政争、その裏で
その日の議題は深刻を極めた。
国王の謁見の間。居並ぶ諸侯やメネイオスは、一様に険しい表情を浮かべている。
異例なことに、政治には関わらない建前の大司祭までもが、相談役として立ち会っていた。彼はヌアクを育てた人物でもある。
列席者の剣を帯びた視線は、財務卿ゲネイナに突き刺さっていた。ただ一人、外せない公務で会議に遅刻してきたヌアクだけが、平静に室内全体の雲行きを見守っていた。
問題はこの席で二時間ほど前に提起された。提起したのは、若手政治家のシーナー。内容は二十数年前、先代国王からゲネイナに褒賞として下賜された純白金製の神像が、偽物になっていたと発覚した件についてだった。
本来ならゲネイナ家の家宝として、祭壇に祀られていたはずのものだ。女王からの神像というだけで、値段以上の価値がある。
数日前、法務庁の長官であるシーナーの耳に、下賜神像が偽物であるとの情報が入った。元々ゲネイナが立場を悪用して、教会への献上物や財政の一部を横領しているという噂は絶えず聞く。黙認されてきたのは、ひとえにゲネイナの権力の大きさ故。
しかし女王の下賜品となれば看過はできない。
証拠もなく大貴族の邸宅へ踏み込むのは難しいが、普段の素行からすれば信憑性は高い。そこでまず大司祭の協力を仰ぎ、派遣された司祭の立ち合いの元、昨日立ち入り調査が断行されたところだった。そしてタレコミは事実と判明し、こうして真偽を正す場が設けられたわけである。
この二時間、ゲネイナは得意の弁舌でひたすら饒舌な釈明を続けていた。
「陛下。これは何者かの策謀に違いありません! この四十年もの間、衷心よりお仕え申し上げてきた私が、恐れ多くも女王陛下より賜りました当家の至宝をどうできるというのでしょう。これは何者かが私を陥れるため、密かにすり替えたのです。どうか更なるお調べをお願いいたします。その傲岸不遜なる犯人をこそ捕らえ、処罰をお与え下さい!」
宮廷に上がってより早四十年、初めて直面した政治家生命最大の危機に、繰り返し陰謀説を唱え続ける。
「確かに大切な御下賜品をすり替えられ、あまつさえ気付かずにいたことは私の不徳の致すところ。ですが今私達がこうしている間にも、神威を畏れぬ不逞の輩が、御神像を利用しようとしているのです。どうか一刻も早くその犯人を見つけ出し、御神像をお取戻し下さい。あの神々しいお姿を今一度この目で見届けられましたならば、私はその時こそいかなる処罰をも甘受致す所存であります」
六十も過ぎた男が、涙ながらに必死に訴える。演技では出せそうもない程の懸命さに、列席者の鋭利な空気が和らぎつつあった。不測の事態に真摯に立ち向かおうとする老臣への、同情の色すら見て取れる。
メネイオスの目からも、剣呑な光は大分薄れていた。
――相変わらず、よく喋る。
ヌアクだけが終始変わらない瞳で、淡々と成り行きを見つめていた。
何とも馬鹿馬鹿しい裁判である。ヌアクに言わせれば、もらったものをどうしようが持ち主の勝手だ。大の大人が、それも政治家が雁首揃えて議論すること自体恥ずべき愚行だ。
どうしてもというのであれば、ゲネイナに賠償させるなりすればすむ民事の問題だ。そうならないのは、ただただ国王から賜った神像であるため。ただの金属の塊が、天帝の姿を象った途端に、こんな馬鹿げた大騒動が巻き起こる。
法務庁から神祇庁へ、そして大司祭を引っ張り出しての事実解明と、主だった政治家達による緊急会議に、当事者の吊るし上げ――偶像崇拝もここまでくれば笑止の極みだ。
こんな幼稚な集団が国を動かす理不尽な現実を、ヌアクはただ無言で見守る。
ゲネイナを確実に地獄へ突き落す、死刑宣告の到着を待ちながら。
やがて会議の最中に、法務庁の官吏が入室した。長官のシーナーに何やら耳打ちしている。シーナーの顔色がさっと変わった。他の諸侯らがゲネイナの弁舌に気を取られている中で、ヌアクはそのやり取りを静かに観察していた。
一つ目の切り札が来たようだ。
シーナーはゲネイナの弁論が一段落つくのを待って席を立った。
「陛下。この件に関する重要な証人を探し出して参りました。この場にその者を召喚してもよろしいでしょうか」
許可を取ってから、中年の男を警備数名に連れてこさせた。体格のいい職人風の庶民が、恐る恐る中に入ってくる。
その人物を目にした瞬間、ゲネイナの顔色が変わった。動揺を隠しもせず、露骨に怒鳴りつける。
「そのような下賤の男を陛下の御前に出すとは何たる無礼! 陛下のお目を汚して何と……」
「良いと言っておる。前へ」
ゲネイナの叱責を、メネイオスが遮った。その豹変に、かえって疑惑を深めた様子だ。部屋の中央まで連行された男を前に、ゲネイナはみるみる内に顔色を失っていく。
国王を始めとする国のお歴々の真ん中へ放り込まれた男は、内心ビクビクとしながら、顔を背けるゲネイナの横に立たされた。一度は和らいだ各人の疑惑が深まる中、シーナーによる証人の尋問が始まった。
「まずお前の名前は?」
「へ、へえ、第三街区の商工街で、鍛冶屋をやっとりますルシュドといいます」
ルシュドは突き刺さる視線の中、まるで自分が糾弾されている気分で、可能な限り言葉使いに気を付けておずおずと答えた。
「御神像について、お前の知るところを正直に答えよ。さすればお前の身柄を無事解放することを、神にかけて約束する」
さもなければ無事帰す保証はないってことかい――内心ヒヤヒヤしながら、必死に記憶を辿る。
「問題の御神像とやらを見せていただきやした。あれは、私が造ったものに違えありやせん」
証人を目撃者の類と考えていた一同は、突然の当事者の告白に騒然とした。ゲネイナが隙を突いて話に割って入る。
「でしたら、造ったというこの者が真犯人に相違ありません! 早急なお裁きをっ」
「続けよ」
無視してメネイオスは先を促した。
初っ端から下賤呼ばわりされた上、犯人扱いするゲネイナに、ルシュドはむっとした。向こうっ気の強さは人三倍の下町職人である。もはや緊張も忘れ果て、知っている限りの事実をぶちまけ始める。
「五日程前の真夜中のことですが、突然さらわれるも同然に知らねえ作業場につれていかれやした。そこに仮面と頭巾で顔を隠したこの旦那がいやした。あの像の見本図を渡されて、道具と材料を用意されて、二日で完成しろなんて無理難題を吹っ掛けられやした。そういうのは御用達の職人のとこに行けと断ったんですが、そういうとこにゃ頼めねえ、どうしても造ってくれなきゃ困ると泣きついてきやした。俺としてもできねえことじゃねえんで、そこまで頼られちゃ無碍にもできねえと、仕方なく引き受けたんでさあ」
この旦那と名指しされたゲネイナは、蔑みの目を向ける。
「分も弁えずに嘘を申すな! 下郎の分際で戯けた出まかせをっ。 顔を隠していて何故私と分かる! 陛下、これこそ私を陥れる陰謀の証拠に他なりません!」
「俺は四十年物を造ってる職人だ。造形の観察は誰にも負けねえ。その目の色に垣間見えた髪、背格好、手や爪の形に皴の入り方、姿勢に歩き方、何よりその声と横柄な口のきき方、全部おめえに違げえねえよ」
居丈高な訴えに、ルシュドも負けじと断言する。平民に反論され、ゲネイナは逆上した。
「黙れ黙れ! これ以上無礼な口をきいたらっ」
「ゲネイナ殿! 陛下の御前ですぞ!」
ゲネイナの怒声は、シーナーに強く制止された。
「これ以上、虚言を弄するのはおやめなさい」
普段は抑制的なシーナーらしからぬ毅然とした物言いに、ゲネイナの怒りの矛先が変わった。
「何を思い上がっている。覚えのない嫌疑を受けた身とはいえ、お前如き若造に指図されるいわれはない!」
「たった今、報告がありました。ゲネイナ殿の別邸の宝物蔵の天井裏から、本物の御神像が厳重に梱包された状態で発見されたと」
あくまで高圧的に振舞う屈指の大貴族に、シーナーからとうとう最終宣告が突き付けられた。
ゲネイナの思考が完全に停止する。一瞬で全身が凍り付いた。
この状況では誰もが思うはずだ。偽物を作った後、ほとぼりが冷めてから本物は売りさばくつもりだったに違いないと。
周囲に目をやれば、もはや二度と揺るがないであろう冷たい視線が自分に突き刺さっていた。
「――ち、違う……それは、何かの間違いだっ……!」
震える声で呻く。今までは心のどこかで高をくくっていた。だが、事態は予想を遥かに越えて深刻だったのだ。ここまで揃った証拠を、どう覆すことができるのか。もはや弁解の余地がない。
「ち、違います、本当に違うのです! 確かにその男に御神像を造らせたことは認めますっ……しかし、それは御神像が盗まれてしまったからで……後で探し出すつもりだったのです! これは嘘ではありませぬっ!」
ここへ来て初めて、恥も外聞もなく取り乱した。すがるように一同を見回してなおも続ける。
「陛下! このゲネイナは決して御神像を私してなどおりませぬっ! 真実盗まれたのです。我が別邸の蔵になどあるはずがっ……。いえ、もしあったと言うなら、きっと何者かの陰謀です。どうか、私をお信じ下さい! 更なるお調べを! ……どうかっ……」
狼狽の極みで訴えるゲネイナの言を受け入れる者は、もはや一人もいなかった。
「……違う、本当に、これだけは……」
言えば言うだけ、居並ぶ目は冷めて行った。一人一人に視線を移しながら、現実を悟るのに大して時間はかからなかった。そして、そのうちの一人と、目が会う。
何を考えているのか分からないガラス玉のような目で、他人事のように自分を見やる男。
「――そう、か……お前の……お前の仕業かっ……」
掠れた声を振り絞る。
「お前のせいかあっ!!」
やにわに狂気を振り撒いて男に――ヌアクに掴みかかろうとした。すぐに周囲の警護に身柄を取り押さえられる。しかしゲネイナはなおも噛みついた。
「私には分かっているぞ!! 全部お前が仕組んだことなんだ! 私を陥れるために、お前が裏で糸を引いていたんだっ。そうでなければ、たった五日前の事件がこんなに早く露呈するわけがない! 初めから全て計算ずくでっ……お前の筋書き通りにっ……セメト・ヌアク!! 全て、お前がっ……」
「お見苦しいですぞ、ゲネイナ殿」
烈火のごとく怒り狂う老臣と対照的に、ヌアクは物静かに応じた。
「ご自身の責を、私のせいになさるおつもりか。引き際はお心得なさい。名門の御名にこれ以上傷を付ける前に」
いっそ穏やかな程の声色に、ゲネイナの怒りは頂点に達した。
「ふざけるな!! 罪の子の分際で! 何様のつもりで」
「黙れ!!」
響き渡った怒号で、謁見の間が沈黙に満たされた。
弟への侮辱が、メネイオスの逆鱗に触れた。初めて目の当たりにする普段は覇気のない王の激怒に、誰もが顔をこわばらせ、身動ぎもできなくなる。
これ以上、ゲネイナには何も言えなかった。
「もういい、下がれ!! 処分は追って沙汰する。それまで謹慎を命ずる」
吐き捨てると、同じ空気を吸うのも嫌だとばかりに、メネイオスはつかつかと歩き出し大扉から出て行った。
緊急会議はこれで終了した。皆、自分にとばっちりが来る前に、王が立ち去ってくれたことにほっと胸を撫で下ろす。
シーナーは連行される直前のゲネイナに声をかけた。
「ゲネイナ殿。お断りしておきますが、今回の件にヌアク殿は関わってはいらっしゃいません。この件で、私は最初にヌアク殿に相談しましたが、神祇庁へ協力を仰ぐよう助言を頂いただけです。ご自身が関わられたら、先程のようにあらぬ疑いを受けることになるだろうからと、自ら慎まれたのです。それ以降の調査においても、口を出すことすら一切ありませんでした。ヌアク殿は無関係です」
追従ではなく、事実として皆の前で述べた。
「それがその男の手だ」
自嘲的に呟き、ゲネイナは力なく連れて行かれた。ヌアクはその後姿を形だけ見送って、シーナーに向き直った。
「私の名誉のために、有難うございました。あのような誤解を受けるのも私の不徳の致すところですが、シーナー殿に反論していただいて、救われる思いです」
諸侯達の視線を承知の上で、いかにも殊勝気に自分の無関係をアピールする。同世代とはいえ王弟のヌアクに感謝され、シーナーは恐縮した。
「いえ、私は事実を申し上げただけですから」
「本当に私は身を慎んでおいて正解だったようです。本来ならそのような懸念があること自体恥ずべきところなのですが」
苦労人ゆえの謙虚さを装って、ヌアクは心にもないセリフを並べ立てた。
ゲネイナの退場で、ヌアクの天下は約束された。これはゲネイナ寄りだった面々に、向こうから近寄り易くさせてやるための演出である。
王の手前表立って蔑ろにしようとする者はいなかったが、父の知れぬ素性を嫌悪する名門貴族も少なからずいる。高潔で寛大な人格を演じるだけで取り込めるなら、大した手間でもない。
実際傲慢さとは無縁のヌアクは、その有能さもあって、以外に多くの尊敬を集めていた。シーナーのような若手や、仕事で関わる者には特に。
そして頑固な老人達も、今回の件で歩み寄らざるを得なくなった。ゲネイナとの違いを前面に押し出して、せいぜい公正な人物を演じておくのが利口だ。そうすれば勝手に勘違いしてくれる。
――ちょうど、先程のシーナーのように。
シーナーの言葉は確かに事実だ。今回の事件、ヌアクは徹底的に傍観者に徹し、口出し一つせず、一切関りを持たないよう努めた。
やったことは発端だけ。ゲネイナの屋敷から神像を盗み出し、別邸へと移し替えたこと。そしてほんの少しの噂を流した。ただそれだけだ。
あとはそれぞれが勝手に動いてくれるのを待っていればよかった。大切な下賜品を紛失したとすれば、ゲネイナが保身のためにどうするか、容易く予測できる。
図らずもシーナーに相談を持ち掛けられたが、それも神祇庁へと体よく押し付け、とにかく無関係のポジションを死守した。
結果、疑われるに足る材料を残すことなく、政敵を陥れることに成功したわけだ。
ゲネイナの言葉は正しかった。ただ、その前の嘘が多過ぎて、嘘の波に事実が埋もれた。全てヌアクの予定通りの結末だ。
涙ながらに無実を訴えるゲネイナの姿が、ふとヌアクの脳裏をかすめた。
大好きな神に、地獄へ突き落される気分はどんなものだろうか。それでもきっと、本望ではないのだろう。
取り留めもないことを考えながら、一同と友好的に別れ、一人で執務棟へと向かった。
くだらない審議に時間を割かれたが、国費にしがみつく寄生虫を駆除できたのは大きな国益だ。
「ヌアク殿」
不意に、後ろから呼び止める声がした。足を止めて振り返ると、そこに大司祭がいた。生まれついてのハンデを背負うヌアクを、独立するまでずっと預かってくれた人の好い老人だ。この国での宗教上、王と並ぶ唯一の存在でもある。
忙しい彼と接した記憶は多くないが、知る限りでは最も人格者と言って差し支えない。ヌアクのことすら特別視したことはなかった。
「なんでしょうか、大司祭様」
大司祭の元まで引き返し、丁重に受け応える。
「ヌアク殿は、何を考えておいでか――?」
深い憂いを含んだ眼差しで、大司祭はそれだけを問いかけた。
ヌアクは一瞬で悟る。――全てを知っていると。何もかもを承知の上で、口を閉ざしていたのだと。そもそもただの人格者が、権力争いを勝ち抜いてトップに立てるわけもない。
ヌアクは、親代わりともいえる聖職者に一言だけ答えた。
「この国の、平安を」
そして背を向けて歩き出した。
ゲネイナ家の家名断絶及び国外追放の裁定が下ったのは、二日後のことだった。これにより、ヌアクの独裁体制が事実上整った。
「いやあ、参った、ヒヤヒヤしたぜ。まったくとんでもねえことに巻き込まれたもんだよ」
下町連中に一世一代の土産話ができたと満更でもない気分で、ルシュドが王宮の通路を歩きながら周りに話しかけた。もちろん返事はない。
すっかり緊張を解いて、警備兵に囲まれながら帰途に就く途中だ。帰ったら早速自慢話をしてやろうと目論む最中、ぎょっとして足を止めた。あんぐりと口を開け、通路の向こうからやってくる人物を凝視する。
外国人の男女と談笑しながらこちらに歩いてくる、ひときわ美しい見るからに高貴な女性。
「おい、道を開けろ!」
警備に強引に腕を引かれ、通路の端に寄せられながら、なおも目を離さない。程なく相手の人物も、ルシュドの強い視線に気が付いた。
「おい、シンじゃねえか!?」
目が合った瞬間、ルシュドが叫んだ。上品な物腰に煌びやかなドレス、生まれついての貴族の気品――どう考えても結びつかないが、それでも間違うはずがない。
目の前の大人びた少女は、どう見てもシンだった。
「おめえ、いったい何だってこんな所にいるんでえっ! それに何だい、その恰好はっ? お姫様みてえじゃねえか。心配させやがって、今までどうしてたんだ。ノイエも一緒か?」
場所も弁えずにけたたましく捲し立てた。
――なんで、ルシュドの親父がっ!?
思いがけない相手との鉢合わせに、シンは内心愕然とする。しかし、表情には一切出さないように抑え込んだ。
隣にいるのは『フェトイ・イエ王女』と『ケユクス大臣』である。下手な反応を見せれば、すぐにシンだと見抜かれてしまう。
完璧にヴァイシャになり切って、不思議そうな顔つきを作った。
「――? 私におっしゃっているのかしら?」
およそシンらしからぬ優美な微笑みで問いかけられ、ルシュドは面食らった。
「おいおい、シン!? どうしちまったんだよっ。みんなおめえのこと探してんだぞ! 家を荒らされたままで消えちまって……連絡一つよこさねえし、せっかく掴んだ大役だって流れちまったんだぞ。一体何に巻き込まれてるんだよ?」
「ぶっ、無礼者っ、控えろ!!」
畳かけたルシュドは、顔面を蒼白にした案内役の警備兵に無理やり抑えつけられた。
「ヴァイシャ様に何を言うか!?」
「ヴァイシャ様って……? シンなんだろ?」
「馬鹿者!! メネイオス陛下の御継嗣、ヴァイシャ殿下だっ!!」
頭ごなしに怒鳴りつけられ、ルシュドも徐々に事態を把握し始めた。
「え……え? だっ、だけど、どう見たって……」
「いいから、黙れ!!」
唖然としてまじまじと顔を見つめようとするが、襟首を掴まれ力尽くで控えさせられた。まだ未練がましくチラチラ見ようとする。
シンはくすくすと笑いながら、歩き出した。
「面白い方でしたわね。余程私に似た方をご存じなのでしょうね」
バレていないかとヒヤヒヤしながら、隣を歩く寥庵、イーライににっこりと話しかけた。
「とんでもありません。ヴァイシャ様のようにお美しい方が、二人といるはずがありません」
寥庵が涼しい顔で返す。
――まったく、この男は……、シンはイーライは図らずも同時に脱力した。
「ここが図書室ですわ」
危うく通り過ぎそうになりながら、シンは目的の部屋の前で止まった。扉を押し開けて、二人を案内した。人のいない図書室の書棚には、高価で堅そうな本が、数万冊も並んでいた。
「蔵書量でしたら、王立図書館の方が充実しておりますのよ。分野も一般向けではありませんし、ここにお気に召す本が見つかりますかどうか」
シンはさも使い慣れた風を装って、初めて入った図書室の説明をする。実際ざっと視線を走らせただけでも、ジャンルの異様な偏りがうかがえる。主に歴史と宗教関係だ。とても万人に使いこなせる内容ではない。
イーライはろくな本の揃っていない書棚を一通り眺めた。
「十分ですわ。貴国の書物はとても興味深いですわね」
「それに外出となると、色々とご面倒をおかけしてしまいますからね」
寥庵もすかさずフォローした。本心では、初めからこの王宮の図書館が狙いだった。
「今まで何度か閲覧を申し出ていたのですけれど、なかなか許可を頂けなくて……やはりヴァイシャ様に甘えさせていただいて良かったですわ」
イーライが優雅に感謝を述べる。正式な手続きを踏んでいては埒が明かないため、手っ取り早くヴァイシャのコネに頼って、ここの入室許可を得たのである。
シンも、彼らの真の目的をおおよそ読んだ上で、あえて受け入れた。ヌアクは先日の大物貴族失脚に伴って仕事が増えたらしく、ほとんど顔を出さない。ある程度勝手な行動がとれる状況である。
見張り役のキーアには他国の王族の頼みごとを阻止する力もなく、同伴すらできずに別室に待機している。
シンは彼らのお願いを利用して自由に動ける時間を作り、王宮を抜け出すルートを探り出すつもりでいた。
見取り図は把握しているが、実際のところは見ないと分からない。まさに渡りに船の申し出に、喜んで乗っかった形だが、寥庵達もそれなりの収穫は持って帰るのだろう。
「それでは警備の者達には言い付けてありますので、ごゆっくりどうぞ」
主人面で勧めて、シンも自分の仕事をするべく図書室を出て行った。
残された二人は、シンが扉の向こうに消えてから顔を見合わせた。
「よーやく、ここに来れたね。初めから頼み込めばよかったんじゃない?」
イーライが気の抜けた声で言った。この棟の一角は王家関連の施設が多く、警護が厳しくて夜中でも侵入は断念していた区画だった。
「まあ、こんなものだろう。親しくなった頃には病気療養していたしな」
返答しながら、寥庵は先程のハプニングを思い返していた。
「イーライ、さっきの反応、どう思う?」
相棒の見解を求める。シンと呼ばれた時の、ヴァイシャ王女の反応について。
「完璧」
評価は一言で済んだ。
「もしあれがシンだったら、相当な演技力だね。ピクリともせずに、怪訝な表情を作って見せてくれたよ」
人の機微に敏いイーライの判断を聞いても、寥庵はまだ釈然としなかった。
「ジェナイエンの調べだと、シンは劇団に所属する俳優らしいな」
数日前に届いた情報を思い起こす。ヴァイシャ=シン疑惑は、ますます深まるばかりだ。
「さっきのおっさんは、下町でのシンの知り合いだろうね。ヒュアースという人が代表者になって、ご近所一帯から捜索願が出されてる。――それにしても、ちょうど出会ったあの日から行方不明ってのは、どういうことだろうね。家には争った痕跡が残ってたようだし、オレ達とは別件で何かトラブルがあったのかな。母親も一緒に消えたっていうし」
情報を整理しながら、イーライは立派な装丁の背表紙を一覧した。
寥庵も目ぼしい本を何冊も手に取っては、パラパラとめくって目を通す。
しかし頭の中には、あの日のシンの姿が鮮やかにあった。ただの懸念材料というだけでは説明のつかない強い関心を、自覚していた。
空色の瞳と目が合う度に、あの時の少女と姿が重なる。身のこなしも言葉遣いも全て違うにもかかわらず、自身の中にあるその部分が全く揺らがなかった。
「どうも、本当に惚れたかな?」
他人事のように呟いた寥庵の手が、そこで止まった。
「あった。これだ」
目的の情報を発見して、イーライを呼んだ。手にしている本のタイトルは『宝物史――王家編2』。開いたページを覗き込んだイーライは、該当部分を読み上げた。
「金波石――光を受けて煌く波になぞらえたのが名の由来。光の当て方によってあらゆる色彩を帯びる……か。天弓宝珠に間違いないね」
解説を読んで断定する。そのまま五ページに渡る項目に目を通す。
「ええと……王冠の中央にはめられ……国宝……大聖堂で執り行われる戴冠式の一日のみ世に出され……その所在は歴代国王と大司祭のみが知り……継承された王冠は、新国王により、次の継承の時まで厳重に保管される……」
重要な部分を拾い読み、二人は顔を見合わせた。
「ねえ、もしかして――あんまり言いたくないんだけど……確実に表に出てくる場所と日時が確定してるなら、その時を狙えばいいんじゃないの……?」
しばらくの沈黙の後で、イーライがボソリと言った。
戴冠式の場所は大聖堂。大聖堂には秘密の地下通路の出入り口がある。大半の人間はその地下通路の存在を知らない。つまり寥庵達は、大聖堂からの完璧に近い侵入及び逃走経路を確保していると言える。
いや、それ以前に、ターゲットさえ入手したら、その場で森へ転送すれば任務終了だ。
特に問題が見当たらなかった。
「だ――っ!! 今までの苦労はなんだったんだっ!」
イーライがやけくそ気味の叫び声をあげる。
「やはり情報不足というのは痛いなあ」
さすがに寥庵も感慨深げに漏らした。
「まあ、今回の潜入任務がなければ手に入らない情報でもあったし……」
「手に入れる目途はついたわけだけど、さすがに今更引っ込めないよね……いきなりエルシャス大使が消えちゃって、実は偽物でした、なんてことになったら」
「当然警戒されるな」
情報と考え併せて、寥庵は今後の方針を打ち出した。
「戴冠式の当日までは、今まで通り演じ続けよう。式に列席する直前にでも消えて、地下通路から強奪の準備だな。警護の厳重な国王や大司祭を拉致して在処を聞き出すよりは確実で手間が少なそうだ」
進捗状況の芳しくなかった計画が、一足飛びに解決した。イーライは肩透かしを食らった気分だが、寥庵は素直に喜んだ。
「当日の計画を立てよう。調査スケジュールがごっそり空いたから、時間はたっぷりある」
「了解」
本の内容をコピーして、二人は図書室を後にした。