厚い高層雲が常に空を覆ってるから、そんなメルヘンな世界観になちゃうのかな。――だからまあ、こいつが見つかる恐れはまずないね」
断言して、パノラマ状の窓に目を向けた。
そこには、見渡す限りの青空が上方に、切れ間なく続く雲海が下方にと広がっていた。
悠然と浮かぶ、純白の飛行艇――次元航行船『天鏡号』である。
機能的な流線型のフォルム、直径二百メートルを超す機体に、美しく反射する装甲。首領兼メカニックの寥庵が設計・建造した、この魔法の世界には実に不釣り合いな科学の粋の総決算といえる。
絶景から寥庵に視線を戻したイーライは、その様子にげんなりする。
「まだ、過剰な心配してるね」
言い当てられた寥庵は、カードを並べる手を留めて笑った。
「さすがによく分かるなあ。私の表情は読みにくらしいんだが
「そりゃあ、何百年も付き合ってりゃあね」
「まだ百七十二年だ。標準歴で」
「立派に何百年でしょ」
艦内を代表する大雑把VS慎重の二人は、これまで幾度となく繰り返されてきたやり取りを、懲りずに展開する。次元の海を漂っている影響で、老化が異常に遅くなるせいで、腐れ縁の期間も長かった。
「寥庵、無駄に用心深すぎ。オレは完璧にやってる」
「分かっている。現時点で必要なことはやっているだろう。あとは私がデータを見て、適宜補完しよう」
無駄のない仕事をするイーライに対して、寥庵は考え付く限りの失敗パターンのフォローまで、無駄な程に備えるタイプだ。とにかくあらゆる可能性を想定して、その全てに善後策を講じておかないと気が済まない。
「経費の使い過ぎで、あすらに文句言われんの、オレなんだけど」
顔に似合わず天鏡号一口やかましいイーライが、一向に揺らがない首領に不平をこぼし始めた。
「大体データ収集にしたって、先入観を避けたいからだなんて、絶対手を出さないし。一番予断を持たないデータ人間のくせに。ほとんど無駄に終わる対応策に手を回しまくってるくらいなら、少しは手伝ってほしいよ」
一度回り始めた彼の口が当分止まらないのは常だが、これに関しては仕方ないかもしれない。
イーライは次元航海士兼参謀、その他雑用全般という、なんともややこしい役職……ありていに言えば、面倒は全部奴に押し付けとけ、という立場にある。
いざ仕事に入れば、情報収集や分析、作戦立案から、機材や人員の管理・手配まで、一手に任される。
寥庵は手を貸そうともしないし、そもそも船のサイズに対して、乗組員が三十二人しかいない。器用な者ほど役職が増えてしまうのだ。
その過密な仕事内容を何とかやり上げた後で、実質「不備有り」のような扱いを受ければ、文句の一つも出るというものだ。天下泰平を絵に描いたようでいながら完全現実主義者の寥庵が、いちいち人の気持ちを思いやってくれる程デリケートにはできていないと熟知してはいても。
腹心の仏頂面をよそに、寥庵は悠々とカードをめくり始める。
「またナントカ占い? まったく、究極の科学人間のあんたが、なんだってそんな非科学的なものにハマるんだか」
「タロット占いだよ。№18で手に入れた。なかなかに面白い」
「あんたと全く結びつかないんだけど」
「そうバカにしたものでもないぞ。この前統計を取ってみたんだが、72パーセントの的中率だった。私のESP値はほぼ皆無なんだが、50パーセントとならないのが興味深いだろう?」
「占いのデータって……なんか凄く矛盾してない?」
ぼそりとつっこんでから、本題からそれ過ぎていたことにはたと気付く。
「矛盾といえば、ここの世界はひどいね。文明レベルのランク付けに困ったのは初めてだ。大体、ESPとか特殊能力持ってる社会は、総じて科学分野が遅れがちなんだけどね。ここの連中、飛んだり飛ばしたりする関係からか、物理学は結構なレベル。一方で、生まれつき便利な力持ってるもんだから、機械工学とかは土人も真っ青な最低ランク」
「必要は発明の母というやつだな」
「うん。で、天文学に至っては、学問そのものが存在しない。星が観察できないからね。季節もないからまともな暦も作れなくて、神話にちなんだ数字で一年333日とか出鱈目だし。大学の講義なんか、宗教科学論の隣の教室で量子力学、その向かいで魔法理論とかやってる感じ」
「宗教科学か。面白い発想だな。偶然の奇跡と思い込みとこじつけと経済活動で成立する宗教を、どんなアプローチで科学的に論じるんだろうな」
徹底したリアリストの寥庵には、実に興味深く感じた。イーライも頷く。
「それこそ、矛盾もいいとこだよね。飛んでるつもりで実は地上を這いずり回ってるこのお伽の国の連中は、空の色すら知らないんだ」
「皮肉なものだな。――それで、天弓宝珠の件はどうだった?」
報告を一通り聞いたところで、話の腰を折る。寥庵からすれば、これこそが最優先の本題だ。イーライが該当のデータを呼び出す。
「スウェネトって王国の王宮深くにあるらしい。現物は拝めなかったけど、情報で得た限りでは、本物の可能性が高い。ここでは、金波石って呼ばれる国宝だってさ。買い取りは難しいね」
「探査カメラは?」
「重要な建造物には『結界』とかいう精神波の防御壁が張り巡らされてて、あんな小型の精密機器じゃ、侵入した途端にショートしちゃったよ。そもそも結界内は電波も通らない」
「カメラも通信もダメとなると、人力で調査するしかないか。強力な超能力者相手の戦闘も、できれば避けたいな」
「それじゃ、今回の作戦は襲撃じゃなくて、潜入ってことでいいね?」
実はすでにその段取りを整えていたイーライが、にやりと笑った。
「襲撃とか潜入とか、穏やかじゃないな。私達は賊ではなくて、ただの貿易商人だよ。まあ、どう呼ぶかは商売相手の勝手だが」
寥庵はぬけぬけと、とぼけた訂正を入れた。
実際、基本的なスタンスは貿易商人で間違いない。次元を股にかけて商品をやり取りする、紛れもない商売人だ。ただ、売買など、正規の手段による入手が困難となった場合、速やかに盗賊にジョブチェンジするだけだ。
「天弓宝珠で五年は活動できる。リスクは高いが、諦めるには惜しい。潜入の手段はもう講じているのだろう?」
「当然」
仕事の早さには定評のあるイーライは、机の上に、男女の全身像を3D映像で映し出した。二人とも二十代半ばほどで、仰々しいだぶだぶの民族衣装をまとっている。身分の高そうな人物だ。
「エルシャス王国って小国の王女フェトヒ・イエと、夫で外務大臣のケユクス。こいつらと入れ替わるのが一番動きやすくて手っ取り早いと思う」
イーライは綿密に調査した上での結論を告げる。
「天鏡号のちょうど真下が問題のスウェネト王国になってるんだけどね、そこの王女が大臣と結婚するってんで、各国大使が招かれて続々入国してるんだよ。この夫妻は七日後に到着予定。メディアが未発達だし、高貴な身分はやたらに顔を晒さないから、外見的特徴を合わせれば、比較的簡単に入れ替わり作戦は行けるはず」
「召使みたいのが付いているんじゃないのか?」
「まあね。でも、身分の低い外国人は王宮内には入れなくて、帰国の時まで官舎に待機ってことになってる。自国の召使に対してだって、チェックは厳重だよ。というより、身分が低い程厳しい。身元なしで潜り込むのは、まず無理だろうね。だから弱小国の王族ってわけ。注目度は低い上、それなりに行動の自由は保証されるだろうから」
「王宮を動き回るためには、使用人に化けるよりも有効なわけか」
「これ以上の物件はもうないと思うよ。王宮入り前日の宿所で二人を拉致して、替わりの工作員を送り込む。お付きの連中も、一晩くらいなら簡単な集団催眠で誤魔化せるし」
イーライの計画を、寥庵は頭の中でざっと吟味した。
「反対意見は?」
「いや、イーライがそう判断したのなら、それが一番確実なんだろう。細かい点はデータを元に私が詰めておく」
GOサインを出した後、ふと首を傾げる。
「しかしそうなると、主軸の工作員二人は相当忙しくなるな。昼は役柄を演じて、夜は探索に飛び回るわけか」
「いや、実はそうでもない」
もっともな懸念を、イーライは否定する。
「この世界の一日は三十五時間ちょっとある。時制は『刻』、約百十六分を一単位とした十八進法で、日が差したのと同時に一刻が始まる。で、この国の人の平均的な睡眠時間が、なんと九刻になるんだ」
「――一日の、半分も寝ているということか? 昼寝とかではなく一度に?」
怪訝そうに尋ねる寥庵に、うなずく。
「そう。活動時間がおよそ十七~八時間てのは珍しくもないけど、睡眠時間も同じだけってのは、異常に長いよね。ESPを日常的に使うから、精神的に長時間の休息が不可欠なんだろうね。夜がそれだけあったら、調査した後でもそれなりに休めるよ。もう、見事に潜入してくれってくらいの環境でしょ」
「なるほど」
納得して、机上の男女を観察する。
長身の女は布を目深にかぶっていて髪の色は不明だが、琥珀色の瞳をした美女だ。男の方は、金髪に緑の瞳で、外務大臣の肩書を背負っているようには見えないほど若々しい。
「標準型か。これに特徴を合わせられる工作員となると……シスとレイアストライアかな。あすらに整形の準備をさせてくれ」
素早い判断とその指示に、イーライは気まずそうに言い淀む。
「い、いやあ、それがね、そう来ると思って、もう、あすらに指示出しておいたんだけどね……。ちょっと、予定がおかしなことになっちゃってねえ……どうしてこんなことになっちゃったんだかねえ……」
歯切れの悪い態度に、不穏な空気を感じる。
「あすらが何かやらかしでもしたのか?」
「そうなんだよ。あのうっかり者の大ドジが、何を思ったかしょうもない大失敗やらかしちゃったもんでねえ……」
「だーれが、うっかり者の大ドジだって!?」
不意に開いた自動ドアから、第三者の声が割って入った。
イーライはうんざりと振り返り、そこに予想通りの人物を見つける。
天鏡号内の医療を一手に引き受けるあすらである。
異様に露出度の高い、密着した衣服の若い女だ。半標準型人種の彼女は、額に目が一つ、両脇に腕が一対、それぞれ余計についている。元来表情のない顔に備わった三つの瞳に、今は髪と同じく深紅の色を浮かべていた。興奮色だが、大抵は怒っている時の色だ。
「あたしだってねえ、たまには可愛らしい失敗くらいする時もあるわよ! それを何っ!? しょうもないですって!?」
当のあすらが、入室するなり怒鳴り始める。
「まったく、人の不幸を何だと思ってるの!? 大体あんたが寥庵に相談もせずに、出しゃばって先走ったマネするから、こうなったんじゃないの!!」
四本の腕を忙しく動かしてイーライに食って掛かる。表情こそ皆無な体質だが、気分によってコロコロ変わる瞳の色とオーバーアクションのため、総合的には感情表現の豊かな人物と言える。
天鏡号一のヒステリーに噛みつかれて閉口するイーライの横で、寥庵はあすらの二本の右手に目を留めた。簡易ギプスがはめられている。
「ちょっと待て、あすら。その手はどうしたんだ?」
「え、いや、何てゆーか、その……」
あすらはピタリと喚くのをやめる。瞳の色はさっと灰色がかった。その隙を逃さず、イーライがからかいの声を入れる。
「手術器具の準備してたら、レーザーメス落っことして、はずみでスパッと切り落としちゃったんだよな。いやあ、さすがに四本もあると、気前がいいね。豪気だよ。とても真似できないな」
「うるさい! 一生に一度あるかどうかの不運をごちゃごちゃ言わないで!!」
二人のバトルに全く構わず、寥庵は続ける。
「切り落としたって……二本ともか? またえらく器用なことをしたものだな」
ある意味感心され、あすらの瞳はまた赤く染まった。
「他人事だと思って、それはないでしょ!? 少しくらい心配してくれてもいいじゃないっ。死ぬほど痛かったんだから。ホントに、残った左手で泣きながら縫合したんだから! それを二人とも笑い話のタネくらいにしか思ってないんだから、なんて薄情な連中なの!?」
「恨むなら自分の技術を恨むんだね」
イーライは実に涼しい顔で答える。
「あんたの医療技術が完全すぎるもんだから、天鏡号での怪我の価値が下がっちゃうんだよ。落っことした手だって、元通りになっちゃうじゃない」
「うっ――今度から手術の手、抜こうかしら……」
本気で悩みだすあすらを前に、予定の変更を余儀なくされる。
「その腕じゃ、手術は無理か?」
「うーん、そうね。日常生活に支障はないけど、精密な作業となると、十日は無理だわ」
「となると――もともと特徴の合う者を送り出すしかないか」
標準人種のクルーを、頭の中に網羅する。背格好さえ合わせられれば、髪や瞳の色はどうとでもなる。
「現場での腕は不安だが、とりあえずケユクス大臣はワヒドゥかな」
ピックアップするや、あすらが文字通り目の色を変えた。
「ダメ――!! 絶対反対!! あり得ないわ! そんな何日かかるかも分からない作戦にワヒドゥを連れて行こうなんてっ。艦内でデモが起こるわよ! 一日でもあいつが天鏡号を空けたら、あたし死んじゃうわ!!」
ひたすら絶対反対を連呼する。
ワヒドゥは、食事全般を一人で担う料理長である。「長」と呼ぶならせめてもう一人助手をくれとは彼の弁だが、人事を都合しようにも、行きたがるものが誰もいない。その過酷な仕事環境を、クルー一同暗黙の裡に了承しているためだ。
たかが料理とバカにはできない。
天鏡号の構成員三十二人は、往来した異世界ごとに様々な人種が出入りした結果から成っている。主流である標準型人種ですら、全体の四割に過ぎない。
それぞれ基本的な体構造が大なり小なり違うため、どうしても食生活は統一できない。アルコール一つとっても、イーライには水と同じだが、あすらには劇薬となる。極端に言えば、飲料水のpH値や硬度から、果てはタンパク質NGなどという要求にもこたえる必要がある。
メニューどころか、食材や栄養素まで、一人ひとり対応して作り分けているのだから、大変な手間である。
あすら自身、人狼種に玉ネギ料理を振舞って下痢にさせたり、爬虫類種にトカゲ料理を出して卒倒させたりと、失敗は数知れず。それだけに、自分を含めて他人の手料理は一切信用していない。
彼が乗船する前の惨状と呼ぶに相応しい食生活を思えば、おいそれとは手放せない人材だ。もっとも、何百冊とある彼の料理ノートに人体の廃棄率を見つけた時には、決して二人きりになるまいと誓ってはいるが。
とにかく豊かな食生活を断固として守るべく、ワヒドゥの下船は邪魔をするつもりである。
「別にいいんじゃない? ワヒドゥである必要はないでしょ。あいつじゃちょっと荷が重いしね」
珍しく助け船を出すイーライに、あすらは瞳の色を暗くして訝しむ。
「あんたが素直に賛成するなんて、何か企んでるんじゃないの?」
「もっと相応しい奴がいると思わないか?」
人の悪い顔で、3D映像の男女を指し示した。
金髪に緑の瞳の男に目を留め、アスラは不意に大爆笑した。
「あははははっ、それいい! 大賛成!!」
「でしょ、実はオレもさあ、こいつ見た時、真っ先に思いついたんだよね」
さも楽しげに盛り上がる二人を前に、寥庵の眉間に微かに皺が寄る。
「おい、ちょっと待て。私はやらんぞ。絶対」
多少雲行きの悪さは感じつつも、とにかく拒否する。ケユクスという男は、その風貌がおもしろいくらい寥庵と似通っている。
「私はバックアップ専門だ。現場に行ったら、ここから指揮を執れなくなる。潜入なんて、私は絶対しないからな」
「だったら、なおさら寥庵で決まりでしょ。今回他の連中は普通の貿易業に散ってるし、それ以外はワヒドゥみたいな船内勤務じゃない。特に指揮は必要ないし、はっきり言って今一番の無駄飯食いはあんただよ」
「だったら私も商売に行く。とにかく潜入は無理だ」
あらゆることを泰然と許容する寥庵が、あすら並みに頑なに言い張る様を、イーライはニヤニヤと笑って眺めた。
「いー加減に諦めたら? あんたが一番適任なんだから。実質三百歳も過ぎたいい大人が、食べ物の好き嫌いなんて、感心しないなあ」
あすらの瞳も、ピンクに染まっている。
「そうそう。いくら肉体年齢若いままだからって、いい年して好き嫌いで駄々をこねるのはよくないわ」
自分の先程の言動は棚に上げて、ここぞとばかりに攻め込む。
実は二人とも楽しくて仕方がない。命の危険にさらされてすら悠然と構えている寥庵の、久し振りに焦る姿に、愉快痛快な気分だ。今、からかっておかないと、次は何年先になるかわからないだけに、つい気合が入る。
「下の世界の食事も、どうせまずいんだろうなあ……」
寥庵は観念して、他人事のようにぼやいた。我儘は言ってみたものの、現状を鑑みるに、それが一番確実なのは疑いない。少しでも成功率の高い策をとるのが、寥庵の方針だ。
あすらが寥庵の肩をポンと叩いた。
「頑張ってね。ここの食糧なら、とりあえず体壊すことはないから。たとえどんなにまずくとも」
「体を壊すのは構わんが、まずいのは嫌だなあ」
激励に、どこか飄々とぼやいた。
実のところ、寥庵が嫌うのは、潜入任務ではなくて、それに伴う食事だった。無頓着な性格とは裏腹に、味覚が異常に鋭く、許容できる味の範囲が極端に狭い。栄養剤だけで済ませられない潜入作戦での食事シーンは、拷問にも等しかった。
「死ねなくて残念だったわねえ。食べてみたら、そこそこイケたんだけど」
「辛けりゃ辛いほどうまいってゆうあすらの保証じゃ、かえって不安だろ?」
「口に入るものなら何でも食べるあんたが、人間様の食べ物について語ろうなんておこがましいにも程があるわよ」
再びあすらとイーライの口喧嘩が始まる。ワヒドゥ評価では、艦内二大ゲテモノ喰いの二人なので、どっちもどっちだ。
「ところで、王女の方はどうする?」
寥庵が相変わらずのマイペースで、そこに割って入る。
「オレがやるよ」
イーライが即答する。
「長身の美女なんて、素で化けられるの他にいないでしょ」
ぬけぬけと言い放つ。そう言われては、あすらも口を出さないわけにはいかない。
「あら。だったらあたしだってできるわよ。これだけの重ね着なら、腕だって隠せるわ」
「あすらの場合、無表情何とかしなきゃ、話にならないよ」
「うるさいわねっ。表情筋まで発達してる未開の原始的マッチョ人種と一緒にしないでちょうだい! 戦争ばっかりやってた野蛮なあんたのとこと違って、うちは超高度な文明社会だったのよ!」
また話がズレたな、と思いつつ、面白いので寥庵はしばらく観戦することにした。
「大体あんた用のカラコン作るのって面倒なのよ。このスーパーど近眼っ!」
「オレの世界だけ位相がズレてたのはオレのせいじゃないね。故郷に帰れば、まともな視力なんだ。目の数が多けりゃいいってもんじゃない」
「虹の色が二色だなんてほざく奴が、寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ」
「虹といったら二色に決まってるだろ」
「暖色系と寒色系の原始系列しか分類できないから、フシ穴だって言ってんの!」
「二十三色に見分けるあすらの方がおかしいんだよ。なあ、寥庵」
「虹は七色だな、私は。統計的には六~七色というところが多いようだが」
唐突に振られたにもかかわらず、寥庵は律義に応じる。きっちりと「どっちもおかしい」と判定を下され、二人は無言。
「ん? 話は終わったのか? では本題に戻ろう」
沈黙を勝手に解釈して、作戦の打ち合わせを再開する。
「文化と言語のプログラミングはもうできるんだろう? 直ちに脳内にインプットしよう。入れ替わりの段取りも練らないとだな。確か王宮に入ったら、天鏡号への通信はできないんだったな」
イーライはつっこむ気力もなく、大人しく答える。
「うん。結界内からは無理だね。でも、プログラム次第では、単純な転送はできそう。天鏡号の真下に仮基地置いてあるから、そこを拠点に行ったり来たりになるかな」
「仮基地? そういえば、水天号を下にやってたな」
「うん。真下はちょっと大きな樹海が広がってるんだ。強い磁界になってて、ESP波を相殺する性質があるから、もしかしたら特殊磁鉱石の鉱脈でもあるのかもね。土地の人間は『神々の庭』なんて言って、恐れて立ち入り禁止にしてる。魔法が消し飛ぶ聖域ってことでね。誰も来ないから中継基地にはもってこいでしょ」
イーライの提案に、寥庵は頷いた。
そして、どこの世界に行っても必ず口にする疑問を投げかけた。
「この世界の人間は、異世界の存在を知っているのかな」
「うーん……それがよく分からないんだよねえ」
綿密に調査したはずのイーライにも、確信は持てなかった。
「調べた範囲では、誰も知らない。でも、伝承レベルですら人の話に残ってないケースってのは逆に珍しい。どこの世界にだって、自然発生的な次元の切れ目とかは生じ得るわけだから、昔話ぐらいはあるはずなのに。なんだか作為的な感じ。それに、この程度の文明レベルにしては、合理的で現代的な制度がたまにポンと不自然にあったりして、ちぐはぐな気もする。何とも言えないなあ……」
判然としない回答に、あすらは別のことを思い出していた。
「ねえ、異次元といえばさ、天鏡号が次元海賊として懸賞金かかった時、しつこく追ってきた賞金稼ぎがいたじゃない? あれ、最近邪魔に来ないわね」
「バレントック号か? そう言えばしばらく見ないね。脅しが聞いたのかな?」
首を傾げるイーライに、寥庵がのほほんと解答を与える。
「ああ、彼らなら私が当直の時に来たのが最後だ。再三の警告にも応じなかったから、原子の海に返してやった。日誌を見てないか?」
「――」
天鏡号トップ2のおしゃべりコンビが、ピタリと口を閉じた。
可哀そうなことをしたなあ、などとうそぶいている寥庵が、実は少しもそんな風に思ってなどいないことを、二人はよく知っている。
こういう時、思い知らされる。
寥庵には、後悔とか、怒り、憎しみ、悲しみ、妬み、苦悩といった、世間一般ではマイナスとされる面の感情が備わっていない。決して他者に流されない鉄壁にすぎる精神は、一方で、同情や共感、羞恥心など、他人からの影響の上で生じる感情をも持ち合わせない。
情緒の欠如を善悪で論じるつもりはない。思想や価値観の相違を非難する者は、天鏡号に乗る資格がない。
分かっていながらそれでも、一番付き合いの長いイーライですら、時に薄ら寒さを感じる。それが、絶対的に揺るがない強さの根源なのだとしても。
結局、これが寥庵なんだ――それがいつもの結論だ。
故郷を捨てて次元の海をふらふらしている無頼の集団の中で、ただ一人、本当の自由人。人と関わり、折り合いながらも、無敵のマイペースが崩れることはない。あらゆる行動の全てが、自分の認める自分自身なのだから、恥ずかしいとか情けないといった感情を持つ余地もない。
むしろ動揺する寥庵など見たら、イーライの方が狼狽えるだろう。
寥庵の悪意のない残酷さに、気後れすることは否定しない。それでも、ここにいる連中はみんな、この男についていくと決めたのだ。もちろん、自分も。
これはもう、惚れた弱味に近いなと、思わず失笑する。
「な、何笑ってるのよ、あんた」
気まずい沈黙を破ってくれたイーライに内心感謝しつつ、あすらが睨んだ。
「『相変わらずだなあ』、と思ってね」
その含みに気付き、あすらは灰色の瞳で、渋い顔を表現した。
「そりゃあ、玄斉さんが死んだ時だってああだったんだもんなあ」
感慨深く振り返る。寥庵が聞き返した。
「親父が死んだ時?」
「あんた、一番のんきだったわよ」
あすらが不機嫌に突っ込む。先代首領・玄斉の死亡時、一番泣いたのが彼女だった。
玄斉建造の火輪号が母船だった頃のことだ。ある日玄斉が、謎の事故死をした。政情不安の国で、慎重論を唱える寥庵を躱して、単独で小型艇に乗って商売に行った時のことだ。墜落した船の残骸の中で発見された、父の遺体。
寥庵は事故の原因を徹底的に究明し、いくつかの事実が判明した。仕入れた荷が一つもなかったこと。ハッキングした現地の監視カメラの映像。遺体から検出された大量のアルコール。結果、商用と称して商売の予算を持ち出し、町で痛飲した帰りに、飲酒操縦による事故と判明した。
「相変わらずだなあ、親父は」
結論に達した時の、それが息子の第一声だった。
作戦前には綿密に計画を練り、失敗すればその原因を徹底して調べ尽くして、後に生かす。しかしすでに起こってしまった事態、もうどうにもならない結果については、何ら引きずらない。父を失った息子として、自分が同情されるべき立場であることにすら、気付いてはいなかった。
「そういえばあの時は、親父が横領した資金と大破した小型艇、私が弁済したんだったな」
懐かしそうな口振りで振り返る寥庵に、イーライとあすらは苦笑いする。
二人とも分かっている。寥庵は別に怒ってはいない。何のこだわりもない。――ただ忘れないだけである。
あすらに言わせれば、その方が遥かに嫌なのだが。
「まったく、この男ときたらっ……」
あすらがピンクの瞳で溜め息をついた。
「だから面白いんでしょ」
笑うイーライに、寥庵が不思議そうな顔をする。
「私がどうかしたか?」
「寥庵と一緒だと、退屈しないねって話だよ」
「そうか。退屈するよりはいいことだ」
無頓着に同意する寥庵の手が、そこでふと止まった。その手にはめくったばかりのタロットカードがある。
「何? 悪い暗示でも出た?」
イーライが後ろからのぞき込む。
「『月』だ。悪いとは言わんが、良くはないかな。不安定とか、欺瞞、迷い、虚偽……そんな感じか」
「ふふ。虚偽って、それ、オレ達のほうじゃないの?」
「こういう曖昧なのはあまり好きじゃないな。悪いなら悪いで、はっきりしている方が分かり易くていい」
「合理主義の科学人間が、なに縁起担いでんのよ。どのみちデジタルなあんたに占いなんて感性的なものができるわけないでしょ」
寥庵同様、高度な科学社会出身のあすらが、頭からバカにする。逆に停滞した文明に育ったイーライは、興味深そうに『月』のカードを手に取り、にやりと断言した。
「『月』なら、オレ達のラッキーカードだよ。なんせ、この船と同じ名前なんだから」